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第4章

「じゃあ、じゃあ、あんたはわたしを騙してたってこと!?」


 ソフィの不貞の事実を掴むためなら、いくらでも金をだすとアリッサが言っていたため、この日もミシェルは高級ホテルの高層階のひとつに部屋を取っていた。


「まあ、そういうことになるな」


 これで幾度目になるかわからない情事を重ねたあとで、ミシェル――いや、今ではセス・グラントと本名のわかった男は、ふてぶてしく煙草を吸いながらあっさり認めた。


「おまえ、俺のこの親切に感謝しろよ。何故といって、俺はもっとひどいこともおまえに出来たんだからな、ソフィ。おまえのあられもない真っ裸の写真を撮ったりとか、淫乱な様子をビデオにおさめるってことだって……」


「いやっ!もうそれ以上聞きたくないっ!!」


 ソフィは一度自分の両耳を塞いで首を振ったのち、それでも悠々と煙草を吸うのをやめないセスのことが憎らしくなり、彼の唇から煙草を取り上げた。灰皿の上でぎゅうぎゅうにして揉み消してやる。


「何するんだよ、ソフィ。もしかしてアレか?実際は俺が医者の卵でもなんでもないっていうんで、それで急に幻滅したってのか?」


「違うわよっ!あんたが医者でもそこらのゴロツキと変わりなくても、わたしにはどうでもいいのっ!!そんなことよりあんた――どうして今ごろになって、あたしにそんなことを白状する気になったわけ!?」


 セスは悪びれた様子もなく、二本目の煙草に手を伸ばしていた。そして少しの間空中に煙をくゆらせてから、こう答える。


「なんでだろうな……実際、こんなようなことは過去にも何回となくあったからな。でも、おまえには本当のことを突然しゃべりたくなった。体の相性だっていいし、あんな筋肉フェチのナルシストにまたおまえが抱かれるのかと思うと、まったく嫌になるな。ようするに、そういうことさ」


「ミシェル――じゃないわ、セス。あんた、最低よっ!!最低のことをあたしにしたのよっ!!そこのところ、本当にわかってるんでしょうね!?」


「そんなこと言ったらソフィ、おまえだって同じ穴のムジナみたいなもんだろうが。ウィリアムはクリスティンの誘惑もはねのけて、おまえ一筋だってのに、こんな詐欺師のろくてねえのに引っかかってどうしようってんだ?」


 ソフィはベッドの背もたれに背中をもたれさせながら、頭を抱えこんだ。ソフィは今もレッドメイン・リハビリセンターで相も変わらず働いている。ただし、浴場の仕事からは解放され、今はセンター内にある薬品庫の薬剤の整理や補充をしたりといった、以前より遥かに楽な部署に配置換えになっていた。それというのもセスが雇い主であるアリッサに、「これ以上ソフィのことをキツイ部署につけていても意味がないし、自分に考えがある」と進言したからなのだった。ようするに、重労働から解放されれば、セスと出かけられる時間も増え、隙も増えた結果として、つけ入りやすくなるといったような寸法だった。


「そう考えこむなよ。とにかく俺とおまえの間で腹は決まってるってことが一番大切なんだからな。最初に言っておくが、俺はおまえさえいれば金なんかどうでもいいっていうような男じゃない。これからは真面目にコツコツ働いて生きてこうってなタイプでもない。つまりさ、これはようするにゲームなんだ。アリッサは最後には必ず自分が勝つと信じてるが、例の天然お坊ちゃまは、どうやら本気でおまえに惚れてるらしい。まあ、無理もないわな。セックスの時に自分の筋肉を褒めろだって?他の大抵の女ならどん引きしてるところを、おまえはこれも婚約者の義務と考えて、「あなたの筋肉って最高!!」とかあの時に叫んできたわけだ……」


「筋肉最高なんて言ってないわよっ!!勝手に話を作らないで!!とにかくわたし今、物凄く困ってるんだからっ。ウィリアムとは会うたびに良心が咎めるし、いっそのこと全部しゃべってしまおうかって思うこともあるくらいよ。でね、クリスティンにも会ったんだけど、この子がまたすごくいい子で、ウィリアムともお似合いな感じなの。アリッサが自分の息子と結婚させたがるのも無理ないわ。とにかく、彼がクリスティンのことを選んで、クリスティンと結婚してくれれば、万事うまくいくのよ」


「ふう~む。俺が考えてた計画も、大体がそういうものだったんだよな。ウィリアムの心はやがてクリスティンに傾くっていうさ。けど、あのお坊ちゃんは何がどうでもおまえのことがいいわけだ……思うに、ウィリアム坊ちゃまはもしかしたら、おまえの不貞がわかっても婚約を解消しないんじゃないかって気が、だんだん俺はしてきた。そもそも不貞云々の写真っていうのも、よく考えれば切り札としては使えないぜ?なんつーか、そこまで色々して調べたって時点で、あのミスター・ライトなウィリアム君は、それを事実としては認めないかもしれん。つまりさ、おまえが悪い連中に薬でも打たれて寝ている間に撮られた写真だとか、そんなふうに思ってむしろ母親のことを憎みはじめるかもな」


「やだ。怖いこと言わないでよ」


 ソフィはなんだか寒気がしてきた。そこでベッドの中にもぐりこんで、少し前にセスと本名のわかった男の体に自分の身をすりよせた。


「セス、あんた――これからどうするつもりなの?」


「どうするもこうするも、明日のことは明日考えるさ。ソフィ、おまえもそう難しく考えたりするなよ。俺はあのババアからすでに結構な前金をもらっちまってるからな、探偵に探偵をつけるってな具合で、おまえとのことがバレたらこの大金がパアになる。いざとなったら、おまえは俺と逃げる気があるか?」


「セス、それ本気なの?あたし……逃げた先でもしあんたに捨てられるんだとしても、ついていくわ。最初はね、母さんのこととか父さんのこととか、ウィリアムのことなんかをそりゃ真面目に考えたわよ。誰にも迷惑かけられないし、誰のことも傷つけたくないとも思った。けど――あたしだってこれまで、色んな人から傷つけられてきたし、人の勝手で迷惑を被ってもきた。そう考えたら一生に一度くらい、すべてを捨てる自由があってもいいんじゃないかって、今はそんなふうにも思うのよ」


