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第17章

 首府ユトレイシアの郊外にあるレッドメイン邸は、中心部寄りにあるアンディの父が持つ本邸と勝らぬとも劣らないほど、豪壮な建物だった。その白亜の宮殿のようにも見える場所で、ロザリーは何不自由なくお姫さまのように育てられたのだろうし、彼女の部屋自体がまさに<夢見るプリンセス>とでも題したいような、レースのふんだんに使われた、乙女チックな雰囲気の部屋だったのである。


 兄と一緒にアンディがレッドメイン邸へやって来た時のロザリーのはしゃぎぶりといったら、この家で飼われているスパニエル犬が主人のザックを迎えた時に勝るとも劣らぬほどのものだったといえる。ザックのほうでは、白黒斑のスパニエルのことを遠慮なく撫でまわし、ロザリーはといえば、アンディの横にべったりと引っついて離れなかったのだから。


 レッドメイン家でのクリスマスは和やかで、とても楽しい雰囲気の元行われた。食卓には七面鳥や豪華なデコレーションケーキなど、ザックとロザリーの母親が手作りしたという手料理が色々と並び、ロザリーはアンディがひとつ何か皿に取るたびに、「母さんのプラムプディングとミンスパイは最高よ」とか「クッキーはわたしも手伝ったのよ」といったように、一言二言必ず口を挟んでいたものである。


 レッドメイン家の家長のアイザックもまた、家庭的な雰囲気の男性であり、彼らはユダヤ人一家ではあるのだが、その後イエス・キリストを信じたというメシアニックジューと呼ばれる人々であった。ゆえにこうして救い主の誕生をクリスマスに祝っていたわけである。


 母親のデボラは、いかに普段ロザリーがアンディのことばかり話すか、手紙が届くたびにいかに大騒ぎするかといったことを話しては大笑いしていた。


「だって、学校から帰ってきた第一声がまず、「アンディから手紙来てる!?」って、毎日そればっかりなんですものねえ」


「そうとも。わたしもそんなに自分の娘をメロメロにさせてるのはどんな奴なのかと思っていたが、アンドリューくんに会って「なるほど」と納得したよ。まあ、小うるさい犬のような娘ではあるが、鬱陶しがらずに、末永くつきあってくれると嬉しいね」


「もう、ママただけじゃなくパパまでそんなことを言うなんて!この家には誰か、わたしの味方をしてくれる人はいないの!?」


 そう言ってロザリーは顔を真っ赤にしながら兄に助けを求めたが、兄のほうではフォークとナイフを手にしたまま、肩を竦めるのみだった。


「前にも言っただろ、ロザリー。アンディはな、俺がどうしてもというから慈善的親切心でおまえに手紙を書いたりなんだりしてるってだけなんだよ。今日も本当は実家に帰りたいところを、俺が身を低くして「このとおり」と頼んだから来てくれたっていう、そこんところを忘れるなよ」


「ザックの頼み方はそんなに熱心じゃなかったよ」と、アンディは笑って言った。「それに僕も、ロザリーに会いたかったからここへ来たんだしね」


 アンディは自分の言葉がいかにひとつ年下の娘に影響するのかを、この時はっきりと見てとった。そして一瞬ソフィのことを思った――おばさんにとってももしや、自分というのは似たような反応を示す存在なのではないか、ということを。


 クリスマスの晩餐は和やかに進み、窓の外にしんしんと雪が降り積もる中、プレゼントが交換され、アンディはロザリーから手縫いのマフラーをプレゼントされた。「房のところはちょっと母さんに手伝ってもらったけど、他は全部自分で編んだのよ」と言われ、アンディとしては流石に彼女の愛情が重かった。何故といってアンディのほうはといえば、学校からこちらへ向かう途中に寄った店で、間に合わせにクマのぬいぐるみを買ったというそれだけだったから……。


 しかもそのプレゼントにも、「まあ、嬉しいわ!このぬいぐるみをこれからはアンディだと思って大切にするわね」などと言われては、アンディの顔には微笑というよりも苦笑が浮かんだ。軽く安請け合いしてはじめた交際だったのに、相手のほうではこれほどまでに真剣なのかと思うと――アンディは何やら明日にでも、ノースルイスの屋敷へ逃げ帰りたいような気持ちにさえなったものである。


 なんにしても、レッドメイン家でクリスマスを過ごしたその夜、アンディは妙にソフィのことが懐かしく、また同時に恋しくもあった。ザックやロザリーの両親はふたりとも素晴らしい人たちであり、また息子や娘のことを当然のように心から愛しているのである。アンディは長らく忘れていたが、自分の家はそうした<普通>のことが普通でない家庭なのだということをまざまざと思いだしていた。もし自分が九つの時に父親が再婚し、ソフィが義理の母とならなかったとしたら――あるいはこれが別の女性だったら――自分は<家庭の味>などというものはいまだに知らないままだったかもしれない。屋敷のコックが作ったのではない、母親の手料理の味……そのことを思うとアンディは、今すぐにでもノースルイスの屋敷へ帰り、ソフィと一緒に遅ればせながらのクリスマスを過ごしたいような思いに駆られた。


 レッドメイン家には五日ほど滞在するという約束だったが、アンディはそれを二日切り上げて明日帰るといったように、翌日ザックに伝えていた。ザックとロザリーの両親には「長い寄宿舎生活で、実家が恋しくなった」と説明すると、ふたりは妙に納得して、「じゃあ明日空港まで車で送っていこう」という話運びになった。


 このレッドメイン家での滞在の二日目、ソフィにまつわるちょっとした噂話のようなものをアンディは小耳に挟んだ。アンディの義理の母であるソフィが、その昔ウィリアム・レッドメインという男性と婚約していたことがあるというのである。


