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第八章 敗北の意味

 一面、真っ暗闇。

 一色の闇は、ここに光りという存在がないかのようだ。

 ただ落ちて落ちて。

 ()ちて墜ちて――。

 朝の匂いがした。

 雪火夏弥(ゆきびかや)にとっての、日常の始まり。

「……」

 目を覚ました。

 見上げる先にあるのは、天井。高校生の夏弥に相応しい、低くて汚れた天井。夏弥が生まれる前からあったのか、木の底は(ほこり)を吸って暗い。

 (やかま)しい目覚まし時計を止めて、夏弥は体を起こす。カーテンを開けると、朝の陽射しに目が(くら)む。慣れた目で外を見ると、近くの酒屋では男がビールケースを運んでいる。

「……」

 なんてことはない。いつも通りの景色。

 夏弥は寝巻きのまま下に降りる。一階に下りて客間の隣を通り過ぎて台所へと向かう。台所に入ろうとして、夏弥は匂いに気がついた。

 ――なんだろう。

 ――妙に懐かしい香り。

 なんてことはない、ともすれば気づかずに通り過ぎてしまいそうな、けれどこんなにも温かいのはなんでだろう。

 台所には先客がいた。

 ああ――。

 いつも通りだ。

 そんなことを、夏弥は思った。

 夏弥の気配に気づいたのか、父親は振り返った。優しい目元。苦労人のように疲れた笑みを見せるのは、やっぱりいつも通りだ。

「カヤ。おはようございます」

 柔らかい言葉。

 父親の傍にいると、そこだけ時の歩みが遅くなるように緩やかに感じる。

 どんなに慌ただしいときでも、父親といるとそんなものに意味があるのかと馬鹿らしく思える。

「おはよう。親父」

 夏弥の父親、雪火玄果(げんか)はその顔に相応しい微笑を浮かべる。

「いま朝食ができますから、朝の支度をすませておきなさい」

 玄果はすぐに朝食の準備に戻る。

 ……ああそうか。

 夏弥よりも早起きの玄果が朝食を作っているのか。いつもなら夏弥が作るのに。待ち切れなかったのか。珍しいこともあるものだ。

 ――遠い遠い、懐かしい光景。

 久しぶりに玄果の作った食事が食べれて、夏弥は複雑だ。嬉しいには嬉しいが、どうも素直に喜べない。自然、苦いものが顔に浮かぶ。

 夏弥が二階で着替えを済ませて一階に戻ってくると、居間ではすっかり朝食の支度が整っている。

「いただきます」

「いただきます」

 夏弥と玄果は、それぞれ定位置となっている自分の席に腰を下ろす。今朝の食卓はご飯と味噌汁、目玉焼きにサラダという、よくあるメニューだ。

 味噌汁を口にして、夏弥は早速(まゆ)を寄せる。

「親父、この味噌汁、味濃すぎないか」

 玄果の料理に、夏弥はいつも口出しする。別に変なものを作るわけではないのだが、玄果の料理の腕はそれほどよくない。

 玄果は困ったように目を細める。

「また、夏弥は厳しいね」

「目玉焼きもさ、もう少し上手に作ろうぜ」

 目玉焼きの裏側は焼きすぎで真っ黒。サラダのほうは問題がないだろうと思いきや、ドレッシングのかけすぎで味噌汁同様、味が濃い。

「これでも努力しているんですけど」

 玄果はさらに目を細める。

 いつもと同じ返答。その返答で、玄果の料理の腕が上達したことはない。

 はあ、と夏弥は溜め息を()く。

「やっぱり、明日からは早く起きて、俺が作るから」

「そうですか。なら、お願いしましょうか」

「おう。まかせとけ。俺がもっと上手いものを親父に食わしてやる」

 こんなセリフを言ったのは、小学生の頃以来だろうか。それからだったか、夏弥が料理を始めたのは。ただ、玄果に美味しいものを食べさせてやりたいという、単純な想い。その積み重ねが、夏弥の料理の腕を磨いている。

 朝食後、食器を洗って冷蔵庫の中身を確認する。食材がほとんどない。今日の帰りにでも、買い物に行くか。

「じゃ、いってきます」

 玄関で(くつ)を履くと、夏弥は鞄を持って外に出る。時間は八時一〇分。いつも通りの登校時間。

「いってらっしゃい」

 送り出してくれる玄果。

 小さい頃から変わらない、ささやかな日常風景。

 そんな一つ一つが、妙に温かい。

 ――それはまるで。

 (はかな)い夢のように――。


 ローズがその異界に足を踏み入れたときには、すでに勝負は決していた。

 地面が(えぐ)れて、川原に向かう緑地帯まで深く割れている。クレーターのような巨大な穴が開いていて、黒く焼けている。戦闘の傷跡が、そこかしこに見受けられる。結界がなければ、この異常に周囲の人々はすぐに気づいていただろう。しかし、辺りには野次馬の姿はなく、あるのは二つの人影だけ。

「夏弥ァ!」

 倒れている、一人の少年。

 すぐ傍まで近づいて、しかしローズは触らず距離を置く。

 ――どれくらいのダメージを受けている?どんな魔術を受けている?触って大丈夫なのか?それで夏弥に損傷(そんしょう)を与えないか?

