第9章
「ごめんね、アンディ。うちのお兄ちゃんがひどいことして……」
ラナはトイレの脇にある流しで、自分のハンカチを濡らして急いで戻ってくると、アンディの顔の血を丁寧な仕種で優しく拭いていった。
「いいよ、君……名前なんていうんだっけ?とにかく、ハンカチが汚れるからさ」
「わたしの名前はラナっていうのよ。ラナ・スミス。それでさっきの図体ばかりでかい脳味噌のあまり詰まってないのが兄のブラッドなの。もう、うちの兄も弟たちも野蛮で嫌になっちゃう。デリカシーってものがまるでないんだから」
「ラナ、君にはお兄さんの他に、弟もいるの?」
ラナは何故かここで、また顔を真っ赤にした。彼女はいつも、自分が五人兄弟の三番目だと人に説明しなければならない時、気詰まりな思いを味わうのが常だった。
「上にブラッドの他にもうひとり兄がいるのよ。で、わたしの下にも弟がふたりいるの。だから毎日家の中はてんやわんやよ。四人いる兄弟の中で、ああ見えて実はブラッドが一番まともなの。そして下の弟ふたりは最悪ね。まさに悪夢よ。わたしの部屋の机のものとか、勝手に取りだしては色々見るし……兄弟が多くて何が一番嫌って、プライヴァシーがないことよね。わたし、上にはひとりお姉さん、下にはひとり妹のいるのが理想だったわ」
「そっか。僕はひとりっ子だから、なんだか羨ましいと思うけど」
アンディは起き上がると、ティッシュを鼻にあて、血が出ていないことを確認した。痣になっていないかどうかと、鏡を見に洗面所のほうへ向かう。
「このハンカチ、洗って綺麗にしてから返すよ。それか、別の新品のを買って返す。この血が洗濯して落ちるかどうか、ちょっとわかんないから」
「気にしなくていいのよ、アンディ。それはどうせ……」
(99セントで買ったものなんだから)と言いかけて、ラナはアンディが金持ちなのを思いだし、急に口を噤んだ。
ラナがアンディにくっついて洗面所のほうへ行こうとすると、キッチンのところでタルトを作っているソフィとぶつかる。
「あら、どうしたの、アンディ。随分急に男っぷりが上がったわね」
「す、すみません、フィッシャーさん。わたしの兄のブラッドがやったんです。家に帰ったらよおおおく、母に言って叱ってもらいますから!」
深々とお辞儀するラナのことを、ソフィは微笑ましい気持ちで眺めるばかりだった。むしろブラッドにはよく殴ってくれたと、感謝の意を表さねばなるまいと、ソフィとしてはそう思うばかりである。
「いいのよ、ラナちゃん。べつにあなたがアンディを殴ったわけじゃないんだし、大方、どうせ悪いのはこの子のほうだったんでしょうしね」
「そんなことありません!兄のブラッドはいつも暴力的なんです。わたしの下に弟がふたりいるんですけど、パトリックもノアも、そりゃ生意気で……ブラッドはいつもこの弟が悪さをすると殴って言うことを聞かせるもんですから、普段の悪い癖がつい出てしまったんだと思います」
「なんにしても、気にすることないわ。それよりみんな、寛いで楽しくやってるかしらね」
ここでバターンと、キッチンに通じるもうひとつのドアが開けられ、ロビンが飛び込んできた。負傷しているという設定なのかどうか、片方の足を引きずっている。
「おや、アンディくんじゃないか。君、マシンガンを一挺あげるから、僕の味方をしてくれたまえ。凄腕の孤独な兵士といえども、2:1というのは流石にちと分が悪い」
ロビンは足を引きずるのをやめると、くるりと振り返って廊下の向こうの敵陣に向かい、一時休戦を申し込んだ。
「おーい、囚われの兵士アンディを確保したぞ!これで2:2だ。もう一回ゲームをやり直そうぜ」
ロビン・クライヴはアンディと同い歳なのだが、妙に落ち着いた感じのする、眼鏡をかけた少年であった。エリオットが弟のを借りてきたというマシンガンを手渡されると、アンディもまた架空の国で兵士となり――嫌々ながらも戦争へ徴兵されていったというわけだった。
「フィッシャーさん。男の子たちって、どうしてあんなに馬鹿なんでしょうね。あ、もちろんアンディは違いますけど」