「まあもちろん、何年も昔のことですからね、それで今さらどうということもないけれど」


 少し太り気味で、体格のいいデボラは、マッサージチェアにもたれて電話で誰かとそう話していた。


「そうですよ。その時はアリッサが息子の愚行を止めたんですよ。あの売女のような女ときたら、アリッサの狙いどおりに詐欺師の男にころっと騙されちゃったんですからね。それで傷心のウィリアムのことをクリスティンが必死で慰めて……話は収まるべきところに収まったというわけですよ。ええ、そうよ。今うちに泊まりに来てるのがあのバートランド・フィッシャーの息子よ。何しろあの女にだらしないことで有名な人の息子ですからね、そりゃうちの主人も心配してたのよ。ロザリーが十四にしてすでに女たらしみたいな手合いの男に騙されてるんじゃないかって……ううん、いい子よ。とても素直そうな感じのいい子で、うちのザックも「大した奴だ」なんて褒めてましたからね、うちの屋敷に出入りさせるのに相応しくないなんてことはないわ」


 アンディはその時、ザックの部屋でロザリーを含め三人でボードゲームをしているところだった。二階のトイレが今故障しているというので、一階で用を足した時に、通りがけにそんな話を小耳に挟んだのである。しかもこの夜、なんの偶然からか、このウィリアム・クリスティン夫妻がちょっとした挨拶に親戚のレッドメイン家へと立ち寄ったのであった。


 それは夕食が済み、家族が暖炉の前で団欒のひとときを過ごしていた時のことで、アンディは毛足の長い敷物の上で、片手では時々寝そべるスパニエルの体を撫で、もう片方の手ではトランプのカードを持っていた。ちょうどその時、<大富豪>をやっていたのだが、まさしくそこへ本物の大富豪がやって来たのだともいえる。


 ウィリアム・レッドメインは堂々とした感じの、風采のいい男だった。ご夫人のほうも美しい女性で、いかにも似合いの夫婦といったように見えたが、ウィリアムがアンディに目を留め、「君がソフィの溺愛している御子息か」と言った時、何故夫人のほうでは眉を曇らせたのか、アンディにその理由はよくわからない。


「母のことをご存知なので?」


 アンディは人に紹介する時には、ソフィのことを<義母>とは呼ばなかった。便宜上そう呼ぶのが適切だという場合を除いては。


「もちろん知っているとも。昔――もう十年も昔になるがね、お母さんとは少しばかりおつきあいしていたことがあるんだ。いやあ、僕としてはすっかり結婚しようと思ってたんだがね、そのくらい君のお母さんは魅力的だったよ。大分前のことになるが、慈善パーティで会った時、義理の息子さんのことが可愛くてたまらないって言っててね。僕は君が羨ましいなあ。あんな綺麗な人がお母さんだなんて、僕が君だったら周囲に自慢したくてたまらなかったろう」


 ウィリアムのこの科白の何がまずかったのか、アンディは底のほうまでは汲み取りかねたが、それでも場が途端にシーンとしたのは確かであった。ウィリアムの奥方は不機嫌そうな顔をするし、デボラとアイザックは互いに顔を見合わせ黙りこんだ。ザックとロザリーはアンディ同様、何か<大人の事情>の匂いを嗅ぎとりはしたが、かといってはっきりしたことは何もわからなかった。


「まあ、お母さんのことを大切にしてあげなさい。ソフィは君のこと、自分のことよりあの子のほうがずっと大切だって、何かそんなふうに言っていたからね」


 アンディのほうでは返事のしようもなく、ただ「どうも」というように、軽く会釈しただけだった。途端、アンディはトランプをする傍ら、こう考えだした。(そうとも。僕だって自分のことなんかより、おばさんのことのほうが大切だったさ。今もそれは変わらないけど――おばさんのほうで事情が変わったんだ。あのセスって男も好きだし、僕のこともそのまま自分のものにしておきたいっていうようにね)……と同時に、アンディは何かが少し不思議だった。ウィリアムが親戚であるデボラやアイザックと世間話をしているのを聞いているうちに、義母は自分の父とでもなく、またあのいかにも<悪い男>といったように見えるセスでもなく、このレッドメイン家の総首領と結婚していたほうが遥かに幸せだったのではないかということである。


 アンディは昼間デボラがしていた「詐欺師の男にころっと騙されて……」といった話を覚えていたが、当然それが即セスという男なのだろうといったようには結びつかなかった。ただ、それまでに考えてもみなかったこと――果たして義母は自分の父と結婚する前、どのような男と何人くらいつきあったのだろうかと、そんなことを初めて想像したのである。


 その夜もまた、前日と同じくアンディの頭の中はソフィのことで一杯だった。ウィリアム・レッドメインの、遠く幸せな過去を懐かしむようなあの目つき……アンディの考えすぎかもしれなかったが、ソフィがもし独り身であったとすれば、奥方のことを捨ててでも一緒になりたいとでもいうような顔つきではなかったか?


