第2章
ソフィは<ル・アルビ>で正社員となって半年もした頃には、店の仕事にもすっかり慣れ、彼女目当てにやって来る客も随分増えていた。
まだアルバイトだった時分には、ソフィは客のオーダーを取ったり、その品物を運んだり、裏方業務としては食器洗いするといった程度だったのだが――<ル・アルビ>のマスターは彼女が掃除をするのにもしっかり手を抜かないのを見て、次に調理の仕事を彼女に覚えさせようとした。
「えっ!?そんなの絶対無理ですよ、マスター!!」
まず最初は、セットのランチメニューにつけるサラダを作ってみろとジョン(ジョン・マクファーレンというのがマスターの名前だった)に言われ、ソフィはすっかり狼狽してしまった。
「まずはこれが見本だ」
そう言ってジョンは、透明なクリスタルの鉢にささっとレタスときゅうり、ささみやアボガド、トマトなどを適当に切って盛り付けた。見た感じとしては、実に簡単そうな作業である。けれど、ソフィはこれまでアルマを手伝って料理を作ったりしたことがほとんどなかった。というのも、アルマは家事全般についてあまりに器用すぎる万能主婦であり、ソフィが何か手伝おうとしても「あんたがキッチンにいるだけでイライラする!」と、娘を台所から追い出してしまうほどだったからである。
「へへっ、ソフィちゃん。これも花嫁修業と思って頑張りな」
きゅうりは幅が太く、トマトは潰れ、レタスやアボガド、アスパラガスもまったくひどい有様だった。もしこれをそのまま客に出したとすれば苦情が来ただろう。
「ジョン、そのお嬢ちゃんの失敗作、ただでいいんなら、俺が食ってやるよ」
毎日必ず決まった時間にやって来る常連客が、カウンターからソフィの手元を覗きこみ、そんなふうにからかった。<ル・アルビ>は奥のほうに隠れた形で厨房があるのだが、コーヒーや紅茶、あるいはサラダやパフェといったものは、カウンターと向かい合わせになっているキッチンで作るようになっている。
「あ~あ。確かにこりゃひどいな。君のママは、娘に包丁を握らせたことが一度もなかったのかい?」
ソフィのことを五分ほど放置したのち、ドリアを二人前トレイにのせたマスターが厨房から戻ってくる。
「あの、マスターっ!!わたし、調理師の免許を持ってるってわけじゃありませんし、今まで通り店の掃除と食器洗い、それにオーダーを取ったりとか、そんな仕事だけしてたいんですけど」
いかにも不満顔でソフィが口を尖らせると、ジョンはもうひとつ分サラダをすぐに作り、「ドリアセット」に付けた。若い女性客ふたりが注文したもので、食べ終わった頃を見計らい、次は食後にデザートとコーヒーを出さなければならない。
「いいから、とにかくうちのドレッシングを付けて運んで」
いつもは優しいマスターが、何故なのだろう、その日を境にとても冷たく、そして厳しくなったとソフィは気づいていた。それは午前中にあった出来事だったが、午後二時頃に客が減ると、今度ソフィは初めて厨房に呼ばれることになった。
昼食のピークがすぎ、厨房の洗い場に山と溜まったフライパンなどを洗えというわけだった。
正直、それもまた今までしたことのない仕事であっただけに――ソフィは心の中で不満が募るものを感じたが、それでもまだ許容できる範囲だと思って我慢した。けれど、その翌日に今度は「スパゲッティを作ってごらん」と言われ、ソフィは切れそうになった。
「あのっ、サラダとかパフェとか、ちょっとした軽いものならわかりますよ。でもきのうも言ったとおり、わたし、調理師免許を持ってるってわけでもありませんし……」
「嫌なら、やめてくれて結構。君の前にうちで正社員をしてたマグダはね、そりゃ料理上手だったよ。客によっては僕より彼女が作ったほうがうまいって言う人もいるくらいだった。確かに、厨房の仕事に時間を取られると、客からもらえるチップは減る。けど、僕はそのくらいの給料を君に支払ってるはずだし、いつまでもバイト気分でいられたんじゃ困るんだ」
「……………」
ソフィは言い返す言葉を失い、その日から、マスターから厳しく調理仕事を教わるということになった。季節は五月のことではあったが、厨房の暑さでメイクははげ落ちるわ、体中汗だくになるわで、そのせいもあり、ソフィはある瞬間にブチ切れていた。
「もう嫌っ、こんなの!!わたし出来ない!!」
その何日か前から、ソフィはほとんど料理ノイローゼとも言うべき状態に陥っていた。店で客のオーダーが何か入るたび、自分が何を作らねばならないかとドキドキし通しだった。店のメニューに三十種類以上も書かれている紅茶やコーヒーの入れ方ならばすべて覚えた。それと、トースト類やパフェ類も大体のところ完璧に作ることが出来る。けれどやはり、ソフィは包丁を手に握る作業が苦手なままだった。
ソフィが突然フライパンの上のジェノベーゼ・パスタを床にひっくり返すと、すぐそばでピザをオーブンから出していたジョンも、流石にこの時ばかりは驚いた。
「オリビア、ちょっとこっちに来てくれ」
