2-10
それは俺が隻腕になってからしばらくしてのことだった。仲間もみんないなくなって、一人だけの旅。
危険は山ほどある。それに加え、利き腕とは逆の腕で剣を振るうことには慣れていたが、まだ戦闘を自在にコントロールするほどには達していなかった。
集団で攻められたときこそ最大のピンチだった。両手が揃っている感覚でいては左側の敵への反応が明らかに遅れるのだ。
剣を握っていては魔法も使えない。魔法を放つときに手を敵に向けるのはカッコいいからという理由ではないのだ。魔法を放つ方向をより強固にイメージし、反動軽減のために砲身として腕を使うのである。気が遠くなるほどの反復練習と実戦を重ねて研鑽し、完全に克服できたのは「強欲」と戦う直前だったはずだ。
当時の俺ではそういった状況下では厳しかった。だから悪魔を過剰に召喚した。どれだけ敵に囲まれても倒せるだけのステータスと、攻撃を喰らっても生き抜く耐久力と体力を手にするために。
「強欲の魔王」の配下にはは四天王という役職の魔族がいた。おそらく、世界最弱の魔王より少し弱い程度の強さ。世界最弱の魔王が誰か知らんけど、さすがに魔王を名乗れるほどの実力ではなかった。それでも、当時の俺には魔王並と思えるくらいの強さは持っていたのだ。たぶん、今の俺からあらゆる加護や特殊なスキルを取っ払ったくらいの強さなんじゃなかろうか。
エルキア大陸は広大であった。「強欲」は魔王城に住んでおり、四天王たちにそれぞれ魔都を与え、エルキアの支配を手伝わせていた。この支配関係の話は余談なのですっ飛ばそう。
そのうちのひとつがコキュートスという魔都。氷属性攻撃を主として扱う四天王が支配していた都である。
コキュートスでは雪が降っていないにも関わらず、魔都が雪と氷で覆われていた。家々の屋根には氷柱が連なり、湧き水のように出現する雪掻きが毎朝の人間の仕事。
コキュートスに暮らしていた人間たちの平均睡眠時間は二時間。四日に一度、六時間の睡眠を許される日が与えられる。これは睡眠時間を二時間以下で続けていた際、労働力となる人間たちが次々過労死したためである。
濡れた洗濯物を外で乾かそうとすると、乾く前に凍るほどの寒さ。
そういった気象操作や気候変動は魔王の身体から溢れ出した余剰魔力で起こる。これが各大陸の色といえるものだ。だがコキュートスの場合、それを魔王ではない魔族が起こしているのだから、四天王たちがどれだけ強いか窺えるという話である。もっとも、魔王のソレに比べると、都市ひとつで収まっているのだからまだまだとはいえるが。
他にも人間たちは色んな迫害――奴隷待遇――を受けていた。エルキア大陸では他にも奴隷待遇を受けている種族は多かったが、最下層なのが人間だった。そこで俺は「英雄」として人々を救うため、そしてコキュートスを支配する四天王を倒すために向かった。コキュートスでは魔族を除けば人間しかいなかったから、最初に戦うならここがいいと踏んだのだ。
まともに戦ってなんかいられない。魔都で暮らしているのは魔族ばかり。のこのこ顔でも出そうものなら袋叩きにあってお仕舞いだ。
だから俺はコキュートスの外から魔法を放った。最も大きい城へ。実力のある魔人たちをその攻撃で削り、その騒ぎに乗じて人々に逃げてもらおうという計算もあった。こんな状況下で隷属するのを良しとする人間などいるはずないと思ったからだ。
そしてコキュートスを支配する四天王やその部下の魔人たちと戦い、半死半生で辛くも勝利する。
回復魔法をかける魔力も残っておらず、アイテムもない。血を流し、ふらつきながら、足を引きずってコキュートスを去ろうとした。
俺に石が投げつけられた。
敵かと思ってそちらを向くと、ひとりの子供がいた。そしてその後ろには大勢の人間たち。
『おれたちにどうやって生きていけと言うんだ』
要約すると、彼らはそのようなことを言っていた。
四天王と戦ったことで魔都はかなり荒れていた。そして四天王を倒したことにより、氷や雪が溶けて水になったのだ。魔都は石畳が敷かれていたが、そこから流れた水によって家屋は浸水し、コキュートス周辺も泥地へ変化してしまっていた。
