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第16章

 毎年恒例の、ヴァ二フェル町でソフィと過ごす夏休みが終わると、アンディは憂鬱な気分で寄宿舎生活に戻っていった。


 あのセスという男が海辺の家の自分の聖域を犯して以来、アンディは顔では笑っている時も心は沈んでいた。しかも、愛するおばさんの前でだけはそのような偽りは生じえないとずっと思ってきたにも関わらず、そのような事態が実際に起きてしまったのである。


 もちろん、ソフィは相変わらず彼に優しく、何かにつけ色々と良くしてくれた。また別れる時にはいつもと同じく寂しそうで、アンディにしても胸を打たれたが、自分の知らないところであの男に会うつもりではあるまいかと想像しただけで――アンディは胸が締めつけられたようにこの上もなく苦しかった。しかもそうした苦しい気持ちを誰に告白することさえ出来ず、内に秘めておかねばならなかったのである。


 だがこの時に至ってもアンディは、自分が愛するおばさんに実は恋をしているのではあるまいかなどとは、毛ほども考えることはなかった。それどころか、去年の学校祭以来、ザックの妹のロザリーがすっかりアンディに熱を上げていると彼から聞き、ロザリーと交際することを承諾さえしていたのである。


「おい、本当にいいのか!?」


 ニ学年になると、部屋替えがあって、アンディはザックとは別れ別れになった。これはアンディの穿った考えというのではなく、大抵の生徒がそう感じていることであったが、どうもハウスマスターたちは、誰と誰を同室にすれば互いに成長を促しあえるか……といったことを一考し、部屋割りを決めている節があるのである。


 ゆえに、ザックはスポーツがあまり得意でなく、成績のほうもあまり芳しくないセドリック・ロバーツと一緒になり、アンディはアーサー・ウォルシュと同室になった。とはいえ、アンディにしてみれば自分が何故ウォルシュと同室なのか、理解に苦しむところではある。ザック曰く、「アーサーは悪い奴じゃないが、まあ小物だな」とのことだったが、アンディもまったく同意見だった。ようするに日和見的で、劣勢側にはまず絶対につかないといったような、そんな小ずるいところのある生徒なのである。


 なんにしてもその時アンディは、このアーサー・ウォルシュの弟のクリスが、ザックの妹に熱を上げているといったようなことは、すでにさっぱり頭になかった。夏休み中妹が熱に浮かされたように「アンディ、アンディ」とばかり言うので、彼女を黙らせるにはどうしたら良いかとザックに相談され、アンディは「じゃあ、つきあってみてもいいよ」と返事したのである。


「だってさ、僕は今十四で、ロザリーは十三だろ?まあ、いいとこいって彼女が僕のことを覚えてるのはたぶん、ニ、三年という気がするな。その間、時々文通したり、ほんのたまに実際会ったり……そんな程度でいいんなら、つきあってもいいよ。僕もおばさんに言われてたんだ。ガールフレンドがどうこうなんてふうにね……まあ、ほんとの恋愛みたいになる前の、子供のままごとみたいな感じで終わるとは思うけど」


「いや、ロザリーは泣いて喜ぶと思うぜ。兄としちゃ、ほんとに好きだのなんだの、あいつにはまだ早いと思っちゃいるんだが、相手がおまえなら俺としても安心だ。まあ、そんな本気にならず、適当に相手してくれればそれでいいから。俺のほうでも言っておくよ。アンディは俺がしつこく食い下がったからようやく「うん」って言ったようなもんだとか、そんなふうにさ」


 ところが、すっかり有頂天になったロザリーから、クリス経由でアーサーの元に連絡が飛び、「一体これはどういうことなのか」と、アーサーは弟に長ったらしい苦情の手紙で責められたようなのである。


「見損なったよ、アンディ。君がそんな奴だとは思ってもみなかった」


 ある日アンディはそんなふうに同室者から冷たい目で見られ、当然彼にそのことの説明を求められた。フェザーライル校ではしょっちゅう抜き打ちの小テストが行われるため、アンディは歴史の年号などを覚えるのに忙しかったが、今日ばかりはどうもアーサーを無視するわけにもいかないようだと思い、本を閉じ、彼と向き合った。