その日はフロア担当だった正社員のオリビアが、ナプキンを折る手を止めて厨房へやって来た。<ル・アルビ>にはソフィの他に二名の正社員がおり、マスターが二階で休憩を取っている時などは、彼女たちがジョンの代わりを果たして采配を振るうのである。
ジョンは泣きじゃくるソフィのことを、二階の一室へと連れていった。そして自分の母親にフレンチトーストを作ってくれと頼むと、喫茶店の事務室を兼ねた部屋で、彼は半年ほど前に正社員に昇格した従業員と向きあった。
「君がこの部屋で面接を受けたのは、いつのことだったったっけ?」
「一年以上前です……」
ヘビースモーカーのジョンは、副流煙の害のことを考えるでもなく、十代の若い娘の前で、煙草を一本吸いはじめる。
「もう、そんなになるかあ。正直僕はね、君はこの仕事、そんなに続かないと思ってたんだ。実際、君がいたこの一年の間にも結構人が入れ替わったろ?大抵の子がね、軽い腰掛け程度の気持ちでするものなんだよ、ウェイトレスなんてね。こっちもそんなのに慣れちまってるもんだから、経歴とかなんとか気にせずに、まずはとりあえず雇うんだよ。最初、この店を母さんと始めた頃はさ、「この子は真面目そうだから長続きしそう」とか思って雇うんだけど、そういう子に限ってすぐ辞めちゃったりね……かと思えばさ、君みたいに「たぶんすぐ辞めるな」って思ってた子が突然、「正社員になりたい」なんて言い出すし。世の中、わかんないもんだ」
「すみません、あの、わたし……癇癪起こしちゃって。家に帰ってからも練習してるんですけど、母さんが言うにはわたし、たぶん「料理オンチ」なんじゃないかって」
「料理オンチか。確かにな」
そう言ってジョンが、半ば呆れ気味に笑っていると、銀の髪を後ろにひっつめた小柄なおばあさんが、「ジョン、ここにトーストとコーヒー、置いてくよ」と大声で言って、いつも手にしている杖でドアをノックしていった。
廊下に置かれたワゴンをジョンが持ってくると、バターの溶ける良い香りとコーヒーのどこかふくよかな香りが鼻をつく。
「まあ、うちの母さんのフレンチトーストを食べてみるといい。ジェイがいつも言ってる、<幻のフレンチトースト>をさ」
ジェイというのは、いつも大体十二時頃店にやってくる、近くの自動車工場の整備工だった。ジョンと同じく四十を過ぎているが独身で、頭が禿げ上がってるせいで年齢以上に老けてみえる男だった。
『ソフィちゃんのトーストの味はイマイチなんだよな。もし機会があったら、ジョンのお母さんにフレンチトーストの作り方を教わったらいい。ありゃもう<幻のフレンチトースト>ってくらい、美味い代物なんだから』
「どう?美味しいだろう?」
バターがほどよく染み透ったトーストも美味しければ、上にのったオムレツの味も格別で、ソフィはただ阿呆のようにこくこくと何度も頷いた。自分の絶望的な料理の下手さ加減のことなど、一瞬どこかへ吹き飛んでしまう。
「これまでろくに包丁も握ったことのない人間が、たかが半月くらいでいきなり料理上手になれるとは、僕も思ってないよ。けどまあ君には、今時の若い子にありがちなところが特にこれといってなかった。僕が厨房にこもりきりなのをいいことに、適当に掃除をさぼってみたりとか、そういうところがね。だから僕は君にもっと責任の重い仕事を任せることにしたわけさ。まあ、唯一ちょっと胸を見せびらかしすぎかなとは思ったけど、君はどうも純粋にチップ欲しさのために谷間を強調してるだけのようだからね」
「えっと、これは別に、その……」
ソフィは急に何かが恥かしくなり、胸のあたりを両手でかきあわせた。エプロンの下のTシャツは胸ぐりが大きく開いており、彼女のDカップある胸の谷間が覗いている。他のウェイトレスを見ていて気づいたことなのだが、やはりズボンをはいているよりもミニスカート姿のウェイトレスのほうに、チップというのは多く支払われるものらしい。そんなわけで、ソフィも膝上十センチほどのスカートをいつも着ていた。
「いやまあ、見てればわかるから、別に気にしなくていいよ。それに君のさり気ない色気はまだ全然許容範囲内だ。何しろ、アナベラほどひどくはないからね」
そう言ってマスターは、灰皿に煙草の灰を落として笑った。仮にも店の責任者が従業員のことを悪く言うのはどうかという話だったが、実際のところアナべラ=ロペスのことは、<ついうっかり>雇ってしまったが、なるべく早く辞めてもらいたいと、ジョンはそう思っているに違いない。
というのも、このアナべラ=ロペス、客に胸やお尻を触ることを許すし、何かの拍子に男性客の膝の上にのってみたりと、多額のチップのためならなんでもするという娘だったのである。年齢のほうは二十三歳で、綺麗な顔立ちをしているが鼻の横に大きなほくろがあり、チップが十分溜まったら美容整形してほくろを取る予定だと、アナべラはいつも休憩室で言っていた。
「おい、ジョン。あれとやるには俺は一体いくら払えばいい?」
常連客たちは、アナべラに色気をふりまかれるたびにそう軽口を叩いたが、マスターのジョンのほうではただ、困ったように首を振るばかりだった。
「うちはお触りバーでもなければ、娼婦の斡旋所でもないんだがな」というのが、ジョンの言ういつものお決まりの科白だった。
