第十一章其の壱 事故
「……を置け! そして、ゆっくりと両手を挙げて、こちらに見せろ!」
「……え?」
仁科勝悟は、自分に向けて発せられたらしい厳しい響きの声に、ハッと我に返った。
キョトンとした顔で、ゆっくりと周囲を見回す。
「ここは……」
商品が並べられた陳列棚。微かなモーター音を立てているアイスの入った冷凍ケース。水着姿で煽情的な的なポーズを取り、不自然な笑みを浮かべている若いグラドルの写真が表紙に載った週刊誌……。
それは見慣れた、自分が勤めていたコンビニの店内だった。
(ああ……そういえば……)
勝悟は、ぼんやりと思い出す。
(俺は……ついさっき……クビになったんだっけ……)
彼は、まるで靄がかかったようにはっきりしない意識の中で、それまでの事を順番に思い出そうとする。
(確か……バックヤードで店長にクビにされて……荷物をまとめてたら、グエンくんがクソ客に捕まってて……しょうがないから代わってやって……対応してたら、クソ客がキレてナイフを出してきて……ッ!)
そこまで思い出した時、彼の意識にかかっていた靄が一気に晴れた。
「――痛ッ……!」
同時に、背中に激痛が走り、くぐもった呻き声を上げる。
張り付いたシャツの気持ち悪い感触から、自分の背中が何か生温かいもので濡れているのが分かった。
(そ……そうだ……)
彼は、ようやく思い出す。
(た……確か俺は……あのクソ客に、背中を刺されたんだった……)
自分の置かれている状況を理解した途端、全身から嫌な脂汗が噴き出し、顔面から一気に血の気が引いていくのが分かった。
だが、いつまでもこうしている訳にはいかない。早く逃げないと、逆上しているクレーマーが、更に攻撃を加えてくるだろう……!
そう考えた勝悟は、痛みで顔を歪め、歯を食いしばりながら立ち上がろうとするが、
「う……おぉっ?」
不意に足を滑らせ、大きく体勢を崩した。
ガシャン! ガラガラ……!
咄嗟に手をついた陳列棚が崩れ、その上に陳列されていた缶詰類が落ちてきて、騒々しい音を立てる。
落ちる缶詰を目で追って、床に視線を向ける勝悟だったが、
「――ッ!」
その目は大きく見開かれ、その動きは凍りついたように止まった。
――コンビニの白い床の上に、真っ赤な液体が一面に広がっていたからだ。
「え……? こ、これ……ち、血か……?」
微かな粘度を感じさせる液体は、そうにしか見えない。
「……ッ!」
一瞬、自分が流した血かと思い、その量の多さに気が遠くなりかける勝悟だったが、すぐにそうではないと察した。
もし、この大量の血が全て自分のものだとしたら、こんなにピンピンして立っていられるはずが無い。
この多さは……明らかに致死量の流血だ。
「じゃ……じゃあ……い、一体、誰の……」
呆然と呟く勝悟だったが、すぐにその答えに辿り着いた。
彼から数十センチほど離れた床に、見覚えのある金髪の男――先ほど自分の背中を刺してきたクレーマーが、うつ伏せで倒れていたからだ。
――その首には、鋭利な刃物で斬り裂かれたような傷があり、ぱっくりと割れた傷口からは、真っ赤な血が未だに流れ出ている。
無論、男はピクリとも動かなかった。
「え……? な……何……で……?」
目の前の異常な状況に、勝悟は口をパクパクさせながら、うわ言の様に声を上げる。
訳が分からないまま、血溜まりの中に沈むクレーマーを助けようと、一歩踏み出す――。
「おい! 動くな! 持っている物を捨てて、手を挙げろと言っているだろう! こ、これ以上不審な動きをすれば……は、発砲するぞ!」
「……え?」
唐突に緊迫した怒声を浴びせられた勝悟は、ビクリと身体を震わせ、声の方向に振り向く。
店の自動ドアの前に、緊張で引き攣った表情を浮かべている若い男が、両手を自分の方に向けて伸ばしている姿が見えた。
「……け、警察官……?」
彼が着ている青い制服と紺色のベスト、そして特徴的な制帽を見て、勝悟は茫然と呟いた。
「な……何で、警察官が、俺に向けて拳銃を向けているんだ……?」
妙だ。
(た……確かに、俺はグエン君に警察を呼ぶように言ったけど、それはこのクレーマーを逮捕してもらう為……。なのに、何で警察官は、俺に向けて拳銃を……?)
「む……無駄な抵抗は止めろ! 大人しく……その手に持ったナイフを捨てろ!」
「え……」
警官の発した警告で、ようやく彼は、自分がずっとバタフライナイフを握り締めていた事に気が付いた。
「こ……これは……!」
愕然としながら、勝悟は呟く。
彼が固く握りしめていたのは、先ほどクレーマーが取り出し、彼の背中を刺したバタフライナイフだった。
そして――そのナイフの刃には真っ赤な血糊がべったりとこびりつき、ぽたぽたと滴っている。
「あ……っ!」
それを見た瞬間、勝悟は思い出した。
――クレーマーに背中を刺された後、なおも逆上する彼と揉み合いとなった事。
縺れ合った状態で床に倒れた拍子に、ナイフの刃がクレーマーの首に深く突き刺さった事。
首から勢いよく血を噴き出しながら激しく身体を痙攣させていたクレーマーが、やがて動かなくなった事――!
「ち……ちが……違うんです……っ!」
勝悟は、口を激しく戦慄かせ、首を大きく横に振りながら、必死で警察官に訴える。
「こ……これは、じ……事故なんです! お、俺は、決して殺すつもりなんかなくて! 先に刺されたから、身を守ろうとして……」
「え、ええい! ナイフを捨てろと……言っているだろうがぁっ!」
血塗れの姿で、必死の形相を浮かべて近付こうとする勝悟の姿を見て、まだ年若い警官は激しい恐怖を感じ――思わず、構えていた拳銃の引金を引いてしまった。
パァンッ!
まるで風船を割ったような破裂音が店内に響き渡る。
「――ッ!」
警官の拳銃から放たれた銃弾は、勝悟の頬を掠めた。彼の背後のガラス窓が粉々に割れ散る乾いた音が鼓膜を劈く。
「ひ――っ!」
その音に、勝悟はすっかり恐慌を来してしまった。
彼は恐怖で顔を引き攣らせながら、警官の横をすり抜けて店外に脱出しようと床を蹴る。
「あ――ま、待てっ!」
その動きに慌てた警官は、構えた拳銃を勝悟の胸に合わせて動かした。
「ひっ……や、止めろォっ!」
(撃たれるっ!)と直感した勝悟は、更に恐怖に駆られ、右腕を振り回す。――バタフライナイフを固く握った右腕を。
「――ひゅっ」
「……え?」
突然、甲高い笛の音のような音を聴いた勝悟は、驚きながら音の鳴った方に目を遣った。
「……ッ!」
そして、その目が飛び出さんばかりに見開かれる。
――彼の目に映ったのは、
勝悟の振ったバタフライナイフの刃によって首を斬り裂かれ、夥しい血を噴き出しながらゆっくりと倒れる、若い警察官の姿だった――。