「ラナちゃん、みんなのところへは戻らなくていいの?」
食堂のテーブルにラナが腰掛けるのを見て、ソフィはブルベリーやチェリーのタルトをオーブンに入れながら聞いた。お昼ごはんは手作りハンバーガーとポテトなのだが、タルトやマフィンは食後のデザート用である。
「えっと、映画の続きは気になるんですけど、でももう大分話も進んじゃったと思うので……良かったら何か、お手伝いします」
「あら、いいのよ。下ごしらえのほうは大体のところ済んでるし。でももしどうしてもっていうんなら、これからハンバーグを焼きますからね、それが済んだらパンの間にレタスやトマトなんかを挟んでいってもらえるかしら?」
「お安い御用です、フィッシャーさん!」
こうしてラナは、この日一番の大役を勝ち取り――他の女の子たちがアニメを見終わって出てくると、「ラナばっかりずるいわ!」と、一しきり文句を言われるはめになったのだった。
* * * * * * *
十七人もの子供のおやつや食事を用意するのは、ある意味それこそ<戦争>だったが、子供たちがみな満足そうに帰っていくのを見て、ソフィはほっと胸を撫で下ろしたものだった。
エリオットから貸してもらったマシンガンはなかなかよく出来た代物で、撃つと銃の音とともに赤いビームが飛び出るので、撃たれた場合はその場に倒れこむなり、死んだ振りをしなければならなかった。ゲームの一ラウンド目が終わると、四人のうち誰かが物置かどこかに囚われているところを救出するという話運びとなり――ガレージでは雰囲気が出ないと思ったアンディは、地下にある倉庫に三人のことを案内した。
「ここ、本当に大丈夫なの?」
電気のほうはとっくの昔に直っていたものの、アンディはあえてあのお気に入りのランタンに火を点けて、三人のことを先に立って案内した。エリオットの片手にはガレージから持ってきたロープが握られており、これもまた<雰囲気を出す>ために、仲間のひとりを柱にくくりつけようということになっていた。
「みんな怖いんなら、僕が人質役でもいいんだけど」
そうアンディが申し出ると、「いいや、それじゃダメだ」と、正義感の強いロビン伍長が言った。「ここは平等にジャンケンをして決めよう」
不幸なことに、ジャンケンで負けたのは、一番気弱なティム大尉だった。ティムは地下室の柱にロープでくくりつけられると、足元にランタンを置かれ、暗闇の中にひとり取り残されるということになる。
「なるべく早く助けにくるからな」
エリオットが頼もしく肩を叩いてくれたが、人一倍想像力豊かなティムは、当然とても不安だった。昼間であるにも関わらず、幽霊が真横にすり寄ってきて、身動きできないティムのことを恐ろしがらせるような気がしてならない。
こうして、ギィィと不吉な音とともに建てつけの悪い扉が閉められると、ティムはだんだん体温が下がってきた。何分、体を縛られているので腕時計を見ることが出来ないし、今一分たったところなのか、三分たったところなのかもわからず、どんどん不安ばかりが増大していく。
そしてそこへ持ってきて、物語好きなエリオットが劇的救出劇なるものを考えついてくれたお陰で、なかなか彼の仲間は助けにやって来なかったのである。そんな中で、ひとつの悲劇がティム・オーエン少尉のことを襲ったのであった。
後方の暗闇からネズミがチュウチュウいう声が聞こえた時は、一瞬ぎくっとしたものの、「なんだ、ネズミか」と思い、ティムはそれほど恐怖を感じたりはしなかった。もちろん、身動きできないため、ネズミが足のあたりでも齧ってきたらどうしようと思いはしたものの――次にドタドタいう音が背後でした時には、流石にティムも冷静さを保つことが出来なかった。
さらに「フギャウ!!」という怒ったような声とともに、暗闇の中から丸い物体が飛び出てきた時には度肝を抜かれた。鳴き声から察するに猫と思われたが、はっきりその姿を識別する前に、その太った生き物がランタンを蹴飛ばしてくれたお陰で――あたりはすっかり夜の闇と同じようになってしまったのだ。