また、「強欲」率いる魔王軍の長い統治によって、人々は自分たちで生きる知識や技術を忘れてしまっていた。命令されるから働いていただけで、それに何の意味があるかもわかっていなかったのだ。
『返せ。おれたちの領主様を返せ』
『おまえなんて勇者じゃない。ただの人殺しだ』
罵詈雑言が刃となって幾重にも俺を切り刻み、罵声悪態が矢となって全身に深く突き刺さる。
彼らに背を向け、コキュートスを去ろうとすると、鍬や斧を手にして追い掛けられた。身体の悲鳴を無視して必死に逃げ、もう追いつけないだろうと思って振り返ると、彼らの歓声が聞こえた。
『悪は逃げた。おれたちはヤツを追い払ったんだ。おれたちは強い』
錯覚だ。曲解だ。
でも、生きる気力を手にしてくれたのなら良いと思った。
数日間、隠れて傷を癒した。体力が低下していると、傷の治りや魔力の回復も悪くなってしまう。回復魔法が使えるくらいになるまでにそれだけの時間を要した。
自由に動けるようになった俺はコキュートスへ向かい、どうなっているか遠巻きに確かめようとした。
地獄だった。
四天王や魔族がいなくなったことで、今度は人間たちの間にヒエラルキーが生まれた。上位に立った者は四天王のような振る舞いで下々の人間を甚振るようになった。
だが、そんな上位者も知識や技術を持っていない。
俺には彼らを救う力もなかったし、そんな時間もなかった。
彼らに背を、二度も向けてしまったのだ。
しばらくして、コキュートスの都は俺が予想した通りの結末に終わった。
◇◆◇◆
話をして、どんな顔をソフィアはしているだろうかと思って薄目を開けた。
予想通りでもあったし、予想以上でもあった。
「『英雄』だから誰でも彼でも救えるわけじゃない。救われることを求めてないやつらだって大勢いる」
「でも……! そんな状況! なんで『英雄』は見捨てたの!?」
ああ、それは良い質問だ。
「葛藤はしていた。でもさ、助けを求めてない人間に手を差し伸べても、相手は理解してくれないんだよ」
「そ、れ……は」
「端から見てどれだけ地獄に思えても、当人たちがそれ以上を求めていないなら意味がないんだ」
たしかに、そこへ残って彼らへ知識や技術などを教えることはできただろう。
だが、ひとりでコキュートスの人々を守り続けるのか? どれだけの間守ればいい?
いつになれば――何をもって、終わりとするのか。
それではいつまで経っても「強欲」を倒せない。
「まあ、俺が後押ししたんだよ。さっさと『強欲』を倒せば終わる話だってな」
俺はそう判断した。どれだけ頭の中では無理だと理解していても、一パーセント以下の希望に賭けたのだ。
それは奇跡と呼ぶに相応しい確率。
そして奇跡とは、そう簡単に都合良く起こらないからこそ、奇跡。
俺は賭けに負けた。それだけだ。
それだけの話なのだ。
「『英雄』にも救えなかった人間……救わなかった人間が大勢いる。物語は当たり前だけど、良いところを切り貼りするからそれが伝わらない。勝手に『英雄』が英雄的な象徴として祭り上げられていく。だから消えたんだろうさ」
「え……?」
「英雄でいることに嫌気が差したんだろう。『強欲』と戦うときには俺もパーティから外れていたから知らないけど、今はどっかで隠居してるんじゃないか? ビクビクと震えながら、誰とも会わないように」
「そんなわけ――」
「ないって断言できるのか? 自分の判断で見捨てた人たちの顔をこれ以上なくはっきりと思い出せるっていうのにか!?」
思わず感情的になり、怒鳴ってしまったことを即座に悔やむ。
うまい言い訳を探そうとし、できないことに気付いた。だから、すべての罪を「英雄」に擦り付けることで回避する。
ゆえに――ますますヒートアップした。
「助ける方法がなくて、死にそうな人を楽にするため殺した! 子供が目の前で殺され、発狂してその子供を喰らってもう一度産もうと考えた母親を殺してでも止めた! 他にも手はなかったのかと後悔しながら、後悔する度に、殺される瞬間にお礼を言われたことを思い出すやつの気持ちがおまえにはわかるのか!?」
それは溜まりに溜まった泥が抜け、一気に噴火する火山のように。
あるいは細波が重なって荒波になり、嵐が加速して津波となるように。