「よし、それでこそ俺の女だ」


 セスはソフィの額に口接けると、次に頬、唇、首筋と、彼の愛撫はだんだん体の下のほうへ下りていった。ソフィはこんなに男という生き物に夢中になったことはない。言ってみればセス・グラントという男は、ただの美しい、若い獣だった。教養や賢さは持っているが、学歴はなく、その日暮らし的な考えで今日を生き、未来に対する計画を立てるということが、彼はまったくといっていいほどなかった。


 だが、<彼>という人間を形作ることになった過去の出来事を聞くにつけ、ソフィはますますセスのことを愛するようになっていった。ソフィはセスという男の何もかもが好きだった。狂おしいほど愛していた。彼となら、七度でも地球を滅ぼし、また再び同じ惑星を創れるといったようにすら感じた。セス、セス、セス――初めて彼に背中を抱かれた時の、背筋がぞくぞくする感じを、ソフィは生涯忘れることはないだろう。唇を重ねあわせた時の、誰にも感じたことのない恍惚としたえもいわれぬ気持ちも……彼はキスが上手かった。本人は七十人以上女を知っていると言っていたが、おそらく嘘でも誇張でもないのだろう。それにも関わらず、セスは何度も繰り返し「ソフィ、おまえだけは違う。おまえだけは特別だ」と言った。そしてソフィのほうでもその言葉を全面的に信じた。セスがもしかしたら、これまで関係を持ってきたという七十人もの女全員に、まったく同じ言葉を耳元で囁いていたかもしれないとしても。



   *   *   *   *   *   *   * 



 ――こうしてソフィは、セスと一緒になることで、過去の自分を葬り去った。


 ソフィはセスの出身地であるという、ノースルイスから南に約千五百キロほど南下したところにある都市、サウスルイスのサウザーヒルというところに身を落ち着けることになった。身を落ち着けるなどといってもそこは、ノースルイスのラムゼイローとさして違いのない土地柄であり、陽が傾くとアパートから見える小さな公園には人が誰もいなくなった。つまり、逢魔ヶ時にそこから小さな子供が行方知れずになったとしても……そんな時間に公園なんぞで遊んでいる子供のほうが悪いというわけだった。


 セスは定職というものに就いていないので、昼はもっぱら正午か正午過ぎまでぐっすり寝ていた。彼の棲家であるアパートは五階にあり、最上階の一番奥に位置しているのだが、何分エレベーターがないため、買い物の荷物を抱えて上がってくると、ソフィはいつも息切れがしたものだった。


 部屋は2LDKの間取りで、ひどく狭く散らかっていたが、ソフィが徹底的に掃除してみるとびっくりするほど突然広くなり、ソフィはとても驚いた。セスもまた「まるで別の部屋に越してきたみたいだな」と言って喜んだ。


 おそらく彼の悪い友人たちは、セスが昼までは起きてこないと知っているのだろう。そこで夕方頃にやって来ては、彼にろくでもない儲け話を持ちこむのであった。


 妻と離婚して愛人と一緒になりたい男がいるが、離婚訴訟で揉めそうだ……そこでこの奥方をたぶらかして浮気の証拠を掴んでほしいといった依頼や、世間にゲイであることを隠している企業家のあられもない写真を撮るといった仕事など、そばで聞いているだけでもソフィは眩暈がしてきたものである。


「あんた、まさかあんな仕事を請ける気じゃないでしょうね!?」


 どこか理知的な顔立ちをした、リロイという名の黒人青年が帰ると――ソフィはすぐセスにそう詰め寄った。


「前金のほうがえらくいいんで、当然請けるさ」


 リロイが置いていった資料に目を通しながら、セスは事も無げに言った。その様子から窺い知れるに、(ずっとこうして暮らしてきたんだ。今さら生き方を変えることは出来ない)と、彼は言っているも同然だった。


「ほら、この写真を見ろ。もう五十にも近いようなバア様だぜ。おまえが嫉妬を覚える必要はないさ。ちょっと親切にしてやったり、子犬のような目で哀れみを請うたりするっていう、そんな程度のことだよ。で、モーテルかどっかで何回かやって、そこから出てきたところをリロイがぱちりと撮る……まあ、そんな按配だな」


「この悪魔!!あんたには良心ってもんがないの!?」


 夕食にソフィはシチューを作っていたが、さっきのリロイという青年は「自分はいい」と言って早々に帰ってしまった。セス同様、どこか眼差しの奥に賢さを秘めた青年だったが、彼はソフィに対してどこか軽蔑の眼差しを送っていた。まるで、(君みたいな女がセスのそばにいたことは、これまでにも何回かあったけど、一体いつまで続くかな)とでも言いたげな眼差しだった。


「そういきりたつなよ、聖女ソフィ。さっきのリロイって奴は、小さい時、俺と孤児院で一緒だったんだ。こんなこと言うと、いかにもドラマなんかでよくある話っぽくて嫌なんだがな……あいつは引き取られた先の親に折檻されてさ、そこから逃げだしたんだ。で、俺のほうにも事情があって、孤児院から逃げたところをあいつと再会したわけだ。最初はサウスルイス駅でスリや置き引きなんかをやって、どうにかふたりで暮らしてきたってわけだ。おまえも家が貧乏だったと言ってたが、そんなもの、俺とリロイが経験してきた貧しさに比べたら、まだ精神的に余裕のあるほうだと思うぜ?ま、そんなわけだから俺とあいつのやってる仕事に口出しはするな。俺はあいつとおまえ以外の誰のことをも信頼しないし愛さない。俺のやってる仕事ってのはいわば、その<振り>をするってだけのことだからな」


「でも、そんなの――わからないじゃない?もしそのうちあんたが……」


 ソフィは不安になるあまり、今にも泣きだしそうだった。自分とだってそうだったように、彼がもし他の誰か別の女を愛したとしたら?けれど、自分にはもう帰れる場所などどこにもないのだ。


「おまえは本当に馬鹿だな。俺やリロイは高校にすら行ってないんだぜ?その分、中退ってだけでもおまえのほうが学歴は上だっていうのにな。ソフィ、おまえは俺にとって特例中の特例なんだよ。こう言っちゃなんだが、俺は特に女には不自由してない。たまに体だけ女が欲しくなった時に、飲み屋に出かけていって引っ掛けるってだけだ。俺は仕事に私情は挟まない。仮に少しばかり挟んだとしても、相手を征服した途端に冷める……その程度のことでしかないんだよ」