しかも、猫がその本能によってネズミを捕らえる残酷な劇が闇の中では展開されているらしく、一しきりドタバタしたあと、再びしーんとして静寂が戻ってくると……ティムはもう我慢が出来ず、「たすけてくれええええっ!!」と声を限りに叫ぶことになった。
「た、たすけて~!!みんな助けて!!お願いだから、誰でもいいから助けてよ!!」
この声を、トイレにいって部屋へ戻る途中のエリックが聞きつけた。そこで入口脇にある電気のスイッチを押し、階段を駆け下りていってみると――柱に縛られたティムの前にはネズミの死骸のお供えと、転がって火の消えたランタンが横倒しに置いてあったのだった。
「ティム、一体何してんの?」
のんびりした性格のエリックが、ガムをくちゃくちゃ噛みながら、この状況を楽しむかのようにそう聞いた。
「いいから、早くこのロープをほどいてくれよ、エリック!!」
ティムが半分泣きそうになっているのを見て、エリックはすぐほどけるように縛ってある結び目のロープを軽々とほどいてやった。エリックにとってこの時何より面白かったのは、ティムに捧げられたネズミの死骸でもなく、ましてやティム本人でもなく、口にネズミをくわえたところを見つかり、「あら、淑女のあたしとしたことが」とばかり、ポトリと自分の獲物を落として、何ごともなく去っていったレディ・パメラのことだったかもしれない。
気の毒なティム・オーエンはこうしてイレギュラーな仲間に救出され、ティムは他のデリカシーのない戦友のことはそのまま放っておいたため、エリオットとアンディとロビンが壮大な劇を演じきってようやく地下室へやって来た時には――救出すべき仲間の姿はそこになく、ほどけたロープのまわりには二匹のネズミの死骸があるばかりだったのである。
* * * * * * *
午後の三時のおやつがすむと、子供たちはその後もゲームやおしゃべりや読書などにさんざん耽ったあと――午後の六時少し前くらいにようやく帰っていった。
ほとんどの子供が本棚から何がしかの本を借りていったし、そのお礼として「今度ここの本棚にない別の面白い漫画を貸してやるよ」と約束した子もいれば、「君にあげようと思って持ってきたんだ」と言って、カードゲームの珍しいカードをアンディにこっそりくれた子もいた。
ブラッドはアンディに直接あやまりはしなかったが、格闘ゲームをした時に詫びの気持ちからかわざと負けてよこしたため、むしろアンディの激しい怒りを買うという結果になっていた。アンディの顔には薄紫の痣が出来ていたが、「なあに、三日もすりゃ治るって!」とブラッドは言い、アンディの華奢な背中を叩いていたくらいだった。
こうしてヴァ二フェル町の子供たちとアンディは、<ただなんとなく>友達という間柄となり、海辺の別荘の前には、毎日のように誰かしらの自転車が止まるようになっていたものだった。女の子たちは必ずふたり以上でやって来ては、なんとかいう映画のDVDが見たいと言うか、借りていた本を返却するのと同時に別のを借りていったものだった。男の子たちにしても事情は似たり寄ったりで、彼らは単にアンディと話をしたり、ゲームか漫画目的、あるいはソフィの作るおやつ目当てに、遠いところでは五キロ先の村からやって来る子たちもいた。
子供が何人か集まれば当然、家にこもってゲームばかりするのではなく、そのうち「釣りに行こうぜ」と言ってアンディのことを連れだしたり、「クワガタ虫を取りに行こう」だの「蛍を見に行こう」、「カエルを取りにいこう」といった話になり――アンディは自然とヴァ二フェル町のほとんどの子供と親しくなっていった。
もっとも、彼にとってはこうした同年代の子たちとの交わりも大切なものではあったが、そうして遊んで家まで帰ってきた時、ソフィにそのことを何やかやと話せる時間のあることが……もしかしたら彼にとっては、一番素晴らしいことであったかもしれない。
こうして、ヴァ二フェル町で過ごす一年目の夏は、アンディにとってもソフィにとってもあっという間に過ぎていった。そして八月末となったある日のこと、当然彼らは別れ別れにならなければならず、多くの子供たちが夏休みも終わりに近づくとそわそわしたものだった。
