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第15章

 ソフィはセスが立ち去ったあと、もう何もする気が起きず、今日の夕食は何か適当に冷蔵庫にあるありあわせのもので済ませようと思っていた。<何もする気が起きない>といっても、それは失望や絶望のあまりとか、そういったことによってではない。


 何よりもセスが間違いなく生きていたこと、またもう一度彼女のことを心から求めているということが、ソフィには嬉しくてならなかった。感動のあまりもう暫くはまともに何も出来そうにないほどだった。これこそ、毎週教会に通い、神に祈ってきた甲斐があったというものだと、ソフィは初めて思った。


 ソフィは元より、それほど信仰熱心だったというわけではない。信仰熱心な家庭に育ったということもなかったが、それでも母親がノースルイスに越してきたあたりから、毎週姉とともに教会へ行く姿というのをよく見ていた。ソフィはてっきり母のアルマが、ヴァ二フェル町にあった共同体との繋がりを断たれたため、それで突然教会などへ熱心に通いだしたのだろうとばかり思っていた。だが、今はそれが違うとよくわかる。何故ならば、バートランド・フィッシャーと結婚し、アンディと出会ってからというもの――ソフィもまたやはり、その頃から信仰といったものに対して、真面目に向き合うようになっていたからである。


 彼女自身は自分のことはあまり願わなかった。ただ、アンディが健やかかつ幸せであるために、また彼に相応しい人間、より良き母親となるためには、神の力が必要であるように感じ、その過程でセスのことをも祈るようになっていったのだ。セスがもし生きているなら、もう一度彼が神のことを信じられるくらいの良き人生を生きることが出来ておりますようにと、そうソフィはよく祈っていた。


 そしてこの時、ソフィは、小さな頃よく母親が聴いていたあの曲――ディオンヌ・ワーウィックの『I Say a Little Prayer(小さな願い)』が聴きたくなって、CDプレイヤーにそれをのせて聴いたのだった(ちなみに、ソフィの母がこの曲の他によく聴いていたのは、グロリア・ゲイナーの『I Will Survive(恋のサバイバル)』、ロバータ・フラッグの『Killing Me Softly』などである)。


「♪The moment I wake up

 Before I put on my make up

 I say a little prayer for you

 While combing my hair now

 And wond'rin what dress to wear now

 I say a little prayer for you……」


 そしてソフィがサビの歌詞をいまや声高らかに歌おうとしたその瞬間、リビングにアンディが姿を現したのだった。ソフィはこの時泣いていたが、もし心から愛する彼女の男がつい先ほど現れたばかりと知らなかったら、ソフィが今流しているのがどういった種類の涙なのか、アンディには到底わからなかったに違いない。


「おばさん。おばさんは……あの男の人のことが好きなの?」


 鹿撃ちの猟で、鹿が体のどこかに鉛の銃弾でも受けた時のような――そうした痛ましい顔の表情をアンディがしていると、ソフィはこの時鋭く気づいていた。そこで『To live without you Would only mean heartbreak for me』という歌詞のところまで来ると、CDプレイヤーの停止ボタンを押していたのである。


「もしかして外で……セスと会ったりしたの?」


 ソフィは顔の涙をぬぐうと、ソファに座る自分の隣に来るよう、義理の息子に目で合図した。彼は一瞬ためらったが、それでも義母の命令に大人しく従うようにして、やはりいつもの自分の定位置に腰掛けた。 


「外でじゃないよ。いや、外でも会ったけど……ここでおばさんとあの人が話してるのを聞いたんだ。悪気はなかったけど、でもあんまりびっくりするようなことだったから……」


「アンディ!一体わたしとあの人の何を聞いたっていうの!?」


 ソフィは当然、怒っているわけではなかった。それに自分にしても、あんまり興奮していたので、何をどの順序で話したのかなど、記憶がすでに曖昧だった。けれど、セスと話した中には、アンディの母親のことも含まれていたと記憶している。彼は今もまだ自分の母親が自殺したのだとは知らなかった。そのことはソフィの心に今も重くのしかかっていた。つまり、仮に自分がセスと駆け落ちするように逃げたあとにでも――アンディがその事実を知ったとしたらと思っただけで、とてもそのようなことは出来ないと、ソフィはそう考えていたのである。