 というのも、アーサーが普段話すことは(前同室者のザックと比べて)つまらないことが多く、アンディはその多くを適当に聞き流すというのがほとんど習慣になっていたからである。


「そういえばすっかり忘れてたけど、君の弟くんってのは、ロザリーのことが好きなんだっけ。でもまあ心配はいらないと言っておいてくれたまえ。僕とザックの妹とのつきあいってのは、そう深刻なものじゃなくて……そのうち彼女も遠く離れた理想の王子様なんてのがすっかり色褪せるようになって、近くにいる本当のプリンス・チャーミングの良さってのがわかるんじゃないかな」


「適当なことを言って誤魔化すなよ。うちの弟のクリスは真剣なんだ。初等校の一年の頃からロザリーの学校の荷物を持ってやったりなんだりさ、それは涙ぐましい献身によって彼女のことを愛してきたんだ。それを横から割り込んでどうにかしようだなんて恥を知れよ、アンディ」


(馬鹿馬鹿しい)、そう思ってアンディは肩を竦めた。なんだったら今すぐアーサーにロザリーから届いた手紙の全文を読ませ、彼女がいかに精神的に子供か、またそういった種類の憧れといったものは現実がわかった時に冷める手合いのものだ……といったことを教えてやりたいほどだった。


 とはいえ、プライヴァシーの尊守といった観点から、アンディはロザリーの手紙の秘密をアーサーに明かすわけにはいかなかった。手紙には>>「毎日貴方のことを思わぬ日はなく、学校祭でアンドリューさまがお話くださったことはみなすべて、記憶に留めて繰り返し一言一句思いだしてばかりいます。こんなふうに書くからといってわたくしのこと、鬱陶しいだなんてお思いにならないでくださいね。ただ、ロザリーは幸せなのでございます。まさかこんなにも早く自分にとっての運命の方と出会い、まさかその方がおつきあいしてくださるだなんて、こんな光栄なことって他にあるものでしょうか!お兄さまからわたくしと交際しても良いとのお返事をいただいた時、わたくしがどんなに嬉しく感じたかなど、アンドリューさまにはおわかりにならないと思います。わたくし、もう少しで失神するところだったのです。お笑いにならないでくださいね。このことについては女中のメアリが証人でございますわ……」といったような、こんな調子のことが毎回長々と綴ってあった。もっとも実際のロザリンド・レッドメインはこのような勿体ぶった調子で話す少女ではなく、話言葉のほうはどこにでもいる今風の女の子だったのだが、こうした手紙を読むにつけ、アンディが思うのは次のようなことだった。彼女は一、二度会って話した程度の男に自分の理想をおっかぶせ、その偶像に恋をしているのだろうと、アンディとしてはほとんどそう確信していたといってよい。


「アーサー、こう言っちゃなんだが、人の恋路に首を突っ込むのはよせよ。これは少なくとも僕とロザリーとクリス君の三人の問題であって、横から兄貴の出てくる幕じゃないんだ。なんだったら、他の連中にも聞いてみろ。そういや、来週また討論会があるから、議題として僕のほうから提出しようか?『幼き恋の三角関係、そこに第三者はどこまで口を差し挟むべきなのか?』といったような議題でね」


 アンディにこのようにやりこめられると、アーサーとしても黙りこむ以外にはなかった。何故といって彼は雄弁術といったものがまだあまり身についておらず、月に一度ある討論会では常に、誰かしらに己の主張を論破されることが多かったからである。


 この点、アンディは大抵の議題で相手のことをやりこめることが多かったものである。その論述には上級生も舌を巻くほどで、「あんな屁理屈野郎にかかっちゃ誰も適わない」とすら言わしめたほどだった。


