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第22章

 ステラ・マクファーソンと出会った時、ソフィがまず真っ先に感じたのは、自分でもどう表現していいかわからない嫌悪感だった。


 けれど、自分もすでにもう四捨五入すれば四十歳という大台の年齢である(実際は三十八)。それなのに、単に相手が自分よりも十五歳も若いというそんな理由だけで――嫌悪感を持っているとアンディが思う気がして、ソフィはなるべく機嫌よく振るまうよう極力努力した。


 ここのところ、間違いなくステラの作戦勝ちであったかもしれない。彼女は実際はそんな女性でもないのに、ソフィがわざと苛立つような話し方をしたり、アンディと変なところで不適切にベタベタしたりしていたからである。


 時折アンディのほうでは、(やりすぎだよ)と、ステラのことを押し返さねばならぬほどだった。ところが彼女のほうはといえば(こんなのまだ序の口じゃない)と、アンディの耳元に囁き返すという始末だった。


 ソフィはランドクルーザーの後部座席をなるべく見ないようにしようと務めたが、それでもやはりサングラス越しに時折ちらとそちらを見ないわけにいかなかった。


 ソフィがこんな義理の息子の姿を見るのは初めてだった。ステラは大学の法学部に通っているとのことで、馬鹿っぽい舌っ足らずな話し方をする割に、本当はかなり賢い女性なのだろう。出会ったのはアンディの親友が組んでいるバンドのライヴで、意気投合したのがつきあい始めるきっかけだったという。


「わたし、ずっとワイルくんのファンだったんですよ~!でも、楽屋でアンディのことを見て一目惚れしちゃって。以来彼一筋っていうか、ワオ!!」


 ここでステラはアンディの体にしなだれかかると、彼にキスをせがんだ。


「ね、ほら。いいでしょ?チュッて、いつもみたいにして。なかなか会えないんだから、会えた時くらい……ねえ、ほら、アンディ」


 正直ソフィは、こんな彼女のどこが良くてアンディがおつきあいしているのか、まるで理解できなかった。男子校にずっと通っており、つきあえそうな女性に初めてぶちあたったのがたまたまステラというこの女性だった……単にそれだけという気がして、ソフィはヴァ二フェル町に辿り着くまで何度も重い溜息をついたものである。


『彼女とは、いわゆる真剣なおつきあいというやつなの?』――あとでそうアンディに問い詰めてやらなくちゃと、ソフィはイライラしながらハンドルを握り続けていたのである。


 唯一ソフィにとって救いになることといえば、途中立ち寄ったレストランでアンディが、あんまりステラにまとわりつかれ、困り果てたような顔の表情をしていたことだったろうか。ソフィは初めて冷静に(この子とは結婚とかなんとか、そんなところまでは行きそうにないわね)と思い、ステラに若干の哀れみを感じることで自分への慰めとした。


 ソフィはもしアンディが、見るからに清楚な感じの、育ちの良さそうなお嬢さんを本命の彼女として連れてきたとすれば――その時にはふたりの関係を認めないわけにはいかないし、それこそ自分の<おばさん>としての役割は終わりだと、そんなふうに考えていた。それなのに……。


(こんな子が相手だなんて、アンディもアンディだわ。どうかしてるわよ)


 軽い食事のあと、化粧ポーチからコンパクトを取りだすと、ステラはパフで軽く顔を叩きはじめ、最後に口紅を塗り直していた。


「ねえ、ステラ。そういうことは男性の前でするものじゃないわ。化粧室へ行ってしたほうがいいんじゃなくて?」


「そうですわね、<おばさま>」


 ソフィは流石にカチンときたが、アンディが「まあ、許してやってよ」というような目でこちらを見たため、黙って会計票と一緒にカードをウェイターに渡した。最初の何日かでステラはいなくなるということだったが、ソフィはこんな子と十日も一緒にいたとすればストレスが溜まってしょうがないだろうという気がした。


(しかも料理やなんかはわたしが作らなくちゃいけないんですからね、しかもこんな子の分まで)


 ソフィは途中に立ち寄った大型スーパー兼ホームセンターで色々と材料を買い込んだのだが、若いカップルは存在しないものと思って、自分で必要なものを必要な分だけ買い、そして自分でトランクのほうへ詰め込んだ。こういう時、いつもなら率先してアンディが手伝ってくれるのだが、彼は恋人とペットコーナーで小型犬を抱いてはステラとじゃれあっていた。


(まったくもう、こんなことならセスとキューバでもどこでも行ってたら良かったわ)


 実際、そのことでソフィはセスとまた喧嘩になっていた。「一体俺はいつになったらおまえと夏に好きなところへ旅行に行けるんだ!?」という、そうしたことである。けれど、今年の夏は特に特別な年なのだと言って、ソフィはセスのことを説きつけていた。アンディ自身にしてももう、だんだんヴァ二フェル町に魅力を感じなくなってきているし、大学に進学したらそちらの生活が楽しくて自分はお払い箱になるだろうから、それまでの辛抱だと思ってと、ソフィはセスに説明した。「じゃあ、その時が来たら本当に離婚するんだな?」とセスに問われ、ソフィは「もちろんそうよ」と答えた。そこでセスはようやく――「わかった」と言って嘆息とともに渋々承知したのである。ひとりで数少ない社会主義の生き残りの国へ行くことを……。