 そして次の瞬間、アンディの脳裏には『セス、愛してるわ。あんた以上に愛せる男なんているわけないわ』という、ソフィの涙ながらの告白の言葉が思いだされた。


(なんにしてもおばさんの中では、あの男が一番なんだよな。過去につきあった男が父さん含め何人いたにせよ、その中であのセスって男が一番なんだ……)


 明日アンディは義母の住まうノースルイスへ帰宅する予定であったが、こうしたことを考えるにつけ、アンディはやはり実家のほうへは帰りたくないような気がしてきた。ソフィの顔を見ればまたひどいことを言ってしまうかもしれないし、致命的な一言だけは避けねばならないと思いつつも、カッと頭に血がのぼったとすれば、アンディはまた支離滅裂なことを言ってしまうかもわからなかった。


 アンディはこの時、レッドメイン家の三階にある客用寝室で、輾転反側しながら、この世界で自分が一番愛している義母ソフィのことを考え続けていた。彼の頭には一応交際中のロザリーのことなどまるでなかったが、深夜の0時頃に遠く、柱時計の鳴るボーンという鈍い音が十二回響いてきた時のことだった。


(もう十二時か。明日は早いからな……そろそろ眠らないと)


 アンディがそう思い、闇の中で目をしっかり閉じたままでいると――カチャリと静かにドアの開く音がしたのである。


「アンディ、起きていて?」


 そう小声て囁くように言ったのは、レース飾りのふんだんについたパジャマを着たロザリーだった。白いその衣装を着た彼女はまるで幽霊のようだったが、黒く長い髪を後ろに垂らしているせいかどうか、昼間よりもずっと大人びて見える。


「どうしたんだい、ロザリー」


 自分とロザリーの間にあるのは、ままごとのような恋愛感情だとアンディはそう認識していたが、それでもこのような場面をもし仮に両親にでも見られた場合……アンディはそう考え、ベッドからがばりと飛び起きていた。


「そんなにびっくりすることないじゃないの、アンディ。わたし、傷つくわ」


「いや、君がどうのっていうんじゃないんだよ。こんなところを君の兄貴に見つかったとしたら、僕はブッ殺されるってことを心配してるだけだ」


「まあ、アンディったら」


 ロザリーはくすくす笑うと、ベッドの縁に腰掛けて、自分の恋する男のことをじっと真正面から見つめた。


「ねえ、アンディ。わたしのこと、好きって証拠にキスしてくださらない?」


「いや、出来ないよ。僕たちはまだ、ほら、その――」


 ここでロザリーは、大袈裟に思えるくらいの、大きな溜息を着く。


「ええ、わかってるわ。アンディはただわたしがあんまりしつこいから、親切心で手紙をくださったりなんだりするのでしょ。そのこと、わたしもよくわかってるわ。でもわたし、もしアンディがわたしのことをほんとの意味で好きじゃなくても、キスしてくださったら嬉しいの。この二日、とても楽しかったけど、わたしたちの間には友達以上のことはなんにもないわ。女友達のハンナがね、ボーイフレンドともうキスしたっていうの。それも大人のキスですって。わたし、そこまでのことはまだ望まないけど、恋人同士の約束のキスくらいならって、そう思ったの」


(約束って、なんの約束?)


 そうアンディは思ったが、契約事項のびっしり書かれた契約書に目を通す前にサインしてしまう人のように――気づいた時にはロザリーとキスしていた。


 というのも、深夜に女の子が自分の部屋に来てキスをせがんだというのに、そのまま帰したというのではあんまりな気がしたからである。(とりあえず、自分が損するわけではないし)というのが、アンディの頭に最初に浮かんだことだったが、このロザリーとのキスは彼が思ってもみない効果を彼自身に及ぼしたといえる。


 目を閉じて、ロザリーの柔らかい唇に触れた瞬間――アンディはソフィが自分の額や頬にキスしてくれた瞬間のことを思いだした。そして思ったのである。今目の前にいるのがもし、おばさんだったとしたらということを……。


(違う!僕がキスしたいのはこの子じゃない!!)


 アンディはその瞬間、はっきりそうと気づいたが、ロザリーのほうではうっとりした顔の表情をして、自分の望みが叶えられたことの喜びに浸っていた。その後、ロザリーは恥かしそうに俯いたのち、小走りに駆けるようにしてアンディの寝室から出ていく。


 翌朝、朝食の席でもロザリーはどこかぼうっとした様子だった。そしていつものようにはしゃぐでもなく、時折意味ありげにアンディのほうに視線を送っては、また恥かしそうに俯くのだった。


(もうこれ以上、君とはつきあえない)――アンディはこの時すでに、そのような手紙の文面を書く自分の姿を想像していた。もしかしたら、本人に直接そう言ったほうが男らしいのかもしれなかったが、きのうの夜キスしたばかりだというのに、そんな残酷なことは言えないと、アンディもロザリーの様子を見て思ったのである。


 人でごったがえすユトレイシア空港で、アンディは最後にザックと抱きあってから別れたのだったが、もしかしたらこの彼との間にある友情をこんなつまらないことで失うかもしれないと思うと、なんだかつらかった。だがアンディは、ロザリーと交際することを安請け合いしたことを後悔するのと同時、もし彼女とキスすることがなければ、自分はソフィに対する本当の気持ちに気づくことはなかったと思いもする。


(そうだ。今おばさんの背後にはまだあの男の存在があるかもしれない。けど僕は、気長に待ってみせる。おばさんは僕が大きくなって自分のことが必要じゃなくなるまでは一緒にいてくれると言った……ということは、それまでは少なくともおばさんは父さんと離婚しないってことだ。第一、おばさんとあのセスって男だって将来はどうなるかわからないんだし、僕はこの時間稼ぎの出来る間に、おばさんに相応しいような男になる修練を積んで、必ずおばさんの愛を勝ち取ってみせるぞ!!)