「モンスターに殺されそうになった夫婦を助けたら子供が既に殺されてて『もっと早く来い』って怒鳴られたことがあるか!? 遭難した人を助けようとして夜盗に襲われたことはないのか!? それが遭難者とグルだったことは!? 村に泊める場所はないからと馬小屋を宛てがわれる気持ちがわかるか!? 助けたはずの村人が僅かな金欲しさに殺しにくることだってある!! それでも――」
歯を噛み締めた。
ここが、限界だ。
激情を理性というストッパーで無理矢理に止める。
火花が散り、目蓋の裏でスパークする。
「――それでも、人を救おうとし続けて、傷付いていく『英雄』の気持ちが、本当にわかるのか?」
「もう付いて行けない」と言って、かつての仲間は去っていった。
それが二重三重の意味を含めたものだということくらい、とっくの昔に気付いている。
レベル的にも、自分の心が傷付くことにも――リーダーである「英雄」がこれ以上傷付くのを見たくないという思いにも。
あれは遠回しに、俺へ「もうやめよう」と言っていたのだ。あいつは言葉数が少なく、なのに言いたいことは沢山あって、一言ですべてまとめようとするやつだったから。
これまで我慢し、溜め込んできた怒りを、一部とはいえ噴出させてしまったからだろうか。やけに気怠い。虚無感が、一片だけ抜き取ったパズルのように怒りの輪郭を浮かび上がらせた。
「『英雄』が…………どんな風に寝ていたか、知ってるか?」
知らないだろう。当たり前だ。誰にも見せていない。そして、一人でいる間にどうにか隠せるようになった。メイすらも知らないはずだ。俺しか、知るはずもない。
「『ごめんなさいごめんなさい』ってうわごとみたいに連呼するんだ。その自分の声で起きるんだ。そして……自分がまだ殺してしまった人たち、救えなかった人たちに後悔していることに安堵してまた眠るんだ……」
恐ろしかったのは、それに慣れてしまうこと。
もっと良い方法があったのではないかという希求をしなくなること。
「俺は隣で聞いてたよ。見てたよ。いつか壊れるんじゃないかとずっと思ってた。けど壊れないんだよな。だって『英雄』だからさ」
「英雄の勇者」という二つ名で呼ばれ、やがて英雄であることを義務付けられた。
だから聖人で在り続けた。そう在ろうと在り続けた。
でも、そんなこと、人間には無理だ。こんな下等種族がそんな無茶なことをしていたら歪みが出るのは当然だ。
聖人なんてモノが本当にいるのだとすれば、ソレはもはや人間ではない。
人間はそういう生き物ではない。喜怒哀楽を持ち、他者と手を取り合い、時にその手で他者を傷付けて、生きていく生き物だ。
「『英雄』は泣かない。怒らない。嘆かない。ずっと表情は笑みのままさ。いや、ずっと能面のまま。状況に合わせて仮面を付け替えてるだけだ。それでも――」
ああ、それでも――
「――人に希望を見ていたかったから、憎みはしなかった」
「英雄の勇者」でなく一介の「勇者」として師匠に育てられていたとき、ひとりの師匠は言った。そして俺は片手に「希望」を掴み続けることを決めたのだ。
「『英雄』は死なないよ。絶対に死なない。自殺なんてするはずもない。死ぬそのときまで後悔し続けて、反省し続けて、もっと良い方法がないか希望を探し続けるんだ」
今はその準備期間だと言外に告げる。もちろん、彼女と俺とではその意味が違うだろうが。それでも構わない。いや、それでいい。
「欠落」と「英雄」は別物だと、勘違いしてもらえればそれでいい。
「……誰かを助けるってのは、凄く責任が重いことだ。人が背負える荷物なんて限られてて、手を取れるのは二人だけだ。それなのに、他の人の命なんて重いもの、そんなに沢山背負えるはずもないだろう? なのに、今の『英雄信仰』はそこを勘違いさせる」
人を助けるのは、とても難しい。
俺が真実助けられたのは、果たしてどれだけの数でしかないのだろう。
そこのところを履き違え、「勇者」だからと何も考えずに人を助ける者がいる。そうさせたい人がいる。
そうして傷付く「勇者」が増えていく。
ならば、いずれは人を自分から傷付ける「勇者」が出ないと、誰が言えるのだろう。