この日、ソフィは美味しいフレンチトーストとコーヒーを食べ終わると、「今日はもう帰っていいよ」と言われ、明日からまた頑張る旨をジョンに伝えると、<ル・アルビ>を後にした。期待しているからこそ、厳しくした……ジョンのその気持ちが一度わかると、どうにか彼の信頼に答えたいと思ったし、そのようなわけでソフィは帰り道でサラダ作りの練習用の野菜や、パスタの麺などを購入してから家へ帰ることになった。
アルマが厳しく横で猛特訓した甲斐あってか、この三か月ほどのちに、ソフィの料理の腕は以前より相当ましなものになった。そして姉のクレアは何故か、自分が叱られずに珍しく妹がこっぴどく母にやりこめられるのを見て、喜んでいる様子だった。「今日のソフィちゃんは悪い子ね!でもクレアはとってもいい子!」……そう言って上機嫌でミートソースを食べていたが、フォークをあんまり無意味にくるくるさせたせいか、周囲に汁が飛び散り――結局は「汚い食べ方をするんじゃないよ!この馬鹿たれが!!」と、アルマからげんこつを食らう羽目となった。
* * * * * * *
(働くというのは、実際とても大変なことだ)
正社員となってから半年後、フロアに出るよりも厨房や台所仕事が増えた結果として、ソフィはしみじみそう感じるようになった。
そして以前まではよくわからなかったこと――他の正社員であるシンディやオリビアが何故いつもああも仏頂面をしているのか、その理由もわかるようになっていた。
厨房に入っている時はともかくとして、台所の前にいる時には、カウンターの客に多少の愛想笑いくらいは必要かもしれない。けれど彼女たちはふたりとも、大抵はどの客に対しても素っ気なく、ただ忙しく立ち働いてはオーダーされたものを作るのみだった。
そしてたまに無能なウェイトレスが何かの間違いをしでかすと、小さな声で悪態をついた。これに対し、バイトのウェイトレスたちは「おばさんたち、気が立ちすぎ」などと言って陰でよく笑っていたのだが、今のソフィはもう彼女たちを笑えなかった。
何故といって、ソフィ自身もまた――喫茶店で週五日、八時間以上働くことに今ではすっかり生活の疲れのようなものを覚えはじめていたからだ。早番担当の時には、十時開店の一時間前に入ってくまなく掃除を済ませなくてはならないし、遅番の時には遅番の時で、閉店時間の十一時を過ぎても、何やかやの後片付けで結局帰れるのは零時過ぎになることが多い。
そうした生活の中で、ソフィが何より感心したのがマスターの真面目で誠実な働きぶりだったろうか。早番の時に店に入ると、ジョンはすでに厨房の中で仕込みの仕事をしていたし、昼時のピークが過ぎるまでは大抵そのままずっと調理の仕事をし、大体二時か三時頃に上へあがって休むと、次は七時くらいに下へおりてきて、閉店まで仕事をするのである。
<ル・アルビ>は火曜日が定休日だったので、マスターはその日だけはゆっくり休めるのだろうとばかりソフィは思っていたが、話を聞いているとどうもそういうことでもないらしい。
「えっと、じゃあ冷蔵庫にあるチョコレートケーキとかレアチーズケーキなんかは、マスターが休みの日に作ってるんですか!?」
店のメニューにある大抵のものが作れるようになったソフィではあったが、その頃よく考えてみるとケーキだけは作ったことがないとふと気づき、その疑問をジョンにぶつけた時のことだった。
「うん、そうだね。ある程度日持ちするようなものは、休みの日に基本のものを仕込んでおくんだよ。他に、君たちに支払うべき給料の計算とかさ、休みの日しか出来ないようなことをしたりするから、休みなんていっても、実際はまあ大して休んだような感じじゃないかもしれないね」
「でも……大変っていうか、つらいなとか、時々思いません?」
洗ってぴかぴかにしたコーヒーカップを保温器に沈めながら、客が引いてある程度暇になった時にソフィはそう聞いていた。怒涛のランチタイムが終わり、あとは後片付けさえ済めば御の字……などと、ソフィが思っていた時のことだった。
「べつに。もうこんな生活を十何年も送ってればね、これが普通みたいになってすっかり慣れっこになるよ。自分の店を持った時からこのくらいのことは覚悟してたし、うちは父親も料理人だったから、客に料理をだすことで自分が食ってくってのは大変なことだってのも最初からよくわかってた。唯一この仕事で困るのは、嫁の来てがないってことくらいかねえ」
横で溜息を着きながらグラスを磨くジョンがなんとなく気の毒になり、(オリビアなんてどうですか?)と、ソフィはよほど言ってしまいたい衝動に駆られた。
これはもうひとりの正社員であるシンディ=ワイスから聞いたことなのだが――オリビアにはその気があるのに、ジョンがなかなか誘いにのってこないということだった。
「休みの日にそれとなくデートしないかって誘ったことがあるんだけど、いつも忙しいって言われて終わりなんだってさ。その割に本人、あたしたちの前で「僕みたいなとこには嫁の来てがない」とかってよく言うじゃん。だからさ、ソフィも気をつけなよ。「ジョンったら可哀想に!そんならわたしが慰めてあげてよ」……なんて思ったところで、向こうには実際のところ、その気はないんだからさ」