 確かにアンディの思想といったものはあらゆる観点から鍛えられていたと言っていい。愛する義母のソフィが、自分以外にも心から愛する存在を持っている……そう知って以来、アンディの内で暫くの間棺桶の上に石をのせるような形で眠っていた<内側もさ男>がまたも目を覚ましたのだ。しかも彼は吸血鬼よろしく、寝ている間にすっかり精力を回復し、パワーアップしたらしい。アンディは校内で学友たちと交わるよりも、ひとり孤独に読書する時間に喜びを見出し、一学年の頃とは違い自ら目立った行動を起こすということは滅多になくなっていた。もっとも、テニスとチェスと討論会ではまったく別で、そうした自分の真の力を発揮できる機会にはアンディは喜んでそうしたが、もはやいつか学年で一番になるという望みのことも捨て去り、これまで哲学者の本を読み蓄えてきた思想のすべてと、そこに自分独自の生みだした思想とを融合させ、新しく生まれ変わらせること……そのようなことに彼は腐心した。だがアンディは誰にもそうした秘密のことを打ち明けなかったし、周囲の求める<アンドリュー・フィッシャー>像のようなものを演じ続ける傍らで、そこと「本当の自分」のようなものに差異を感じはじめていたのである。


 アンディは以前は、何か困ったことや悩みごとがあれば、なんでも愛する義母のソフィに相談したし、周囲の先生方もそうした相談に応じてくれる立派な人々ばかりだといったように認識していた。だが、アンディの魂にはいまや大いなる影のようなものが差していた。それは仮にザカリアス・レッドメインを退けて学年で一番になったところでなんら変わらず、またテニスやチェスのジュニアチャンピオンになったところで、払いのけることの出来ない大きな闇だった。以前までアンディは、そうすることで愛するソフィおばさんが喜んでくれるなら、自分を誇りに思ってくれるなら……心のどこかで常にそう願い、<立派な人間>、<一流校に通う素晴らしい学生>であり続けることに、非常な意義を感じたものだった。けれど今、その一点がすっかり崩れてしまったのである。『律法のひとつを破った者は、すべてを破ったと同様である』というあの聖書の言葉はまったく本当だとアンディは思った。学業やスポーツに身を入れていくら頑張ったところで、かつてのソフィおばさんとふたりきりの黄金期、素晴らしい理想郷、永遠の楽園のようなものは戻って来ないのである。


 そのことを思うとアンディはすっかり無気力となり、何をする気も起きないのだったが、何分父親はこの国内随一と言われる私学校に息子を通わせるため、結構な大枚を毎年はたいているのである。その一事について思ってみただけでも、アンディは周囲の人間がそう思いこんでいるところの<アンドリュー・フィッシャー>像を演じ続けねばならなかったし、結局のところ自分にとってもそれが最終的に一番ためになることなのだと己に言い聞かせねばならなかった。


 とはいえ、アンディは一学年だった頃よりは目立たぬ生徒になっていたといえる。以前はあまり目立つことのなかったセドリック・ロバーツがザックの同室者となって以来、何やら注目を集めはじめたのとは逆に――アーサー・ウォルシュという、面白みのない日和見主義の優等生と同室になったことで、むしろアンディの人気は落ちたようにさえ見えた。一学年の頃、ザックとアンディの部屋へは常に誰かしら他の生徒が遊びにきては歓談していったが、いまやアンディのいるF号室ではそんなこともたまにしかなく、同室者次第でこんなにも変わるものかとアンディ自身思ったものである。


 と同時に、真に人気のあったのはザカリアス・レッドメインであって自分ではなかったのだとアンディは思いもした。だがそれは少し違うということに、アンディはこの時にはまったく気づかなかったのである。例の、以前はあった愛する義母との一体感が損なわれて以来――アンディは常に誰にとっても、実は近づきにくい生徒になっていた。ところが、アンディ自身はそれとは気づかず、同室者が変わっただけで周囲の生徒のほうでは態度を変えたのだから、そのような連中のことは放っておけばいい……などと、ひねくれた態度でものを眺めていたのである。