「…………俺はそんなもの背負えない。だから俺は『欠落』なんだ」
もう俺は人なんて助けない。結果として助かる人が出るかもしれないが、いちいち行動にそんな責任を背負わされるのはまっぴらだ。だから助けるのだとすれば、見返りを求める。契約という形でなら動くことができる。
そして人を傷付けもするだろう。けれど、その責任は背負う。その判断は俺が下したものだから。俺の背負える命はそちらで精一杯だ。助けた人のことまで考える余裕なんて、もうない。
「『英雄』もあなたも……傷付いて来たんだね」
「ああ、そうだ」
「……うん。やっぱり、決めた」
「何を?」
「わたしは『英雄』に会うよ。それで、あなたのしてきたことは間違いじゃないって言ってあげるの」
目を見張る。これだけ話して、何を理解したんだ。
「英雄」が助けた人の数は、見捨て、殺してきた人の数より圧倒的に少ないというのに。
「『英雄』のおかげで今のわたしがいる。それだけでも……あなたのやってきたことに価値はあったんだって伝えたい。わたしもそう思われるように努力するし、考える。助けるってことの意味を、もっと深くまで悩むようにする。それで――」
ソフィアははにかんだような微笑を浮かべている。
それは正しく、人々を暖め、世界を照らす太陽のような笑みだった。
「――もうひとりじゃないよ、って言うんだ」
もう泣かなくていいように。
もう嘆かなくていいように。
もう傷付かなくていいように。
そんな風に、ソフィアは言う。
「……ハッ。弱い癖に、口だけはでかいな」
「むっ。弱いのと、目標が高いのとは話が別でしょ?」
「そりゃそうか。けど、成功確率と達成までの時間は変わるぜ?」
「そ、そこは努力するわよ」
ああ、ソフィア。その必要は、もうない。
既にその言葉は俺に届いた。
「英雄」ではなく「欠落」だけれども、届いている。
心に届き、心を震わせ、心に熱を生んでいる。
「じゃあ、ひとまずはあの魔人をどうにかしないとだな」
「ん? 魔人? あれって、魔族じゃないの?」
……そうだった。こいつ、そこを勘違いしてたか。
「おまえ、魔人と魔族の違いも知らないのか?」
「わ、わたしが、その……経験不足なのはもう散々知ってるでしょ!?」
まあそうだな。正直びっくりしたしな。
「……エルキア大陸に渡っても、魔族とすら出会さなかったし。まだ一度も……」
「あー」
レベルアップのために戦いまくったからな、俺。そうしているうちに魔軍からも注目され始め、どんどん魔族は俺を殺しにやってきた。おかげで才能限界や敵がこちらより格上だからという理由で悪魔を呼んだことはあったが、単純に経験値が足りなくてレベルアップできないって悩みは抱えたことがない。
「じゃあおまえ、魔族と戦ったことないのか?」
「う、うん……そうよ! 悪い!?」
「いや、運が良かったなと思って」
「なんでよ!」
モンスターと魔族とでは戦闘力が雲泥の差だ。ソフィアが経験不足なのもあいまって、まず勝てないだろう。
「まさか、魔族はモンスターがより強くなった存在とでも思ってないよな?」
「違うの?」
「まるで違う」
けど、どう違うかというのも説明し難いな……。
「まあ、各魔王に忠誠を誓ってる存在と思っとけ。魔族の魔は魔王の魔なんだから」
「わかんないけど、わかった。……あなたのその口振りだと、たぶん……会ったら、わかる?」
頷く。一発でわかる。一目で明らかにその存在が異質だと気付くはずだ。
それはそれとして、魔人の話に戻る。
「魔人は、元人間だ」
「え!?」
人間が死に、何らかの事情で蘇った存在が魔人。詳細は定かではないが、死の瞬間に抱いた感情に従って暴走する傾向が高い。
死という現象から覆るだなんて不可能だ。ゆえに、ソレはかつての人間ではない。ゾンビやグールといったアンデッドと同じ枠組みで考える方が正しい。あれらと違って腐ってないけど。
「ただ、魔人は魔族に近い。魔族は理性があるから自分の力をコントロールできてるけどな」
「あの魔人もコントロールしてたみたいだけど……」
「アレは生前の行動をなぞってるだけだ。まるで違う」
「……よくわかんないけど、わかった」
本当にわかっているのだろうか?