「たぶん、会話の最初のほうかな。おばさんがあのセスって人に『こっちは死んだかもしれないと思ったのに』っていうようなことを言って、あの人のほうではそのあと、おばさんが結婚してようがなんだろうがおまえは俺のものだって……おばさんも、あの人に愛してるって言ってたよね?それで、何年も音信不通だった理由を聞かせてほしいってところまで、聞いたんだ。おばさんが昔、一番に愛してるって言ってたのはあの人のことなんでしょう?父さんとは、離婚するつもり?」


「アンディ、アンディ!!」


 突然義母が自分に抱きついてきたため、アンディは面食らった。もちろんその抱擁は、セスというかつての恋人に対するものとは意味も種類も異なるものである。アンディはやはり自分のことをこの時、犬のようだと感じた。「この浮気性の、汚らわしい売女め!!」とでも罵り、彼女のことを跳ねつけるようなことは――想像の中でさえも、アンディには出来ないことだった。


「どう言ったらいいのかわからないけど……あんたの父さんとは、本当のほんとには愛し合ってないってこと、アンディもわかってるわね?けど、アンディ、あんたが大きくなるまではおばさん、お父さんと離婚はしないつもりよ。お金とか慰謝料とか、そんなことが問題なんじゃないの。ただおばさんは、アンディのことが心配なのよ。心配だし、そばにいたいから、セスには帰ってもらうことにしたの。本当はね、離婚して一緒にならないかって言われたけど、それはもっと――なんていうか、あの人が何年か待てたとしたらの話っていうことに落ち着いたのよ。おばさん、アンディが大きくなってガールフレンドでも出来たら、その頃でいいなら一緒になってもいいって、そう言ったの」


「ガールフレンドなんて僕、興味ないよ」


 自分が決して二番手でないと知り、アンディは嬉しくもあったが、やはり心中が複雑であることに変わりはなかった。おばさんはもしや、この自分のために女としての幸福を犠牲にすると言っているのではあるまいか……そう思うと、何か胸に石の詰まるような、いわく言い難い気持ちがアンディの心を押し塞いだ。


「ああ、べつにゲイとかっていう意味じゃないから、心配しなくていいよ。ただ、僕は話を聞いていて……これはおばさんはたぶん、父さんと間違いなく離婚するだろうなって思ったんだ。だからそのための心の覚悟をしなくちゃって思った。仮に僕にガールフレンドが出来るとしたら、それは大学にでも入ってからだもの。でもそんなに長い年月、おばさんのことを父さんに縛りつけておくのはどうかって思う。第一僕、今じゃ年の半分も屋敷にいないわけだから……その間おばさんはどうしてるのかなって、前からずっと思ってはいたんだ」


「アンディは放っておいても、女の子のほうがいずれ向こうから寄ってくるわよ。そのうち、選ぶのが困るっていうくらいね。そしたらもう、おばさんのことなんかどうでもよくなっちゃって――その頃ならおばさん、安心してあんたの元を去っていけると思うの」


「女の子になんか興味ないって言ってるだろ!!」


 アンディは自分の首に回された手を、何か忌々しいものでもあるように払いのけると、ソファから立ち上がった。


「僕は、僕はね、おばさん。女の子なんかどうだっていいんだよ。仮に一生結婚しなかったとしても、そんなのはずっと先の話だし、今の僕には関係のないどうでもいい話さ。でも今、おばさんには目の前からいなくなって欲しくない。この先もずっとそばにいて欲しいと思う。けどおばさんが、ある日突然あの男といなくなるっていうんなら、そんなの結局今かいつかだけの違いであって、僕とは何も関係なくなる日が来るってことに変わりはない。おばさんはたぶん、何もわかってないんだ。僕がどのくらい、おばさんのことを……」