特に、ラナの心の痛みは激しいものだった。彼女はガサツでデリカシーのない兄弟の真ん中の子であったため――アンディのような繊細で優しい男の子は、まさに理想そのものだった。ラナの部屋の机の引きだしには、彼と町中で度々出会うようになってから描いた、<プリンス・アンディとプリンセス・ラナ>の絵が、今も大切にしまいこまれている。
といってもその絵は、一部が破れてセロハンテープで貼ってあった。それというのも、やんちゃな弟ふたりが、姉が何やら秘密を隠し持っているようだとかぎつけるなり、それを机の奥から取りだしてきてからかいの種にしたからである。
スミス家の三男のパトリックは、その絵をお尻にあてると「あらよっと!」と言ってブリッとおならをしたし、四男のノアはふたりが引き裂かれるようにという願いをこめ、鋏でギザギザの線を入れていた。その裁断が三分の一ほど進んだところで、ラナは自分の絵をどうにか取り戻したのだったが――「なんて不吉なことをしてくれたのよ、あんたは!!」と、ノアのことを久しぶりにげんこつで殴ったほどだった。
ラナにしてももちろんわかってはいる。アンディのような子に相応しいのは、自分のようなお転婆な子ではなく、おしとやかな優しい女の子なのだろうということは。けれど、鼻血の一件があって以来、女の子たちの間ではラナとアンディは公認のカップルといったように何故か認められていた。
これはやはり、彼女が一番にアンディが町へやって来た目撃者であることの他に、以後「よそからやってきた子」の情報をどうにかして掴もうとラナがあちこちの家を訪ね回っては情報を得ようとしたことが大きかったに違いない。
もちろん、<公認のカップル>などといっても、鈍いアンディはラナのことを「特別大事な女の子」と思っているわけでないことは、女の子のうちの誰もが知っていた。けれどもし横恋慕して、こっそり抜け駆けしようとする女子がいたとすれば――その子はひょっとすると、ちょっとした代償を支払わねばならないかもしれなかった。
「ねえ、ラナ。あんたさ、アンディくんに告白しないの?」
ユ二スは新体操のクラブが終わった帰り道に、ラナに思いきってそう聞いてみた。
「告白なんてとても無理よ。それにあの子、また来年もここの別荘に来るって言ってたし、冬の休暇の時なんかにも来るかもしれないって……だから、そんなに急ぐことないと思うの。一番の理由は勇気がないからだけど、そのかわり手紙を書こうと思うんだ。ラナやみんなのこと忘れないでねって。それと、お暇があったら必ずお手紙してねって、そう書くつもり」
「甘いわねえ、まったくあんたは。都会にアンディが帰ったら、彼を誘惑する同じクラスのメス豚どもがいるじゃないの。そっちの対策については立てなくてもいいの?」
「だって、アンディはおうちで勉強してるのよ。優秀ななんとかマクレガーっていう家庭教師の先生がついてるんだって。アンディはその先生のことがあんまり好きじゃないみたいなんだけど、学校にも行きたくないから、仕方なくその先生に教わるしかないんだって言ってたわ」
「ふうん。随分ご親密じゃない、あんたたち。でもまあ、都会の子よりも田舎の子のほうが実は意外に新鮮だったりするのかもね。向こうの子のほうが比率的に意地悪そうな子とか、無愛想な子なんかが多いかもしれないし」
「そうねえ」
ラナは今日の演技でミスしてしまったところを頭の中で再演しつつ、ユ二スに対して少しぼんやり返答した。新体操のクラスを開いているのは、オリンピックで銅メダルを獲得したことのある先生で、ヴァ二フェル町は本当にほんの時折ではあるのだが、そうした著名人を輩出することがあった。
「ねえあんた、人の話聞いてる?」
時刻は夕刻のことで、夕闇がもうそこまで押し迫ってきていたが、新体操のクラスは小学校の体育館で開かれているため、ふたりは連れだって歩いて帰るところだった。夏の夕暮れによくあるように、空気はどこか生ぬるくて気だるく、あと五日で九月になるだなどとは、とても信じられぬほどだった。
