エピローグ 千希
朝の陽射しが目に沁みて、栖鳳楼礼は目を細める。わずかに細めた瞼がずきりと痛んで、栖鳳楼は目元に手を当てる。
まだ、熱が残っている。
残滓のようなわだかまり。
それも、些細なものだと、栖鳳楼はカーテンを開ける。特注した窓の向こうには、毎日庭師によって手入れされているいつもの庭が見える。緑の中に規則的に並べられた季節の花に、珍しく見入ってしまう。
「…………」
弱音を呟きかけて、栖鳳楼はぐっとその言葉を飲み込む。
……昨日、散々泣いたじゃないか。
今日からは、切り替えないといけない。さすがに、いつまでもうじうじしていられないし、栖鳳楼家の次期当主がこんなままではみっともない。
着替えを済ませて、部屋を出る。白のトップに、黒のスカートと、シンプルな衣装。学校のある日だが、栖鳳楼は制服を身につけない。
……栖鳳楼礼は、楽園争奪戦から脱落した。
本当なら、昨日に本家の人、親戚一同から呼び出されていたはずだが、潤々のほうでなんとか理由を作ってもらって、昨日はずっと自分の部屋に引き籠っていた。
――それも、今日は見逃してもらえない。
栖鳳楼礼は、栖鳳楼家次期当主だ。
その自覚は、ある。
だから、筋を通さなければならない。
どんな咎があるだろうか。この町を守護する、栖鳳楼家の次期当主が、魔術師最高峰の戦い、楽園争奪戦で敗北など、許されるはずもない。もしかしたら、次期当主から外されるかもしれない。……そう考えただけで、気が重い。
本家の人間、親戚の人間が集まる、本家の大間。そこに向かう途中。
「アーちゃん。おはよう」
大間のほうから、潤々がやって来る。それなりに上等の着物を着ているから、大間にはもう人が集まっている。
簡単に挨拶を返して、栖鳳楼が先へ向かおうとすると、その手を潤々が掴む。
「あ、今日はそっちじゃないよ」
手を掴んだまま、潤々は栖鳳楼を導く。大間から離れて、潤々は二階へと続く階段に向かっていく。
――ここ……。
それだけで、栖鳳楼は理解する。
本家の二階。
そこは、限られた人間しか入ることのできない、唯一の間。
「…………」
静かに、その扉が開けられる。
いまの当主、栖鳳楼公嗣よりも前の当主の趣味で、その部屋は洋風の空気が漂う。正面の机はろくに使われていないのか、けれど手入れが行き届いて綺麗なものだ。部屋の左右には天井まで届く本棚が並び、しかし最近用意されたばかりのために、本の数は少ない。
一瞬、その部屋に入ることに躊躇する。
しかし、潤々に招かれて、栖鳳楼はその部屋に足を踏み入れる。
自分の部屋以上に柔らかい絨毯。凝ったデザインから、先代の趣味が窺える。机も、本棚も、相当な値打ちものだと、理解できる。
潤々は正面から右手の本棚に歩み寄って、そこから一冊の書物を手に取り、栖鳳楼に手渡す。誰かの日記か、あるいは帳簿のようにも見える。その表紙には、自分の名である〝礼〟の字。
「そこには、アーちゃんが当主として果たしたお役目が全部記録される」
ぴく、と開きかけた指が止まる。
この中に、いままでの自分が記録されている。
栖鳳楼礼が、次期当主として為したあらゆる行為、その血の歴史が、そこに記されている。
――最初に記されている内容に、栖鳳楼はやっぱりと冷めた目で見下ろす。
彼女が七歳の頃、小学生に上がったばかり、初めて果たした、魔術師の処刑――。
「アーちゃんが初めてお役目を果たしたあの夜、アーちゃん、ずっと泣いてたよね」
冷めた目で、栖鳳楼は文字を追う。最初の夜のことは、いまでも思い出せる。
雨が降っていた。夏なのに、まるで凍えそうなくらい、寒かった夜……。
「あたし、あのときどうしてアーちゃんがあんなに泣いていたのか、わからなかった」
ハッと、栖鳳楼は顔を上げる。
潤々は、透明な表情で栖鳳楼を見返している。
「わからなくて、あたし公嗣様に訊いたの。『どうしてこの子は泣いているの』か、て」
栖鳳楼は顔を伏せる。
次期当主が決定すると同時に、選ばれた者は次期当主としての教育が本格化する。その補佐役として、式神である潤々も傍に置かれる。
栖鳳楼礼が次期当主として決まったのは、その最初の役目が伝えられたのと等しく。七歳という若さで次期当主に選ばれたのは、礼が初めてだった。
七歳の子どもには、魔術師を処刑するという役目はどれほどの苦行だったか。
周囲の人間はそれを理解していても、しかし式神である潤々には理解できない。潤々は式神であり、人間のような思考や倫理といったものは持ち合わせていない。
