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第7章

 人で混雑するノースルイス駅までやって来た時、ソフィはくちなしの花模様がプリントされた、地味なワンピースに麦藁帽子といったいでたちだった。そしてアンドリューはといえば、水兵さんが着るセーラーに短い紺のズボンをソフィに着せられており――楽しい旅行へ出発する直前、彼はとても不機嫌に眉根を寄せたものだった。


「嫌だよ、僕。こんな女の子みたいな格好」


「わかってるわ、アンディ。おばさんだって本当はわかってるのよ。坊やはきっと、これから楽しい探検に出かけるぞ!みたいな格好をしたかったんでしょう?アマゾン川で鰐を捕獲する、決死の探検隊みたいな格好をね」


 玄関口のところで、ソフィはアンディの背丈まで屈むと、白の水兵帽を一度取り、彼の頭を撫でてから、もう一度帽子をかぶせた。


「でもね、可哀想なおばさんの夢を叶えてちょうだい。おばさんはね、自分に息子か弟がいたら、是非一度水兵さんのセーラーを着せて一緒に歩いてみたかったの。向こうへ着いたらもうこの服は着なくていいから、今日一日だけおばさんにつきあって欲しいのよ。ね、お願いよ、アンディ」


「そんならさ、おばさんに子供が生まれてからそうしなよ。父さんとの間に男の子でも作ってさ、その子が大きくなってからセーラーを着せればいいんだ」


(お父さんはパイプカットしてるから無理よ)などと、そんな大人の真実を話すわけにもいかず、ソフィはただ困ったように微笑んだ。そしてその微笑に負けたアンディはしぶしぶ譲歩したのだったが、いつもは仲のいいふたりが旅行前に揉めるのを見て、サラとアンナは大いに溜飲を下げたものである。


 家を出る前にこうしたちょっとしたトラブルはあったものの、電車による旅は、あとは概ね快適で、心楽しいものだった。座席は一番いい席ではなく、禁煙車の普通の座席だったが、ビロード張りの硬い椅子におばさんと並んで座る頃には、最初の不機嫌もなんのその、アンドリューはすっかり上機嫌になっていた。


「アンディ、この重いトランクには一体何が入ってるの?重くなるようなものはなるべく後の便のに入れるようにしなさいって、おばさんそう言ったじゃない」


「だっておばさん」と、駅の売店のところで買ってもらったお菓子を食べながら、アンディが抗議する。「これから電車で僕ら、六時間ばかりも揺られることになるんだよ?途中で退屈で死にそうになったら、本でも読むしかないじゃないか」


「失敗したわ。おばさんが最後にちゃんと、不必要なものはないかどうか、トランクの中身をチェックすべきだったわね」


 アンディはチューインガムを口の中でこねるのに忙しかったので、それきり黙りこんだ。だが果たして、トランクの中に入った昆虫図鑑や虫眼鏡、水鉄砲や(なんに使うのかわからない)おもちゃの手錠、ゴム製のお気に入りの人形などを発見したら……「こんなのは後の便にしなさい!」と、ソフィは怒鳴れただろうか?


「アンドリュー、あんた、ゲームなんかはしないの?」


「もちろんするよ。あんな面白いもの、しないわけがないじゃないか」


 チューインガムを膨らませ、どことなく水兵らしさを演出しながらアンディが言う。


「でも、ゲーム機はあとの便のに入れちゃった。たぶんきっと、行きの電車ではおばさんと話すのが楽しくて、ゲームどころじゃないと思ったんだよ。でも失敗したな。トランクを軽くしたかったら、ゲーム機をこっちに入れて、本を何冊か後の便にすれば良かったんだ」


「そう。あんたはいい子ね。おばさんの我が儘につきあって、水兵さんの格好もしてくれたし、フランスやローマに行くんじゃなくて、おばさんの故郷のど田舎町までつきあってくれるんだものね」


 アンディはポケットの中からチョコレートを取りだすと、「食べる?」と言ってソフィに差し出した。ソフィは荷物を上の荷台に上げてから受け取り、窓際の座席に心地よくおさまっている義理の息子の姿を眺めやった。