 このような形で、アンディの中の<内側もさ男>的傾向は以前と同じく着実に強まりつつあった。アンディはもちろん、学業のほうも頑張れば、スポーツの方面にも実に精をだしたし、校内で何がしかの対抗試合が行われれば、それがアメフトでもバスケットでも野球でも、とにかく声を限りに声援を送った。アンディにとってフェザーライル校の全学生は同志であり、テニスの試合の時には自分が逆に応援してもらっているように、その方面の義理を果たすことに関しては、心から熱心であったといえる。


 この頃、アンディは一学年の頃にはあまり親しくなかったアンソニー・ワイルという少年と、よく行動を共にすることがあった。彼は入学時はA号室とは逆の一番端の部屋であるZ号室におり、自ら学業に熱心でないことをよく語っているような生徒だった。


「俺はまあ、最終的にここのフェザーライル校を卒業したという肩書きが残ればそれでいいんで。親がそう強制するからここに来ているようなわけで。したがって必要最低限の成績さえクリアーすれば、あとはのんびり草を食む羊のように怠けていたいっつーか。そんなわけで、二度とない青春とかなんとか、あんまり暑苦しいことには巻き込まないでおくんなまし」


 彼はこういった調子の生徒ではあったが、みなワイルのことが好きだったし、とりわけ彼がする性にまつわる秘密の話は人気があった。なんでもアンソニーは、十二の時に屋敷の女中とすでに初体験を済ませているらしいとの、もっぱらの噂であった。


 アンディは最初、アンソニー・ワイルのような軽薄なタイプの生徒を軽蔑したのだが、彼のする性にまつわる秘密の話に興味を抱いたというわけでもなく、やはりこれも単に部屋割的な問題で、アンソニーは隣のG号室からアンディとアーサーのいるF号室へ避難してくることが多かったのである。


 というのも、ワイルの同室者のデイヴィッド・エイブラハムは、聖書研究会に所属している、親から牧師になるのを反対されているような、実に生真面目で信仰熱心な生徒だったからである(ちなみにこの反対の理由というのは、彼がひとり息子で会社を継いでもらいたいかららしい)。その彼が事あるごとにしょっちゅう、「イエスがどうの」と説教してくるので、たまらなくなったアンソニーは神の許しがなくても自由に呼吸できる隣のF号室へやって来るというわけだった。


 彼は最初、アンディとではなく、もっぱらアーサーとばかり話をしていたのだが、このアーサーがいなくて、アンディだけがF号室にいた時、彼はこんなことを話していた。


「フィッシャーはアーサーのこと、本当はどう思ってるんだい?」


 ザックがかつて言っていたように「悪い奴じゃないが、まあ小物だ」と本心を洩らすのもどうかという気がして、アンディは読んでいた本から目を離さず、「まあ、悪い奴じゃないね」とだけ答えておいた。


「ふうん、そっか。俺はウォルシュのような奴は好かないね、はっきり言って。ここに来てあいつと話をするのも、エイブラハムよりは多少は話せるってだけの、それだけの理由からさ。俺とあいつとザックなんかは、同じ聖シメオン初等校の出身なんだけど、俺も以前はさ、あいつのことはべつに好きでも嫌いでもなんでもなかったんだ。ところがさ、この初等校の最終学年の時、俺とあいつと他の友人何人かで、ビールパーティをすることになったんだよ。もちろん、最終学年とはいえ、バレたら内申に響くし、もしかしたらこのフェザーライル校の進学も取り消されるかもしれなかった。けどまあ、俺は平気の平左だったね。ところがあいつときたら、自動販売機でビールを買う時からしてすでにビクビクし通しでさ、「バレたらどうする」だの「親に叱られる」だの、五秒おきくらいにそんなことばっかし言うんだからな。俺たちはすっかり興ざめしちまって、今度はあいつ抜きでビール飲みながらエロいビデオでも見ようぜってことに収まった……まあ、そう怖い顔するなよ、アンディくん。君みたいな本物のサラブレッドには俺たち落ちこぼれの気持ちはわかるまい。ただ俺は一言お宅に注意しときたかったのさ。あのアーサー・ウォルシュって奴は、平気で仲間を裏切るユダみたいな奴だってことをね。あの時のビクつき加減からみて、あいつは自分が助かるためなら簡単にあっさり仲間を裏切るだろうことが見てとれた……そんなわけで、君も同室者として注意しといたほうがいいんじゃないかって、そう一言いっておきたくてね」