隣で仕事をしているとよくわかるのだが、ジョンは男っぷりもいいし、一見優男風に見えるのにテキパキした物言いでカウンターの客をいなしたりと、人間としても魅力的で面白いとソフィは思っている。とはいえ、歳が離れすぎているせいか、ジョンのほうではソフィを「子供」としか思ってないようだったし、ソフィのほうでもそう思われているとわかるので、恋愛対象としてジョンを見るということはなかった。
そこで、今度はオリビアと休憩室で一緒になった時に、「ジョンが好きなら協力する」と持ちかけてみることにしたのである。
「ダメよ、あんな親父、全然っ!!」
早番と遅番が入れ替わる時間帯の時に、早番だったソフィは遅番のオリビアが休憩室にいるのを見かけ、そう話しかけてみた。
「少なくともね、二階にいるババアが死なない限りは絶対無理よ。火曜日はいつも、ババアのことを病院に連れてく日だからとか言って断られるの。「じゃあ、いつならいいの?」って聞いてみたけど、「自分にもうひとつ体があればね」とか、そんなことしか言わないんだから、ジョンは。ようするにあれよ、あいつは単に楽しんでるだけなのよ。こういう商売って結局、人の出入りが激しいじゃない?だから、なんとなーくウェイトレスの子たちに、「自分は孤独な独身者」みたいに言ってさ、向こうがちょっとその気になるのを見て楽しんでるんじゃない?で、自分もまだ男として捨てたもんでもないな……とか思って、自己満足に浸ると。まあわたしもね、二階にあのババアがいないんだったら、ジョンのところに押しかけていってもいいわよ。けど、あのババアがなんかの守り神よろしく、この喫茶店に張り付いてるうちは無理だわね」
オリビアは煙草をスパスパ吸いながらそこまで言い切ると、ちらと壁の時計を見て、身支度をはじめた。ウェーブのかかった黒髪を高く結い上げ、耳に大きなイヤリングをつけているオリビアは、どことなくエキゾチックな顔立ちをしていて、とても綺麗だった。
<ル・アルビ>で働きはじめて八年にもなるという、店の従業員としては最古参の古株にあたる。喫茶店の常連客はオリビアの気持ちを知っているので、彼女とジョンがふたり台所に立っていたりすると、「なんだかまるで夫婦みたいじゃねえか」などと言ってからかうのだが、「オリビアに失礼なことを言うなよ」と言って、ジョンのほうではまるで取り合わないらしかった。
(そうかあ、なるほどねえ。時々オリビアがバイトのウェイトレスにきつく当たるのには、そんな理由があったのかも……アナべラほどあからさまじゃなくても、ジョンはなんとなく色目を使われたりするほうだから、わざと厳しくしてジョンに近づけないようにしてたのかしら)
そしてソフィは、オリビアが何故「二階のババアが死ななきゃ無理」と言ったのかも、わかっているつもりだった。美味しいフレンチトーストとオムレツを作るのが得意なジュディ=マクファーレンは、確かにオリビアの言うとおり<ル・アルビ>の守り神的存在だった。というのも、ジュディは時々階下の喫茶店に下りてきては、従業員の接客態度をじっと観察し、監督することがあったからである。
ソフィもまったく同じことをされたのだが、ジュディは「自分が客だと思って接客しなさい」と厳しい教師のような口調で言い、「コーヒーを出す時はそっち側からじゃない!」だの、「スプーンとフォークの置き方が曲がってる!」だのと注意しては、<腰掛け程度>の気持ちで仕事をしている小娘どもを震え上がらせるのだった。
ただ、ジョン同様、ジュディにはどこか人間として心惹かれるところがあるとソフィは思っていた。彼女はいつも右手に魔術にでも使うような杖を持ち、足にはディオールの虹色の靴をはいて二階から下りてきた。髪は常に一筋の乱れなくひっつめており、服装のほうも地味ではあったが、体が小柄なせいだろうか、その虹色の靴と天然木の杖の効果により、ジュディにはどこか魔法使いか妖精の力を思わせる雰囲気が備わっていたといえる。
ある日のこと、やはりまたジュディはのろのろと階段を二階から下りてきてドアのところに立ち、こう叫んだものである。
「この店じゃヨボヨボのババアを率先して案内しようっていう従業員が、ひとりもいないっていうのかい!!」
この時点で、カウンターにいた常連客は「またはじまった」と言って目配せしあったり、意味ありげに笑ったりしていた。
新顔の若いウェイトレスの中には、あからさまに「なんなのよ、このババア」という顔をした娘がおり、大抵ジュディの犠牲になるのはそうしたウェイトレスとなる場合が多い。
「そこの小娘っ、暇だからといってただブラブラだらしなく突っ立ってるんじゃないっ!!ナプキン折りでも食器磨きでもなんでも、その気になれば出来ることはいくらでもあるだろうからね。さあさ、そこの見たことのない娘さん、こっちに来てあたしのことを接客してもらおうじゃないかね」