(お払い箱……確かにそうだわ)と、アンディとステラが戻ってくるのを待ちながら、ソフィは自分の言った言葉を噛み締める。(それに、昔のわたしやまわりの友達だって、大体あんな感じだったじゃないの。それで、トム・シスはあんなイケメンなのに、どうしてあんなアホ娘とつきあってるのかしらなんて、化粧室で話したりしてたもんだったわ。これも若い子にありがちな、その手のことなのよ)


 ただ、一生懸命そう納得しようとしても、ソフィはやはりアンディに対する失望を拭えなかった。少なくとももう少しくらいは「マシな」子を連れてくるに違いないと想像していただけに。


(もしかしてあの子、他のものは何もかも揃ってるのに、唯一女運だけがない、女を見る目がないとかいうことだったらどうしよう。もしそうなら、あの子は嫌がるだろうけど、わたしがしっかり目を光らせてたほうがいいのかしら。世間のウザいキモ母みたいだけど、息子を愛してる母親っていうのは、きっとみんなこんなものなのに違いないわ)


 ここでソフィは、ウィリアム・レッドメインの母親、アリッサ・レッドメインのことを思いだし、少しだけおかしくなった。彼女もきっとウィリーが自分を連れて屋敷にやって来た時、まったく同じ気持ちだったに違いなかった。そしてソフィは(でもわたしはステラほどひどくはなかったわよねえ)と当時のことを述懐したが、そのあとでこう思い直した。(ううん、息子の嫁選びの基準が高い彼女にしてみれば、わたしも同じようなものだったわよね、きっと) 


 ふたりが手を繋いで仲睦まじい様子で戻ってくると、「お熱いわね、ふたりとも」と言えるだけの余裕が、ソフィにも戻ってきていた。いかにもおばさんくさい言い方ではあるが、実際自分はその<おばさん>なのだから仕方ないともソフィは思う。


「アンディのおばさんって、ほんとイケてますよね~」


 一応褒められているにも関わらず、こういう時でもソフィは若干イラッとする。それもそのはずで、ステラの物の言い方の陰には実際、悪意という名の毒が塗りこめられていた。ステラはアンディが崇拝している母親が、ここまでの美魔女とは思ってもみなかったのだ。輝くブロンドの豊かな髪に、毎週エステへ通ってるのか自分でパックしてるのか知らないが、化粧の上からはまるで皺の目立たない整った顔立ち……(アンディが他の女に目が向かないのも当然よ)と、そうステラは思った。(だったらやっぱりこの人はアンディのことで責任を取るべきなんだわ)とも。


 ただ唯一、ステラは会った瞬間にソフィに対して白旗を揚げねばならなかったため、その点においてはある意味彼女に感謝した。もしそうでなかったとすれば、(こんなババアよりもわたしのほうが)とそう思い、今ごろ死にもの狂いで張り合っていたかもわからない。


「そんなことないわ。わたしももう年よ。寄る年波には勝てないわ」


「そんなことあるよ。フェザーライルにさ、おばさんが何かの用でやって来るたびに、僕たち生徒は「あれ、誰の母親だ?」とか「いや、姉さんだろ」とかって言ってたもんだったよ。僕としてはちょっと鼻が高い感じだったというかさ」


「それもね、まあ一般的な父兄の年齢を考えれば若く見えるっていう程度のことよ。わたしもステラくらいの歳の頃は、何もしなくても肌なんか綺麗だったわ。でもそろそろわたしもボトックスでも打ったほうがいいのかしらっていうような歳だもの」


 今度はステラのほうがカチンと来る番だった。彼女は職業柄のせいもあり、自分の美を保つために毎月結構な額を散財する。けれどそれも、生まれつき美貌を持って生まれた女性には適わない程度の効果しかない。


「ボトックスねえ。そんなものわざわざ打たなくても、おばさんは綺麗だよ。心配しなくてもありのままでいいって」


 ここからアンディとソフィが家族らしい気安さで色々なことを話しだしたため、ステラはあえてふたりの間に入りこまず、暫く黙ったままでいた。もちろん、「ねえアンディ。さっきの犬、可愛かったわよね~」などと強引に自分のほうへ話題を押し戻すことは出来る。けれどステラはあえてそうしようとしなかった。ふたりの間には新参者の自分が入りこめない堅い絆があるとわかっている。けれどふたりともそれをステラに見せつけるのをよしとせず、適度に彼女に話題を振ってくれているに過ぎないのだ。


(ああ、なんだかわたし、とても惨めだわ)


 アンディがそれほどまでに深く崇拝している義母がどんな女性なのか知りたくてたまらず、ヴァ二フェル町などというど田舎まで行くことにしたことを、ステラは道半ばほどで後悔しはじめた。この三人の中で、長くいればいるほど弾き飛ばされることになるのは自分だと、ステラにはすぐわかった。そのふたりの思い出が色々あるという海辺の別荘に、ステラは長居するつもりはなかったが、最初にそう言っておいて良かったとつくづく思ったものである。何故といって滞在して一週間としないうちにいたたまれなくなり、自分から荷物をまとめることになっていたろうからだ。


(それにこの、アンディの愛しのおばさんを見る目つき……)