「わたしね、アンディと出会ってからずっと考えてたの。新体操を教えてくださるエミリー先生や、あんたの姉さんみたいになるにはどうしたらいいのかなって」
「あら、あたしの姉さんみたいのにあんたがなったら、わたし絶対絶交しちゃうわ」
「どうしてよ?」
ここでユ二スが立ち止まったので、ラナもまた同時に立ち止まった。長い長い影法師が出来ていて、ふたりは何故かその場に釘付けにでもされたように、しばし立ち止まる形となる。
「あんた、あたしの話を本当に何も聞いてないのね、ラナ。アビー姉さんは世間のみんなが思ってるような人じゃないって、あたし何度もあんたに言ったじゃないの」
長い話になるような気配を感じて、ユ二スもラナも、なんとはなし、そういう時に向かう場所である桟橋へ向かった。ふたりは左右に消波ブロックが積んであるその場所がとても好きだった。
船が幾艘も係留してある桟橋には、今時分、誰も人がいなかった。そこで、ユ二スとラナはいつもどおりその突端のほうまで行くと、何枚もの板が打ち付けられて出来た桟橋に並んで腰かけた。ふたりはよく、こうして何気に足を海にぶらぶらさせていたら、ジョーズがやって来て足を食べられるかもと言っては笑ったものだった。
「ユ二ス、いくら物忘れが激しいあたしでも、そりゃちゃんと覚えてるわよ。けど、あたしが言いたかったのはね、アンディはエミリー先生やあんたの姉さんのアビー側の人だってことなのよ。言ってる意味わかる?」
「まあ、大体のところはね。エミリー先生はヴァ二フェル町の小学校だけ出て、あとはサウスルイスのほうにあるカレッジに進学したんだって。で、うちの姉さんも大体同じコースを辿って、ゆくゆくは首都にあるユレイシア音楽院まで進学したいみたい。うちのどこにそんなお金あるのって思うけど、母さんがそりゃ熱心だから、借金してでもどうにかお金のほうは工面するんじゃないかしらね」
「へえ……で、あんたは姉さんのしわ寄せを食って、このど田舎の辺鄙な町で漁師の嫁にでもなるしかないってこと?」
ユ二スは夕陽を受けてどこか不気味に輝く凪いだ海と、自分のスニーカーの間の空間を、まるで何か不思議なもののように眺め、暫くの間俯いたままでいた。
ラナの髪は褐色だが、ユ二スは特に何もしないでも美しい黒髪を、左右の高いところで結っている。姉のアビーは美人で幼い頃より才媛の誉れが高く――妹のほうは地味で特別取り柄がないというのが、エインズワースの親戚筋一同の、一般的な見解だった。
「べつに、母さんと同じく漁師の嫁になるってのも悪かないわよ。その人のことを真実ほんとに愛してるっていうんならね。でも、そうじゃなくてとりあえず誰もいないから手近な漁師とでもっていうのは、絶対嫌よ。何より、父さんも母さんも『ユ二スはたぶんそんなことになるんだろうな』みたいに思ってるのが一番嫌。あたし、絶対エミリー先生みたいになって、新体操でオリンピックの選手を目指すの」
「あんたは才能あるもの、ユ二ス。その点、わたしはさっぱりセンスのほうがないけどね、みんなで同じ格好してわいわいやるのが好きってだけよ。エミリー先生もあんたには特別目をかけてるし、こんな田舎の村に戻ってきた甲斐があったって言ってくださってるんですもの。頑張るべきよ」
「けど――姉さんとあたしじゃやっぱり違うのよ。あたしもアビー姉さんみたいに才色兼備ならよかったけど、あたしは容姿のほうがいまいちでしょ?だから新体操でそこそこのところまで言っても、容姿のほうがまずいからそこそこ止まりだろうって、母さんも父さんも思ってるみたい」
「ま、確かにあんたの姉さんは特別っていうか、特殊な人よね。ブラッドお兄ちゃんと同い歳で、うちにもあんたと一緒に何度も来てたからわかるけど、まあ、生まれる町を間違えたって感じの人よ、実際」
ユ二スの姉のアビー・エインズワースは、華奢で小柄な美人だった。おそらく、ユ二スと並んで立った場合、ふたりが姉妹とは大抵の人が思わないかもしれない。だがか弱そうに見えて、どこか凛とした気品のある少女で、ピアノの前に座ると別人のようになるのだった。