最初に「なんなのよ、このババア」という顔をしたウェイトレスが、「あたし?」といったように、自分の顔を指さす。すでにこの<洗礼>の儀式を終えているウェイトレスたちは、ただ意味ありげにくすくす笑うのみだった。
<ル・アルビ>には、宴会用の広めの部屋が一室と、個室として使える場所が二部屋あったが、この個室として使える部屋のひとつにウェイトレスが哀れな生贄よろしく入っていくと、途端にそこからジュディの金切り声が響いてくる。
そして食前のスープを運んだり、メインディッシュの品などを運んでいるうちに――まだここへ来て間もないコ二ー・メレディスの瞳には涙が浮かび、彼女はついには首からエプロン紐を外すと、泣きながら店を出ていってしまったのである。
「ふん!今時の小娘ってのは、あの程度のことで仕事が嫌になって辞めちまうのかね」
ジュディはまるで一仕事片付けたとばかり、偉ぶったような尊大な態度でカウンターのスツールに座ると、にやにや笑っているジェイ・コックスの青いツナギ服を見て鼻を鳴らした。
「おお、嘆かわしい禿がここにひとりいるよ!四十を過ぎて結婚もせず子なし……このろくでなしは一体何が楽しくて、毎日生きてるんだろうね?」
「そう意地悪言わんでくれよ、ジュディばあや。俺っちだってこう見えて、工場長として日々この胸にのししかる心労ってものがあるんだからさ。俺の頭がこうも早く禿げたのはまああれだ。仕事の苦労ってやつが胸にのしかかるあまり、頭髪が毎日人より多く抜けていったんだろうよ」
「仕事の苦労が聞いて呆れるよ!おまえさん、うちの息子を時々夜の盛り場に連れだしてるそうじゃないか。ジョンが横にいたほうが女性の引っかかる確率が上がるだって?まったく、人の息子をおかしな道へ連れこまないでもらいたいもんだね!」
このジュディばあやの一言は、オリビアにも聞き捨てならなかったようで、洗った皿を拭いていたオリビアは、その手を止めてジェイのことをじっと睨んでいた。
「う、ウォッホン。そんじゃあ俺もそろそろ戻って、仕事の続きをしようかなっと」
ジェイは読んでいた新聞を畳むと、珍しく元あったマガジンラックのところへ置いて、そのまま店を出ていった。ジェイは月に一回、給料日にまとめて会計を支払うので、いつもフリーパスでやって来て、そのまま出ていくという客だった。
この日ソフィは厨房の担当だったので、次から次へと入るオーダーを捌いたあとは、流しに溜まったフライパンや鍋を最後に洗っていたのだが――厨房には、カウンターへ続くドアの他にもうひとつ、出来上がった食事を出すための小窓があるため、外で何が起きているかは丸聞こえなのである。
「ジョン、コ二ーのこと、どうするんですか?」
「そうだねえ。まあ、あとで電話でもしとくよ。もし仮に辞めるんだとしても、今日まで働いてくれたお給料のこともあるしね」
ソフィはこの時、シンディやオリビアが「ジョンは楽しんでる」と言った言葉の意味が、初めてわかった気がした。もともと、客に苦情を言われたり、そそっかしいウェイトレスが注文の聞き間違えをしたといった時でも、ジョンが怒った場面というのを、ソフィは一度も見たことがない。客の前では神妙な顔をして「申し訳ありません」とあやまったりするのだが、そのあとはいつもどこかケロリとした顔をしており、すぐまた<仕事を楽しむ>姿勢に戻るのである。
そういう時、ソフィはジョンに対して尊敬の気持ちを覚えるのだったが、コ二ーのことを追って慰めるよう部下に指示を出すでもなく、母親の罵声を楽しんでいる彼のことを見て、初めてジョンに対する尊敬の気持ちが揺らぐのを感じた。
とはいえ、汚れのこびりついた油まみれのフライパンと格闘するのに忙しく、そんなこともすぐ忘れてしまったのだが――どうやらジュディはこの日、初めてアナべラの<必殺技>を間近で見たらしく、厨房の小窓からはこんな金切り声が飛んできた。
「一体なんだい、この馬鹿娘は!?わざと大きく屈んでパンツを見せることで客から金もらってんのかい!?うちはあやしげな性のサロンじゃないんだよっ!!あんたみたいな娘は今すぐクビだよ、クビッ!!」
「ジョン……」
ソフィは仕事に集中できず、ステンレスの台の前で下ごしらえするジョンを振り返ったのだが――彼の姿はそこになかった。もちろん、「うちの母さんがすまない、アナべラ」なんていうことを、彼は厨房から飛び出して伝えにいったのではない。
ジョンはただ、自分が常日頃言いたいことを母親が代わりに言ってくれたのがおかしくて、その場に蹲り、必死に笑いを堪えていたのだった。
* * * * * * *
ソフィはさらにその後三半年、アルバイト時代も含めると計五年、<ル・アルビ>で働くということになった。
その頃にはもう、シンディに次ぐ店のナンバー2といった立場を与えられ、ジョンからは「僕が突然死しても君たちがいれば大丈夫」などと言われるような、そのくらいの能力と采配を店内で揮うまでになっていたといえる。
その後オリビアは店を辞めてしまった。ジョンの態度がいつまでたっても煮え切らないままなので、諦めることにしたと彼女は言った。「結局、あの元気なババアはまだまだ二十年くらい生き続けそうだし、仮にジョンとうまくいってもあのババアがいる限りは結婚なんて絶対無理よ」と、オリビアは最後にそう言い残していた。