 ステラは車窓の景色を見つめる振りをしながら、隣のアンディのことをちらと眺めやる。


(本当はわたしと後部席にいるんじゃなく、おばさんの助手席に座りたいんでしょうね。こんな瞳で見られたら普通、「この子は自分に恋愛感情を抱いている」って気づきそうなもんだけど、そこはそれ、九歳から知ってる子なだけに、近視眼になっちゃってて、彼女は気づきもしないのよ。もちろんわたしだってきっと気づかないわね。自分が今九歳くらいの子のいる男と再婚して、その子が十七、八になった頃に突然、「異性として好きだ」なんて言われたら……下手したら笑っちゃうくらいかもしれないもの)


 ステラは、もしアンディがソフィのことを見るのと同じ眼差しで自分を見てくれたならと想像しただけで胸が熱くなった。けれど、彼がこんな瞳で誰かを見るのは、この世界でこの義理の母ただひとりきりなのだろうと、苦しい気持ちで悟る。


 ヴァ二フェル町までの長い道のりの間、三人は適度にバランスの取れた会話をし、ソフィもステラと話すことにだんだん慣れてきた。最初こそは奇妙にハイテンションだったステラだが、自分のアンディに対する思いは断ち切るしかないとはっきりわかってからは、少しずつ彼女の地の部分が濃く出てきたという、そのせいもあったかもしれない。


 元よりステラは、ヴァ二フェル町などという何もないど田舎の漁村に興味はまるでなかったが、それでも遠く海を眺めながら車でドライブするのは素敵だったし、海辺の別荘についても一目見るなり気に入った。こんな場所で毎年夏に恋人と過ごせたらどんなにいいだろうと、そうステラは思った。そしてその特権を長く当たり前のように享受しているふたりを羨ましいとつくづく感じた。


「ねえ、アンディ。わたしとあなたの寝室はどこにあるの?」


 二階にはソフィの寝室とアンディの寝室、それとゲストルームがある。ステラは別荘へ辿り着くなり最初の頃のハイテンションに戻り、またアンディとイチャイチャしはじめた。だが、ソフィは長く運転した疲れもあり、ふたりのそうした様子についてはもうあまり気にならなくなっていた。


「わたしのことはいいから、アンディ。彼女に部屋を案内してあげるといいわ」


 途中で立ち寄った店で購入した品物をトランクからひとりで運びつつ、ソフィはなんでもないことのようにそう言った。アンディはやはりここでも、(やっぱりここへは、おばさんとふたりで来るべきだったんだ)と、内心で重い溜息を着いていた。毎年夏に繰り返される習慣として、アンディはソフィのことを手伝って、特に重い荷物を運ぶ。そして彼女には残りの軽いものを持たせたりして、ふたりで食糧庫の整理をしたりするのだ。


 アンディはいつもの良い習慣が損なわれた気がして残念だったが、もちろんそれはステラのせいではない。そこで彼女に一階の部屋を地下室を除いてすべて見せると、二階の寝室とゲストルームのある場所へステラのことを連れていった。


「きゃ~っ!!すってきィっ!!」


 そう叫ぶなりステラは、絹のカバーのかかったふかふかの布団の上に横ざまにジャンプし、ぼふっと着地した。そのすべすべの肌触りを頬に感じつつ、瞳ではアンディのことを誘惑しはじめる。


「ねえ~、ほらアンディ~、早く来て~」


 ステラは甘えた声でそう誘ったが、彼はまるで動じなかった。というよりも、苦情の気持ちを眼差しに湛えさせることさえして、忙しなく両足をバタつかせる恋人のことを見下ろしていた。


「いくらなんでも、あれはひどすぎるだろう?」


「ううん、そうじゃないわ。わかってないのね、アンディ。このくらい馬鹿っぽい娘のほうが、あのおばさんも容赦なく憎めてちょうどいいわよ、きっと。今ごろ彼女、こう思ってるんじゃないかしら。『あんな馬鹿娘、うちのアンディには相応しくないわ。どうにかして別れさせなくちゃ』なんてね」


「おばさんはそういう人じゃないよ」


 アンディはベッドの縁に腰掛けはしたが、ステラのほうはあまり見ていなかった。もちろんステラのほうでも、そのことには敏感に気づいている。


「仮に君の演じている脳味噌の容量が偏ってる感じの娘でもね、僕がどうしてもって言うのであれば、おばさんは仕方なく受け容れてくれるっていう、そういう人なんだよ。だからそんなにテンションの高い役を演じなくても大丈夫なんだ。君だって疲れるだろうし」


「まあ、確かにそれはそうなんだけど」


 アンディが一向に自分のほうを見ようとしないので、少しばかり臍を曲げたステラは、彼のそばまで近づくと胸の谷間に彼の腕を押しつけた。


「ねえ、それで夜はどうするの?べつに本当にしなくてもいいけど、わたし、エッチな声とか出したほうがいい?それもおばさんの寝室の壁に向かって。『ああ、いいわ、アンディ』とか、そういうの」


「そういう作為的なことは何もしなくていいんだよ」


 呆れたようにアンディは言い、ステラの腕をふりほどくと寝室のドアに向かった。


「君は三つあるゲストルームのうちの、どこか好きなところを使って。で、眠る時には僕はそこへ行くけど、途中から自分の寝室のほうに戻ってきて寝る。いや、べつにいいんだ。最初から別々に眠ってもね。僕もつい君の話を聞いていい案だなんて思ったけど、なんか今ではおばさんを騙してること自体、心苦しくなってきた。だから君もおばさんを嫉妬させようなんて考えないで、自然体でいてくれ。あとは、ここの暮らしに飽きたら帰ってくれていいから」