「じゃあ、もしそのうちあんたがあたしに飽きたらとしたら、あたしはどうすればいいの?」


「いいか、ソフィ。そんなことはないんだよ。ないと思うから俺はおまえをここに連れてきたんだし、相棒のリロイにも会わせたんだ。おまえにはどうもこの俺の<重み>ってものがまるでわかってないようだな」


 セスがコツコツと皿の縁をスプーンで鳴らしたため、ソフィは黙りこんだ。彼はいつも「店の味がする」と言って、ソフィの作ったものを皿までなめだしそうなくらいにして、美味しそうに食べた。けれどその彼が不機嫌に食事を中断したのを見て、今の言葉だけで満足するしかなかった。


 その日の夜、セスは執拗なくらいソフィのことを求めた。その後も、何か女性がらみの仕事を請け負う前には必ずそうだった。もしそれがソフィに対する<他の女とおまえは違う>という愛情表現だったのだとしても――ソフィはやはり傷ついたし、彼のことを自分だけのものにしておきたいと思うのと同時に、激しい嫉妬の情にも悩まされた。


「ソフィ、俺とリロイのいた施設ってのはな、カトリック教会が母体の孤児院だったんだ。で、俺はそこの神父の奴に十三の時にやられて以来、耐えられなくなって十四の時に逃げだしたんだよ。けど、他にどこにも行ける場所なんかなかったし、暫くの間は野宿したりなんだりで大変だったな。だから約束するよ。おまえには絶対にそういう思いはさせないってことだけは」


「セス、あんた、もしかして……」


 ソフィは以前から、セスの言葉の中にやたら聖書の皮肉げな引用が多いと気づいていた。以前テレビで幼児趣味の神父が起こしたスキャンダルといった報道を見た時にも、そんなことは想像も出来ない、あってはならないことだとしかソフィには思えなかったものだ。


「そんな顔するなよ。だからそこで道徳観念がおかしくなって、男が相手でもオッケーとか、金のない時には男娼をしてたとか、そういう過去は俺にはないからな。さっきリロイの奴が言ってたのはまあ、相手を誘惑して向こうが我慢できなくなるギリギリまで引っ張って、欲望が破裂しそうなところをパチリと撮らせてもらうとか、そんなことさ。さっき資料を見てたら女装癖があるって書いてあったからな。そんなのでも何枚か撮れればバッチリってところだろう」


「セス、セス……」


 ソフィが切ない声を洩らして彼に抱きつくと、セスは彼女のブロンドの髪を撫でた。彼としてもお涙ちょうだいのこうした身の上話はしたくなかったが、ソフィは気が優しいのでこうしておけば自分から離れていくことはないだろうと思ったのだ。


「変に俺を慰めようとなんかしなくていい。俺にとっちゃもう、十何年も昔にあった過去のことだからな。そうそう、その孤児院にいた奴でさ、俺と同じ被害にあった奴が言ってたぜ。タルボット神父はその後、説教壇の上で信者に説教してる時に、突然脳梗塞を起こしてお倒れになりましたってさ。天罰ってのは、罪を犯した三秒後とかにやって来ることはなくても、いつまでたっても悔い改めない者に対してはいつかは下るものなんだろう。神父様はその後すぐ息を引き取ったとかじゃなくて、実は今も生きてなさるんだ。俺が見舞いに行った時には、生きてるのか死んでるのかわからないような、濁った目で空中を睨んでたよ。ケツに野球のボールくらいの褥瘡(床ずれ)が出来ていてな、俺が行った時たまたま偶然処置中で、肉が腐ってただれて、ひどい匂いを放ってたのを覚えてる。そんで、その処置をしてる看護師ってのがまた笑えるんだ。もう容赦なく洗浄液をドバドバ患部にぶっかけて、鉗子でガーゼを掴んでさ、ぐいぐい奥まで拭いてから薬を塗りたくるんだ。ありゃ相当痛いぜ。もう死んだほうがましってくらいにな。俺はその時、おそるおそるカーテンの隙間からタルボット神父の顔を盗み見た。神父さまときたら、喉に痰を取るための穴を開けられてるもんで、叫ぶことも出来ず、もう馬鹿みたいに舌を突きだすばかりだった。最後には滂沱と涙まで流してさ、まあ地獄の悪魔もびっくりってくらいのひどい顔だったよ。で、俺はその時に思ったんだ……こんな奴のことをいつまでも覚えているのはやめようって。病院から帰る帰り道で、あいつのことはすっかり赦してやることにしたんだ」


「じゃあ、神さまとは仲直りしたってこと?」


 裸の胸が熱い何かで濡れていると気づき、セスはソフィが泣いていることに初めて気づいた。


「馬鹿だな。こんなくだらないことでいちいち泣くな。神……神さまか。まあ、実をいうとそこは微妙に別でな、俺は神の代理人とやらからクソひどい目に遭わされたわけだから、相手から慰謝料をがっぽり取り立ててやりたいような、恨みがましい気持ちは今でもある。こう言っちゃなんだがな、俺もリロイも学校の成績というか、おつむのほうは結構賢いほうだったんだぜ?それがまあ、今ではこんな詐欺とかスリとかそんなことばかりを繰り返すコソ泥みたいになっちまって……けど、どうしてもやめられないんだ。リロイの奴はもしかしたら堅気になれるかもしれないが、俺は無理だな。人を騙す時や自分以外の誰かになってる時が楽しくて仕方がない。もう金の問題云々じゃないんだ。俺は<詐欺師>っていう職業が天職みたいなもんなんだよ。こんな男でもソフィ、おまえは本当に最後までついてくるか?」


「もちろんよ。第一あたしだって結婚詐欺を働いてたようなものなんだから……あんたと同罪みたいなもんよ。そうでしょ?」


(おまえのは少し違う)とセスは思ったが、あえて何も言わないことにした。彼はここまでのことを誰か女性に話したことは一度もなかった。しかもこんな程度の話でソフィが自分のために泣くとも思っていなかった。自分は本当にいい女を手に入れたとセスは思ったが、そのこともあえて口に出しては言わなかった。


「おまえは本当に可愛いな、ソフィ。もし俺の今言ったことが全部嘘で、おまえの気を惹くための作り話だったらどうするんだ?」


「馬鹿ね。もしさっきのが嘘なら、あんたは詐欺師に向いてないわ。だって、独創性があんまりなさすぎるもの。あたしはね、今嬉しいのよ。あんたが仮に病的な嘘つきでも、そんな男を芯から愛せる自分のことがね」