 近づきたくて、それ以上近づけない。触りたくて、でも触れない。

 無事を確認できないのが、辛い。

「夏弥!おい、しっかりしろ!」

 だから、ローズは少年の名を呼ぶ。それだけが、精一杯彼女のできること。

「…………」

 反応は、ない。

 何度も何度も呼びかけて、しかし少年はぴくりとも動かない。

 ――まるで、眠っているよう。

 安らかではなく。苦しそうでもなく。そこにあるのは、ただ眠っているというだけで他には何もない。

 ――この感じは、どこかで知っている。

 あまりにも不吉なイメージが心の内に浮かんで、ローズは耐えきれずに手を伸ばす。

「――あまり、触らないほうがいい」

 不意に声が聞こえて、ローズは振り返る。

 そのあまりの形相に睨まれて、しかし呆然と立ち尽くす少女――栖鳳楼(せいほうろう)――は、彼女を見てさえいない。

「いま、夏弥は世界と繋がっている」

 ぽつり。

 呟く言葉は、さもローズに向けたものではないかのよう。

 それは、ただの独白に近い。

 その言葉に、ローズは訊き返す。

「世界……?」

 魔術師の言う『世界』という単語は、おおよそ一つの意味しかない。

 しかし、ローズは咄嗟に理解できずに訊き返す。世界に達するとは全ての魔術師の祈願(きがん)であり、同時にいまだ誰も達しえない理想だ。だから、そこに繋がるという意味が、ローズには理解できない。

「アーちゃん!」

 異界に、さらに潤々(うるる)が入り込む。川原の惨状を一通り見渡してから、潤々は栖鳳楼へと駆け寄る。

「アーちゃん。もしかして、欠片を使ったの…………?」

 欠片――。

 それは、楽園(エデン)の欠片。

 世界にもっとも近いとされる楽園(エデン)の一部であり、楽園(エデン)争奪戦を有利に進めるための手段の一つ。楽園(エデン)の一部であるがゆえに、それはたった一つでも戦局をひっくり返しかねない、巨大な魔術。

「――――」

 潤々の問いに、栖鳳楼はただ笑んで返す。

 その笑いは、とても(ゆが)んでいる。

 それこそ、いまにも泣きそうで――。

「ねえ、答えて、アーちゃん」

 栖鳳楼の肩を掴んで、潤々はさらに問う。

 肩を揺さぶられて、ぼそりと栖鳳楼は答える。

「――使ったわ」

 言って、さらに口の()を歪める栖鳳楼。

 その一言で、潤々の手から力が抜ける。栖鳳楼の肩から、手を離す。お互い、それだけで十分だった。

「おい。その欠片って、なんだ?」

 一人理解できていないローズが二人に向けて声を上げる。

 言い辛そうに、しかし答えたのは潤々だ。

「……〝儚キ人ノ夢(ファントム・ゴースト)〟発動空間内の人間を直接世界と結ぶ。人間の意識は世界へと()ちていって、人類の集合無意識と混ざり合う」

 人間には個々に意識が存在する。個人の意識はその個人が持ちえる個人の肉体を通して、他者を理解する。個人の意識は本来は個人の意識にのみ(とど)まり、ゆえに、その個人を超えるような認識は持ちえない。

 しかし、個人の意識は他者との共通点を少なからず持っている。それは、個人は他の()と共有する部分を持つからではなく、個とはもともと(ぜん)からわかれたうちの一つに過ぎず、ゆえに元を辿(たど)れば必ず全に辿りつける、という思想がある。

 集合無意識――。

 個人の意識の遥か奥。個人を個人と認識できるよりも、個人を個人たらしめるよりもさらに深層(しんそう)に、その個を無意識に束縛している概念のさらに奥地。その個の核となる、あるいは起源とも呼ばれている場所の(よすが)

 魔術師が目指すモノは個人の意識の奥にある集合無意識のさらに果て。人類という枠すらも呑みこむ世界という無意識。

「そして、混ざり合った意識は二度と分離できない」

 個人を(さかのぼ)り、集合無意識を遡れば、いずれ人類、そして世界そのものの意識に辿りつけるだろう。

 しかし、個を失った集合無意識の海の中で、その個を保つことは並みの人間には難しい。ほとんどの人間はそのあまりの情報量と希釈(きしゃく)の前に己を見失い、大海に垂らしたインクのように消失する。