「駄目よ、そんなの。そんなんじゃなんのためにあたし、こんなど田舎の漁村までやって来たのかまるでわからないじゃない。まあ、見てなさい、アンディ。わたし、少しくらいはあなたの役に立ってからここを出ていくから」


 アンディは何も答えず、そのまま軽い足取りで階段を下りていった。そしてひとり取り残されたステラは、ラファエルの天使の絵が飾られたゲストルームで涙に暮れると、崩れたメイクを時間をかけて直してから、一階へ戻ることにしたのだった。


     *   *   *   *   *


 胸の谷間の見えるタンクトップに短いホットパンツという格好から、白地に黒の水玉模様のワンピースを着てステラは食堂へやって来た。もしこれでステラがアンディの本当の恋人で、義理のお母さんに紹介されたのだとしたら――おそらくメイク直しもそこそこに急いで下へ降りてきて、おそらくは夕食の手伝いをしたことだろう。


 ステラも料理は不得手なほうではないが、それでも食堂のテーブルに並んだ鶏肉料理やほうれん草と卵のスープ、マッシュポテトやアップルパイなどの料理を食べていると、ステラはどんどん心がしなえていくのを感じた。こんなに美味しい料理を九つの時から口にしていたとすれば、他の女に目など向くはずがない……そう思うと、ステラは苦々しい思いがこみ上げるのと同時、(こういう女性が実は息子を駄目にするんじゃないかしら)とも思った。


 もちろん、彼女の義理の息子に対する子育ては成功しているといっていいだろう。けれど、仮にもしアンディとソフィの血が繋がっていて実の親子だったとしたら、こんなところへ嫁にやって来る女性というのは、一種の災難と言えはしまいかとステラは思うほどだった。


 一方ソフィのほうでは、突然ステラの口数が減ったために、彼女の躁鬱病を疑った。服装も突然ガラリと雰囲気が変わったし、しかもメイクのほうがやたら念入りである。これはステラが泣いていたのを悟られまいとして時間をかけたそのせいだったが、実のところソフィはやはり彼女の常識を疑った。もし仮に料理がまるで出来なかったとしても、食器を並べるくらいは自分を手伝っても良さそうだと思っていた。


「たぶん、ずっと車に乗ってて疲れたんだよ」などと、アンディは優しく庇っていたが、ようやくふたりきりになれたため、ソフィは義理の息子にずっと聞きたかったことを質問していた。


「ねえ、あの子とはどういったおつきあいなの?」


 スーパーで買ってきた栗かぼちゃを、どすんどすんと包丁で切り分けながらソフィはアンディに聞いた。今日使わない分の残りは、地下室のほうへ保存する予定である。


「どうって……まあ、普通のつきあいだよ。僕もガールフレンドがひとりくらいいておかしい歳じゃないし。彼女、ああ見えて本当は頭がいいんだ。たぶんきのう飲んだアルコールがまだ頭に残ってたんじゃないかな。そのうちもう少しまともになるよ」


 ――あとにして思えば、随分アンディも変な言い方をしたものだと、ソフィは思った。けれどこの時にはさしておかしいとも思わず、ただかぼちゃを力任せに切り分け、「おばさん、危ないよ」などと、アンディに注意されただけで終わった。将来結婚するつもりなのかどうかなど、聞くまでもなかった。たぶん彼女とアンディとは、放っておいても自然消滅的に終わるだろう。だがソフィはそう思う一方でこうも思った。次あたりに誰か女性を紹介したいと言われた時こそ、自分は覚悟が必要かもしれないといったように……。


「法学部では、どんな勉強をしてらっしゃるの?」


 アンディが自分の得意技として鳥の肉を切り分けるのをぼんやり眺めながら、ステラは相も変わらず沈んだ気持ちのまま、美味しいスープを啜っていた。


「将来は、検察官になるつもりなんです。というのも、わたしが高校生の時に父が強盗殺人犯に殺されたんですけど、相手の刑が比較的軽くて……べつに、凶悪殺人犯の刑をもっと重くすべきだと思って検察庁に入りたいわけじゃないんですけど、でも何故か弁護士っていう職にはあまり惹かれないんです。検察官か裁判官、なるとしたらそのどちらかですね」


 すべて事実をしゃべっているため、ステラの滑舌は実にすらすらしたものだった。ここでソフィは彼女の二重人格を若干疑いたくもなったが、やはりただ静かに感心した。普通のワンピースを着こなすと可愛らしいし、アンディの将来の伴侶として遜色ないとすら思った。


「そう。あなたも色々大変だったのね。じゃあ、勉強とか大変でしょう?アンディの友達のライヴへは、もしかして気分転換か何かで行ったの?」


「まあ、そんなところですね。ところでソフィさん、あなた<も>ってどういう意味ですか?わたし、気になるんですけど」


 アイラインが濃いせいかどうか、じっと座った眼差しで見つめられると、ステラはどこか行動のおかしい精神異常者のように見えた。それとも、もしやクスリでもやっているのだろうか?それとも、突然精神が安定したように見えるのは、もしやクスリか何かのお陰なのだろうか?