 このあとアーサーが部屋に戻ってくると、アンソニーはいつも通りアーサーと差し障りのない程度の世間話をしていた。同じ初等校の出身者がその後どうしてるかといった消息のことや、互いの親の商売のことなどである。その実に親しげな様子を見ていると、(おまえこそ二枚舌のユダじゃないか)とアンディは思わなくもなかったが、このことをきっかけにしてアンディは、アンソニー・ワイルという少年と親しくなっていったのである。


「アンディ、君の継おっかさんときたら、その……結構ないいおっかさんじゃないか。世間の人は君の義理のママが金目当てに億万長者と結婚しただの、一時期相当騒いでいたっけが、今じゃセレブ雑誌の表紙を飾るまでになってるんだものな」


「……それ、本当?」


 アンディはその時もまた、非常階段の入口で、アンソニーが煙草を吸うのにつきあいがてら、彼と色々なことを話しこんでいた。彼が最初に制服の内ポケットから煙草を出した時、アンディは驚いたが、あえて注意はしなかった。というのも、そのままふたりで教師の誰かに見つかったとしても――アンディにはもう守りたいものは何もなくなっていたからである。


 だが、アンソニーはいい加減そうな見かけとは違い、実際は義理堅い性格らしく、「現場をもし押さえられたら、俺はフィッシャーが親切にも注意してくれていただの言って、君のことを共犯者に仕立て上げるつもりはまるでないよ」と、そう最初に確約してくれていた。


「ああ、本当だとも。今度部屋にある雑誌を見せてやるよ。きっと君が喜ぶだろうと思ってそれは買っておいたものなんだ。しかしまあ、なんだな、アンディの義理のお母さんって人も罪な人だな。今ごろになって他の男と一緒になりたいってのはわかんなくもねえが……何しろフィッシャーのパパってのは、あの通りの人だからな。そこんところの事情はまあ、わかんなくもない。うちも似たり寄ったりだから。けど、おまえが無事立派に成長するまで再婚は待つってか。いやあ、俺ならそんな蛇の生殺し状態は、ごめんこうむりたいね。一息にバサッと斬って捨てられたほうが、まだしも傷の治りが早くて済むってものさ」


 アンソニーの父親は、伝統ある豪華ホテルのオーナーで、他に有名レストランのチェーン店なども経営しているのだが、彼が幼い頃より複数の裸の女性がリビングと寝室を往復するのを見るといった、そのような乱れた生活ぶりだったらしい。結婚したのは一度きりで、その女性がアンソニーの母親なわけだが、こちらは父親と別れて以後、三度も結婚したが結局誰ともうまくいかなったらしく、今では動物の愛護活動に専念しているということだった。


「だからつまり、俺は親父にとってもおふくろにとっても、透明人間よろしく最初から<いない子>なのさ。結婚してうまくいってた最初の頃についうっかり出来ちまったって奴だな。そんなわけでまあ、アンディの気持ちはわかんなくもない。ただ、俺はだな、その……おまえの義理のおっかさんみたいのがすぐそばにいたら、下半身が危機に瀕するってーか、マジでヤバイ気がするんだが、アンディくんはそのへん、どうなのかと思って」


 証拠を残さないため、携帯用の灰皿にアンソニーは煙草の灰を落としながら、そんなことをアンディに聞いた。何故なのかはわからないのだが、アンディは彼には義理の母親のソフィのことや、心から彼女を愛していたのに、横から邪魔な蛇のような男が登場したことなど、そんなことまでも色々話すことが出来たのである。