 コトを理解して、ローズの顔から表情がなくなる。

「……助ける方法は?」

「世界に堕ちかけている意識を引き上げるしかない。でも、あたしもアーちゃんも、呪術師じゃない。あとは、夏弥くん本人が浮かび上がって来るのを待つだけ……」

 個人の意識が集合無意識の中に溶けてしまったら、もう助ける(すべ)はない。だが、意識を直接引き()げるような真似ができる者は、ここにはいない。

 ならば、あとは夏弥の意思に()けるしかないが。

「……………………もう、夏弥(かれ)は助からない」

 ぽつり。

 栖鳳楼は呟く。

 ローズの右手がぴくりと反応する。吹きあげかけた炎を、なんとか抑え込む。ここで自分が手を出したって、夏弥が戻るわけではない。

 ローズが攻撃を留まってくれたので、潤々も手を出すのは止めた。

 だが、それでも――。

 ――夏弥が戻って来る可能性は低い。

「夏弥ァ!」

 ローズは叫ぶ。

 それ以外に、ローズができることは、なにもない。


 チャイムの音が響く。今日一日の授業が終わり、残るのは放課後の時間。いつもなら部活に出向く夏弥も、しかし今日は帰宅の準備をする。部活のほうで急がなければならない用事はないし、今日は買い物に行かなければいけないので早めに帰ろうというわけだ。

 (かばん)を持った夏弥が廊下に出ると、ロッカーの前で水鏡(みかがみ)が振り返った。夏弥に気づいて近づいてくる。

「雪火くん。もう帰り?」

 夏弥の姿に、水鏡はいつもの微笑を浮かべて訊ねる。

「うん」

「部活のほうは?」

 不思議そうに、それでいて穏やかな水鏡の表情。

「今日は行かない。買い物があるからさ、早めに帰るんだ」

 部活に行かないのは夏弥らしくないとも思ったが、せっかく玄果に料理を作るんだ。遅く帰るのは、なんだが悪い気がした。

「なに、それ?」

 夏弥は水鏡が持っているものを指差した。私服かなにかか、それにしては生地(きじ)が薄いし、こんなところで持っているのは不自然だ。

 ああこれ、と水鏡は答える。

「エプロン。今から調理室に行って料理するんだ」

 水鏡は帰宅部だが、最近はよく料理部にお邪魔して料理をしているらしい。どれほどの頻度で足を運んでいるのかは夏弥も知らないが、そう何度も行くのであれば入部すればいいのにと夏弥は思う。

「部活には入らないの?」

 うーん、と水鏡は困ったように笑う。

「入ってもいいかな、って思うんだけど、家の手伝いがあるから」

 水鏡の家の事情を夏弥は知らないが、よく家事を手伝っているらしいことは水鏡の話から聞いている。夏弥が一人暮らしをしていると知ってから、水鏡はそういう家庭的な話をよくもちだしてくる。

 そうだ、と水鏡は思い出したように声を上げる。

「今月末の日曜日にね、兄さんが英語の弁論大会に出るんだって」

竜次(りゅうじ)先輩が?」

 水鏡には一つ上に竜次というお兄さんがいる。夏弥にとっては、ここ丘ノ上高校の先輩にあたる。水鏡と知り合った関係で、竜次とも会えば話すていどの仲だ。

 その竜次は学校の英語研究会(イー・エス・エス)に所属している。竜次の話では時々英語の暗唱大会のようなものがあって、夏弥は前々から竜次の英語を聞いてみたいと思っていた。

「もしよかったら、雪火くんも見に来ない?」

 水鏡の誘いに、だから夏弥はすぐに(うなず)いた。

「そうだね。特に用事が入らなければ行ってもいいな」

「じゃあ、兄さんに伝えておくね」

 にこにこと、水鏡は微笑(ほほえ)む。それから水鏡は調理室に向かうのだと夏弥を残して行ってしまった。夏弥も、さて帰るかと歩き出そうとしたところで、背後からなにかに抱きつかれた。