 実をいうと、アンドリューに水兵のセーラーと帽子を着せたのは、ソフィにとって理由あってのことだった。理由といっても、そう大したことではないのだが、小学三年生くらいの時、都会からヴァ二フェル小学校に男の子がひとり転校してきたことがあった。彼はソフィの初恋の相手だったが、転校初日にやはり、同じようなセーラーを着て学校に登校していたのである。


 その男の子は一年くらいでまた別の学校へ転校していったが、街中などで水兵と通りすぎるような時――ソフィはいつでもその男の子のことを思いだしたものだった。


 電車の出発する五分前くらいに、向かい合わせになっている座席にふたりのスーツ姿の男が乗りこんできた。商用でポートレイシアあたりに行くのだろうかとソフィは思ったが、楽しい旅行を邪魔する中年男ふたりが目の前に陣取ったことで、アンドリューは極めて気分を害していたといえる。


 何故といって一気に座席が狭くなった気がするし、男たちは「ふう、やれやれ」だの「まったく今日は暑いな」などという面白みのない会話をしたのち、荷物を片付けたあとは顔の汗をぬぐったり、帽子でパタパタ仰いだりしはじめたからである。


「お、坊や。歳はいくつだい?」


(暑苦しい上に、鬱陶しいジジイだな)と内心では思いつつ、相手が求める従順さでもって「九歳です」と、アンディは答えていた。


「ふうん。おい、グレアム。おまえんとこの可愛い気のないガキンチョはいくつって言ったっけ?」


「ジェフリーのことかい?あいつはようやく八つさ。下の子のジャスミンはまだ六つだよ」


 中年男ふたりは、グレアムのほうが少し年上で、兄貴風を吹かせる立場のようだった。


「奥さん、まったく奥さんの子供さんは賢そうな様子をしてますな。こいつんところのガキはふたりとも、生意気盛りのやんちゃ者でね。俺が家に遊びに行くたんびに「マックスおじさんはどうして結婚してないの?頭が禿げてるから?」なんて言いやがる。そんで妹のほうは「ジェフ、そんなこと聞いちゃ駄目じゃないの。おじさんはモテなかったのよ。可哀想だからそれ以上聞いちゃダメ!」なんて、優しいことを言うんだからな」


「俺も、子供たちに「マックスおじさんの傷口に塩を塗っちゃダメだぞ!」って言ってるんですけどねえ。ジェフリーときたら、「おじさんの禿げた頭に塩を塗ったら生えてくるかな?」とか、そんなことしか言わない始末で……」


 大人たちがこうした軽い世間話を繰り広げる間、一冊だけ出しておいた文庫本にアンディは目を落として読んでいた。シャーロック・ホームズの『バスカヴィル家の犬』だったが、本の趣味にまで割り込まれては堪らないので、アンディはカバーをかけたままにしておいた。


「うちの子は<内側もさ男>予備軍なんですよ」と、ソフィは笑って言った。


「なんですか、その<内側もさ男予備軍>というのは?」


 マックスは額の汗を拭いたハンカチをポケットにしまいこみながらそう聞いた。グレアムのほうは帽子で顔を扇ぐのをやめ、「ちょっと失礼」と言って、電車の窓を数センチばかり開けた。少しだけ涼しい風が入ってくる。


「うちにこもったもっさりした男って意味なんです。まあ、わたしの見たところ世界の男性の三分の一、ないしは四分の一がこれですわね。そうした男性のことは女性がお尻を叩いて誰か人でも殺してこいって言うしかないんですわ」


「怖いお話ですな。マクベス夫人ですか」


「だって、「そのうち世界は滅ぶから、僕は家にいて何もしないんだ!」なんていう子がもしいたら――わたしだったら、盗みでも働いてくるような子のほうを歓迎しますよ。そうじゃありませんこと?」


 ソフィのこの意見があまりに突飛なものだったせいか、マックスとグレアムは互いに顔を見合わせていた。そして笑った。


「いやいや、これは参りましたな、奥さん」


 それきり一同の間で会話は途絶え、マックスは新聞を広げて読みはじめた。グレアムは仕事の疲れでも溜まっていたのかどうか、顔に帽子を置いたまま、腕組みしてやがて眠りはじめる。


 その後、ソフィはアンディと小さな声で色々話し、アンディが上の荷物を取ってほしいと言えば取ってあげたり、カートを押して売り子がやって来ると、サンドイッチやお菓子、飲み物を買ってやったりした。