「ふうん、そんなもんか。女心ってのはまったくわからんな」


 セスはソフィのブロンドの髪のてっぺんにキスすると、そこから薔薇とゼラニウムの混ざった香りが微かにするのに気づいた。そして以降、彼がベッドの枕に頭をつけると、その残り香のようなものがいつでも漂っていたものだった。



   *   *   *   *   *   *   * 



 あとになってから思い返してみても、セスと暮らした五年という月日は、まったく堕落した生活そのものだったとソフィは思った――ただしそれは、とても幸福な記憶でもあり、彼女はセスのことを思うといつでも微笑むことが出来る自分に気づいていた。


 セスは経済観念というものがまるで発達していない男だったので、自分が<面白そう>と思う仕事にはすぐに飛びつき、結果、その報酬が半額にまで減額されたとしても、あまり気にしていない様子だった。彼はただその瞬間瞬間を生きており、今月稼ぎがないと来月の家賃を支払えないであるとか、そうした<現実的>なことは深く考えられないという素晴らしい脳味噌の所有者だった。


 そして本当に「金に困った」時には、一日に十万人以上もの利用客があるというサウスルイス駅で、リロイを誘い、スリという犯罪行為を行った。そういう時には大抵、ソフィも巻き込まれた。胸の谷間がバッチリ見える上、背中ががら開きといった丈の短いワンピースを着ると、ソフィはセスが<あれが獲物だ>と合図を送った男に近づき、道を聞くなりなんなりする。すると、男がソフィの際どい胸の谷間あたりを見ている隙に、セスが男のポケットにある財布を盗むといった具合だった。


 ちなみにこの間リロイが何をしているかというと、私服の警察官などが近くにいないかどうか、あるいは駅員にあやしまないかどうかなど、人の流れをチェックしているのである。


「よし、これで俺とおまえの今月の家賃は無事クリアーといったところだな」


 ブランド物の財布から紙幣を抜き、家賃を差し引いた残りの分を「食費」として渡されると、ソフィとしても流石に良心が痛んだ。だがこうしたことについて、セスはただ一言、「俺と一緒にいたいなら、いいかげん慣れろよ」といったようにしか言わない。


 リロイは裏の業界で<錠前破り>として有名らしく、その手の危険な仕事――ようするに泥棒――を仲間数人と組んで行っていた。セスはそちらの方面には手を出していなかったが、それでも誰か注意を引いてもらいたい人間がいるとか、ある女性から情報を引きだして欲しいといった時には、喜んで一枚噛んでいるのをソフィは知っていた。


 セスとソフィの部屋にはそうした犯罪仲間がよく来ては食事をしながら仕事の話をしたものだった。そしてその中の誰かが「運悪く」逮捕されたとなれば、セスはソフィを連れてよく刑務所まで出かけていったものである。


(こんな生活、いつまでも続けられないわ)とか、(あんたまで逮捕されたらどうしたらいいの?)といったようには、ソフィもよく思った。けれど、そうしたことを考えてソフィが深刻な顔つきをしていると、セスはいつでもそんな彼女のことをからかうのだった。


「そんな顔するなよ。次に大金を手に入れた時には、なんでも好きなものを買ってやるからさ」


 確かにセスは、実際<金>といったものに執着があまりなく――仕事がうまくいって大金が入った時には、ブランド物のドレスや香水、アクセサリーを買ってくれて、レンタルした高級車で値の張るレストランへも連れていってくれた。けれど、ソフィはその度にいつも思っていた。(わたしが欲しいのはこんな贅沢じゃないのよ)といったようには……。


 なんにしても、ソフィにわかっていたのはただひとつのことだけである。(この男とは絶対に離れられない)、そう思えばこそ、彼が詐欺仕事で長く不在の時にもひとり寂しく耐え忍んだのだし、時にセスが女性の香水やキスマークをつけ、酔っ払って帰ってくることがあっても許してきたのである。


 けれど、セスと暮らしはじめて五年と半年が過ぎたある日のこと、彼とまったく連絡が取れなくなってしまった。リロイにしても、「こんなことは初めてだ」と言った。そしてセスが請け負ったのが、マフィアの絡んだ少し危険な仕事であることをリロイから聞かされ――ソフィはいてもたってもいられなくなった。


 セスと連絡がつかなくなって半年後、ソフィはようやく彼と一緒に暮らしたアパートを出る決意をした。お金がないので働かなくてはと思ったのだが、その界隈はラムゼイロー以上に治安が素晴らしく良かったので、女がひとりで働いて暮らしているとなれば、いつ何時なにが起こるか知れたものではないという環境だった。


 ソフィ自身もそうだが、リロイも他の犯罪仲間の友人たちも、セスのことを相当熱心に捜しまわったし、心当たりについてはすべて訊ねてまわった。それでも手がかりが何も掴めないとあっては――ソフィは彼のことを待ちながら、サウスルイスの郊外にある安アパートで暮らし、近くにあるおもちゃ屋にでも勤めるしかなかったのである。


 ソフィは子供のおもちゃになどまるで興味なかったが、その子供向けの巨大なアトラクションのあるおもちゃ専用のデパートでパート職員を募集している貼り紙を見たのである。昔つきあっていたロバートがオタクであったため、その時に仕入れたオタク情報を面接の時に披露すると、何故か難なく面接のほうは通っていた。


 そしてソフィがそこで最初はパート職員としてレジ係や接客係、次には少し責任のある発注係やおもちゃのディスプレイの仕事を任されるようになった頃――彼女はそのおもちゃ会社の社長に見初められ、プロポーズされていた。


 といっても、ソフィのほうにはその男とほとんど面識はなかった。ゆえに彼女が子供相手に優しく接客しているところを見初めただのいう、微笑ましいエピソードは一切ない。ただ、ソフィはその仕事ぶりが認められ、勤めはじめて半年後には正社員となり、全国にチェーン展開しているそのおもちゃ屋の<研修会>なるものに参加したのである。


 研修会では、今時のおもちゃの売れ筋であるといったことや、効果的なディスプレイ展開についてや、「ただ物を豊富に置いていれば売れる時代は終わった」という、経済セミナーの講師を招いての講義など、ソフィはどれもとても真面目に聞いていた。