「よお、夏弥。なんだ。もう帰りか?」

 その声と、なによりこんなことをしてくる人物を夏弥は一人しかしらない。振り返らずともわかる自分に、夏弥は心底うんざりする。

「寄るな。触るな。ひっつくな」

 気持ち悪い、と夏弥は抱きついてきた男、麻住幹也(あさずみみきや)を引き()がす。

「なんだ。つれねーな」

 幹也は不満そうに口を(とが)らせる。

「いきなり抱きついてくるおまえが悪い。ところで、なんで体育着?」

 幹也の恰好(かっこう)に指をさす。

 今は放課後で、別にこれから体育の補習があるわけでもない。陸上部の幹也は、教室で行われる授業は休んでも体育だけは絶対に参加する、そういう男だ。

「これから部活だ」

 その簡潔な返答に、夏弥はなるほどと頷く。納得はできたが、しかしまだなにか引っかかるものを感じた。

「じゃあ、なんでここにいるんだ?」

 部活ならば、校庭のほうでやるはずだ。着替えたまま教室の校舎にいるなんて、どこか不自然だった。

 ああ、と幹也はなんでもないように答える。

「飲み物忘れてよ。取りに来たんだ」

 ふーん、と夏弥は頷く。幹也が飲み物を準備するなんて、珍しい。もっとも、部活での幹也を知らない夏弥にはその真偽を確かめる術はないわけなのだが。

「で、夏弥はもう帰りか?」

 幹也の問いに、買い物があるから、と夏弥は簡単に答える。

 なんだ、と幹也はぞんざいに返す。

「買い物なんて、部活終わった後の帰りでもいいだろ」

「そうはいかない。俺一人の飯なら別に何時になってもかまわないけど。家には俺以外にもいるからな」

 そうか、と幹也は急に神妙になって頷く。

「親父さんか。大変だな」

 幹也は夏弥の家の事情を知っている。なにせ、幹也とは中学からの仲だ。大袈裟な幹也の言い方に、夏弥はわずかに苦笑する。

「別に介護しているわけじゃないんだから、そこまででもない。それに、俺が飯を作るのは、俺の勝手だから」

 そっか、などと幹也はあっさりと頷く。

「おっとまだ部活の途中だったんだ。あんま遅くなると先輩に怒られちまう」

 じゃあな、と幹也は颯爽(さっそう)と廊下を駆けて行った。廊下を走ってはいけないなどという校則は、不良少年幹也にはなんの意味も持たない。

 夏弥は近くのスーパーでさっさと買い物をすませて家路(いえじ)につく。父親のために料理を作るのだと、妙に張り切ってしまった。ただの夕食の買い物が、袋二つ分は多すぎた。不測の事態にそなえて、夏弥は毎日買い物袋一つと緊急用のビニール袋を鞄に忍ばせている。高校生にもなってすっかり主婦の性分が染みついているのも困りものである。

 家に着いて、夏弥は玄関を開けて中へと入る。

「ただいま」

 返事はない。大方あそこだろう、と夏弥は家に上がって縁側へ向かう。(あかね)色に染まり始めた裏庭で、玄果は草木に水をやっていた。

「やっぱりここか」

 夏弥に気づいて、玄果は振り向いて微笑む。

「カヤ。おかえりなさい」

「ただいま」

 そう、挨拶(あいさつ)を返す。

「今、飯作るから。できたら呼ぶよ」

「いいんですか。わたしが作りましょうか?」

 その申し出を、夏弥は丁重に断った。

「いいよ。親父が作ると、とんでもないものが出てきそうだから」

 夏弥の言葉に、玄果はあははと笑う。夏弥にとっては笑いごとではない。しかし、玄果の笑い声を聞いていると、本当に些細(ささい)で、面白いことのように感じてしまうのはなぜだろう。

「それでは、お願いします」

 その言葉を背中で聞きつつ、夏弥は家の中に戻って台所へと向かう。

 料理の支度を始めて、できあがった頃には外の景色はいっそう夜の匂いが強くなっていた。

「これはまた、素晴らしい料理ですね」

 食卓について、玄果は感嘆の声を漏らす。

 今夜のメニューはポテトサラダにゴーヤのお浸し、あさりの味噌汁に(さけ)のホイル焼きとそれなりに豪華だ。この後には明日の朝用に漬物と豚の角煮を作る予定だ。一晩寝かせたほうが味が染みて美味しいからだ。

「どうだ、親父」

 二口ほど料理を口にして、玄果はにっこりと微笑む。

「とても美味しいです。いつの間にこんな料理を覚えたんですか?」

 決まってる、と夏弥は答える。

「親父に美味いもの食べさせてやろーと思って、勉強したんだ」

 自慢げに、夏弥は答える。

 そんな子どもっぽい夏弥の様子に、玄果は(いつく)しむように笑った。

「ありがとうございます」

 なんて、大袈裟に喜ぶ。

「今日は、なんて良い日なんでしょう。今まで生きてきた甲斐があります」

 さすがにオーバーだ、と夏弥は恥ずかしくて笑う。胸の奥がくすぐったくて、でもちっとも嫌な気分じゃない。

 ――本当に。

 今日の料理は格別だ。

 うまく作れたのもあるが、それ以上に。

 こうやって父親と二人っきりで料理を食べられることが、なによりも御馳走だった。こんなささやかで、それでいて満たされる、幸福な時間。この時間がいつまでも、いつまでも。永遠に続けばいい。