潤々が知っているのは、代々当主として為さなければならないこと。そして、そのために潤々がしなければならないこと。
――その残酷さに、当時の栖鳳楼礼はすぐに気づいた。
人殺しをして泣いている栖鳳楼に、しかし潤々はなぜ栖鳳楼が泣いているのかを理解できない。栖鳳楼が殺すことに躊躇していると、潤々は迷わず敵を切り裂く。栖鳳楼が、泣いて止めてと叫んでも、次期当主として役目を果たしてくださいと告げるばかり。
――だから、栖鳳楼礼は泣くのを止めた。
自分が泣いたって、なにも変わらないから――。
潤々は、その頃の自身を思い出すように、言った。
「そしたら、公嗣様はこう仰った」
――いいかい、潤々。君には、栖鳳楼家当主の命以外に、もう一つ守らなければいけないものがある。
――それは、意思だ。
「あたしには、それがどういう意味なのか、最初わからなかった」
意思とは、命令かと問えば、それは違うと言われる。
では、意思とはなにかと問えば、それは君の目で理解しなさいと言われる。
わからなくて、だからずっと見てきた。
栖鳳楼礼という少女の意思はなんなのか、を。
この小さな次期当主は、いままでの当主とは大分違った。最初の命令と違う命令をしたり、良く泣いたり、そのうち何も言わなくなって、なにを考えているのかがわからなくなって。
そして、つい最近だって。
――守るべき人だと言って。
――殺すべき相手だと命じて。
「アーちゃんは、昔からよくわからなかった」
潤々は小さく笑う。
「でも、少しずつわかるようになったんだよ。アーちゃんはいつも自分で背負いこんで、それにずっと耐えている風だった。辛そうにしていて、でも、その辛さを絶対に見られたくない、って必死なの」
「……そうかもね」
栖鳳楼も笑う。
泣いたって、意味がない。弱音を吐いても、理解されない。弱さは、当主には必要ない。だから、栖鳳楼は弱さを捨てた。甘えを捨てた。泣くのは、幼い頃に、捨てた。
――でも、自分は。
結局、そんな強い人間にはなれない――。
式神にもバレていた。
それは強いのではなくて、ただ耐えていただけ。
本当は、誰も――。
「殺したくなんて、なかった。だって、それだけで、その人のこれからがなくなっちゃうんだから」
そんなこと。
いまさらそんなこと言ったって、消えた人たちが戻ってくるわけじゃないけど。
自分のやったことは、一生消えないけれど。
「夏弥のこと、殺したくなかった。だから、この結末は仕方がない――」
途端、潤々は嬉しそうに笑う。とても素直な笑顔だったから、栖鳳楼もつられて口元を緩める。
「あの夜、アーちゃんの泣き顔を久しぶりに見たけど、アーちゃんの泣いている顔って、とっても綺麗だね」
途端。
――かぁ。
と。
頬が熱くなる。
額から耳の先まで熱を帯びて、栖鳳楼は驚いて目を見開く。
「……あんた、そっちの趣味でもあるの?」
なにが、と潤々は不思議そうに首を傾げる。
慌てて、なんでもないと手を振る栖鳳楼。
――潤々に、〝そういう〟感情はないんだった。
一つ深呼吸して、体裁を整える。
それを、ふっと笑って。
「栖鳳楼が総領に誓約致します」
膝を折る。
その姿。その口上。
その儀を、栖鳳楼は知っている。
――ああ。
やっぱり――。
もう遠い昔に決まっていたことなのに。
こうして改めて迎えてみると、感慨深いというか、想うところがあるな、と他人事のように感じている自分がいる。
でも、それは他人事ではなくて、間違いなく自分に起こっていること。
……少し覚悟していたから、いまはもう泣きそうだ。
「一つ、其の命に背かず。一つ、其の命に尽くす」
最初の命は命令。
次の命は生命。
最後に誓いの言葉が続くのだが、潤々は別の言葉を続ける。
「――一つ、其の意に反さず」
意――。
それは、意思。
栖鳳楼礼がその意思を無視した命令をしても、潤々はちゃんと栖鳳楼礼の気持ちを汲んでくれる。その意思に、従ってくれる。
「我、栖鳳楼が式。この身は永久に、汝に捧ぐ」
「宜しい」
古い儀式。
栖鳳楼家当主、就任の儀。
この約束が交わされた瞬間に、栖鳳楼礼は誰からも文句の言われない、正当な当主になったことを意味する。
深く、潤々は一礼する。
栖鳳楼は自分の歴史を小脇に抱えて、改めて自分の半身に手を差し伸ばす。
「これからもよろしく、潤々」
その手を。
「よろしくね、アーちゃん」
潤々も笑って握り返す。