(愛しているか)とは言えず、アンディはそのまま二階の寝室のほうへ上がっていった。おそらく彼の愛するおばさんの目には、小さな子供が駄々をこねて支離滅裂なことを言っただけといったようにしか見えなかったことだろう。アンディは自分でも自分が情けなかった。けれど結局どう足掻いても無理なのだ。『安心してあんたの元を去っていける』?そんな無神経な言葉を平気で言えること自体、ソフィと自分の間には実は大きな隔たりがあるのだと、アンディは今初めて気づかされた。


 ソフィはこの日、適当にあり合わせのものだけで夕食を済ませようと最初は思っていたにも関わらず、義理の息子の機嫌を取るために、コーンクリームスープやグラタン、スパゲッティやアップルパイなど、大体いつも通りの品数を食卓に並べていた。


 食事の準備が出来たことをアンディに知らせにいくと、彼は暗い部屋で横になって寝ていた。おそらくは彼が起きているだろうと思ったソフィは、アンディが寝ているベッドに腰掛け、彼の肩に手をかけながら言った。


「おばさんはね、アンディには大きな借りがあるような気がするのよ」


 壁際に顔を向けているアンディに対し、ソフィは何かを後悔しているような声音で、優しく義理の息子に話しかけた。


「そりゃあもちろんね、セスのことは好きよ。でももう別れてから五年にもなるわ。今すぐ一緒に暮らしたからってうまくいくとは限らないって、おばさん、そんなふうにも思ってるの。だから、さっきのおばさんの言い方はちょっとずるかったわね。なんだかアンディのことにかこつけて、だから一緒にはならないみたいな言い方をしてしまって……でもそうじゃないのよ。おばさんもうまく言えないけど、あんたの父さんもそうだったみたいに、大抵の男の人はね、おばさんから愛情を奪っていくの。それはもしかしたらセスも同じかもしれない。それでそのうち、『奪っていったがどうした』っていう顔をしてふんぞり返るようになるのね。だけど、おばさんにとって坊やは全然違うのよ。与えても与えても、べつにそれで損したとか、無駄な骨折りだったとか、何か自分の与えたものの見返りが欲しいってことじゃなくて……おばさんはね、坊やが必要だと感じるものを自分が持ってるってことがただ嬉しかったの。それで、まだ坊やにはそれが必要だと思うし、もうそういうものはアンディにとって何もないって感じるようになったら、お父さんと別れても大丈夫かなって、そう思ったっていうことなのよ」


 アンディはようやくもぞもぞ起き上がると、泣いていたことを悟られないために手の甲で目頭のあたりを拭った。何故なのだろう、アンディは突然、おばさんがこのまま永久に自分のそばにいてくれるような気がした。それこそがアンディにとっては何よりの、もっとも理想的な世界だった。だが、よく「完璧だと思われた楽園にも蛇はいた」と言われるように、セスとかいう名前の男が姿を現してしまったのだ。アンディは昼間林道で出会ったのん気な蛇を、逃がしてやったりしないで殺しておけば良かったと思った。あの男はまた必ずおばさんに会いにやって来るだろう……そして誘惑し、自分の愛するおばさんのことを不幸にするかもしれない。アンディはソフィとセスという男の間の愛情もまた<絶対ではない>のだと知り、何故かほっとした。そういう意味ではあの蛇ような男も自分も、対等なのではあるまいかと思われたのである。


「おばさん、あの人に騙されたり、そそのかされたりしてるわけじゃないよね?」


 危惧していたことを口に出して言ってしまうと、アンディはほっとした。心から愛している男の出現で、おばさんの目がすっかり曇り、正常な判断も出来ないだけでなく、自分の言うことすらまともに受け止めてもらえない……そんな事態をアンディはもしかしたら何より恐れていたのかもしれない。