 ああ、なんて。

 ――それは。

 儚い、夢――――。

 そう思い至った瞬間。

「カヤ。どうかしましたか?」

 夏弥の手は、自然止まっていた。

 目の前の父親が心配そうに夏弥の顔を覗き込む。

「違う……」

 なにか。

 なにかが、決定的に違う。

 かちこちと時を刻む柱時計。温かそうに湯気をあげる夏弥の自慢の料理。二人が十分に食事をとれる食卓。長い年月を感じさせる黒い天井。父親と過ごす、夕食の時間。

「違うんだ。こんなの、本物じゃない。こんなこと、あるはずがないんだ」

 そう。

 この温かさは。

 この幸福は。

 本物じゃない。

 ――だって。

 雪火玄果は、夏弥が小学生の頃に死んでいる――。

 高校生の雪火夏弥と、雪火玄果の時間が交錯するはずがない。玄果の時間は、もうずいぶん前に止まっている。

 それは、思い出の景色――。

 そして、夏弥が思い描いた夢――。

 ――だから、こんなものはありえない。

「行かなきゃ」

 夏弥は立ち上がる。

 こんなところで、止まっていてはいけない。

 夏弥には、やらなきゃならないことがあったはずだ。

 自分がやらなければいけないこと。自分がやると決めたこと。今の自分が決めたこと。これからの自分のために決めたこと。

 だから、夏弥は立ち上がる。

「…………」

 音もなく、世界はひび割れ、そして崩れる。足場が、支柱が、天井が、全ての土台、この世界を支える、あるいは構築する全てがバラバラに粉々に。夏弥の瞳の奥には、玄果の悲しそうな笑顔が残っている。


 そこには、なにもない。

 なにもないとは、存在がないのではなく、価値がないということ。

 だから、ここにはなにもない。

 あらゆる意味づけも、あらゆる理由づけも、定義も、仮定も、ここではなんの役にも立たない。価値がなければ、その存在さえも不確かで不明となる。そこに、意思を見出せたとするならば、それはおよそ生命とは呼べない。

 生命は常に自分という一つの世界からの観測者だ。自己、という固有の世界を形成してこそ、生命は他者を(へだ)てることができる。他者との衝突も、他者との融合も、全ては基盤となる自己が存在している、あるいは定義されているからこそ、派生する意味ですらある。

 ……では、一体ここはなんだろう。

 ここにはなにもない。価値、というたった一つの喪失(そうしつ)が、その意味も理由も、定義も仮定も、全てを()にしている。いや、無すらも無。ここには、なにもない。

 あるいは、満ちている。あるいは、完全。すでに完璧だからこそ、そこにはそれ以上のものがありえない。それは原初より変わらず、終焉まで不変。ならば、それは閉じた輪か、永遠の渦か。

 生命では存在できないその場所に、しかし生命でなければ価値すらもたないその場所に、彼は存在している。存在している、観測者がいればこそ――。

「誰だ。おまえ」

「俺は、カヤだ」

 彼、は少年の姿をしていた。まだ十代にも満たない、ほんの小さな子ども。その彼は、しかし達観した老人のような目つきで答えた。

「夏弥は、俺だ」

「いいや、俺が、カヤだ」

 彼はただじっと夏弥を見る。夏弥という個人を観測しようとしているように、彼は夏弥を正面から見据える。

 夏弥もまた、彼を見る。彼という存在を認識するように、夏弥は彼から目を離さない。

 まるで鏡合わせのよう。

 高校生の夏弥と、小学生低学年ほどの彼。

 一致するところなどないのに、相対する二つは驚くほどに似ている。

「ここはどこだ」

「セカイにもっとも近い場所。意識とイシキが溶け合う境界面。そうだな、寒流と暖流がぶつかりあった生温いところだと思えばいい」

 そこにはなにもない。

 ――温かさも、温かみも。喜びも、幸福も。

 ――苦しみも、悲しみも。痛みも、辛さも。

 なにもないから、なにも感じない。そこになんの意味もないから、その場所はただただ無価値。空気が停滞していて、空間が停止している。生命はなく、ゆえに生も死も、この場所では均等に意味をもたない。

「あれは、嘘なんだな」

「ああ、そうだ。――――でも、違うとも言える」

 彼は迷いなく答える。

「あれは、おまえの望み。夏弥という個人が所有する幻想の形だ」

 その解答に、夏弥は目を背ける。

「バカバカしい。あんなのが、俺の望みだっていうのか」

「自分に嘘を吐くのはやめろよ。そんなことしても、自分が辛くなるだけだぜ」

 彼の答えは、一寸の狂いなく夏弥の胸を突く。

「夏弥の望みは、限りなく現在(いま)に近いんだ。現在(いま)も続いている幸せと、そして過去にあったはずの幸福。自分が失って、初めて認識した幸福の形を、夏弥はいまでも望んでいる。そして、それが夏弥の望みである以上、幸せはいつまでも幸福の形のままだ。――その不変を、おまえは望んでいる」

 ――幸せ。

 ――幸福。

 現在(いま)現在(いま)であり続けること。過去の思い出が色()せず、現在(いま)でも存在し続けること。幸福は、人が小さい頃に経験した温かさに似ている。だから、人は過去を慈しむ。過去の幸福、昔の思い出。ささやかな記憶、時間とともに摩耗していくほんの小さな日常。その自分の一部となったものたちを、人は手放したくないと懐古(かいこ)する。