 中年男ふたりは二時間後にサクスヴェリーというワインで有名な町で下りていったが、マックスは最後、アンディのことを意味ありげに見やると、「そいじゃさよなら、もさ男くん」と、禿げ頭を隠すように帽子をかぶって去っていた。


 そしてこのふたりがいなくなって初めて――アンディはソフィに向かって感情を爆発させたのだった。それまではただむっつりと黙りこんだままでいたのだが。


「ひどいよ、おばさん!僕のことを内側もさ男だなんて!!」


「あんなの、軽い冗談よ。それに坊やのはただの予備軍でしょ。心配ないわ――坊やは決してあのマックスおじさんみたいにもっさりしてないもの。あのおじさんが結婚してないのはたぶん、あのおじさんこそが「もさ男」だったからじゃないかって、そんなふうにおばさんは思うしね」


 機嫌を直しなさい、というように、売店で買ったオレンジの皮を綺麗に剥くと、ソフィはそれを義理の息子に手渡した。


「このオレンジ、美味しいね、おばさん」


 あのおじさんたちがポートレイシアまで乗っていくのだとしたらどうしようとアンディは危惧していたが、思ったより早く手前の駅で降りてくれて良かったと、アンディは心底ほっとした。


「甘くて、実が詰まってるでしょう?」


 ソフィは手をウェットティッシュで拭き、みかんの皮を備えつけの小さなポリ袋に入れながら、思わず溜息を着く。


「最初は贅沢じゃない普通の旅を坊やとしようと思ってたんだけど……この座席は失敗だったわね。せめて、ふたりきりになれる個室を予約すべきだったわ」


 アンディは、愛するおばさんが自分とまったく同じことを考えていたとわかって――この瞬間、すっかり機嫌を直したのだったが、やがてまた彼の顔は薄曇りといった様相を呈することになった。


 というのも、もうすぐポートレイシアに着くという、二駅ほど手前の駅でのこと、二十代くらいの若い青年がふたり乗りこんできて、またソフィとアンディの隣の席を占領してしまったからである。ソフィはマックスおじさんのいなくなった座席に移ると、アンディと向かい合わせになって座り、ふたりして車窓の田園風景を眺めつつあれこれ話していたのだが、その体格のいいふたりの青年は明らかにソフィのことを意識して会話しているように、アンディには見受けられていた。


 とはいえ、アンディの見たところ、マクレガー先生を二流にしたように見えるこのふたりの青年は、直接ソフィに話しかけることはなく、何かの拍子にソフィがアンディに話しかけると、会話に割り込もうかどうしようかという感じで、ちらとこちらの様子を窺うという、それだけであった。


 やがて五時間半という長旅が終わり、ポートレイシアで乗客全員が降りる段になると、入口近くの通路は順番を待つ人で詰まり気味となった。そんな中、ソフィが荷台から自分たちの荷物を下ろそうとしていると、すでに立ち上がっていた隣の青年が「手伝いますよ」と言って、ソフィに手を貸した。


 金髪碧眼の、純朴そうに見えるこの青年は、ソフィのほうの大きめの荷物は難なく下ろしたものの、アンディの小さめのトランクを持った時には、ちょっとよろめいていた。サイズからイメージされる重さに反して、鉛でも詰まっているのかと一瞬思ったことだろう。


「まあ、どうもすみません」


 男は少しよろめいてからソフィに荷物を渡し、「どういたしまして」と丁寧に挨拶してから友人と立ち去っていった。


「ソフィおばさん、僕、自分の荷物は自分で持つよ!」


「でも坊や、坊やの荷物はこんなに重いんですもの。むしろおばさんの大きなトランクのほうが軽いくらいよ。だから――」


 ソフィが肩からかけているバッグの他に、両手に荷物を持とうとするのを見て、アンディは怒った。


「いいんだよ!僕の荷物は僕の荷物だもの。ほら、こっちに寄こして!」


 何故こんなにもアンディが顔を真っ赤にして怒っているのか、ソフィにはさっぱりだったが、彼が自分の荷物を奪うように取り返したため、それをアンディが右手に持つのに任せた。