「そうよ。あの人はわたしの姉さんとして生まれるべきじゃなかったのよ。それか母さんは姉さんのことだけ生んで、わたしのことは生まなきゃ良かったんだわ」
「ユ二スの言いたいこと、もちろんあたしにもわかるよ」と言って、潮風のせいではなく、若干涙を滲ませたユ二スのことをラナは横から抱きしめた。「あんたの姉さんは確かに美人だけど、ちょっと冷たい感じだものね。『土木作業員とか漁師とか、自分と釣り合いの取れない男とは絶対結婚しないだろう』ってブラッドが言ってたのを思いだすわ。つい去年くらいまで、それでもお兄ちゃんとアビーは同じクラスってこともあって、結構仲良くしてたはずなんだけど――あれ、半年くらい前だっけ?ふたりはもう全然口も聞かないような関係になっちゃったみたい。で、わたしその時に聞いたの。お兄ちゃんに『アビーとどうかしたの?』って。そしたら、『もうどうだっていいさ、あんな奴』ってブラッドは言ってて……ようするに――お兄ちゃんはそこまではっきり言ったわけじゃないんだけど、お兄ちゃんは成績は良くないにしても、クラスでは中心人物だったりするわけじゃない?で、アビーはその部分を長きに渡って利用してたっていうか、そんなところがあったみたい。そんで、進学のこととか一通りメドがついたところで、お兄ちゃんにもユ二スが言ってたそういうアビーの「冷たい性格」がようやくわかったみたいなの」
「そう、あんたの兄さんには気の毒したけど、あたしにしてみたら新しい理解者が現れたみたいな気持ちよ。でも、まさかとは思うけど、あんたの兄さんのブラッド、うちの姉さんのことが好きだったわけじゃないんでしょう?」
「さあ……どうなんだろ。アビーのほうでも結構お兄ちゃんを「頼ってる」みたいに見えるところが結構あったし、あれだけ美人で可愛い同級生がいたら、そりゃあちょっとくらいはそういうところもあったんじゃないかと思う。けど、お兄ちゃんが怒ってるのはなんかそういう色恋のことじゃなかったみたい。これも、ブラッドがはっきりそう言ったってことじゃなく、お兄ちゃんはアビーの美しさや優しさが偽善というか、偽物だっていうふうに気づいたみたいなのよ。表面的には誰にでも優しいのに、心の中じゃランク付けしてるっていうか、アビーのそういうところがお兄ちゃんは好きじゃなくなったんだと思う……なんにしても、あんたはその点違うじゃないの、ユ二ス・エインズワース。あんたは、焦げたクッキーと綺麗に焼けたクッキーがごちゃ混ぜになってたら、真っ先に焦げたクッキーに手を伸ばすって子だもの。何故って、誰かがその焦げたクッキーを食べなくちゃいけないとしたら、その子が可哀想だからよ。だからあたしはあんたのことが大好きなのよ、ユ二ス。しかもそのことをあんたは、わざわざ大通りで叫んだりしないで、自分の心だけにしまっておくんですものね」
「うん……あたしもあんたが好きよ、ラナ・スミス。あたしたち、将来はどうなっちゃうのかまるでわからないけど、あんたとだけは絶対に親友だってことだけはわかる。ごめんね、ラナ。本当は先にあんたの話をしてたのに、なんか違うことになっちゃって……」
「ああ、あたしのほうのは、そもそもそう大したこっちゃあないのよ。アンディがノースルイスに帰っちゃうのは寂しいけど、あたしがアンディのいるノースルイスへ行く方法はないもんかって、そんなことばっかり最近考えちゃって……」
ラナは右手でユニスの右肩を、ユニスは左手でラナの左肩を互いに抱きあったままで、それからもふたりは暫くの間仲良く話し続けていた。こんな田舎の町に生まれてしまうと、両親の雛形をそっくり受け継いだような生き方をするか、それが嫌なら人の倍以上努力しなくてはならないのだ。アビー・エインズワースはその点、何も問題がなかった。彼女は本当はある意味まわりの人間を見下していたのに、それを表面には出さぬよう努力するだけで良かった。けれどユ二スは……まだ漠然とではあるが、姉が御者で両親が二頭立ての馬車であるとしたら、その馬車の車輪の役か何かしか自分には回って来ないのではないかと、そんなようなことを幼いながらも恐れていたのである。