 幸福が現在も続き、そして現在は不変という永遠になる。幸福であり続けるということは、永遠であるということ。ずっと幸福のまま、ずっといまのまま。人間が望めるものは、その個人が経験しうる範囲の中にしかない。だから、人の望みは幸せであり幸福なのだ。

 過去にあったはずの幸福と――。

 現在(いま)も続いている幸せと――。

「でも、あれは嘘だ」

 夏弥は首を振った。

 玄果との生活。父親と過ごしたささやかな日常。例え本当の家族でなくても確かに存在していた、雪火夏弥にとっての、それは幸福。

 しかし、それは過去でしかない。過ぎ去った、遠い日の思い出。その幸福を望むことが、本当に幸せになるのか。永遠に変わらない、不変で、そうあり続けることが、果たして幸せと呼べるものなのか。

 夏弥の言葉を、彼は否定する。

「嘘じゃないさ。幸福の形は、ちゃんとおまえの中にあるんだ。それが、雪火夏弥という人間にとっての、幸せ」

「それが嘘なんだ」

 その答えを、夏弥は再度否定する。

「どんなに願ったって、現実(いま)は変わらない。失われたものは、二度と戻ってはこないんだ。過去にすがるのは、ただの逃避でしかない」

 現実は、常に前進だけだ。決して過去を取り戻すことはできない。幸福を懐古しても、それが幸せに繋がるわけではない。もしも過去の幸福と現在の幸せが狂いなく等しいなら、それは停止だ。

 ――それは、この空間と酷似(こくじ)している。

 なにもない、あるいは、満ちている。それはそれだけで閉じていて、決して進まない。停止、停滞は、なんの意味も価値も生まないから、ここには生も死もない。

 永遠なんて、なんて、陳腐(ちんぷ)――。

 熟しすぎた老人は、その年月を感じさせる険しさをもって告げる。

「恐れることはない。幸福が目の前にあるんだ。それを望んだって、誰もおまえを責めやしない」

「俺が認めない。俺自身が。雪火夏弥という人間が、俺自身の望みに逃げることを許さない」

 幸福と、幸せと。

 過去の幸福、経験したまま描いたまま変わらない、恐怖も苦痛も生じない、狂うことのない永遠の輪。そんな、願ったままの幸福で満たされているなら、きっと誰だって幸せだろう。

 しかし、そんな幸せは結局ただ幸福なだけだ。それはまるで、この場所のように。停滞して、停止している。永遠は色褪せず、不変は摩耗せず。ゆえに、この場所には闇もなければ光もない。

 ――それは。

 このセカイの近似が。

 無価値のように――。

 そんなことはない、と彼は告げる。

「現実はうまくいかないことだらけだ。願っているだけじゃ叶わないし、願っていたって叶うわけじゃない。世界には不幸ばかりが溢れている。理由もなく、誰かが誰かを殺す世界だ。世界っていうのは、生まれたときから死を(はら)んでいる。死を生産して、不幸ばかりを抱え込んでいる。だから、人間は幸せを夢見るんだろ。夏弥が幸せな日常を望むように。誰もが、自分だけの小さな幸せを欲している。おまえが、おまえだけが幸福になることを逃げたとして認められないなら、みんなも幸福にしてやればいい。ここには、人間全てを満たせるだけのモノで溢れている」

 無価値――。

 それは無であると同時に、あらゆるモノで満ちているということ。

 意味はなく、理由もなく、定義もなく、仮定もない。原初から存在していない意義は、しかし観測者がいれば見出すこともできる。

 あらゆるものは、ただ〝ない〟という存在。その名前のない在り方は、ただ観測者によって〝ある〟という無秩序へと流される。

 その、無価値と呼ばれる価値を、しかし夏弥は求めない。

「行かなきゃ」

 夏弥はこの場所に背を向ける。

 だって、それは最初から決めていたことだから。玄果と過ごした、遠い過去。夏弥の、夏弥だけの幸福。それを前にしても、夏弥は進むことを選んだ。だから、夏弥は進むことができる。

 その背中に、彼は問いかける。

「どこへ行く気だ。こんなに幸福なのに。おまえは、幸福を見捨てるのか。あっちに戻ったら、この幸福はなくなるんだ。それに、ここまで堕ちたら、戻れる保証なんてない。目覚めたときには、おまえはおまえですらなくなってるかもしれない。誰もおまえを、夏弥だと認めてくれないかもしれない。おまえ自身が、周りのやつを誰だか再認できないかもしれない。幸福を失って、こんなに傷ついたおまえを、一体何が救ってくれるんだ」

 その迷いに、しかし夏弥は振り返らずに答えた。

「信じるよ。俺が、確かにそこが俺の居場所だと信じられるように。それに、やっぱりおまえは間違ってるぞ、カヤ。俺は、夏弥だけの幸福が幸せになるんじゃない。〝(しあわ)せ〟っていうのは、誰かと一緒だから生まれるものなんだ」