「その点は心配なくてよ、アンディ」と、ソフィは義理の息子の肩を抱いて笑った。「あんまり大きな声では言えないんだけどね、あの人、今は結構お金を持ってるみたいなの。もちろん、お父さんみたいな億万長者ってわけにはいかないけど、それでも、その日暮らしをしてた昔に比べたら、大した進歩だわ。セスはお父さんの浮気の事実とか色々調べて教えてくれたけど、おばさん、お父さんと法廷で争ってまでお金をふんだくりたいとか、そんなふうには思ってないの。ただ、やっぱりあんたのことだけが心配なのよ、アンディ。なんでって、あんたがお父さんの会社を継ぐにしても――そうなったらあの人はいいだけ意地悪をしてくるでしょうし、かといってアンディが会社を継がなかったら継がなかったで、財産的なものは十分の一ほども譲ってやらないとか、そんなことになるんじゃないかっていう気がして……まあ、あの人の全財産の十分の一ってだけでも、大したものではあるのだけれど」


「おばさん。おばさんはほんとに、僕のことばかりだね。だから僕、あの人に嫉妬したんだと思う。あのセスって男の人が現れたことで、おばさんは僕のことじゃなくて、あの人のことばっかりこれからは考えるようになるんだろうなと思って」


「馬鹿なこと言うもんじゃないわ、坊や」と、ソフィはアンディの髪をぐしゃぐしゃっと撫でると、自分の胸元に引き寄せた。「そりゃ、セスのことはセスのことで考えるけど……何分、死んでるかもしれないと思ってたのが生きてたんですからね。でもそれと坊やのことはまったく別のことよ。可愛い坊やにはきっとわからないのね……あんたが寄宿学校に行ってる間でも、おばさんがどのくらい坊やのことを考えてるかなんて!」


 この一言ですっかり、アンディの機嫌は直った。そしてそうなると今度は、自分が昼間犯した愚行のことが、すっかり恥かしくなってきたのである。


「おばさん、僕……今ここで懺悔してもいい?僕、さっき外でもあの人に会ったって言ってでしょ?それね、林道の奥の広場でのことなんだ。あの人もとっとと街に向けて帰りゃ良かったんだろうけど、たぶん、おばさんのことを色々心静かに考えたかったんだろうね。僕、あの人のあとを尾けていってさ、あの人が車に乗りこんで去っていこうとする後ろの部分にどでかい石を投げてやったんだ」


「まあ、アンディ!あんたはいけない子だわね!!」


<いけない子>などと言いながらも、ソフィがこの話の成りゆきを楽しんでいるのは明らかであった。何より、顔の表情が笑顔で輝いている。


「そしたらさ、ゴツッていう結構な音がしたもんだから、あの人、車から下りてきて後ろのあたりをじっくり観察してからまた運転席に戻ってね、僕その時、自分からおばさんを奪っていく憎い奴だと思ったもんで、石つぶてをあの人に向けて投げてやったんだ。でも残念ながら当たらなかったよ。そして最後にまた車目がけて石を投げてやったの……おばさん、今度会ったらあのセスって人にあやまっておいてくれる?姿も現さないで石だけ投げるなんて、流石に僕も卑怯だったと思うから」


「そう。でもまあ、セスは大して気にもしてないでしょうよ。それよりおばさんも、坊やがそんなにおばさんのことを思ってくれてるってわかって良かったわ。これで仲直りってことでいいわね?」


「うん」


 それからアンディとソフィは、いつも通り食卓を囲って、何かつまらないことを話しては笑いあったが――ソフィとは違い、自分の人生の黄金期が終わったということを、アンディはこの時はっきりと感じたかもしれない。リース湖のほとりで起きたような素晴らしいことは二度と起きないであろうし、「おばさんは法的には父さんの奥さんなんだ」ということは彼にとってどうでもいいことであったにしても、あのセスという男だけは何かが違った。今この場に彼の姿はないというのに、アンディは愛するおばさんの影にいつでも彼の存在が貼りついているように感じたし、まるでふたりでではなくあの男も含め三人で食卓を囲っているようにさえ感じたのである。