 アンディはまだあんまり背が高くない――だから自分の重い荷物を荷台に上げることも出来なかったろう。もちろん、座席に乗っかればどうにかなったろうが、この時アンディはなんだか、マクレガー先生を二流にした程度の青年に負けた気がして、そのことを腹立たしく感じていたのだった。


 ノースルイス駅からポートレイシア駅に向かう<ハヤブサ号>は、白銀に輝く素晴らしい車体をしていたのだが、次に乗り換えた鈍行のほうは、朱色の塗料の塗られた、赤錆びたようななんとも田舎くさい車両だった。指定席というのは特になく、ソフィとアンディはがら空きの電車に乗りこむと、適当な席を見つけて座った。


 明らかに先ほどよりも電車の速度が落ちたこともあり、アンディはやがて眠たくなって、ヴァ二フェル町までの二時間半ほどの道のりの間、座席でぐっすり眠っていた。だからもちろん、彼は知らない……その間もソフィおばさんがずっと起きていて、義理の息子の寝顔を、どんなに愛しい気持ちで眺めていたかということなどは。



   *   *   *   *   *   *   *



 ヴァ二フェル町に唯一ある駅で降りると、ソフィはそこからはタクシーを使った。都会育ちのアンディにとっては、この町が想像した以上に「田舎である」ということが、何やら面白いことのように感じられたものだった。


「坊や、終点よ」と耳元で囁かれ、体を揺すり起こされると、窓の外はどこまで続いているかもわからぬエメラルドの草原が続いていた。駅に降り立ってみると、涼しい夕方の風が吹きすぎて、ノースルイスの蒸し暑い夏の夕暮れよりも、若干気温が低いのではないかとアンディには感じられた。


 コンクリートにあちこち皹の目立つホームから、古びた幌つきの歩道橋を渡って駅に辿り着くと、ソフィは機械に切符を通すのではなく、駅員に直接切符を渡していたものである。


「ここの駅員さんは、暇そうでいいね」


 アンディは欠伸をしながらそんなことを言い、えっちらおっちら自分の荷物を右や左に持ちかえて、ソフィのあとへついていったのだが――そんな彼を見かねてかどうか、駅前にある広場から、彼女はタクシーに乗りこんでいた。


「おばさん、ここから僕たちの別荘までは遠いの?」


「そうね。そんなに遠くもないとは思うけど……向こうに着いてさえしまえば、車もあるし、タクシーに乗ったりすることはもうないと思うんだけどね」


 人生の中でこの時ほど、アンディはタクシーのメーターが変わるのに目を見張ったことはないかもしれない。というのも彼は、いつでも運転手つきの車で移動することに慣れており、民間のタクシーといったものに乗ったことがほとんどないからであった。


 アンディは料金のメーターが変わるたび、これはどういう仕組みで動いているものなのかと興味津々だった。町は全体としてあまり人気がなく、それでも果物店や肉屋、八百屋などの並ぶ小さな商店街は、小ざっぱりとしていて全体に綺麗な印象だった。駅前の広場などは、ところどころ床に色々な魚の描かれたコンクリートブロックで出来ていたし、深緑色に塗られた街灯も、何やら異国情緒に溢れているようにアンディの目には映っていた。


 タクシーはそうしたヴァ二フェル町の比較的人口の多い地区を離れると、あとは野山や丘を背後に控えた森と、海の景色しかない。そしてそうした光景の中に、時々思いだされたようにポツリポツリと農家や漁村の家屋などが点在しているのだった。


「おばさん、なんだかだんだん暗くなってきたね」


 あたりの光景があんまり殺風景なので、アンディはそう自分の不安を口にした。何分、道沿いにある灯りといったものも少なく、夕暮れが深くなるにつれて周囲の樹木の闇の色が濃くなると、軒並み不安な気持ちが心の内から揺れてきた。


「大丈夫よ、坊や。あともう少しだからね」


 何故なのだろう、この時ソフィがそう言いながらも、何やら心細そうに見え、アンディは初めて(そうだ。僕がしっかりしなきゃ。もしこのタクシーの運転手が突然強盗よろしく襲ってきても、僕がおばさんを守るんだ。まずはこの重いトランクを振り回して、こいつのことをやっつけてやるぞ)などと考えていた。