 夏弥は歩く。

 歩き続ける。

 ――その。

 無限に続くセカイを振り返らず――。

 保証なんて、どこにもありはしない。もしもなんて、それこそ考えるだけ無駄だ。仮定で足を(すく)めるよりは、たとえ自分が粉々になっても試してみなければわからない。もしかして、もしかしたらなんて理由で幸福に逃げるよりは。そのほうが、ずっと価値があることなんだから。

「…………そうか。なら、行けよ」

 彼は、その場に留まったまま最後に告げる。年老いた少年は、ただ一つ、夏弥に難問を突きつける。

「行って、確かめてみるといいさ。世界が、どんなところで。人間が、どんなものなのか。おまえはそれを見てまだ、信じることができるのか。夏弥」

 夏弥は、振り返らない。

 自分が正しいかなんて、わからない。

 けれど、きっと自分は正しいと、それだけは信じていられる。自分が正しい選択をしているのだと信じて、だから自分はこの道を進む。

「――――」

 歩み、進む。踏むたびに、なにもない足場が泡立つように小さく弾ける。腐敗した肉が崩れるように、粘液が沈む。

 生と死が隣り合わせに共存しているみたいに。希望と破滅が抱き合い果てるように。

 そんな、無意味で無価値な場所。

 なにもないこの場所に来て、しかし夏弥は得るものがあった。形はなくても、それが他人から見れば価値のないものだとしても、夏弥にとってはそれで十分。価値がなくても、夏弥の中で意義があれば、それでいい。

 セカイが終わるみたいに。

 ただ、歩き続ける。どこへ向かっているのかは、知らない。しかし、夏弥が思い描く世界がそこにあると、そう信じる。

 イシキが溶けるみたいに。

 意識が浮かぶ。

 ――まるで。

 夢の終わり――。


 誰かの声が()こえる……。

 身体(からだ)が、熱い。

 夢と(うつつ)の岸に横たわっているような感覚。これが夢だと、夢とわかっているのに、けれどいまだ目が()めない。

 体に、感覚がない。神経が通っていないような感じ。動かそうと、動かそうともがいて、けれども動かない。

 じわり、と身体(からだ)熱い。

 少しずつ、体中に血液が流れているような。あるいは皮膚が外気を認識し始めたような。

 ……ああ。わかる。

 これは、夢から醒める感覚に、似ている。

 身体(からだ)が、熱い。

「……」

 誰かの、声。

 声。

 それは、呼ぶ声。

 誰を?

 ――ああ。

 なんてことはない――。

 すぐに、わかった。

 肌にまとわりつく、空気。流れる、風。

 身体(からだ)が、熱くて。

 呼ぶ、声。

 自分を呼ぶ声。俺を、呼ぶ声。

 ああ。

 なんてことはない。

「………………」

 頬をくすぐる風。

 体が熱いから、いまが夏だって思い出す。

 ――ああ、夏。

 夏には、いろんな思い出がある。

 いろんなことを、経験する。

 いろんな思い出――。

 そう。いまだって、それは大切な思い出。

 決して忘れられるものではない。

 ――でも、きっと。

 思い出(それ)を求めちゃいけないんだ。

 思い出ばかり見ていたら、それは、醒めない夢。

 ――忘れないよ。

 でも、俺は行く――。

 だって、こんなにも。

「ちゃんと、聞こえてるよ」

 手を伸ばす。指先に、触れる感触。こんなにも、柔らかい。こんなにも、温かい。こんなにも、覚えている――。

「雪火夏弥は、ちゃんとここにいる」

 風に揺られて、その銀の髪が指をくすぐる。

 触れる。触れ合える。

 だから、雪火夏弥はここにいて――。

 ――彼女は、ここにいる。

「…………」

 君は、泣いているの――?