「俺ってマザコンだな~なんて、ジョンは思うことないの?」
勤務年数が長くなるにつれ、シンディ同様ソフィもまた、ジョンと明け透けなジョークを交わすくらいの仲となり、今では三人は仕事上のなくてはならないチームのようにすらなっていた。
「そうだなあ。でも結局、男ってのはみんなマザコンなんじゃないの?僕はね、マザコンっていうよりも、おふくろにはある種の恩義を感じてるっていうそれだけだよ。ここの店をオープンしてから、おふくろはありとあらゆる力を尽くしてくれた。で、ようやく店が軌道にのったって頃に足まで悪くしてさ、それまでほとんど休まず働きづめだった母親に対し、息子として当然のことをしてるっていう、それだけだよ」
「ふうん。でもそれだと、奥さんが逃げたのも無理ないかも……ジョンがあんまり彼女を庇ってあげずに無言のうちにもお母さんの味方をしたから、それが浮気の原因だったんじゃない?」
「言うようになったね、君も。まったく、こうやって女って生き物はだんだん可愛げがなくなっていくんだ。僕はもう結婚なんてコリゴリだね。それが僕が再婚したいと思わない、一番の理由だよ」
ソフィが肩を竦めて「そうですか」というように応じると、店のドアにかかった鈴が来客を知らせた。時計を見ると二時十五分だった。(あ、忘れてた)と、ソフィはふと心の中で思う。ランチタイムの慌ただしさが過ぎ去った頃、いつも太った体格のいい一言もしゃべらない客がやって来る。ジョンは彼のことを「ミステリアスな客のひとり」と呼び、彼には注文伺いするような無礼な真似をしないよう、従業員一同に周知徹底していた。
実をいうと、この種の常連客が<ル・アルビ>には数名おり、ほぼ毎日やって来て頼む物もいつも同じ……といった客には、いちいち注文伺いなどしない。それでも、毎日何故か二時十五分ぴったりにやって来るこの人物は、そうした客の中でも一番謎めいていた。
というのも、何も知らない新顔のウェイトレスが、やはりついうっかり注文を聞いてしまうというのはあるものだ。そういう時、相手のほうでも「いつものって言えばマスターにはわかるよ」とか、何がしかの反応が返ってくるのが普通だろう。
だがこの、六十過ぎくらいに見える、いつも大体ポロシャツにチノパンといった格好の客は、ウェイトレスが「あのう……」とか「ご注文は……」と聞いても、一切無視するのである。「もしかして唖なのかと思って、紙に「ご注文は?」って書いて渡したら、あのもじゃもじゃの眉の下の目が、烈火の如く怒っちゃって。これみよがしにバサァッと大きく新聞を広げてね、やっぱり何も答えようとしないのよ。絶対変よ、あのおっさん」――というのが、ウェイトレスたちの彼に対する概ねの感慨だった。
毎日食べるものは、アップルパイとコーヒーで、ムシャッと食べてはまた新聞を見、ムシャッと食べてはコーヒーをすすり……そして三時という時間が訪れると、またぴたっと同時刻に黙って店を去っていく。もちろん、テーブルの上には釣り銭が必要ないように、ぴったりの金額がいつも置いてある。
「おっと、今度は君のプリンス・チャーミングじゃないか」
また店内に鈴の音が響き渡ると、ジョンはそんなふうに言ってソフィのことをからかった。店の茶色のドアの向こうからは、アメフト選手のように体格のいい青年が現れ、いつも通りダブルのスーツ姿でカウンターのスツールに座っていた。
「ジョン、変なこと言わないでくださいね」
アップルパイとコーヒーの準備が整い、例の<ミステリアスな客>のところまで持っていくと、ソフィはジョンがプリンス・チャーミングと呼んだ客のところまで注文を聞きにいく。
「えっと、このチキンと野菜のカレーとサラダ、それにコーヒーをくれないかな」
「かしこまりました」
ジョンが<プリンス・チャーミング>と呼んだ客は、特に何曜日と決まっているのではないが、必ず週に二三度は顔を見せる客だった。常連客のジェイなどは、昼休みだけでなく仕事が終わったあとも暇な時は<ル・アルビ>に入り浸っているため――彼とカウンターで顔を合わせる回数が増えるにつけ、(ははーん)とあることに気づいていた。
また他の従業員たちもまた、彼がおそらくはソフィ目当てで店に来るのだろうと勘づいており、ソフィが厨房担当の時でもわざわざ呼びに来て、「これもお客さんへのサービスですよ」などと言ってはその男と話をさせようとした。
「あれ、絶対ソフィに気があるって」
ロッカーの並ぶ小さな休憩室で、仕事終わりに着替えをしながらシンディがそう言った。彼女は三十六歳のシングルマザーであり、子供を母親に預けて<ル・アルビ>に働きに来ているのだった。
赤毛に明るいサファイアの瞳の、いつも髪をポニーテールにしている、こざっぱりした性格の女性だった。小柄なせいか、実際よりもずっと若く見える。