 そして三日間の研修会の間、毎日夕方にはパーティが催された。そしてソフィはそこで、のちに彼女の夫となるバートランド・フィッシャーと出会ったのだった。ソフィのほうでは自分の会社の社長の名前もよく知っておらず、最初は彼もまた<研修会>に参加するよう強制派遣された一社員に過ぎないのだろうとしか思っていなかった。


 彼女はセスのことを忘れていなかったし、彼の無事を祈るために毎週教会へ通っているほどだった。単に自分が「捨てられた」というのだったらまだいい。けれど、彼がロシア系マフィアに痛ぶられ、生きたままコンクリート詰めにされるところを想像しただけでも――ソフィは彼が無事でさえあってくれたら、今他の女と結婚していようとどうだろうと、そんなことは一切構わないと思うようになっていた。


 バートランドから食事に誘われ、特別な関係になりたいと言われた時、ソフィはその話をして彼の申し出を断ったのだが、それで引き下がるバートランド・フィッシャーではなかった。ソフィの勤める怪獣の形をしたおもちゃ屋など、実際バートランドは自分が所有する多数の企業チェーン店のひとつとしか見ていなかった。彼は他にホテル業・貿易業・建設業・レストラン業・自動車産業と幅広く事業を展開しており、彼が長者番付の十位にまでのしあがってきたことの裏には、彼自身の金や権力といったものに対する飽くなき欲望が関係していたといえる。


 この種の男にありがちなことだが、彼にとって女という生き物は一種の商品に過ぎなかった。愛人という名の、パッケージされた美しい商品。実際ソフィは少しバービー人形に似たところがあったし、恋人のケンが行方不明で彼を待っている……などと聞かされても、まるで諦める気になれなかった。他にも似たようなブロンドの、素晴らしいスタイルのバービー人形は量産されて巷にたくさん出回っている。けれど、この億万長者のバートランド・フィッシャーの申し出を最初から鼻にもかけないなどとは、絶対にあってはならないことだった。


 こうしてバートランド・フィッシャーはしつこくソフィにつきまとい、映画張りのプレゼント攻撃をしてとうとう最後にはソフィを陥落させたのである。ソフィは彼が今は自分に熱心になっているようでも、いずれ他のブロンド女にも目が向くであろうとわかっていた。けれどもう自分も若くはないし(彼のプロポーズを受けた時、ソフィは二十九歳になっていた)、セスからはもう一年以上も連絡がないのだ。この頃にはソフィは人生に対する寂しさと虚しさから、心に小さな穴が開くようになっていた。そしてまるで束の間、心の応急処置でもするように――バートランド・フィッシャーの求婚を受けることにしたのである。


 ふたりの盛大な結婚式が行われたのは、バートランド・フィッシャーが五十二歳、ソフィが三十歳の時のことで、このちょっとしたシンデレラ・ストーリーは一時期テレビのニュースや雑誌の記事にもなった。けれど、純白の花嫁衣裳を着て、どこか気難しい顔をした二十歳も歳の離れた男の手を取るソフィの写真を、遠い異国の地でセスが見て帰ってくるなどとは、この時の彼女にはまるで想像もつかないことだったといえる。



   *   *   *   *   *   *   * 



 生涯で唯一、一度だけした結婚のことを話しはじめる前に、ソフィはホスピスのベッドの上で、気の重いような溜息を着いた。かつて豊かだった見事なブロンドは色が褪せ、蜂蜜色というよりはただの黄色といった様子になっている。顔の肌は綺麗だったが、それでも目のまわりのカラスの足跡やほうれい線、細かな皺などは七十歳という年相応なものだったかもしれない。


「疲れましたか?一度ここで中断して、続きはまた明日か、デイヴィスさんの気の向いた時で構いませんが……」


 ホスピスで精神科医として働いているロイ・アンダーソンは、ベッドの背もたれにもたれ、少し疲れの滲んだ顔の老女を気づかい、そう声をかけた。ソフィ・デイヴィスと診療記録に名前のある女性は、三週間ほど前に彼の勤めるホスピスへ入所してきた。患者は乳ガンで、一度手術したものが再発し、再手術したものの、また五年後にガンが発見され……今はもう、他の臓器にも転移が見られ、いずれ彼女が死ぬことは間違えようのない事実となっていた。


 ここのホスピスでは、患者が入所してくると、まずは<人生の振り返り>をしてもらうことになっている。もちろん強制ではなく、ロイが患者とまずは世間話をし、小さい時から今に至るまでどんなことがあったか、話してくださいませんか?と促すのである。そうしたことに何か抵抗を見せた患者に対しては、ロイは時間の経過を見るし、あるいは自分の人生の振り返りといったことをせずとも、十分満足して亡くなる患者もいた。


 ソフィ・デイヴィスが入所してきた時、実をいうとロイは彼女に対して不思議な感慨を抱いた。数多くの人と出会い、たくさんの患者を見送ってきたロイだったが、何故なのだろう、彼女は他の人間とは「何かが違う」といった印象を抱いたのである。


 彼はプロの精神科医として、そうした自分の好奇心を剥きだしにした聞き方はしなかったが、毎日彼女の病室へ行くのが他の患者の病室を訪ねるよりも楽しみだった。ソフィ・デイヴィスは体の調子のいい時でも、患者同士の<ちょっとした社交の場>に顔を見せることはせず、もっぱらひとりで過ごすことを好む患者だった。


 ロイもまた彼女と同じある種の<孤独>を好む質だったため――それでソフィ・デイヴィスという患者に自分は惹かれるのだろうかと、彼は思ったりしていた。


「ふふっ。こんなおばあさんの話相手になっていて、先生のほうこそお疲れになったんじゃありません?ただわたし……ここから先のことは、どこから話せばいいやらと思いましたの。バートのことはわたし、最初から愛してませんでしたわ。言うなれば世間の人たちがよく口にしていたみたいに、<お金目当て>だったのかもしれません。婚約する少し前にわかったことなのですけれどね、バートには前の亡くなった奥さんとの間に小さな子供がいたのですよ。名前をアンドリューといって、わたしはアンディと呼んでいました。出会った時、歳は九つだったのですが、三年もすれば寄宿学校に入る予定だから、自分たちの関係が息子の存在で駄目になったりすることはない……そうバートは言いました。わたし、実際に会う前からその子のことが気の毒だなと思ってたんです。何故といって母親は四つの時に亡くなっているというし、そのあとはバートの祖母が育て、その祖母が亡くなってからは家政婦が……だなんて、そんな環境で小さな男の子がどんなふうに育っているのか、とても心配でした」