「ああ、ごめんなさいね。わたしも犯罪に巻きこまれたことがあるって意味じゃなくて……うち、家が貧乏だったものだから、十代後半から二十代は治安の悪い地域に住んでたのよ。そしたらやっぱり、自然と犯罪のことは色々見聞きしたっていうか……そういう意味なの」


(うちと一緒だわ)と、ステラはそう思い、初めてソフィに対しシンパシーに近いものを感じたが、態度としてはやはりただ黙々と食事を続けた。


 一方、アンディのほうではステラの過去について何も知らなかったため、度肝を抜かれていた。彼女が作り話をしているのではないということだけは、彼にもはっきりわかったからである。


「おばさん、実際ステラは凄いんだよ。奨学金だけじゃ他に入用なものを賄いきれないから、今も額に汗して一生懸命働いてるんだ。僕、彼女のそんなところが好きなんだよ」


「アンディ、額に汗してって……」


 ステラは思わず吹きだしそうになり、ごほごほっと噎せこんだ。その笑いが伝播したようにアンディも笑い、ソフィも理由はよくわからないものの、なんとなく笑った。ステラとアンディ、恋人であるふたりにしかわからないサインがおそらくそこにはあるに違いない。そう思うとソフィはこの時初めて、ふたりはもしかしたら意外にお似合いなのかもしれないと思った。


「じゃあ、結婚してからもお仕事を続けられるのね、きっと」


「さあ、どうでしょう?アンディに限ってそんなことないと思うんですけど、たとえば彼が何かの事件に巻きこまれるなりして一文無しになったとしても、わたしがアンディのことを食べさせていけるとは思うんです。でもあんまりアンディの稼ぎが凄くて、子供もいたとしたら、わざわざ働きに出たりもしないかもしれません。それはその時になってみないとわからないことですね」


「まあ、僕が路頭に迷ったような時は」と、偽の演技を楽しみつつ、アンディは言った。「喜んでステラの軍門に下って、専業主夫でもなんにでもなろうと思うよ」


 ここでまた三人は笑いあい、以後、どこか慎ましい緊張感の上にではあるが、会話は楽しく弾んだ。そして食事がすっかり済むと、ステラは美味しい料理のお礼に後片付けはすべて自分がやると言った。アンディが「じゃあ、僕も手伝うよ」と言い、ふたりで仲良く他愛もない会話をしながら食器類が片付けられていく。


 ソフィはそんな若いふたりの姿を見ながら、微笑ましい気持ちになるのと同時に、やはりどこか寂しい思いも味わった。ソフィはアンディに対しては血が繋がってるの繋がっていないの、もはや関係ないと思っているが、仮に彼と血が繋がっていて、自分が実の母親であったとしても、今感じているのと同じ寂しい気持ちを味わったのではあるまいかという気がした。


(いつの間にか、わたしの知らないところで大人になったのね、アンディも)


 奥の客間の、飾り暖炉の前で揺り椅子に揺られながら、ワインのグラスを片手にソフィはそんなことを考えた。そもそも、アンディの寄宿学校時代のことを、当然ソフィはすべて知っているわけではないし、事細かく彼が色々なことを手紙に書いてきたのは、最初の二、三年くらいのものである。そのあと少しずつ関係が近づいたりまた遠くなったりと繰り返しているうちに、仲直りしたばかりの時にはまた丁寧な手紙を書いて寄こし、また関係の停滞期にはまったく便りを寄こさないこともあり……ソフィは彼が自分と会わなかった春休みに友達とライヴを楽しんだり、そこでガールフレンドを作ったということもこれまでまったく知らずにいたのである。


(そろそろ、潮時なのかもしれないわね、わたしとアンディの関係も。アンディがユトレイシア大に進学して、そこでの生活がうまくいっていて、もうわたしの存在なんて必要ないようなら、今度こそバートと真剣に離婚することを考えなくちゃならないわ)


 そしてこの<離婚>ということを思うと、ソフィは頭が痛くなってワインをまた一口、二口と飲み干した。バートランドからははっきり、「わたしはおまえと離婚したくない」と言われている。「実質的な夫婦生活がなんだ?そんなものなくたって、わたしはおまえを手放す気はないぞ。これからもおまえは愛人とうまくやればいい。わたしと離婚しなければアンディの母親でもいられる。わたしと離婚しないほうが、おまえにとってもメリットが大きいはずじゃないか、ソフィ」……もちろんこの時ソフィは、「そういう問題じゃないのよ」と言って弁明した。セスは独占欲が強いし、臍を曲げた時には「いつ離婚するんだ?」とそのことばかりを話題にしたがるのである。そうした責め苦にソフィはほとほと嫌気が差していたし、そのあたりのことは省略するにしても、「わたしは自由になりたいのよ」と、ソフィとしてはとどのつまりのところをバートに要求した。


 だがやはり彼は渋い表情で顔を横に振っていた。


「わたしがおまえと離婚したくないのはな、何も自分のためばかりではないぞ。アンディのためさ」


<アンディのため>と言いさえすれば、ソフィが離婚を思い留まると思ったのだろうか、バートは少し意地の悪い顔をしてこの時話を続けた。彼の経営する一流レストランの個室で食事をしていた時のことだった。