「あんたの父さんと母さんにもさ、きっといつかわかるよ。アビーは独立独歩で成功するかもしれないけど、その頃には、たぶん……人生の成功みたいのを手に入れて、自分に相応しくないヴァ二フェル町なんて港町、忘れちゃうかもしれない。でもあんたはね、ユ二ス、その頃にようやく真のあんたの姿ってものが、あんたの両親にも見えるようになってるかもしれないよ」
別れる間際、そんなことを最後にラナはユニスに言ったのだが、すっかり暗くなった夜道を帰る途中で、ラナはあらためて深い溜息を着いていた。ユ二スに対し、なんとなくその場のノリで「大したこっちゃない」なんて言ってしまったけれど、彼女の悩みは相当深刻なものだった。アンディが自分のことを「友達以上の存在」として見ていないことはラナにもよくわかっている。自分の上の兄ふたりを見ていても思うのだが、男の子というのは女子よりも恋愛に関しては目覚めが遅いものらしい。そこでラナの考えたのが、次のようなことだった。まず最初にラナは、アンディの心の中に自分という存在をどの少女よりも先に<予約>しておきたいように思った。何年か経って互いに年頃となった時に、「そういや昔、ヴァ二フェル町っていう田舎町になんとかっていう褐色に青い瞳の女の子がいたっけ。ええと、あの子の名前は……」なんていうのでは、まるで駄目だ。
つまり、ラナがユ二スに相談したかったことというのは、次のようなことだった。ラナが考えるに、アンディ=フィッシャーという少年は、生まれながらにしてすでにエミリー先生やアビー側の人間なのだ。もちろんラナは、アビーが普段そうしているように、<そちら側>に属していない者たちのことを見下したりはしないし――結局のところ、自分も<こちら側>に留まって終わるかもしれない存在なのだ。
けれどもし、アンディと結婚したとしたら、ただそれだけでラナは彼に属する世界の住人になれるような気がしていた。もちろん、ラナはそうしたどこか「ずるい」考えを持っているというわけでもなければ、都会生活に強い憧れを持っているというのでもなかった。ラナはただ純粋にアンディのことが好きだった。けれど、この恋の障害の多くを乗り越えるためにはまず、ラナ自身が最大限の努力をもってアンディ側の世界に近づいていくことが必要である気がした。
(でもそのためには、具体的にどうしたらいいのかしら?勉強をもっと頑張るとか、素敵なレディになれるよう努めることで、少しはアンディに近づくということがこのあたしに出来るものかどうか……そこをユ二スに相談したかったのだけれど)
ラナが家に帰ってみると(この海近くにある立派な邸宅は、スミス家の祖父の代、やはりマグロ景気にわいていた頃に建てられたものだった)、下の弟ふたりはどちらが大きいオナラが出来るかと無意味に競っていたし、母は食事の支度のために台所へ立ち、父と祖父は明日の昆布漁のことについて、何か話をしている様子だった。
昆布はヴァ二フェル町の特産品のひとつなので、この時期には家族総出で天日干しにするのを手伝わなければならないが、上の兄ふたりも下の弟ふたりも、今からすでに両親の<雛形>を受け継ぐような人生へ進むことに、なんの疑問も持っていないようだった。
家族は全員、漁かその手伝い仕事によって真っ黒に日焼けしており――ラナは家族も好きならヴァ二フェル町もそこにいる友達のことも好きだったし、漁に関する手伝い仕事も好んで手伝うほうだった。けれどやはりどうしても、アンディが<こちら側>に属するようになるとは思えない以上、自分のほうから彼の世界に近づく努力をする必要がある気がしていた。
今年の夏、アンディは昆布の天日干し作業を、ブラッドに誘われて何度か手伝ってくれていた。祖父のブライアンが指摘した、「べつにへっぴり腰だってんじゃねえが、何やら医者か弁護士先生が、無理してわしらの手伝いをしてくれとるような按配だべな」というのは、ラナも当たっていると感じたものだった。
「僕のほうが、パトリックお兄ちゃんより大きいオナラが出せるよ!」
――ブリッ!!