 ――それも、ひとりの男として。


 アンディは一度そのように心が定まると、ほんの一時間ほどもかからずして到着したノースルイス空港で、迎えに来てくれたソフィと抱きあった。その抱擁の仕方がいつもと雰囲気がまるで異なるものだったので、ソフィは思わず面食らったほどである。


(まあ、そういえばこの子はこんなに背が高かったかしら)


 出会った頃は自分よりも随分小さかったのに……そう思うとソフィはなんだか不思議な気がした。しかもいつもは、自分のほうからキスをし、アンディはそのお返しをするといった感じなのに、この日はアンディのほうから何やら積極的にソフィの頬に二度キスした。


「ソフィおばさん、僕のこと、愛してる?」


「ま、まあ。何を言うの、アンディったら。そんなの当たり前のことじゃないの」


「そっか。ならいいんだ」


 ふたりは空港内にある喫茶店で食事をしたのだが、この時恋人同士に間違われ、アンディはますます気を良くした。毎週水曜日は恋人同士のお客さんに、2ドル引きのサービスというのがあるらしい。


「世間の人はたぶん、僕とおばさんが並んでるのを見たら、恋人同士としか思わないってことだよ」


 アンディはBLTサンドに齧りつきながらそんなことを言い、ソフィはクラブハウスサンドを食べながら「おばさんはもう歳よ」などと、溜息を着いていた。


「そんなことないって。おばさんまだ三十五でしょう?だったらまだ全然イケるよ。僕、二学年に上がってからさ、隣の部屋のアンソニーって奴と仲良くしてるんだけど……こいつ、僕のおばさんがもし自分の継母だったらヤバイって言ってたよ」


「まあ、若い子っていうのはなんでもすぐヤバイっていうんだから。でもアンディ、その子の名前はおばさんも初めて聞くわね。手紙にはアーサーって子と同室になったとか、そんなことしか書いてなかった気がするけど」


 ソフィは感謝祭の時のことを引きずるように、またアンディのほうで機嫌が悪いのではないかと不安を覚えつつ、彼のことを空港まで迎えにきていた。にも関わらずアンディのほうで機嫌がとてもいいので、きっとレッドメイン家で相当いいことがあったのだろうと想像していた。


「うん。でもまあ、手紙には書かなかったけど、そいつはあんまりパッとしない奴でね、アンソニーの話じゃ、我が身可愛さのゆえに簡単に友達を裏切りかねないとかなんとか……でもまあ、それでも同室者だからね、つかず離れずって感じで一年間適当に仲良くやるしかないんだけど」


「じゃあ、学校のほうは楽しいの?何か困ったことや悩んでることがあったりするわけじゃないのね?」


「今のところは、特にこれといってね。それよりおばさん、僕、ザックの家でウィリアム・レッドメインっていう人に会ったよ。昔、おばさんとつきあってたことがあって、なんかまだちょっと未練があるっていうふうに見えたな。おばさんはさ、なんでその人と別れたりしたの?金持ちっていう点では、確かに父さんのほうが上かもしれないけど、でも父さんは結局、成金みたいなもんだからね。金と名誉が一緒にセットになってるっていう点では、あの人のほうが上っぽそうに見えたけど……感じもいいし、優しそうだし、男っぷりも悪くないのに――おばさんなんか、詐欺師に騙されちゃったんだって?」


 ここでソフィはゴホッ!!とパンとベーコンを喉に詰まらせそうになった。それで急いでコーヒーで流しこむようにして飲みこむ。


「まったくもう、坊やは一体どこまでその話を聞いたの?詐欺師っていうのはセスのことでしょ?大体あの人もあの人だわ。そんなことを子供にいちいち話して聞かせるだなんて……」


「違うよ。あの人は紳士的に、昔おばさんのことが本当に好きだったみたいな話をしただけ。僕に対してさ、お母さんのことを大切にしてあげなさいみたいにも言ってたよ。僕がそのことを知ったのは、ええと、ザックとロザリーの母さんがさ、電話で誰かと話してるのを偶然ちょっと聞いちゃったっていう、ただそれだけなんだ」


 だが、やはりソフィは内心、アンディはどこまで知っているのだろうと思い、少しばかり落ち着かないような気持ちになった。一方、アンディのほうではデボラ・レッドメインの言っていた<詐欺師>というのがあのセスという男なのだとわかって――(やっぱりあいつはろくでもない奴なんだ)と、変な話、溜飲を下げていた。


 この短い冬休みの間、年末年始をソフィと父親のバートとアンディは楽しく過ごした。いや、実際にはバートとはそう楽しく過ごしたわけでもなく、いつも通りだったにしても、少なくともアンディはもはや実の父のことを<敵>のようには見なしていなかった。というより、あのセスという男をソフィから引き離せるというのであれば、この父親と協同戦線を敷きたいようにすら思ったほどである。


 ソフィはアンディが感謝祭の時でのように反抗的でないのでほっとしたが、それでもまた何かの拍子に義理の息子がそのようになるという予感はあったので、ふとした瞬間に注意してアンディとは接するようにしていた。たとえば、ソフィは時々昔からの癖で、ついアンディのことを「坊や」と呼んでしまうが、そう言ってしまったあとで、ちょっと彼の顔の表情を見るといったようなことである。


(この子は今までずっといい子だったし、でもその分、本当は鬱屈した感情を心の中に隠し持っているのかもしれない。わたしだって、あの子くらいの歳の頃には、親に「本当のこと」なんて話さなかったものね。なんにしても、バートはアンディが寄宿舎生活に十分適応しているというので、満足な様子だし……わたしも、セスのことは一時的にせよ、心の中から追い出さなくちゃ)


 あれからソフィは、そう度々ではないにしても、セスと時々会っていた。場所は高級ホテルのこともあれば、安手のモーテルのこともあり、彼が小説の題材として使いたいという場所に連れまわされては、創作意欲の高まった彼と何度も寝た。


 ソフィは物の考え方が基本的に古風であったため、バートがいくら他に女がいて、彼自身遊びまわっているにしても――やはりそれだからとて、自分もよそに男を作っていいといったようには考えられなかった。そこで、セスに抱かれたあとはもはやバートには髪の毛一筋触られたくないといったように思うようになり、彼にある譲歩案を提出したのである。