「だって僕、九歳の頃からあの人と一緒にいるんだよ。だからあんまりそういうことは考えないんだ。胸の谷間なんかが見えた時に、そこの白い皮膚のところに静脈が走ってるのを見て、綺麗だなって思うことはあるけど……かといってまあ、それをどうこうしたいとか、これはそういう話じゃないんだ」


「ふうん。けどアンディ、おまえの<おばさん崇拝>の話を聞いてるとどうも、母親のことを愛してるというよりは、ほとんど恋をしているようにしか俺には聞こえないんだが。言ってみればまあ、ベートーヴェン-ブラームスタイプなんじゃねえの、おまえって」


「ベートーヴェン-ブラームスタイプ?」


 アンソニーの学業レベルは常に落第すれすれだったが、にも関わらず彼は学識豊かなところがあったし、またサキソフォンやドラムやギター、キィボードといった楽器を自在に操ることが出来たため、部には正式に所属していなかったが、ブラスバンドが必要な式典の時には、呼ばれて何かの楽器を叩いたり弾いたりといったことがよくあった。


「そ。ふたりとも、理想の女と性欲処理の女ってのをはっきり分けてるんだ。ベートーヴェンは性欲のほうは娼婦とか、そっちの女に任せて、自分が結婚するような女は清らかな処女で性格はどうだの、寝ぼけたことを思ってたんだろう。んで、ブラームスにとっての理想の女ってのはクララ・シューマンだよな、当然。でも彼女の夫のロベルト・シューマンは彼にとって恩師で良き理解者だったわけだし、そう考えると手出し出来ない分、クララは神格化されたような素晴らしい女性ってことにますますなっていったんだろう。つまりさ、アンディもそういうふうに「本当に心から愛する素晴らしい女性には性欲なんていう汚らわしいものを絡めてはいけない」とかって思ってるんじゃねえかってこと」


 アンソニーの提唱したこの説は、アンディにとって思いもよらないものだった。アンディは誓って義母のソフィに対し、邪まな思いを抱いたことはない。確かに小さい時――確か十歳くらいの時――彼女に話を聞いてほしくて、バスルームの中にまで入っていき、シャワーカーテンの外でどうでもいい昆虫の話をしたといった記憶はある。その時にソフィが突然シャッとカーテンを開き、「そこからバスタオルを取ってちょうだい、アンディ」と言った時に、彼女の裸をはっきり見てはいた。けれど、一度そうしたことがあって以来、義母のバスタイムを邪魔することはなかったし、何かのいやらしい動機でソフィの肌に触れたようなことは、アンディには一度もなかった。


 ところで、アンディとアンソニーがこの話をしたのは冬休みのはじまる少し前のことだったのだが、その二週間ほどの短い休暇中、アンディはレッドメイン家に招待されて、そちらで過ごすことになっていた。アンディは普段なら決して、ソフィよりも他の誰かや何かを優先するということはなかっただろう。けれど、感謝祭の時に自宅へ戻った時、アンディははっきりと感じていた。ソフィは以前よりもさらにどこか艶やかで美しくなっており、それはあの男と時々会っているせいなのだと、アンディは直感したのである。


 実をいうとこの時、アンディはソフィとちょっとした喧嘩をした。ソフィの背後に相も変わらず例のセスという男の影が張りついているのを見て、アンディはすっかり気分を害していた。そこでソフィが何やかやと良くしてくれてもぞんざいな返事しかせず、さらには「こんなつまらない家に帰って来なければ良かった」とか「七時間以上も電車に揺られるより、寮に残っていたほうがましだった」といったような言葉さえ口にした。ソフィはそんなアンディに対して辛抱強く接していたが、それでも「学校で何かあったんなら、話してちょうだい、坊や」などと彼女が言ったのは、失言の極みというべきだったろう。アンディの怒りと不機嫌はそこで頂点に達し、「僕をもう二度と坊やなんて呼ぶな!子供扱いもするな!!」と、彼は怒鳴っていたのである。