 なんだか、とても珍しいモノを見た気がして、もう少しだけ見ていたいけど。

 ――でも。

 それは、ちょっとだけ不謹慎(ふきんしん)だ。

 だって彼女は、ここにいてくれるのだから。雪火夏弥の、傍にいてくれるのだから。

「――ここに、いる」

 伸ばした手。頬に触れる。髪が、風に揺れる。

「……なら、立て」

 ローズは夏弥の手を(つか)んで、力一杯引っ張り上げる。力強い、けれどやっぱり彼女は彼女なのだと、わかる。――柔らかい、その繊細な指は、やっぱり女の子のもの。

「悪い、ローズ。また、心配かけたみたいだ」

 よろめきそうになるのを、なんとか堪える。これ以上、彼女に心配をかけるわけにはいかないから。

 ふん、とばかりにローズは肩を落とす。

「本当に心配したぞ。やはり夏弥は俺が面倒を見ないとダメなようだ」

 そう言いながら、まだ手を離してはくれない。それが、そんなことが、妙にくすぐったい。

 女性らしい黒いドレスも、そのボーイッシュな口調も、なんだかとても、彼女(ローズ)らしい。それが嬉しくて。

「ありがとう。でも、自分で決めたことくらい、自分でやりたいんだ」

 だから頼らない、と夏弥は笑う。

 そうか、とローズは笑う。

 ――そう。

 自分で決めた。

 ここにいる、と――。

 雪火夏弥(かや)はここにいて、ここを歩いていく。

 遠い昔、それはずっと続いていくものと思っていた。信じるより以前に、その在り方は当たり前すぎた。

 ――幼いころの夏弥は知らなかった。

 〝あの人〟は、ずっとここにいる。〝あの人〟の声を聞くことは、ちっとも特別なことじゃない。一緒に外へ出かけること。一緒に暮らすこと。挨拶を交わすこと。

 雪火玄果(おやじ)が、いなくなるということ、を――。

 でも、いまの夏弥なら、もうわかる。

 失ったものは、確かに大きいけれど。幸福を取り戻すためにいまを犠牲にしちゃ、いけない。夏弥のいまを支える、新しい大切なモノ。

 守られるだけではなく。今度は、自分が守るのだ、と――――。

 ローズの手が、夏弥の手を離す。

 ゆっくり歩いて、それを手に取る。

 ――だって。

 まだ、決着はついていないから――。

「……………………」

 夏弥を見返す、二人の少女。

 一人は嬉しそうに。

 もう一人は愕然(がくぜん)として。

「――さあ、勝負の続きをしよう」

 雪火夏弥は、栖鳳楼(あや)に告げる。

「ちゃんと決着つけないと、明日も学校で会えないからな」

 そう、笑う。

 決着は、つけないといけない。今日のことは、今日決める。そうしないと、明日笑って会えないから。

 そうやって、明日は明日で、いままでどおりに会おう。

 ……なんて。

 栖鳳楼とは、魔術師(あっち)関係の話ばっかだったっけ……。

 でも。それだけじゃない。

 つい最近だって、それ以外のことで会ってるじゃないか。夏弥の家に泊まったあの日、栖鳳楼はいつもと違う表情を見せてくれた。

 いや、きっと。あれがいつもの栖鳳楼なんだ。

 じゃあ、大丈夫。

 夏弥は、明日も栖鳳楼と会える。

「………………ずるい」

 呟く、栖鳳楼。

 その声は、ひび割れたガラスのように冷たくて。

「ずるいよ。夏弥だけ。殺さないでいいなんて」

 悲しい。

 ――ああ、なんて。

 悲しい――。

 栖鳳楼は右手で獄楽閻魏(ごくらくえんぎ)を握ったまま叫ぶ。

「あたしだって、好きじゃない。好きじゃないよ、こんなこと」

 顔は、見えない。左手で隠して、栖鳳楼の顔は見えない。

 夏弥は、なにも言えなかった。

 夏弥は、栖鳳楼のことを、知らない。

 栖鳳楼家は昔からの魔術師の家系で、代々魔術を継承してきて、そしてこの白見(しらみ)町全体を管理する魔術師。

 そのために、どんな苦労があり、どんな決意を()いられてきたのか、雪火夏弥は知らない。魔術師というものが、その家系がどれほど重いものなのか、夏弥は知らない。

 だから、なにも言えない。

 『勝つ』と告げ、でも『殺したくない』と呟く栖鳳楼。

 雪火夏弥にとって、それはなにも躊躇(ためら)うことじゃない問題だ。『勝つ』と『殺す』は等しくない。雪火夏弥なら、それは全く別のことだと断言できる。

 ――でも、栖鳳楼は?

 栖鳳楼は純粋な魔術師だ。代々魔術師の家系の、その次期当主。魔術師であり、魔術師でなければならない。

 栖鳳楼にとって、栖鳳楼であるがゆえに、それはどれほどの苦痛か。

「でも、あたしは栖鳳楼だから」

 呟く。

 それは、氷のように冷たくて。

「――だから」

 ふ。

 と。

 獄楽閻魏が刀の姿に戻る。

 それが意味するところを、夏弥はすぐに理解できない。

「あなたは、雪火夏弥だから」

 呟く。

 それは、ガラスのように痛い。

 ――彼女の言葉に、楽園(エデン)(こた)える。

 栖鳳楼の右腕から〝刻印〟が浮かび上がる。

 禍々(まがまが)しい刻印は風に流されて、夏弥の刻印と重なり合う。

「――――――」

 一瞬。

 その一瞬で、全てが終わる。

 ――決着が、ついた。

 その、あまりのあっけなさに。

 栖鳳楼が、泣いている――。

「栖鳳楼……」

 呟くだけで。

 夏弥には近寄ることができない。

 栖鳳楼は潤々にしがみついて、子どものように泣いている。誰もが遠い昔に捨ててしまう、子どものように。

「…………」

 言葉が、でない。

 この決着は、雪火夏弥が勝ったのか、栖鳳楼礼が負けたのか。

 それは、言えない。

 ただ、複雑。

 彼女の涙は、とても悲しく。

 ――同時に。

 綺麗だと、夏弥は思った――。


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