 もちろんソフィは浮気関係だけでなく、事業関係についても色々と詳細に知っているといったようにはバートに一切匂わせなかった(つまり、セスから渡された資料はまったく使わなかったということである)。ただ、自分たちの結婚生活が破綻しているのは確かだし、けれどアンディの成長については彼が成人するまで見届けたいから、その一事のために離婚は避けたい。ソフィもバートランド・フィッシャーの妻としての社交場の務めは果たすし、夫婦円満であると見せかけることで、バートにも仕事上プラスなことがあるはずである。そのかわり、今後はビジネスとして夫婦関係を続けるのであり、これから寝室のほうは一切別にしましょう――といったことをソフィは提案していた。


 ソフィとしては、バートが激怒し、「それだったら離婚する以外ないな」と言ってくるかもしれないと思った。実際、それならそれで仕方ないと思っていたが、彼は


「他に、男でも出来たか?」


 と、そう聞いただけだった。


「ええ、そうよ。てっきり死ぬか何かしたとばかり思ってた昔の男が、実は生きてたの。バート、あなたはわたしと離婚したって、またすぐに若い後妻と結婚すればいいだけでしょうけど……アンディにはそういうわけにいかないのよ。そのことはいくらひどい父親のあなたでも、わかるでしょう?」


「ふん。まあ、よかろう。確かにアンディにもわたしにも、おまえが必要だ。もし今おまえがいなくなれば、あいつの人生は間違いなく滅茶苦茶になるだろうな。いくらわたしがひどい父親でも、そのくらいのことはわかるさ」


 こうした経緯によって、バートランド・フィッシャーは妻のソフィとある種の協定を結んだわけだったが――それゆえに、ソフィはまさか年末と年始を過ごしに彼がノースルイスの屋敷へ戻ってくるとは思ってもみなかったのである。より居心地よく過ごせるという意味では、バートはまったく不要の存在ではあったが、それでも食事の席などで夫がアンディのことを批判せず、けなしもしなかったのは、彼が自分の息子のことを認めつつある証拠ではないかと、ソフィはそのように感じて少し嬉しくなった。


 ところで、このフィッシャー家の親子は、まったく思いも寄らないところで互いに共通点を見出し、そのことが少しは親子らしい会話をするようになる端緒となったようである。


「おい、アンディ。おまえ、あの継母のことが好きか?」


 アンディが地下の、五十インチの大画面でゲームをしている時、バートは自分の息子にソファの背後からそう話しかけた。


「なんでそんな当たり前のことを聞くのさ。血の繋がった父さんなんかより、僕は血の繋がりのないおばさんのほうが百億倍も好きだよ。当たり前じゃないか」


 普通の父親であれば、自分の子供にこんな言い方をされたとしたら、おそらく傷ついたろう。だがそこは鉄面皮のバートである。(俺の息子も随分言うようになったもんだ。昔はわたしの前でおどおどと顔色を窺ってばかりいた気がするが)としか思わず、我が子の成長を奇妙に感慨深く感じていたのである。


「だったら、横からしゃしゃり出てきた野良犬におまえの大事な母さんをとんびに油揚げよろしく、持っていかれないようにすることだ。わたしのほうで手が打てんこともないが……おそらくソフィにはおまえの口から言う言葉のほうが、よほど効果があるだろうからな」


 この時アンディは『グラディウス』というゲームをプレイしていたのだが――超時空戦闘機を思わずモアイ像に激突させてしまっていた。もはやゲームどころでないと思ったアンディは、後ろを振り返ると、父の顔を思わずまじまじと見上げてしまったほどである。 


「……父さんは、一体どこまで知ってるの?」


「ふふん。どこまで、と来たか。ということは、おまえも少しは何か知ってるわけだな?お母さんは他に男がいるから、本当は父さんと離婚したいがおまえのためを思ってしないんだと。もしそれが火遊び程度のものならな、結局母さんはそんなにしないでその男と別れることになるだろう。そうすればわたしもおまえも万々歳だ。そうは思わんか?」


「そうだね。けど、たぶん結構難しいよ。その相手の男ってのがさ、結構いい男なんだ。いかにも女たらしって感じのね。おばさんはおばさんで、そいつに相当惚れてるらしいよ。『愛してる』なんて言ってるの、僕、聞いちゃったんだ」


「そうか。それでおまえはどうする?そいつのことはそいつと母さんのことであって、自分とソフィの関係はまた別だからいいのか?」


 父親が自分のすぐ隣で足を組むのを見て、アンディは変な感じがした。普通の家庭であれば、自分の父親が団欒の際などにすぐ横へ座ることなどは普通のことだったろう。だがアンディはそんな<普通>をほとんど経験したことがなかったのである。


「まさか。僕のほうは僕のほうでね、今は算段を練ってるところさ。何分寄宿学校なんてところに入ってるもんで、僕がこの屋敷にいない間、おばさんが外で何してるのかなんてわかんない。けどまあ、おばさんは僕が成人してひとりでちゃんとやってかれるまではそばにいてくれるってことだったから……まだそれまでに数年あるだろ?その間におばさんがあの男と別れてくれれば僕としても万々歳なんだけど」


「なるほどな。わかった。もしおまえが見ていて、母さんに変なところがあったら、わたしに知らせろ。他に何か、父さんに協力して欲しいことがあった時にも、連絡するんだぞ。わかったな?」


 バートはそんなことを言い残して、映画を見るかゲームをするための地下室から去っていったが、アンディは自分の父親が終始生真面目な顔をしていたのがおかしくて仕方なかった。たぶんあれでは――おそらく仮に、あの父なりにソフィのことを愛していたのだとしても、まったく通じないだろうと思い、アンディは我が父ながら気の毒になったほどである。