 他に、「あんたなんて結局、僕とは血の繋がりも何もないんだし、だったらとっとと父さんと別れて、あの男と一緒になればいい。変に同情されたんじゃ、こっちだって逆に迷惑だ!!」との言葉もアンディの喉からは出かかったが、そこまで言ってしまっては流石におしまいだと思い、それだけはぐっと腹の底に押しこんで我慢した。


 寄宿舎に戻ってくると、アンディはすぐにソフィに対し、謝罪の手紙をしたためた。感謝祭の時の自分の態度のまずさを詫び、これまでおばさんがどんなに自分に良くしてくれたかといったことに言及し、最近学校で習ったトルストイの言葉も引用した。つまり、愛とは何かと言えば、「見返りを求めず、無償で相手に良くしてやること」だといったようなことを。それをおばさんはなんの血の繋がりもない義理の息子である自分に実践してくれた、今あらためてそのことに対し心から感謝の気持ちを云々……アンディはそうした手紙をある意味お義理的気持ちからソフィに向け投函した。しかしながらこれ以後、アンディは一学年の時に毎週書いていたような、生き生きした内容の手紙を義母に対しては一切書かないようになっていく。とりあえず最低でも肉親には一通こちらの様子を知らせる手紙を書かなくてはならないため、一応手紙を書くことには書くのだが、それは必要最低限知らせておかなくてはいけないことを羅列してみたといったような、実に素っ気ないものであった。


 ところがそのような手紙に対しても、ソフィは今までどおり毎週毎週、きちんきちんと返事を書いて寄こした。ノースルイスの庭の四季の移り変わりといったことや、最近社交上であったこと、あるいは読み終わった本の感想についてなどなど、彼女の手紙には変わらず端々に愛情が溢れていた。義母の手紙はいつでも、ラベンダーやローズマリー、あるいはゼラニウムといった精油の良い香りがしたし、彼女が送ってきてくれるものも、例の魔法のグミキャンディはじめ、心のこもったものばかりだった。


 けれどもう、アンディには魔法のキャンディの魔法は通じないようになっていた。自分が何度素っ気ない手紙を書いても、ソフィのほうではまだ魔法の力が通じると信じているのだろうことが、アンディにははっきりわかっていた。だがアンディはその魔法の菓子をなんの説明も加えず、まわりの腹の減った学友たちに夜食として供し、自分は一口も食べようとはしなかったのである。何故といって嫉妬と疑惑の強い感情といったものは、アンディの中であまりに深く根を張ってしまったがゆえに――もはや何をもってしても、素直にソフィの愛情を受けようという気にはなれないのだった。


(おばさんはずるい。あの男との恋愛を楽しむ傍ら、僕の愛情までそっくり欲しがるだなんて、まるで悪い魔女か何かみたいじゃないか。そうとも。これまでおばさんが色々と良くしてくれたことが一体なんだっていうんだ。僕はもう二度と……前と同じようには絶対にならない。おばさんがあの男と別れたということがはっきりわかるようなことでもない限りは、この愛情の制裁行為は続くんだ。つまり、おばさんのほうで熱心に僕のことを求めても、僕のほうでは他に楽しいことが色々あって、おばさんのことなんて二番か三番のような振りをし続けるっていうことさ)


 アンディはそう思ってみたものの、自分が今思ったことが真実でなく、正しくもないことはよくわかっていた。第一に、アンディはソフィに今も心から感謝していたし、昔愛した男が突然現れて、そちらに心惹かれるのは当然のことだともよく理解していた。また、魔法のグミキャンディもがっつく犬のような寮友たちにそっくり渡したりせず、数を数えて毎日一粒ずつ、前と同じく大事そうに自分で食べれば良かったと後悔もしたのである。


 とはいえそれでも、顔を合わせればまた感謝祭での時と同じことが起きるだろうとアンディは危惧し、レッドメイン家の招待を受けるということにした。事の原因はやはりロザリーで、彼女がまたも「アンディが、アンディが」と熱に浮かされたように両親にくっちゃべり、兄にも長ったらしい手紙を送り続けたことにより――ロザリーの願いが晴れてアンディに伝えられ、彼はその招待を受けたというわけであった。




 >>続く。






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