 この日の夜、アンディはベッドの枕に頭を就けると、ソフィおばさんのことをどうすれば自分ひとりのものだけにしておけるのかと、考え悩みながら眠りに落ちていった。そして一方、ソフィのほうでは、すぐ隣の寝室に眠る義理の息子のことではなく、セスのことだけをやはり考え続けていた。


『ああ、愛してるわ、セス。あんた以外に、あんた以上に愛せる男なんて、他にいるわけないわ。なんにしても、最初から順番に聞かせてちょうだい。どうして何年もずっと音信不通になったのか、その理由をね……』


 ソフィがそう聞くと、セスは実に驚くべきことを語りはじめた。五年前に姿を消す少し前から、彼はソフィにこっそり内緒で、私立探偵のライセンスを取るための学校に通っていたというのである。


「私立探偵のライセンスってあんた……そんなものを取って、まさか探偵をやろうってわけだったんじゃないでしょうね?」


「そうとも。俺はおまえがそういう反応をするだろうって、最初からわかってたんだ。おまえが時々、俺に対して『堅気になって欲しい』みたいな目で見てることもわかってた。それでだな、俺としては最大限譲歩したとして、それが容認できるギリギリのラインだったんだ。当時はな」


「ふうん。それで、探偵のライセンスを取ったあとはどうしたの?なんかリロイはロシアマフィアの抗争に巻きこまれたんじゃないかとか、そんなこと言ってたけど」


 当時は極めて深刻にそのことを心配したというのに、今ではそれもガセネタだったのではあるまいかというように、ソフィには思われてきた。


「あー、それな。まあそれも嘘ではない。というのも、探偵のライセンスを取って最初にした仕事ってのが、ロシアのマフィア絡みの件だったからな。で、リロイには暫く帰れないから、ソフィには虎の子の貯金を使って暮らせと言っておいてくれと頼んだんだ」


「もちろんそれは聞いたわよ。けど、あのお金はいざって時のためのものだってあんたはよく言ってたし、わたしもすっかりそのつもりだったもんだから、手をつける前に自分で働くことにしたのよ。そしたらそこのオモチャ屋のCEOがバートで、パーティで会った時になんか口説かれたっていうか……それで結婚することにまでなっちゃって」


「しょうもない浮気な女だ。俺が帰ってくるまで一年も待てないで他の男とつきあうとはな」


「しょうがないじゃないの。あたしはてっきりあんたがすっかりあたしとの暮らしに飽きて、今ごろ他の女とよろしくやってるんじゃないかって、そんなふうに思ってたんだから……それで、そのあとどうなったの?」


 セスはユトランド共和国の諜報機関にスカウトされたことや、国のために諜報機関で命を削って働いたところで自分は結局捨て駒でしかないと思ったこと、そんなこんなで三年ほどでその仕事をやめ、その時の経験を元に小説を書いたところ、結構売れてベストセラーとなり、今度映画化もされるという話をした。


「でもあんた、大丈夫なの?国の諜報機関のことをそんなに赤裸々に書いたりしたら……目をつけられて消されるとか、それこそドラマなんかじゃよくある話じゃない」


「その点は大丈夫さ。何分、諜報部を辞める時に一筆書かされたからな。国の極秘情報を洩らした場合は懲役何年の刑に処されるとか、そんなことが細々と書かれた書類にサインするように言われるんだ。で、何か本を書きたいとなったら、当然そこの検閲を受けることに決まってる。俺の書いたものも検閲されたけど、大して直しもされなかったよ。ま、そんなわけだから、何も問題はないさ。バートランド・フィッシャーのことも、諜報部で知り合った貸しのある男に調べてもらったんだ。で、おまえがあの男と離婚できる理由なんざいくらもあるってことを知ったわけだ」


「ふうん。それでいまやあんたはすっかり、ジェームズ・ボンド気取りってわけ。まあ、いいわ。わたしはあんたがちゃんと五体満足で生きてて、生き甲斐のある人生ってのを生きてくれてれば、それで大体満足よ」