「みんな気持ち悪いくらい同じことを言うんだけど……でもあの人、べつにこれといって特別なことを話すってわけでもないのよ。それに第一、全然好みじゃないの。わたしああいう脳細胞まで筋肉で出来てそうなマッチョな人って好きじゃないもの。あの体格からいって、たぶん週に最低二度くらいはジムとかいってるんじゃない?『僕の筋肉最高!』とか言って、鏡の前でポーズを決めるタイプよ、絶対」
「何よ、それ」と言って、シンディが吹き出す。「なんにしても、そのくらい妄想する程度にはソフィもあの人のことが気になってるんじゃない。そのうちたぶん、花なんか手に持ってさ、「今度お食事でも……」とか言いそうな気がするな。なんの仕事してるのかは知らないけど、毎回来るたんびに絶対ダブルのスーツ着てるんだよねえ。しかもなんか香水までつけてるじゃん。あの気障ったらしく見えるところさえなければ、職業次第であたしならつきあってもいいな」
そんな話をしながらシンディとソフィが着替えを終え、店の裏口から出ようとした時のことだった。暗がりからぬっと巨体が出てきたかと思うと、シンディの予言通り、ダブルのスーツ男が薔薇の花束を手に、ソフィのほうへ歩み寄ってくる。
(うわ、気障……!!)と、シンディも思ったらしいことが、ソフィにも顔を見てすぐにわかった。けれどシンディは気を利かせ、「じゃあまた来週ね」と言って、店のすぐそばの駐車場のほうへ走っていった。ソフィは仕事が終わるとシンディかジョンに車で送ってもらうことが多かったが、この日シンディはさっさと一人で帰ったわけだった。
「あの、これ、わたしに……?」
背景の闇に溶けた樹木と同じくらい、黒い髪、黒い瞳の謎の男は、何本あるのかもわからない赤い薔薇の花束を、ただ黙ってソフィに手渡す。
「その、いつも親切にしてくださるお礼です」
「親切っていっても……お客さんなんですから、当然ですよ。それが仕事なんですから」
ソフィは正直この時、困惑しきっていた。何分、時刻はすでに零時を過ぎており、バスも通ってなければ地下鉄もそろそろ閉まる頃合だった。最悪、タクシーで帰らなければならないが、もしそうした場合、今日の稼ぎの半分くらいが飛ぶ計算になるだろう。
「もしお嫌でなかったら、送らせてください。いつもソフィさんはマスターのあの方か、さっきの同僚の女性に送っていただくんですよね?」
(何故知っているのだろう)と、ソフィは少し怖くなった。もしかしてこれが、いわゆるストーカーというものだったりするのだろうか?
「そんなに、警戒しないでください。ただ、あなたが休憩を取ってる時に、マスターがシンディさんと今日はどっちが送ってくかって話してるのをカウンターで小耳に挟んだっていう、それだけなんです」
「そうなんですか」
ソフィは幾分ほっとしたが、それでも見るからに高級そうな薔薇の花束に目を落とし、暗い気持ちになった。ジェイが前に、『あの気障っちいダブルの野郎、ソフィちゃんのことを舐めるような視線で追ってたぞ』と笑っていたことがあるが、男には確かに粘着系の何かが内に潜んでいるように感じられたからである。
(でも、シンディにも顔を見られてるわけだから、今日もしわたしが殺されたりしたら、すぐ警察に捕まるってことはこの人にもわかるはずだし……)
男が店の近くに止めたという車まで案内する間、ソフィはそんなことまで考え始めていたが、男がメルセデスの黒い車体の前で立ち止まった瞬間――ようやくはっきりと、どうやら彼はうさんくさい人物ではないらしいという判断がついた。
(それでも、油断しちゃダメよ。もしかしたら、ただの借り物かもしれないんだし。でもこの人、もしかして結構なお金持ちだったりするのかしら?)
ソフィの脳裏にはすぐ、男が会員制の高級スポーツクラブで体を鍛える様子が浮かんできて、思わずおかしくなったが、どうにか笑いを堪えて無表情を装う。
「お住まいは、どちらのほうになるんですか?」
「えっと、南のラムゼイローのほうなんですけど……治安のあまりよくないところですので、わたしを下ろしたらすぐ、走り去ってくださいね。他の車ならともかく、こういう高級車が止めてあると、すぐ傷をつけられたりしますから」
「ラムゼイロー!」と、男は口の中でつぶやいていた。その言い方から察するに、おそらく(貧乏人が多く住むあの地区)といったように、彼は軽蔑したに違いなかった。けれどソフィは、そんなことでこの男が自分に幻滅を覚えるようならそれまでだと思い、少しほっとしたかもしれない。
三十分ほど車を走らせる間、彼は自分の名前や職業のことなどを順に説明していった。名前のほうはウィリアム=レッドメインと言い、レッドメイン・ホールディングスの次期社長として修行を積むため、現在は父親の秘書のような仕事をしているとのことだった。
「趣味はゴルフと乗馬です。好きな音楽はクラシックやオペラなんですが、たまにはジャズも聴きますよ。僕のこと、きっとお堅くてつまらない人間だと思うでしょうが……退屈な男はやっぱり、ソフィさんもお嫌いですか?」
(退屈な男が好きだなんて女性、この世界にいるものかしら)