「その子は、どんなお子さんだったんですか?」


 クリップボードに挟んだ紙に、さらさらと速記でソフィの言ったことを書き記しながらロイは聞いた。彼女が心も体も芯から愛したというセスという男がその後どうなったかを聞きたかったが、ロイはそんな自分の好奇心を抑え、ソフィに話の続きを促したのだった。


「最初は――ノースルイスにあるバート所有の屋敷のひとつで会ったんですよ。わたしは取り立てて子供好きという性質でもありませんでしたし、その頃はセスに捨てられたという思いから少しやさぐれてましてね」と言って、ここでまたソフィは子供のような柔らかい声で笑った。「正直、その子と仲良くする気などあまりなかったのです。気の合う子かどうかというのは出会ってすぐわかるものですし、だからわたし、「あ、この子とはたぶん合わないわ」と思ったら、それほど積極的に働きかけて仲良くしようという気はありませんでした。でもわたし、あの子に出会った瞬間に、とても悲しくなってしまったんです」


「悲しくなったというと?」


 この時、室内の時計は二時を指しており、窓辺からは金色の光が差していた。そしてその光がソフィの顔に差すと、彼女の黄色い髪は若かりし頃と同じように蜂蜜色に輝きだした。と同時に、顔の表情がより一層美しく輝いて見えた。


「だって、あの子があんまりきちんとした子だったからですわ。髪もきちんとしてましたし、灰色のズボンと揃いのチョッキを着ていたのを覚えています。そして胸のところからは<お気に入り>だっていう懐中時計の鎖を垂らしてましたっけ。至極感じのいい、綺麗な子だと思いました。でも、彼があんまり礼儀正しく「お久しぶりです、お父さん」なんて言うのを聞くと……思わず胸が苦しくなりました」


 ロイが沈黙によって相槌を打っていると、ソフィは窓のブラインドを下ろして眩しい光を遮り、もう一度ベッドに戻ってから続けた。


「わたし、すぐにわかりました。出会う前から、なんとなくそうした予感はあったんですけど、「この子はわたしと同じでバートのことを愛してないな」と直感しました。ねえ、先生。この世界に愛のない人間なんて、実際存在すると思いますか?」


「さあ、どうでしょうね。愛がないというよりも、愛というものが本当はどういうものなのか、わかっていない人間になら会ったことはありますが……」


 ロイは自分の軍人だった父親のことを指してそう言ったのだが、何を指して愛があるとかないと言えるのかは、彼自身にもわからないことだった。


「バートのはね、そういうのとは違うんです。彼は慈善事業なんていうことも随分やってますし、もしかしたら前の奥さんのことは愛してらしたのかもしれません。あるいは人生のどこかで愛など信じられないといった経験があったのか、わたしにもわかりません……なんにしてもとにかく、彼にとって愛というのは常に<奪うもの>だったんです。自分が得をするものを相手が与えてくれる間は誰のことでも大切にするけれど、自分を犠牲にして――あるいは損得勘定の損になるほうを取ってまで、わたしや子供のことを愛するってことは思いつきもしない人でした。でも、わたしはそれで良かったんですよ。何故といってわたしはセスのことを心の中では愛していましたし、そんなわけでお互いおあいこだと思ってました。けれど、アンドリューは……アンディはあの人の息子なんですよ。それなのに、「おまえがわしに得なことをしてくれたら、愛情のかわりに小遣いをやろう」だなんて、あんまりじゃありませんか。わたしがその時思ったのはね、先生……あの子がそういう意味で父親に「何も期待していない」という達観した態度を示したことが悲しかったんです。まだ九つだっていうのに、あの子にはそのことがはっきりと言葉ではないにしても、ちゃんと「わかってる」ってことがわたしにはわかったんですよ」


「じゃあ、あなたが代わりに――その後、父親が与えてくれない愛情を彼に注いであげたということですか?」


「ええ……それがどういう種類のものであったにしても、わたしはアンディに自分の出来ることはしたつもりでした。でも果たしてそれが本当に正しいことだったのかどうか……わたしには今も時々わからなくなることがあるんですよ、先生」


 ソフィが最初についたものよりも、さらに重い溜息を着くのを見て、ロイは(残念だが)と思いつつ、今日はとりあえずこれまでということにした。それから病状のことをあらためて最後に話し、ロイは彼の訪問を待つ次の患者の元へ向かったわけだが――ソフィの隣の病室にいる患者の話は彼女のに比べると極めて退屈だった。


「先生、一体わしは何をしたからこんなガンなんて病気に悩まされることになったんでしょう。わしはただ、毎日一生懸命生きてきたに過ぎませんよ。サラリーマンとして四十年も会社と家族、それに社会の益のために尽くしてきたからこそ、ストレスを受けた果てにこんな病気になったってのに、会社の同僚の奴らは一度だって見舞いに来たことはありませんでした」


 エリザベス・キューブラー=ロスの有名な著書『死ぬ瞬間』の中には、死の受容のプロセスとして、第一段階「否認」、第二段階「怒り」、第三段階「取引」、第四段階「抑うつ」、第五段階「受容」……といったモデルについて書かれているが、彼――六十七歳の元自動車のセールスマン――は、どうやら現在、この第二段階目の「怒り」の状態にあるようだった。


 彼の奥さんにも何度かロイは会っているのだが、家族との間にも何か微妙な距離があるようであり、両親はすでに同じガンによって他界しているらしい。ロイが彼の話を聞いていていつも思うのは、怒りの根底にどうも孤独と寂しさがあるのではないかということだった。


(そのうちまた、奥さんや子供さんと話をしてみないとな)


 そう思いながら、膵臓がんの末期患者である、ジェームズ・グリアとロイはこの日もまた斜め向かい側から向きあうことにした。


「何故ガンになったかということについては、ジェームズさん。やはり御両親のうちふたりともがガンで亡くなっておられますし、そのうちお父さんのほうは同じ膵臓ガンということでしたね。まずはそうした遺伝的な要因があることと、またジェームズさんの御職業柄――接待の席でお酒を飲む機会が若い頃から多かったとことが関係していると思います。この間、奥さんとお話をしたら、僕に今言われたのとまったく同じことを繰り返し奥さまにもおっしゃってるそうですね。こんなことは僭越なんですが、奥さまもジェームズさんのことをずっと支えていらっしゃったわけですから、そのうち機会を見て感謝の言葉を一言いってあげてみてください」