 ソフィはセスから夫バートの弱みのぎっしり詰まった資料を手渡されていたが、大して目を通したいとは思わなかった。そんなことよりソフィにとって嬉しかったのは、セスが自分のために<金のあるまともな暮らし>を志そうと思ってくれていたことと、慰謝料の恩恵に与りたくて姿を見せたというのではなく――本当にソフィのことを愛していて忘れられなかったからこそ、会いに来てくれたということだった。


「まあ、またふたりで楽しくやろうぜ。お互い、五年も離れてたからな。おまえは俺が人間として成長しておらず、こいつの腐った性根は一生直らんだろうとか思ってたかもしれねえが、たぶん今度はきっとうまくいくと思う。おまえのことも大切にするし、最初に書いた小説の続篇でも書けば、まだ暫くは作家とか呼ばれる嘘つき稼業にも就いていられるだろう。なんにしても俺にとっちゃ、詐欺師も作家も大して変わらんな。諜報機関の諜報員の仕事もまたしかりだ。そういう意味じゃ俺も大して変わってないのかもしれないが、おまえはもっと変わってないよ、ソフィ。むしろ別れた五年前よりも今のほうが綺麗に見えるくらいだ」


「セス……」


 この時ソフィは、とても嬉しかった。何故といって、この五年もの間、彼女が美容に力を入れて女を磨いてきたのは何も、バートから捨てられる危機を回避するためではない。もしかしたらいつかセスともう一度会えるかもしれない、その時にしなびた女になっていたくないと思う気持ちこそが、ソフィに美しさを保たせるエネルギーを供給し続けたといっても過言でないのである。


「愛してる、ソフィ。俺たちの間じゃ、わざわざ口に出して言わなきゃいけないほどのことでもないがな。今度こそ、おまえが望んでいたとおり、結婚してもいい。俺はずっとそんなのは紙切れ一枚のことだと拒否してきたがな。その気持ちは今も変わらないが、おまえが他の男とその紙切れ一枚のために一緒にいるってんなら、俺のほうで譲歩するしかない。もちろん、わかってるさ。おまえのほうではこんな言い方されたくないってことはな。けどソフィ、俺は――いや、俺たちはそんな紙一枚に拘束されなくても、十分うまくやっていけると思えばこそ、俺はこういう言い方をするんだぜ」


(やっぱりセスは変わっていないのだろうか)……ソフィは再会の熱狂が少し冷めて、冷静さを取り戻しつつあった。本音をいえば、今すぐここでセスに抱かれるか、このまま彼の車に乗って後先構わずどこかへ逃げてしまいたいとさえソフィは思う。けれどここで初めてソフィはハッとした。不意にアンディのことが思い浮かんできたのである。


『そんなこと駄目よ、セス。それにわたし、子供がいるの』


 ソフィは自分が下した決断を、後悔はしなかったし、むしろ理性の力によりそう出来た自分を褒めてやりたいとさえ思った。けれど、セスとはこれからも好きな時にいつでも会えるわけでもなければ、バートの妻としての社交上のつきあいやら何やら――ちょっと考えてみただけでも面倒なことが山積している。それに、いくら向こうが何人もの女と病的に浮気しているとはいえ、もしバートのほうで自分の不貞の事実を掴んだとしたら、容赦はしないということもよくわかっている。


 そしてここでソフィは不意に自分の心の奥底に隠れている本心に気づいた。おそらく自分はそうなりたくはないと思う一方で、破滅することを願っているのではないかと……。


 セスとの不貞がばれ、その証拠写真をバートが冷たく叩きつけ、ソフィのほうではソフィのほうで、セスから渡された資料のコピーを彼に見せ、「次に会う時は法廷で、弁護士を通してちょうだい!!」などと、ドラマの科白のような言葉を最後に残していくのだ。今ソフィにはそのシーンが脳裏にまざまざと思い浮かぶような気さえした。そして実際にその破局的場面が訪れた時、ソフィはこう思うかもしれない。これとまったく同じ場面を、自分はいつだったか見たことがあると、何かそんなふうに。




 >>続く。






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