(そうか。父さんも脛に傷が多い人だからな、おばさんが一回他の男と浮気したって程度じゃ、別れる気はないんだ。それにしても、どうして僕は父さんに対しては嫉妬の情というものを覚えることがないんだろう。当然、おばさんと父さんの間にも夫婦生活ってものがあるはずなのに……でも僕は、そのことに対してはそれほど嫉妬といったものを覚えない。けど、あのセスって男は別だ。おばさんが何をするっていうでもなく、ただ時々あの男と会ってるって想像しただけでも――腸の煮えくり返るような嫉妬の情を覚えるんだ)


 そしてアンディにとって何より苦しいのが、ソフィに対してそう言えないことだった。他の頼みであれば、彼の愛する義母は、息子の大抵の頼みを受け容れてくれたろう。けれどアンディにはあの男と会うなとは言えなかった。自分が泣いて頼んだからそうしてくれたというのでは、まるで駄目なのだ。ソフィ自身のほうで何か、セスという男に対して愛想でも尽かすようなことでもない限りは……。


 冬休みが終わり、一月半ばにアンディが寄宿学校へ戻るという時、彼は駅のプラットフォームでとても苦しい思いをした。ソフィのほうではようやく、アンディと離れたり、また彼が帰ってきたりといったことに慣れつつあったせいだろう。最初の頃のようには「離れ難い」といった様子を見せておらず、アンディはそのことを理性では<違う>とわかっていながらも、自分がいなくなれば心おきなくセスと会えるからではないかと勘繰ってしまい、どうにも鎮め難い嫉妬の気持ちに悩まされたのである。


 アンディは再び、毎週末ごとにソフィに対し、丁寧な手紙を書くようになった。とはいえ、それはどちらかというと、自分の学校生活のことを書く傍ら、義母の私生活についてそれとなく探りを入れるといった色合いの濃い文面だった。実際アンディは、模範的な優等生として日々真面目な学生生活を送っているかのように手紙の中では見せかけていたが――ニ学年の第二学期は、アンディにとって実に波乱に富んだ学期であった。


 まずアンディは、ザカリアス・レッドメインと互いの制服の襟首を掴みあう大喧嘩をした。アンディはロザリー宛ての手紙に「他に好きな女性が出来た。もう君とはつきあえない」とはっきり書いて送り、その後彼女から「それは誰なの?」とか「待っていてはいけないの?」といったように問う手紙が何度届いても、一切返信しなかったのである。


 この時アンディは、ザックと別の部屋になっていたことを心底感謝したし、フェザーライル校は一学年二クラスで、一つのクラスが二十六名編成なのだが、このクラスもまた別々になっていて良かったと感じた(とはいえ、二クラス合同の授業というのは実に多くあるのだが)。


 事の起こりは、二月上旬のこと、学生たちが校庭で昼休みに雪合戦していた時のことだった。上級生下級生入り乱れ、対抗雪合戦をしていたのだが、ザック側の陣営があまりに激しくアンディサイドを攻撃したために――とうとうぶっ千切れたアンディは、ザックに対し「男らしくないぞ!言いたいことがあるんなら、はっきり言え!!」と怒鳴っていたのである。


「この野郎!!俺の妹を泣かせておいて、何が男らしくだ。おまえに振られて以来ロザリーは、一週間も何も食べないで過ごしたんだぞ!なんでも聞けばおまえは妹とこっそりキスまでしてたんだってな。それなのに、ロザリーに泣き寝入りしろってのか!?」


 アンディはこの時、ザックの言い分があまりに子供っぽいもののように思われ、思わず喉をのけぞらせて哄笑してしまっていた。


「ハッハハハハ!!何が泣き寝入りだ。僕は君の妹と、本当はキスなんかしたくなかったんだ。これっぽっちもね。けど、向こうが突然夜中の十二時に僕の寝室までやって来てキスしてくれって言ったんだよ。ザカリアス・レッドメイン、君の妹は思い込みが激しすぎるんだ。一回キスしてやったくらいで、将来は結婚しろなんて言われるんじゃ、そんな女とは怖くて誰もつきあいたいとは思わないだろうよ」


「こいつ……っ!!」


 ザックは体格がいいだけでなく、柔道部とアメフト部に所属しているだけあって、腕っぷしのほうは相当なものであった。だが、アンディとて毎日テニス部で過酷な基礎体力トレーニングを積んでいるし、そうやすやすとザックにやられてばかりもいなかった。


 互いに殴りあい、雪の中に相手の体を押し倒し、のしかかって罵倒しながらまた殴り、雪の目くらましを食らわせあい、体勢が逆転し、再び同じことが繰り返され……そうこうするうち、上級生の中でも特に背が高く横幅のある生徒がふたりの間に割って入り、喧嘩の仲裁をしたのだった。


 純白の雪は血で染まり、ふたりとも衣服の一部が破れてさえいたが、ともに殴りあって憂さを晴らしたことを後悔してはいなかった。


 このふたりの喧嘩はすぐに教師陣にも知れ渡るところとなり、ザックとアンディはまずその日の放課後に新約聖書の福音書を清書するという罰を食らった。他に、トイレや浴室の掃除を三週間、また同じく三週間、食堂でみなの給仕係を務めるようにと言い渡された。


 これらは実に効果のある罰で、まずは新約聖書の福音書を清書しているうちに、頭を冷やすことが出来るだけでなく、すぐ隣で同じ罰を食らっている学友に対し、同情心を覚えることが出来る。さらに、トイレや浴室の掃除を一緒に行うため、嫌でも喧嘩になった原因について互いに内省するようになるし、給仕係という屈辱的な役目を果たすことでも連帯感が生まれるというわけだった。