赤い薔薇のビロードのような花びらに目を落としたまま、ソフィはそう思った。だがこの広い世の中には、退屈な男と結婚して退屈な生活を送り、そして最後は倦怠感に包まれて死ぬ……といった女性が、もしかしたらいるのかもしれない。
「そうですね。それは退屈の定義にもよるんじゃないかしら。退屈というのがもし、平穏ということだったら、退屈もそう悪くありませんわ。でももしその退屈というのが、阿片中毒みたいなものだったとしたら、少し問題かもしれませんわね」
「やっぱりあなたは、僕の思ったとおりの人です」
ウィリアム=レッドメインがどこか嬉しげにそう言ったので、ソフィは思わず眉をしかめた。こちとら仕事でこの上なく疲れているのである。そんなわけでソフィは、実際はよく考えもせず、適当に口から出まかせを言ったにすぎなかった。
自分を降ろしたらすぐ立ち去ったほうがいいと言ったのに、レッドメイン家の御曹司はアパートの階段を上がって振り返ると、やはりソフィのほうを見上げるようにして見ていた。その瞳の中に何か、危険な暗い輝きがあるような気がして――ソフィはやはり少し不安になる。
「なんだい、おまえ。その真っ赤な薔薇の花束は!!」
ボロアパートの一室へ戻ると、偶然トイレに起きたアルマが、娘が手にしているものを見咎めた。
「よく来るお客さんのひとりにもらったのよ。なんかね、レッドメイン製薬の社長の息子さんなんだって」
「レッドメイン製薬だって!!」
半分寝ぼけていたせいもあったのだろう、キッチンで軽い夜食を食べていた娘に向かい、アルマはよろめくように近づき、その正面の椅子に座った。
「お父さんが勤めてる会社よね。物凄い偶然だけど……正確にはレッドメイン・ホールディングスっていうんだっけ?でも社名を変えたのは確か、五年くらい前のことじゃなかった?今じゃ製薬業だけじゃなく、病院のリネン関係とか福祉関係の会社なんかを経営してるのよね。一日に一回くらいは必ず、我がレッドメイン・グループの福祉理念はどうこうとかいうCMも見るし……なんかその社長の息子さんとやらが、わたしとおつきあいしたいんですとさ」
「おつきあいしたいんですとさって、おまえ……」
アルマはのんきにヌードルなんかをすする娘に向かって、呆れた表情をしてみせた。もしソフィがその男と結婚した場合、ダニエルが今の役職から昇進することはあるだろうかと、一瞬そんなことが脳裏に思い浮かぶ。
「それで、返事はしたのかい?」
「ううん。なんか、まずはお食事にでも行きましょうとかって別れ際に誘われただけ。僕は真剣なんです、ソフィさんとか、寝ぼけたこと言ってたわ」
ウィリアムと別れてから、突然ソフィは平静に戻っていた。メルセデスの車内にいる間は、その座り心地の良さや内装の高級感に目を奪われるあまり、ソフィも少し浮き足立つところがあったが――なんのことはない、結局あの男は(ソフィさんはきっとこういう女性に違いない)という自分の偶像に恋をしているに過ぎないのだと思った。
「なんだい?顔が馬みたいで話にならないとか、そんなことじゃないだろうね?」
「そうじゃないわ。それにたぶん……好みによるだろうけれど、一般的に言えばハンサムなほうなんじゃないかしら。ただねわたし、あの人の何かが気に入らないの。それで、一体何が気に入らないんだろうって、今考えていたところ」
「おやおや」と言って、アルマは笑った。「こんな高校も出ていない、胸がちょっと大きいだけの娘、向こうでもすぐに愛想をつかすさ。おまえもそう思って、あまり本気にしないほうがいいんじゃないかね。何かの気まぐれでどこぞのお坊ちゃんが薔薇の花束をくれたくらいに思っておいたほうがいいに違いないよ」
「うん……まあ、そりゃそうなんだけどね、母さん」
水を一杯飲んで、再び寝床へ戻る母の背中を見送りながら、それでもやはりソフィは考えていた。シンディは職業次第でウィリアムとつきあってもいいと言った――けれど、理性と本能のうち、間違いなく本能のほうは、彼のことを直感的に拒んでいるとソフィにはわかっていた。けれど、理性のほうでは、好みの顔立ちじゃなくてもハンサムなんだし、ちょっとつきあうくらいいいじゃない。それに、もしかすると玉の輿に乗れちゃうかもしれないし……などと囁いてくるのだった。
「玉の輿ねえ……馬鹿らしい」
ソフィは、二段ベッドの一階のほうで姉の眠る、二階のほうへ梯子を上っていきながら、思わず苦笑した。母のアルマの言ったとおり、あまり本気にしないほうがいいというのは確かである。もしかしたら、二三回食事へ行ったあと、電話が繋がらなくなって終わるという、そんな程度のことかもしれないのだから。
そしてソフィは眠りに落ちる直前に――自分はどうしてこんなにある種の違和感をウィリアムに覚えるのだろうという、疑問に答えが出た。それはつまりこういうことだった。彼がもし社長の息子というのでなくて、ただ気障なだけの営業マンか何かだったとしたら、自分はたぶん交際するかどうかとこんなに考えたりしないだろう。
そこに何か、自分の心の卑しさを感じるような気がして、そのことが違和感の根本原因にあるのだろうと、そう思いながらソフィは眠りに落ちていった。
>>続く。