「何をノア、俺のほうが……」
――ブォォォッ!!
「うわっ、くっさ!!パトリックお兄ちゃんのおなら、マジくさい!!」
末の弟のノアは、たまらず鼻を指で押さえて顔をしかめた。
「ははははは!!どうだ、参ったか。さっきおやつにポテトチップスを食ったからな。なるほど、じゃがいものいい匂いがプンプンするぜ」
「ほら、そろそろごはんよ。みんな、席に着きなさい」
母がこう言っても、弟たちがすぐ大人しく食堂の座席に着席するのは稀だった。今度はテーブルをぐるぐるまわり、追いかけっこをしはじめ、祖父や父や兄が座席に着きはじめる頃、ようやく自分の席に座るのだった(そうじゃないと、祖父が恐ろしい顔をして睨みを利かせるか、父が怒鳴るような大声を発するためである)。
外からちょうど帰ってきた長兄のブレンダンと、居間のソファで漫画を読んでいたブラッドも座席に着くと、いつも通りの食事がはじまった。一度この夕食の席にラナはアンディのことを誘ったことがあるのだが、彼はやはりスミス家の雰囲気には馴染めなかったようで、以後、二度とやって来てはくれなかった。
このことはラナの気持ちを少しばかり傷つけはしたが、あとでブラッドから事情を聞いて理由を理解した。つまり彼は――ノースルイスにある自宅のほうで、もっぱらこれまでひとりで食事することが多かったというのである。「少なくとも、あのおばさんがやって来る前まではそうだったんだってさ」とブラッドは言った。「だからなんかこう……うちみたいな『一家団欒』の雰囲気には憧れるけど、勝手が違う感じがするとか言ってたな。あいつ、親父さんの前では緊張で萎縮してうまくしゃべれないことが多いらしい。うちのじいちゃんと父さんだってそりゃ海の男としてコワモテだけど、緊張してうまくしゃべれないってことはない。つまり、あいつの家ってのは一見金持ちで幸せそうに見えるけど、内は大変だってことだな」
ラナがアンディのことを好きなのは、当然彼が大金持ちの実業家の跡取り息子だからではない。そんな都会の家の内側に入っていって、果たして自分は幸せになれるのだろうか……などとも、まだ十歳のラナは考えない。ただ、彼女はアンディの存在そのものに強烈に惹きつけられていた。そして今から十年後、もしアンディの心の片隅に自分の入る余地があるとすれば、今から何をしはじめれば良いだろうかと、ラナはそんなことを考えるばかりだったのである。
(恋は人を成長させるって、本当なのね)
夕食の間中、ラナは新鮮な海の幸に舌鼓を打ちながらも、心の内ではどこか甘やかな乙女の溜息を着いていたかもしれない。そこでアンディのことを思って、ラナが少しばかりぼんやりしながら魚のスープをすすっていると、隣のパトリックがライ麦パンを引きむしってこんなことを言った。
「お姉ちゃん、アンディ兄ちゃんの前でオナラできる?」
彼が姉のラナより、思いきり耳たぶを引っ張られたのは言うまでもないことであり、家族は誰もが「いつものこと」として、笑ってその様子を眺めていたのだった。
>>続く。