 それでもザックとアンディは、聖書の福音書を清書している時にはまったくといっていいほど口を聞かなかったし、最初の数日は無言でトイレ掃除などの作業を黙々とこなしていった。だがやはり、そのうちにお互い反省するところもあり、ポツポツ話をするようになっていったのである。


「まあ、妹のことを最初におまえに押しつけたのは俺だからな。その点は悪いと思ってる。けど、クリスマスの時は三人で結構楽しくやってたのに……冬休みが終わって学校へ戻ったら、おまえなんか俺に対して素っ気なかったろ。最初はまあ、そんなに深く考えたりもしなかったけど、あとで妹から手紙が届いてさ。「そういうことか」と思ったら、なんか無性に腹が立ったっつーか……」


「いや、ロザリーには悪かったと思ってるよ。僕はね、文通だけの関係なんて所詮そう長く続くはずがないって高をくくってたんだ。でも実際は逆だったんだな。手紙だけのほうが容易に相手を理想化しやすいし――そういうのがなんか、重荷だった。他に好きな人が出来たっていうのも、本当ではあるんだけど」


「ふうん。それが誰かなんて聞くのは、余計なことなんだろうな。俺にしても、アンディには借りがあるからな。メアリー・カーティスのことではさ」


 実をいうと去年、学校祭の時にサウスルイス国立音楽院から、オーケストラの一団がやって来て、フェザーライルの講堂で数日に渡って演奏をしていった。その中にはアビー・エインズワースやメアリー・カーティスの姿もあり、アンディよりも彼女たちのほうが目敏く彼の存在に気づき、話しかけてきたのであった。


 たまたまその時隣にザックがいたわけだが、<レッドメイン>という名前を聞いた途端にアビーの目が一瞬光るのを、当然アンディは見逃さなかった。だがアンディはアビーのことを連れだして校内を熱心に案内し、メアリーとザックがふたりきりになれるよう取り計らったというわけである。


「べつに、僕は何もしてないよ。メアリーのことにしてもさ、そもそも僕とは大した知り合いってわけでもないし……今も、彼女とはたまに会ったりしてるのかい?」


「ほんの極たまにな。あとは手紙と電話だけだ。ロザリーがさ、あの時学校祭で一緒にいた綺麗な人がアンディの意中の人なんじゃないかとか、まあ、うざったい手紙を何度も書いて寄こすんだよな。まさかとは思うけどさ、おまえもしかして……」


 モップを掃除用具室のロッカーに放りこむと、アンディはけたたましいくらいの声で笑った。


「僕とアビーだって?ありえないよ。僕は彼女みたいなタイプはてんで好きになれないんだ。どっちかっていったら、彼女の妹のほうとならつきあってみてもいい。そうじゃなくて、僕が好きなのは、その……」


 アンディはどう話したものかと躊躇したが、あたりに人もいないことだしと思い、ザックに本当のことを打ち明けることにした。何故といって、自分がザックの立場で、ロザリーのような可愛い妹があったとしたら、やはりまったく同じことをしたように思われたからである。


「おばさん、なんだよ。ソフィおばさん」


 ザックはアンディが耳まで真っ赤になっているのを見て、彼が本気なのだろうと思った。何分、この間の休暇中に、ソフィ・フィッシャーの名前は母親の口などから何度も出ていた。ザックとしてはその時には「へえ」としか思わなかったものの、アンディに振られて以来、一週間もロザリーは何も食べていないと聞き初めて――母デボラの「レッドメイン家の者はフィッシャー家と関わりあうと、ろくなことがない」との言葉を信じるようになったのある。


「でもおまえ、前はべつに恋愛とか、そういうんじゃなかっただろ?俺が横で話を聞く限りにおいては……」


 確かにザックも、アンディにとってこの義母のソフィが相当特別な存在であるとは前々から知っていた。というのも、この元同室者は継母から手紙や荷物などが届くたび、ああでもないこうでもないと一騒ぎするのだが、それ以外の時には――全世界を軽蔑しきっているかの如き冷たい目をして読書に耽っていることが多かったからである。


 また、そういう時にザックがつまらない話を振ってもぞんざいな返事しか返さないのだが、これが試しに「おまえのおばさんってさ……」と、彼の義母のことに言及すると、途端に何かの氷が解けたみたいに「ソフィおばさんがどうしたって?」と、顔つきが変わるのであった。


「そうなんだ。ロザリーには悪いと思ったけど……彼女とキスした時に、おばさんが僕の額とか頬にキスしてくれた時のことを思いだしてさ。それではっきりわかったんだ。僕が恋人としてキスしたいと思ってるのは、おばさんなんだって」


「それ、間違いなく絶対に確かなのか?」


「うん、確かだよ。前まではずっと、そういう対象としておばさんのことを見たことは一度もなかった。アンソニー・ワイルにも笑われたよ。あんなセクシーな継母がすぐ横にいて何も感じないなんて、おまえ実はゲイなんじゃないかって。もちろん、軽い冗談としてだけどね……だけど、おばさんは僕のことなんて九歳の時から知ってる小僧っ子としか思ってないわけでさ。しかも、父さん以外に好きな男もいるみたいだし……」


「おいおい、おまえ……」


 母親のデボラが言っていた<魔性の女>、<売女>といった単語がザックの脳裏をよぎっていく。だがザックは社交界のゴシップ好きな母の言うことを、何もかもすべて鵜呑みにするということはない。ゆえに、ソフィ・フィッシャーのことも差し引いて考えていたのだが、夫の他に愛人もいて、さらには義理の息子のことまでたぶらかすとは――しかも、彼の叔父はこの女性に今も何やら未練を感じているらしいのである。