 実際はソフィは、あまりに懐かしい自分の故郷へ帰ってきたことで――郷愁の想いが溢れるあまり、また少し疲れたこともあって、無口になっていたというそれだけだったのだが。


 田舎のタクシー運転手というのは、みながみな、こうまで親切なのだろうか。この気さくな中年の運転手は、トランクからふたりの荷物を下ろしてくれただけでなく、ソフィが屋敷の鍵を開ける間、車内に備えつけの懐中電灯で彼女の手元を照らしてさえくれた。


 それから、ソフィがブレーカーを上げる時にもやはり同じようにしてくれたし、居間まで荷物を運んだあとは、「怪しい人間がいないかどうか、一応念のため」と言って、屋敷内を念入りにチェックしてから帰っていった。また、警察署に自分の知り合いのジョーンズという警察官がいるから、もし何かのことで「サツが出動するのを渋ったら」、「ジョーンズの飲み仲間に言いつけるぞ」と言ってやるといいと最後に笑って言い残していた。


「おばさん、田舎って面白いね」


「そうね、坊や。わたしも、ジョーンズさんがまだここの警察署にいるとは思わなかったわ。昔、おばさんが小さい頃、防犯かなんかのことで小学校に来てた覚えがあるの。もしかしたら今じゃ、署長さんか何かになってたりするのかしら」


 なんにしても、こんなに暗くなるとは思わなかったわ、などと独り言をつぶやきながら、ソフィは色々なもののありかをチェックしたり、自分が持ってきたものの整理をはじめた。


 アンディは初めてくる別荘の何もかもが面白く、居間のソファやテーブルや大理石の暖炉を眺めたのちは、他の部屋の様子などもぐるりと一通り見て歩くことにした。二階へ続く電灯は鈴蘭の花の形をしていたし、壁に飾られた絵画も、妖精を描いたものなど、アンディの気に入るものが多かった。


 鈴蘭の花の電灯に見とれるあまり、アンディは一度階段から転げ落ちそうになったが、そのガタガタいう音を聞きつけたのだろう、下のほうから「アンディ、どうしたの!?」という、ソフィおばさんの声が聞こえてくる。


「なんでもないよ!」


 そう大きな声で怒鳴るように言ってから、アンディは二階にある寝室やゲストルームなどを見て、至極満足した。海に面したベランダに出てみると、闇の中から潮騒の音が聴こえ、また遠くの海が月の明かりで青く輝いているのが見えた。


(今日から一夏の間、ここがソフィおばさんと僕の家なんだ!それも、ソフィおばさんと僕だけの!!)


 アンディは嬉しさのあまり、寝室のベッドで何度も繰り返しジャンプしてしまったほどだった。すると、そのうちにソフィおばさんが二階へ上がってきたので、アンディはジャンプするのをやめ、今度はベッドの縁に座り、そこで足をぶらぶらさせた。


「まあ、アンディ。窓を開け放しにしたりしちゃ、駄目じゃないの」


 そう言ってソフィは、快い風の入ってくる窓の、網戸だけを閉めた。そして手に持っていたスプレーを、念入りに網戸にかけはじめたのである。


「おばさん、それ何?」


「これ?これはね、網戸専用の虫除けスプレーなの」


 他の部屋の窓にも同じようにするため、隣の寝室へソフィが入っていくのについていきながら、アンディは聞いた。


「網戸っていうのはさ、虫が入ってこないようにするためのものでしょ?べつに破れてるってわけでもないんだから、そこまでしなくてもいいんじゃないの」


「甘いわねえ、坊やは」と言って、ソフィは鼻で笑った。「そんなことは、自然の恐ろしさってものを知らないから言えるのよ」


 別荘に到着したのが、暗くなってからのことだったので、屋敷の全体を明るい陽の光の元でアンディが見たのは、翌日の朝のことだったが――まわりを防風林としての林に囲まれた屋敷は、ある部分自然が剥きだしになっていて、虫がとても多かった。


 アンディはその後、家のまわり、あるいは一階のポーチや二階のベランダなどで、毎日生きている虫だけでなく、死んでいる虫をたくさん見た。また、色々な種類の蛾がいるようなので、その名前を調べて標本にしたのだが、「陰気な子ねえ」と言って、ソフィはそんなアンディを愉快そうに笑っていたものである。