「あれはわたしの実の息子じゃない」


 そうバートに告げられた時、ソフィは当然「えっ!?」と思った。驚きのあまり、咄嗟に言葉もないほどだった。


「誤解するんじゃないぞ、ソフィ。だからわたしはあいつにつらく当たったわけじゃない。もし血が繋がっていたとしても、大体似たようなもんだったろうさ。わたしはこういう冷たい人間だし、なんでも損得勘定で計算して動く人間だ。ソフィ、おまえのことに関しても、今も『いい買い物をした』と思っているような最低な男だよ。わたしも、まさかこんなに長くおまえと結婚生活が続くとは思わなかった。ソフィ、おまえは最初の頃にこう言ったな?わたしはユトレイシアの本邸で好きなように暮らし、自分はノースルイスで好きなように暮らす。そうすれば結婚生活はうまくいくだろう、みたいなことをな。まあ確かに、基本的に別居してるからこそわたしたちはここまで長く続いたんだろう。だがやはり、おまえにとってはアンディのことが一番大きかった。あいつは今はまだ、母親が何故自殺したのかも何も知らないんだ。いや、今まで知らずに済んだことのほうが奇跡というべきか……わたしが何故アンディのことを首府ユトレイシアから離して育てようとしたかわかるか?何故といって、そうすれば誰かおっちょこちょいな女中の噂話なり、世間の悪意ある善人の口からなり聞いて、いずれ知ってしまうと思ったからさ。無論、妻のフローレンスが鬱病だったことは周知の事実だ。自殺の原因は鬱病といったようにも当時、新聞に書かれたよ。だがソフィ、あいつはこれから天下のユトレイシア大に、自分の実の母が自殺した屋敷から通うことになるんだ……あいつが事実を知らずにいれる可能性はどのくらいあると思う?」


「ようするに、そういったことが起きた場合、あの子の精神的動揺が激しいだろうから、わたしにそばにいて見守れってことなのね?」


「そうだ」


 ――この日、ソフィはデザートを断ると、夫のバートとは別に早く帰宅した。ソフィはバートの口からすべて聞かされた。フローレンス・フィッシャーが、女遊びの激しい彼に対するあてつけとして、別の男との浮気を計画し、夫とは血の繋がらない子供を故意に出産したということを……。


「ふん、あいつの遺書には、すべて書いてあったよ。『こんなものを読んでもあなたは、眉ひとつぴくりとも動かさないでしょうけど』という前置きからはじまって、えんえんと続くうんざりするような長い手紙でな、結婚生活に対する不満がすべて書き連ねてあった。フローレンスは非常に分析的な女でな、アンディはたぶんあれのそうした気質を受け継いだのだろうとわたしは思っているが、その手紙もまた鬱病の人間が書いたとは思えぬような実に分析的な記述の多い手紙だった。『もし、アンドリューの父親のことを真実愛していたなら、わたしもこれほど悔恨の念に苛まれることはなかったでしょう。けれど、わたしは愛してもいない男と情事の機会を持ち、あなたに対する復讐としてあの子を出産したのです。最初、罪の思いは少しも生じませんでした。けれど、日を追うに従ってわたしの中の良心が苦しみだしたのです……』まあ、そんなような内容の手紙だよ。嘘だと思うなら、今度読ませてやってもいい。ユトレイシアの本邸の金庫の中にあるはずだから」


 その手紙を読まずとも、ソフィはバートランドの話を信じた。ショックだった。そんなことをアンディが知ったらと思っただけで、ソフィの胸は押し潰されそうなほどだった。それと同時に、バートに対して卑怯だと感じた。そんな<奥の手>を使うことで自分を繋ぎ止めようとするなんて……ソフィはアンディがあんまり不憫で涙が出るし、混乱する頭を抱えて、翌日はほとんど半日、ベッドから起きて来ることが出来なかった。 


 そしてこのことの他に、ソフィが「頭が痛い」と思うのが、当然セスのことである。彼にはこうした事情を説明したところで、結局受け容れてはもらえないとわかっているからだ。


「おまえ、本当にあのしょうもない浮気症の夫には指一本触らせてないんだろうな?」ということに始まり、「あのお坊ちゃまもいいかげんいい歳なんだから、おまえのおっぱいが必要ってこともないだろうよ」などと、ぞんざいな口調で嫌なことばかりを言うのである。以前のセスはこんなにくどくどとねちっこい男だったろうかと、ソフィはこの話がはじまると最近では本当にノイローゼになりそうなほどだった。ほんの最初の頃は、セスのことを嫉妬させるのが少しばかり楽しくもあったが、今でもはもう「うんざり」の一言だったのである。


 バートランドは「離婚する気はない」の一点張りだし、セスは原稿の締め切り前になるといつでもヒステリー気味だし、アンディはついこの間まで顔を合わせれば意地悪く反抗的な態度で……ソフィは本当に、自分の人生はこんなことでこの先大丈夫なのかと心配になることが近頃多い。


 そしてアンディのあの一言――「父さんとも愛人ともうまくやって、僕からも愛情を欲しがるなんて、おばさんは欲張りすぎなんだよ!」……この言葉には本当にグサリときたものだった。第一、セスとよりを戻してからというもの、自分に愛人がいるという弱みから、ソフィはアンディと対等な関係ではいられなくなってしまった。