「先生、あんた、結婚しとらんのじゃありませんか?」


 四十にしては若く見えるハンサムな精神科医に対し、突然グリア氏は侮蔑的な態度をとりはじめた。最初に会った時からジェームズは、ロイの女のような細い指に指輪がないのを見て、自分のような患者の愚痴を聞いた憂さを晴らしに、女をとっかえひっかえするタイプではないかと思っていた。


「僕が結婚しているかしてないかということは、カウンセリングには関係のないことなんですよ。同じ理由で僕は年齢であるとか、子供がいるとかいないとか、そうした個人的な情報は一切お伝えしません。ただ、大抵他の看護師などが僕の年齢や何かについてばらしてしまい、それが噂として広まってしまうので、黙っていてもわかってしまうんですけどね」


「まあ、結婚してなくても何年も同棲してたとか、人は色々ですからな。わしが妻に対して感謝の言葉を言いたくないのには理由があるのですよ、先生。今から二十年以上も昔の話になりますが、ケイティは浮気しておったのです。しかも、わしの友人とですよ?それでも離婚の危機はどうにか乗り越えました。というのも、子供がまだ小さかったもんですからな。しかし、子供ふたりもわしらの手を離れて今ではそれぞれ家庭を持っています……けどまあ、こっちから電話をしてもお義理で返事をしてやってるといった感じで、ふたりともわしが病気だと聞いても見舞いにも来ません。遠くに住んでいるし、何かと忙しいだの、飛行機の切符がどうこうとかいうのはただの言い訳なんですよ。わしはただ、そんな家族のためにがむしゃらに働いてきただけなのに、この仕打ちだ。わしは随分熱心に教会にも通ってきたし、寄付なんかもしてきましたよ。それになのに、先生……どうしてなんでしょう。どうしてこんな……」


 六十七にもなる大の男が突然泣きだしたので、ロイは彼の肩に手をまわして、背中をさすった。ところが今度はグリア氏は、突然ハッとしたように身を引いたのである。


「先生、もしかして先生は――その、あっちの人なんですか?」


「ゲイかどうかと聞きたいのであれば、違いますが……なんにしても、今日はこのくらいにしておいて、明日また、お話の続きを窺いましょう」


 ジェームズがあんまり深刻そうな顔をしたままだったので、ロイは本当はおかしくてたまらないのに、彼の病室を出るまでどうにか笑いを噛み殺さねばならなかった。


 そこで廊下へ出てから堪えきれずに吹きだすと、ふと通りかかった看護師に、不審の目で見られてしまう。


「どうなさったんですか、アンダーソン先生?何か楽しいことでもおありになりました?」


「なんでもないよ、アデラ。グリアさんにゲイと間違えられたっていう、ただそれだけだからね」


「まあ」


 グリア氏が勘違いするのも無理はない、といったような顔の表情をして、アデラ・マクファーソンは笑った。<聖十字ホスピス>は、二階建ての白塗りの建物で、一階に十室、二階にも同じ数の個室がある。そして正職員・パートを含めた四十名近くの看護師、それにロイを含めた五名ほどの医師が交代で勤務に当たっていた。他に理学療法士や栄養管理士、看護助手や清掃員などの数まで含めると全体で七十名くらいの職員が在籍していることになるだろうか。


 おそらく、<聖十字ホスピス>にやって来た看護師や医師は、働いて数日もしないうちに、「ここは普通の病院とは違う」といったように感じるに違いなかった。もはや最先端の科学による治療の術もなく、緩和医療が行われる余命いくばくもない人々が入所しているから……というだけでなく、「職員の質」そのものが他の一般病院とではまるで違うのである。


 他の一般的な大きな病院などでは、医療者不足が叫ばれて久しいこともあり、職員の質にはばらつきのあるのが普通だろう。だが、<聖十字ホスピス>では入ってきた職員全員にまず一定の教育セミナーを集中的に受けてもらい、また患者と直に接する機会の多い看護師にはひとりひとり、相当丁寧な細心に渡っての指導を受けてもらうことになっている。つまり、ひとりの新しい職員が入ってくると、別のもうひとりの看護師がそれとなく寄り添い、特殊なケースにある程度慣れてもらうまではその状態が続くのだった。


 もちろん、そうした指導をむしろ疎ましいと感じたり、職員ひとりひとりに求められる質がとても高いため、そのような環境が嫌になって辞めていくケースもあるが、結果生き残った看護師たちは、ロイが思うに「彼女たちはまるで天使のようだ」と感じる女性が多かったかもしれない。


 アデラ・マクファーソンもそのひとりで、彼女は今三十七歳だったが、看護の仕事を続けられなくなったのちは、修道女になる予定だということは、他の職員みなが知っていた。


 ロイ自身はといえば、グリア氏が言っていたとおり、四十になった今も独身であり、ゲイではないにしても、一度も女性と結婚したことはなかった。彼の場合、器質的な欠陥があって、男性としてのものが役立たないため、そのような事情で独身だったのであるが――このホスピスへ来て初めてロイは、そうした事柄から来る世情の煩わしさ、あるいはコンプレックスといったものから解放されていたかもしれない。


「いずれは亡くなってしまう人を見送り続けるなんて、頭がおかしくなりゃしませんか?」とは、時々患者らから聞かれることではある。けれど、ロイはその度にただ、静かに首を振った。結局のところ、自分もいずれは同じように死んでいくのだ。ただ、ロイの場合は誰かひとりの女性を幸福にすることも、子を残すこともないという運命であることから……そのかわりのこととして、誰か他の人間の存在に少しなりとも役立つことで、最後に死の瞬間を迎えたいという、そのような思いがあるだけだった。


 ロイはアデラと少し世間話をし、それから一緒に毎日午後四時頃開かれるカンファレンスへと向かった。そこで患者ひとりひとりの事細かなケアのことが話しあわれると、ロイはもうひとりだけ患者の話を聞いてから、自分に与えられている部屋で、さらに患者ひとりひとりのファイルを最後にまとめにかかった。