 屋敷に入る前に、貸主のほうが掃除してくれておいたため、地下の倉庫の蜘蛛の巣取りであるとか、そうした不愉快な雑事に悩まされることはなかったものの、長く人が住んでいなかったためだろうか、地下倉庫のあたりにはネズミがいるようだった。


「どこかの家で、一夏だけうちに猫を貸してくれないものかしら?」


 箒を片手に地下の倉庫へ下りながらソフィがそう呟くと、ネズミたちは人間の言葉がわかったのだろうか、「猫だって!?」と驚いたように、チュウチュウと囁きながら逃げていく。


「おばさん、僕、猫なんかより犬が欲しいよ!っていうか、ずっと欲しくて父さんにもそう言ったんだけどさ――私立中学の試験に無事パスしたら、ご褒美として飼ってもいいとかっていうんだ。馬鹿じゃない?僕、そこの寄宿舎に入ることになるんだから、その時にはもう犬なんか飼ってもしようがないよ」


「そうねえ、坊や。でもものは考えようよ。坊やが何かお父さんの気に入ることをして、その代わりに犬を飼ってほしいって言えば……おばさんも少しくらいは横から味方してあげられると思うんだけど」


「それ、僕に元の学校へ戻れってこと?」


「そんなこと言ってやしないわ、坊や」


 地下倉庫に続く階段の電灯は壊れていたらしく、何度スイッチを入れても点かなかったため――ソフィはランタンに火を点して真っ暗闇の空間に下りていった。というのも、ここに大きな冷蔵庫があって、冷凍された肉などがどのくらいあるかを先に調べておきたかったからである。


「おばさん、凄いね!こんなおっきな冷蔵庫に僕が殺されて入れられたりしたら――暫くは見つかりっこないんじゃないかな」


「まあ、坊や。わたしがそんなことのためにあんたを連れてきたとでも思ってるの?それよりもアンディ、ちょっと代わりにこのランタンを持っていてちょうだいな。貸主のサンディさんに冷凍食品や肉なんかを前もって買っておいてもらったんだけど、向こうからきた請求書の通りかどうか、明日またゆっくり調べておかなくっちゃ」


 そう言ってソフィが冷蔵庫の中へ屈みこみ、冷凍されたコーンやブルーベリー、またカチンコチンになっている肉類を少々取りだしていると、アンディは急に何かが心配になってきた。たとえば、長方形に四角く光の洩れている入口のドアが、突然ギィ、バタン!と閉まったりしたらどうしよう!!あのタクシーのおじさんは、部屋中を調べてくれたけど、この地下室のことは調べていかなかった。もし、今しもすぐそこの闇のどこかから、誰かが飛び出してきたとしたら……。


「もう、アンディ!明かりをどこに向けてるの」


「ごめん、おばさん。なんか人の気配を感じたような気がしたんだけど、ネズミの光る眼があるきりだけだったみたい」


 ネズミはアンディから光を向けられると、不気味に輝く金緑色をした眼を丸くし、鼻をひくひくさせながら闇の彼方へ消えていった。


「これでよし、と。たぶん電灯の蛍光管が切れてるんだと思うけど、もし交換しても電気が点かないようだったら、電気業者の人にでも来てもらうしかないわねえ」


 アンディは探検隊の隊長よろしく、ランタンを掲げ持つ栄誉を受け持ったまま、ソフィおばさんを先導するように先を歩いていった。


「おばさん、そのコーンとかブルーベリーとか、なんにするの?」


「コーンはサラダにするのよ。それで、ブルーベリーのほうはパイに使うの」


 台所まで戻ってきてからも、なおもアンディはランタンの魅力に取り憑かれたまま、それをあらゆる方向からたがめすがめつして聞いた。


「ふうん。おばさん、料理なんて本当に出来るの?」


「まあ、あんたまでサラみたいなこと言うのね。今晩はサンディさんが作っておいてくれた、グラタンなんかを食べるけど――明日からはおばさんがちゃんとごはんを作ってあげるから、見てなさい、アンディ。メニューブックだってもう、ちゃんと作ってあるんですからね」