 だが、このことに関してもソフィは、実際にアンディと血が繋がっていたとしても同じように悩んだだろうと感じていたのである。つまり、お父さんの他に好きな人が出来たから、お父さんとは離婚して別の人と一緒になると母親が言い、息子はそのことに断固反対だということは世間でもきっとあることだろう。けれど、やはり普通の母親ならば、子供の願いを容れるに違いないのに、ソフィにその選択肢はなかった。


 セスとは磁石のように離れられない間柄だからといったことよりも、彼はとにかくソフィが元の通りに自分の自由にならない限りはなんとしても承知しない性分だったからである。


 夫のバートランドは石頭で頑固、セスは「とにかく早く離婚しろ」と、念仏のように同じことばかりを繰り返し、そしてアンディは臍を曲げたような態度をずっと取り続け――この三人の男の間で、ソフィはこの数年、どれほど心労を重ね、時に眠れぬ夜を過ごし、苦しんだことだろうかと述懐する。


 つまり、ソフィが言いたいのは、アンディが言ったような、夫からも愛人からもいい思いをさせてもらってるくせにといったような言葉は、この場合当てはまらないということだった。バートランドからは、「なんでも好きなものを買ってやるから離婚だけは思い留まれ」と顔を合わせれば説きつけられるし、セスはフィッシャー家の用のほうを自分よりも優先させるのかとその度に癇癪を起こすし、ソフィにとってずっと人生の癒しだったアンディは彼女からそっぽを向いて離れ去り……ソフィは時々、いつかこの三人とも自分の人生から去っていくのではないかという気がして、怖くなることがある。


 特に、ソフィはアンディのことでは体調を壊すほど思い悩んだ。久しぶりの休暇で顔を合わせた時、アンディが機嫌良く過ごしてそのまま帰った場合はいいのだが、何かのことでソフィをグサリと刺してから学校へ戻った時などは、彼女はいつまでもそのことをくよくよ思い悩んだものだった。


 アンディとの関係がうまくいかないようになってから、ソフィは睡眠薬と抗鬱薬を時々服むようになっている。今日のようにアンディが特にこれといってどうということもなく明るい態度ならいいのだが、彼の機嫌がソフィにはっきりと掴みかねることで下降線をくだりはじめると、彼女はそうした夜には睡眠薬を飲んで眠るようにしていた。そうでないとアンディの言ったあの言葉はこういう意味だったのかしら、それとも……とソフィは際限なく悩むことが多かったからである。


 けれどこの日、幸せそうなカップルの後ろ姿を眺めながら、自分にはもう睡眠薬も抗鬱薬も必要ないだろうとソフィは思った。今日も一応念のためにと思って鞄の中に入れては来たものの、運転による疲労と初めて会った客への気疲れから、今夜はぐっすり眠れそうだと、そんなふうに思っていたのである。


 そして実際、ソフィはその時、揺り椅子の上で束の間眠ってしまっていた。アンディが片付けが済んだことを知らせようとすると、ソフィは安らかな寝息を立てており――アンディは踵を返すと、ステラに「ちょっとふたりきりにさせてくれ」と頼むことにした。


 これからアンディは、ユトレイシアのフィッシャー家の本邸から大学に通う予定であり、ソフィもまたノースルイスから首都の屋敷へ移ってくることになっていた。ゆえに、アンディは愛する義理の母の寝顔を見ながら、(そんなに急ぐこともなかったのだろうか)と自分の立てた計画をもて余しはじめていた。


(まあ、大学へは最低四年、院のほうへ進めば六年通うとして……また昔と同じようにひとつ屋根の下でおばさんとは一緒に暮らせるんだ。その間に機会を見て……いや、僕はそこで、おばさんがいつあの男と会っているのか、正確に知るということになるのだろうか。第一、その四年か六年の間におばさんは父さんと離婚しそうだ。だとすれば、僕はどうすればいい?おばさんが父さんと離婚しそうになってから自分の思いを告げたほうがいいってことか?)


 そう思うのと同時にアンディは、もう待てなかったし、待ちたくもなかった。卒業式の時には、「長かったようであっという間の六年だった」などと思いもしたが、アンディにとってソフィに相応しい男として成長しなくてはならなかったこの六年という歳月は、やはり長いものだった。


「ソフィ、僕がソフィを愛してるって、知ってるだろ?」


 告白の練習というわけではなかったが、眠っている義母に向かって、彼女の手を握りしめながらアンディは囁いた。


「でも僕は、義理の息子としてじゃなく、ひとりの男として、異性としてソフィのことが好きなんだ。もうずっと前から、十四歳くらいの頃から、そう思って貴女のことを見つめ続けてきたんだ……」


 ソフィが一向目を覚ます様子がないため、彼女の手の甲や指の一本一本にアンディはキスしていった。そしてアンディはふと、ステラがいてくれて良かったと思った。もしそうじゃなかったとすれば、自分は今義母の唇にキスしたいという衝動を抑えきれなかったろうとわかっていた。


(そうだ、もう限界なんだ。ソフィは僕に、大学に合格したらなんでも欲しいものをくれるといった……だったら「貴女が欲しい」と、僕は言ってみるべきなんだ)