「もう眠くなってきた。寝る」
「え? もうちょっと付き合ってよ! わたし、途中で寝ちゃったからあんまり眠くないの」
なんで俺がそれに付き合わされにゃならんのだ。
「『英雄』の話、もうちょっと聞きたいなーって。……だめ?」
「リンゴとあっさりした肉が好き。ただし鶏肉は駄目」
鶏肉は事情があって食い飽きた。反面、リンゴなら木箱ひとつ一日で食い切れる自信がある。
「もっと! もっとぉ!」
「尻撫で回していいなら、その間話してやる」
「寝ていいわよ。むしろ今すぐ寝て」
ひどい。良い交換条件だと思ったのに……。
ともあれ、寝ることが許可されたので目を閉じた。すぐに睡魔が襲ってきた。抗わず、身体と意識を差し出すことにする。
「…………おやすみ」
完全に意識が暗闇に呑まれる一瞬。
頬に何か濡れたものが触れた気がした。
◇◆◇◆
何か呼び掛けられた気がして、ソフィアは目を覚ました。
「ううん……」
そもそも、体勢がよくないのだと察する。普段彼女は仰向けで寝ているが、今はうつ伏せの状態なのである。アリアは荷物を腹の下にしてうつ伏せで寝ているが、よくあれで寝られるなといつも思っていた。
それに、昼に少し寝てしまっていたこともあるだろう。
まあ最大の理由は間違いなく「英雄」の話を聞いた興奮と、それと同じくらい、自分より歳上の異性と密着しているという恥ずかしさにあるのだが。
これではもはや同衾ではないか。
「…………ぅ」
意識すると、頬がかあっと熱くなった。
それに、なんとなく、本当になんとなく……彼が寝たと判断して、頬に軽い気持ちで、衝動のままに、口付けてしまった。
凄まじい恥ずかしさと、やってはいけないことをやってしまったという後悔、そして禁忌を犯すほんの僅かな快楽を感じていた。
寝ている者を相手に、しかも恋人でもないのにである。唇ではないとはいえ、もしも自分が知らない男にされたら半殺しにしているところだ。
背中を押してしまったのは間違いなく、彼が自分のことをそういう目で見ているとわかったからだろう。
「これくらいならいいよね」という気持ちと「あちらも求めていたのだから少しは応えなきゃ」という気持ちが判断を鈍らせた。
自己嫌悪と羞恥で彼から少し離れようと思ったとき、彼の口が開いたのがわかった。
「……さい」
「ぇ?」
耳を澄ます。
それは彼に――「欠落」にはあまりに似合わない言葉だったためだ。
「……ごめんなさい……ゆるしてください……ごめん、ごめんなさい……」
「――――――――――ぅ、そ」
頭の中で幾つもの糸が交錯し、固い結び目を作っていた。
それが一瞬にして解けたかのようだった。
けれど、何故か、すとんと腑に落ちる。
あまりの衝撃に眠気が完全に消え去る。
「あなた、が……『英雄』……なの?」
あの強さ。あの経験豊富な知識。あの話。あの怒り。あの表情。
そして、今の寝言。
それらすべてが、目の前の男が「英雄」であることを否定しない。
本人は頑なに否定するし、揃った情報も否定しないというだけで、完全に肯定しているわけではなかった。「欠落」が「英雄」のパーティだったという話も筋は通る。
けれど、ソフィアは直感してしまった。
目の前のこの人物が「英雄」なのだと。
「こんなに……近くにいたの?」
近くどころか、触れ合っている。密着している。自分の胸は彼の胸と触れ合って形を変えていた。何もせずとも、垂れた髪が彼の身体に触れている。
「ごめん……ごめんなさい……」
「……いいよ」
言って、頭を撫でる。
何故か胸とお腹があたたかい。沸き上がる感情は何なのか。
でも、また衝動のままに、手を差し出して彼の頭を撫でてしまっていた。まるで母親が子供にするように。
「わたしは……あなたの苦しみや辛さを知ってるとはとても言えないけど……あなたが苦しんでいるのは知ってる」
二度、三度と撫でる。
少し、乱れていた呼吸が落ち着いたようだった。
「だいじょうぶ。わたしが付いてる。一人じゃ……独りなんかじゃないから」
首の裏へ両手を回し、抱きしめた。彼の手も反射的に動き、自分を抱きしめてくる。
それが、どうしてだろう。
これほどまでに、嬉しい。
「会えた。言えた。……でも、これはやっぱり、卑怯だよね。ノーカンだよ」
頬を彼の頬に擦り寄せる。髭が当たって少し痛い。でも、それすらも嬉しい。
「大丈夫だよ……」
耳許で囁く。
寝息が完全に落ち着き、二度と嘆きと謝罪の寝言を彼が漏らすことはなかった。