 そう言ってソフィは、自分のトランクの中をかきまわして、ようやく奥のほうから素敵なカリグラフィーで出来たメニューブックを取り出した。


「おばさん、本当にこんなに色々作れるの!?」


 そのメニューブックには、ソフィが昔勤めていた喫茶店<ル・アルビ>のメニューブックと、数は少ないとはいえほとんど同じ品が載っていた。


「ただ、明日のおやつや晩ごはんに何が食べたいかは、なるべく前の日に申告してちょうだいね。材料がたまたま切れてたり、天気が悪くて買いにいけないような時には――どうしてもそれが食べたいだなんて言って、駄々をこねないこと。いいわね?」


 アンディはその色々な食事の品の載ったメニューブックを見た時、まるでなんでも美味しい食べ物の出てくる魔法の絨毯みたいだと思った。ドリンク類のところを見ただけでも、グレープジュース、レモンスカッシュ、アップルタイザーなど、喫茶店みたいに色々な種類のものが載っている。中にはアンディが聞いたこともない神秘的なお茶の名前も載っていて、なんだかとても不思議な感じがした。


「ねえおばさん、この……えっと、きーまん紅茶とか、らぷさんすーちょんって何?僕、聞いたこともないや」


「それは中国茶なのよ。坊やの口にあうかどうかはわからないけど、おばさんは好きなの。「うげっ!まずい!!」と思ったら飲まなくていいから、試しにどんな味がするものか、一度飲んでみるといいわ」


 ソフィがグラタンをあたためてくれたので、それと一緒に出されたロールパンをアンディは食べた。パンのほうは、ここから近いところにある農家が半分趣味で売りにだしているもので、有機小麦や新鮮なミルクから作ったとても美味しいものだった。それに、その上につけるバターの味といったら!


 アンディは自宅のシェフたちが「なんとか高級ホテル御用足」とかいうバターを使っているのを知っていたが、こちらのバターのほうが断然美味しいと思ったほどだ。


「このジャムもね、とても美味しいのよ」


 どこかずるそうな猫のような目をして、ソフィは何種類かのジャムを戸棚から出している。


「ブルーベリーとかマーマレードとか、ちょっとずつパンにつけて食べてごらんなさい。サンディさんのところの息子さんがやってるレストランで売ってるんだけど、そこでしか手に入らないものなのよ」


 サンディおばさんとやらが作ったというグラタンも美味しかったが、この日アンディは珍しくパンを七つも食べた。そのバターやジャムなんかを塗ってさえあれば、どんなパンでも永遠に食べていられるような気がするほどだった。


 おなかがいっぱいになり、アンディはげっぷをひとつすると、ソフィに促されてそろそろ寝る準備をすることにした。まだ時刻は九時半ではあったが、長旅で疲れていたし、だんだんにまぶたが下がってきてもいたのである。


「おばさん、僕は自分の好きなところを自分の寝室にしていいの?」


「もちろんいいわ。なんだったら日替わりでね、違う部屋で眠ったっていいのよ」


(なんて素敵なんだろう!)


 アンディはそう思いはしたが、感激のあまり言葉には出せず、自分の重い荷物から図鑑などを出して軽くすると、着替え類やおもちゃの入ったトランクを手にして二階へ上がっていった。


 その後ソフィは、地下ではなく、キッチンのほうにある冷蔵庫を開けて自分が注文した食材のチェックをしたあと、自分もまた身の回りの整理の続きに取り掛かったのだが――三十分ほどしてもアンディが下へ下りてもこず、なんの物音もしないため、二階の様子を見に行くことにした。


(まあ、やっぱり)


 そこでは、不思議の国のアリスの絵が飾られた下のベッドで、アンディがセーラー服を着替えもせず、枕のまわりにゴム人形を散らばしたまま、ぐっすり寝入っているところだった。


「流石に今日は、叩き起こしちゃ可哀想ね」


 そう思い、ソフィはそっとアンディの体の上にブランケットをかけてやることにした。もちろん、明日からこれと同じことがあった場合は――叩き起こした上、歯磨きや着替えをちゃんとしてから寝なさいと、叱らなければならないだろう。


「おやすみなさい、アンディ。特別なのは今日だけですからね」


 ソフィは、まさか自分がこんなにも<子供>というものに対し、愛情がわいてくると思っていなかっただけに……心が震えるものさえ感じながら、この日は隣の寝室で眠りに就いたのであった。




 >>続く。






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