 アンディはまるで祈るようにして、自分の手と手の間にソフィの左手を挟み、額に押しつけた。自分はもう二度と、これほど深く誰かを愛することはないだろうとアンディにはわかっていた。そしてソフィはソフィで、そういう思いであのセスという男と離れられないのだろうと知ってもいる。けれど、愚かで滑稽であったかもしれないにせよ、アンディはソフィがあの男をではなく自分を選んでくれるのではないかとの、希望を捨て切ることがどうしても出来なかったのである。


「愛してる、ソフィ。この世界の誰よりも、あなたのことが好きだ」


 アンディがそう独り言を呟いた時、ソフィの目蓋が微かに動いた。アンディは義母の手を離して腕木に戻すと、スツールを少しばかり後ろへ押し戻した。


「あら、わたし、もしかして寝てた?」


「うん。物凄くぐっすりとね。おばさん、もしかして痩せた?」


 錯覚かもしれないが、軽い眩暈のようなものを覚えた気がして、ソフィは額を手で抑えてから、隣にいる義理の息子のほうを真っ直ぐに見た。


「もしかしたら、少し痩せたかもしれないわね。こころのところ、心労のようなものが多かったから……」


「心労って、どんな?」


 アンディの自殺した母親、フローレンス・フィッシャーのことを思いだし、ソフィは再び胸が痛んだ。ソフィはバートランドの言葉を疑っているわけではなかったが、何かアンディにとって救いになるようなことでも彼女の手紙の中に書かれていまいかと思い、本邸の金庫を開き、フローレンスの手紙を読んでいた。


 そこに、何か息子のアンディに聞かせていいような言葉は何もなかった。彼女は自分の人生に対する愚痴を書き連ね、終わりのほうでようやく幼い我が子に対し、『ごめんなさい、アンディ』と呼びかけていた。『お母さんはあなたのことが不憫です。お父さんはもしかしたらあなたにひどくつらく当たるかもしれないし、財産も分けてもらえないかもしれません。でもお母さんはいつまでも、あなたのことを見守っていますからね』……それから自分の罪の懺悔の文面が続き、最後にさようならというお別れの言葉でその遺書は閉じられていた。


「ううん、そんなに大したことでもないのよ。それより、ステラは?」


「彼女のことなら心配しなくていいよ。片付けが終わってから、二階へ上がったし、今ごろ上のバスルームでも使ってるんじゃないかな」


「そう。おばさんもそろそろ一階のお風呂を使おうかしら。でも、上と下の両方で同時にバスルームを使うと、シャワーの出が悪いのよね」


「そうだったね。あれ、いつのことだったっけ?おばさんが下でお風呂に入ってるって知らないで、僕も上の浴室を使っちゃってさ、イライラするくらいチョロチョロとしかお湯が出てこなくて、おばさんに「修理の人を呼んでよ!」って言いにいったら、おばさんもバスローブ姿で浴室から出てきて、「あんた、もしかして上でシャワー使ってた!?」なんて怒鳴ってさ……おばさん、頭にバスタオルを巻いたまま、真っ赤な顔で僕に怒ったっけ」


「そりゃそうよ。シャンプーが終わって、次にコンディショナーを流してる時にそんなことになったら、誰だって怒るわよ」


 アンディはなんとも言えない愛しげな眼差しでソフィのことを眺めた。『僕たちはきっと、離れられない運命なんだ』などと、そんな愛の言葉が心に浮かぶが、やはりアンディには口に出して言うことまでは出来ない。


「ちょっと待ってて、おばさん。上のステラの様子を見てくるよ。それで、彼女がシャワーを使ってるみたいだったら、使い終わった時にまた知らせにくるからね」


 アンディはソフィが口にした<心労>という言葉が気になったが、もしそれがセスという男に関することならば、彼女は決して自分には打ち明けまいとわかっていた。何故といえば、セスのことを遠まわしにでも口にするとアンディが激怒するということをソフィは随分前から学習していたからである。


 ソフィはこの時、アンディがまた昔通りの優しさを示してくれたことが嬉しかった。ソフィは義理の息子の感情のむら気――先ほどまで笑っていたかと思えば、彼女が思ってもみない瞬間に突然不機嫌になる――は、もしかしたら寄宿舎生活のストレスによるところが大きかったのだろうかなどと思ったりしていたが、もしソフィがその言葉を口にしていたとすれば、アンディは明日一日彼女に何かの罰でも与えるようにステラとばかり話をし、義理の母とはあまり口を聞かなかったに違いない。


 ソフィはいまだに、このひとつのことを理解していなかった。もし、セスがもう一度彼女の前に現れなかったとしたら、アンディとは一度もぎくしゃくすることなく、実の母子以上にいつでも仲が良く、アンディはいくらでも気前良く優しく出来たのだということに、ついぞ思い至らなかったのである。そしてアンディのほうでは何よりもそのことでイライラし、感情が一定せず、何かの拍子に「おばさんはまるでわかってない」ということがわかるなり、態度が硬化し、意地が悪くなるのである。


 けれどソフィはこの時もまた、自分にとって都合のいいように解釈し、アンディは大学にも合格したし、これからは心に余裕も出来て、また昔と同じように彼と仲良く暮らしていかれるだろうといったように、何かそんな希望的観測しか彼女は持っていなかったようである。




 >>続く。






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