 今日、患者から聞き取ったことを最後にファイルにまとめるのであったが、ロイは一通りの仕事を終えて七時にもなる頃、またもう一度ソフィ・デイヴィスのファイルを手にしていた。精神科医とて人間であるから、表面上は出来るだけそう見せないよう、どの患者とも平等に接するのが建前であるとはいえ――それでもはやり時折、普通の興味以上の関心をあるひとりの患者に持ってしまうことがある。そしてそうした患者が時折現れてくれるからこそ、ジェームズ・グリアのような患者が何十人現れようとも、ロイは精神科医として仕事を続けていけるのだった。



 ――ソフィ・デイヴィス(七十歳)。


 父親は薬剤関係の工場で働き、母親はこの父と離婚するまでは専業主婦をしていた。姉が重度の知的障害者であったため、母親の愛情はこの姉に偏重することとなり、精神的に孤独な子供時代を過ごす。十四歳の時にとうとう両親が離婚。彼女は父親についていきたかったが、父のほうにはすでに愛人が存在したため(それが離婚に至った原因のひとつである)、姉のクレアとともに母親の手元に残ることとなった。

 こうした多感な思春期の支えになったのが、彼女にとってはボーイフレンドだった。彼と初めての性体験に至ったのが十五歳で、つきあいはじめて一年にもならない頃のことである。

 その後離婚を機に家族はノースルイスに引越し、母親は清掃員として働き、姉は通所施設に通う毎日となる。患者本人は公立校へ通うも、二年生の時に学校生活に馴染めず中退。ボーイフレンドのほうは有名私立の名門校に通っていたが、だんだんに話が合わなくなっていってその頃に別れている。

 高校を中退後、患者は喫茶店でアルバイトをはじめる。この喫茶店には22歳の頃まで五年ほど勤めたのだが、店によく来ていた客に見初められ、その客と交際するようになる……だが、喫茶店のマスターも患者のことを愛していたため、そのせいもあって店を退職することになった。

 患者は喫茶店の客だった有名企業の次期社長といわれる御曹司と交際しはじめるが、彼のことを本当の意味では愛していなかったという。しかしながら彼は金持ちでもあることだし、多少の欠点などには目を瞑り、この御曹司のプロポーズを受け容れることにした。

 ところが、彼の母親が一見そうと見えないながらも結婚には反対で、患者はこの有名企業グループが運営するリハビリセンターのひとつで働くことになった。つまり、高校中退の貧乏な娘が御曹司の求婚を受けるためのサクセスストーリーとして、リハビリセンターで患者に優しくしているところを見初めたという話を世間に向けでっちあげるためらしかった。

 それが内心では結婚に反対している母親の深慮遠謀とも知らず、患者はリハビリセンターのキツイ仕事を日々こなしていった。そしてそこに医者の卵だという男が現れ、患者はやがて彼に惹かれるようになっていく。だが彼こそは、今では婚約者となった御曹司の母親が仕向けた詐欺師の男で、患者をたぶらかし、不貞の事実を掴むよう依頼された男なのだった。

 患者はそうとも知らず、この魅力的な男とやがて関係を持つようになり――この詐欺師の男のほうでも、患者を愛するようになってしまう。そして心から愛しあうふたりはノースルイスから逃げ、そこから千五百キロばかり離れたノースルイスと対をなす都市、サウスルイスで暮らしはじめることとなる。患者が二十三歳の時のことだった。

 患者は二十九歳になる頃まで五年ほど、この魅惑的な詐欺師の男と暮らした。患者はこの男のことを文字通り心身とも熱愛した。相手の男のほうも、素行に問題がありながらも彼なりに心から患者のことを愛していた。

 ところがこの危ない橋を渡るのが好きな男が、ある日を境に失踪してしまう。患者は方々手を尽くして捜してまわったが彼の行方はようと知れず、金が底を尽きつつあることもあり、全国展開している有名なおもちゃ店でパートとして働きはじめる。そしてここでの仕事ぶりが認められ、半年ほどのちに正社員となると、正社員が受けなければならないセミナーでその会社のCEOである男に見初められ――やがて結婚。ちなみに、この男は億万長者である……。



 速記で書き記した記録の紙をまとめたファイルの一番手前には、これまで患者から聞いてきたことの大まかな内容が貼ってあった。こうしておけば、次に話の続きを聞く時に細かい話の筋としてどんなことを聞いたかがロイにも思い起こされるし、不適切な質問もせずに済むというわけだった。


 ロイは速記の心得のない者にはどうにも読めない象形文字のような言葉の羅列を解読しつつ、今日患者のソフィ・デイヴィスと話したことを再び振り返った。彼女は今七十歳で、ようやくその人生の半分弱のところまで物語が進んだわけだが――ここまででも結構な氾濫万丈の人生ではないかと思われてならない。


 本人があまりにも屈託なく、自慢する影すらない口調でしゃべるため、話している間はロイもそんな彼女につい同調してしまうのだが、三十歳になるまでに五人もの男が彼女のことを心から愛するか、あるいはプロポーズの言葉を口にしているのである。


 ソフィ・デイヴィスの元夫であるバートランド・フィッシャーとは、彼女は四十歳の時に別れたという。つまり、「終始本当の意味では愛していなかった」と彼女は語っていたが、それでも十年もの間夫婦でいたということなのだろう。


(何故、彼とは離婚することになったのだろう?)


 ロイにしては珍しく、今彼は週刊誌の記者ばりに好奇心という名の本能が胸深くに疼くのを感じていた。ソフィが心から愛していたという男、セス・グラントが彼女のことを奪い返しに来たのだろうか?それとも、バートランドの女遊びがあまりに激しく、とうとう彼女のほうで愛想を尽かしたのかどうか……。


(そういえば、バートランドには前妻との間に子供がひとりいたと言っていたっけ)


 結婚当時彼が九歳だったということは、離婚した時には十九歳か二十歳だったということになる。十九歳といえば、世間では十分に立派な大人の男である。彼の子育てが一段落したから、ソフィはそれを機に前々から考えていた離婚をようやく切り出したということなのだろうか?


 ロイは自分が今一番興味のある患者、ソフィ・デイヴィスのファイルをキャビネットにしまいこむと、隣室にある他の医師たちの部屋を訪ね、最後に院長のジェイコブ・コーエンに挨拶してから、その日は自分の職場である<聖十字ホスピス>をあとにしていた。




 >>続く。






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