「もちろんわかってるよ。普通に考えたら、どう考えても望み薄だなっていうのは……でも、ザックも覚えてるだろ。去年の夏休み前に、何人かで賭けトランプをやっててさ。なんか初恋の子の名前とか今好きな子の名前を言えってことになって。僕が負けた時、よく考えてみたけど、僕には初恋っていっても誰も思い当たらなかった。一番近いのはソフィおばさんだけど、それは恋っていうのとは違うし……って真剣にそう思ってたからね。でも、昔つきあってたおばさんの男が現れてからというもの、僕頭がおかしいんだよ。今もそのことはよく考える。おばさんは月に何度くらいあの男と会うのかとか、会ってどんな話をするのか、会えば必ずホテルに行ったりするのかって、そんなことを堂々巡りにぐるぐるとね」


「でも、それは……俺だってそうかもしれないぜ。たとえばうちのおふくろってのはたとえとしてなんだが、もしおふくろが親父と別れて、他の男とつきあいだしたりしたら、心中穏やかじゃねえと思う。だから、おまえの嫉妬っていうのも、母親を奪われた子供のそれってことなんじゃねえのか?」


「僕も、そのことはよく考えたよ。でも、僕は――ありていに言えば、今はおばさんと寝たいと思ってる。だけど、僕には実際そんな経験ないわけだし、あの男がするみたいにはおばさんのことを喜ばせられないんだろうなとか、色々ぐちゃぐちゃ考えはじめると、これがまた堪らなかったりするんだ。大体、ザックのことを殴った程度のことで済んで良かったよ。そのうち僕、アーサーの奴がなんとなく気に入らないって理由だけで、あいつのことを刺すかもしれない」


「おいおい、アンディ」


 ザックは幼馴染みのアーサーが、アンディにナイフで滅多刺しにされ、「助けてくれえ!」などと情けなく叫ぶ姿を想像しておかしくなった。いや、無論笑いごとではないのだが。


「まあ、あいつも弟のクリスからロザリーのことを聞いて、暫くは嫌な態度を取るかもな。けど、あいつにしても、ロザリーの兄である俺とおまえが仲良くしてるのを見れば、変な気は起こさないだろう。『アンディくんの枕の下から煙草を見つけました』とか、そんなふうに先生にチクッたりとか、そんなことはまずしないと思うぜ」


「どうだかな。アーサーはおまえに対してはどこか、絶対服従みたいなところがあるけど……僕に対しては時々、冷ややかな軽蔑した視線を送ってるからね。それがロザリーのことがあってからというもの、決定的になったというかさ。僕にしてみりゃこれで弟のクリスの出番が出来て良かったような気がするんだけど……もちろんこんなことは、ロザリーのことを傷つけた僕が言っていいようなことじゃないな」


「いや、ある意味では――たぶんこれで良かったんだろう。どのみち、最終的におまえとロザリーは合わなくて別れてただろうし、つきあってた期間が短かった分、傷のほうも浅く済んで良かったのかもしれん。これが二年とか三年つきあったあとに起きたことだったとしたらもっと大変だったかもな。なんにしても、このことで俺とおまえの間に変な壁を作るのはこれきりってことにしようぜ。妹のことがあるから、暫くはアンディのことをうちの屋敷に呼んだりとかは出来ないにしても……今度は俺がノースルイスのおまえんちに行くよ。で、例のおばさんとの関係やなんかについて、あれこれ聞かせてくれや」


 ザックは怒りや憎しみといった感情を長く持続できないタイプだったので、一度それが風船が破裂するように爆発してしまうと、あとのことはどうということもなかった。アンディは時にザック派の生徒たちとつるみ、また別の時にはアンソニーたち、成績下位の生徒たちと仲良くした。そして同室者のアーサーとは、適度に距離を保った関係を持つよう心がけた。もちろん、ロザリーのことでは一くさり文句なのか愚痴なのか説教なのかよくわからない垂れ流し的言辞を受けはしたが、結局のところ時が経過し、弟から「自分の慰めと励ましによってロザリーは少し明るくなった」とか「自分に対して以前以上の信頼や親しみを持ってくれるようになった」という手紙が届く段になると、アーサーのアンディに対する態度も随分軟化したものである。


「ま、うちの弟の良さが、これでようやくロザリーにもわかったんだろう。何しろクリスの奴は小さい時からロザリー一筋で、彼女を傷つけるなんてことは思いつきもしないような奴なんだから。ただ、幼馴染みって奴は厄介なもので、ちょっとしたきっかけってのがないと、相手のことを異性としては意識しないものなんだろうな。そのきっかけをアンディが与えてくれたと思えば、まあおまえを許してやってもいい」


(恋愛の当事者でもないおまえに、そんなに偉そうに上からものを言われる義理はないよ)というのがアンディの心の声ではあったが、とりあえず適当かつ曖昧に頷いてやり過ごしたあと、最後に肩を竦めるというのが、アンディの同室者に対する常の態度であった。


 アンディはザックと部屋が別れ、そのことで一時生徒間で人気が落ちもしたのだが、その後アンソニー・ワイルと親しくするようになると、何故か彼の好感度は上がった。さらにザックと派手な喧嘩をやらかしたのちに仲直りしたことで、再び注目の的となり――ザック派の生徒たちとも、アンソニーたちのような軽い<ワル>ともつきあえるということで、彼は特別な尊敬の念をもって眺められるようになったのである。


 とはいえ、この二学期、アンソニーはある事件がきっかけで、危うく停学処分を受けるところであった。その事の起こりはこうである。




 >>続く。






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