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第六章 少女はなにを想う

 ――祭りが終わっても、いまだ後夜はさめやらない。

 年季が入って古ぼけた体育館では、その外装に似合わずディスコ・パーティーと(しょう)して生徒たちが歌や踊りに(きょう)じている。真夜中なので扉は閉め切っているが、近づけばその振動が感じ取れるほどだ。

 栖鳳楼礼(せいほうろうあや)はわずかに扉を開けて、中の熱気に一瞥(いちべつ)しただけですぐに外へと舞い戻る。後夜祭で誰もが浮かれている中で、栖鳳楼だけは冷たい表情のまま、一人夜を歩く。

 ……人が集まるということは、それだけでコトが起こりやすい。

 楽園(エデン)争奪戦――。

 いま、ここ白見(しらみ)の町で密かに行われている、魔術師最高峰の戦い。

 最後まで勝ち残った一人には、その栄誉として楽園(エデン)への鍵が与えられる。楽園(エデン)は、世界にもっとも近い場所(ところ)とされ、世界に到達することこそ、魔術師の最大の目的である。

 世界に近づくための、楽園(エデン)――。

 魔術師の中には、この戦いで勝ち残るためならば手段を選ばないという(やから)が、少なからず存在する。いまでこそその影を(ひそ)めているが、楽園(エデン)争奪戦が始まった当初、神隠しと俗称(ぞくしょう)された誘拐事件が起こった。それが魔術師によるものだと、栖鳳楼は確信している。しかし、いまだその尻尾(しっぽ)すら(つか)めていない。加えて、いまでは姿形すら現わさないため、手掛かりがない。

 いまは大人しくても、戦いが進むにつれ、つまり楽園(エデン)争奪戦の参加者が減っていけば、犯人の動きが再開されるかもしれない。あるいは、いまでも動ける好機を狙っているか、なにかしらの準備を始めているかもしれない。

 それらを未然に防ぐのが、ここ白見町の守護を(つかさど)る、血族(けつぞく)(おさ)である栖鳳楼家の役目だ。栖鳳楼がこうして学祭の中、一人生徒たちの輪から離れているのは、そういう理由だ。

「…………」

 静かに、息を()らす。

 体育館の異常は、おそらくない。騒がしいので正確なところは曖昧(あいまい)だが、魔術師がいそうな気配がない。人が集まり、一番狙われそうなところだが、そこだけを見張るわけにもいかない。夜の闇に(じょう)じて、他の場所でなにかをする、というのも考えられる。

 次に栖鳳楼が向かったのは、すぐ隣の武道館。

「……」

 (かぎ)は、閉まっている。

 栖鳳楼は魔術で鍵を開け、武道館の中へと入る。

 ……異常はないだろうが、念のため確認しておく。

 一つ一つ、部屋を確認していく、ということはしない。普段ならそれでもかまわないが、いまは学祭中のため、短時間で多くの場所を周る必要がある。だから、おおよその気配だけ確認して、すぐに次の階へと上る。

 武道館のように、練習場あり、倉庫あり、という場所では今日のような行為はあまり意味がない。見つけられるのはせいぜい、鍵がかかっていた武道館に(ひそ)かに忍び込んで、魔術的な準備をしている魔術師本人くらいだ。だが、いまはそれで十分だ。だから、栖鳳楼は手早く屋上まで上った。

「……」

 風に(あお)られて、栖鳳楼は目を細める。

 丘ノ上高校の武道館には、屋上というものは存在しない。最上階より上に続く階段などない。それ以上、上に行くには窓を開けて、そこから()い上がるしかない。魔術師である栖鳳楼は窓から飛び出て、自分の体を魔術で飛ばして、いま屋根の上に立っている。

 凡人(ただびと)相手なら、ここまでする必要はない。だが、相手は魔術師だ。しかも、楽園(エデン)からその魔術の一部である欠片を継承している、神託者(しんたくしゃ)だ。栖鳳楼の想像を超える事態になっていても、不思議ではない。

 ――ゴウ。

 と、風が吹く。

 武道館の上からは、体育館すら見下ろせる。体育館が広さをとっているのに対して、武道館は(たて)に長い。それは、一つの(とう)のようにも見える。もしかしたら、丘ノ上高校でどこよりも高いかもしれない。

「……」

 塔の上、栖鳳楼は一人、天下(てんげ)睥睨(へいげい)する。

 ここからなら、学校全体だけでなく、周囲の民家さえも見回せる。夜も()けて、明かりの()いている民家は少ない。それでも、時折道路(みち)の上を車が走り去る。

 風が、狂ったように栖鳳楼の周りで踊る。眠れぬ熱に(おか)されて、その()果てるまで狂い続けるかのように。

「…………」

 吐き出しかけた言葉(セリフ)を、(あざわら)うように呑みこむ。

 ――誰も彼も、この()を知らず。

 ()安寧(あんねい)ならば、幸福な(むし)(けい)――。

 栖鳳楼の一族は、魔術師の間では血族(けつぞく)と呼ばれている。血族はその土地の魔術師を管理・監視するのが役目。禁を犯す魔術師を、秘かに闇に(ほうむ)る、血で()れた家系。

 魔術が表舞台から消えると同時に、血族の意味もまた裏へと(ひそ)む。だから、その意を知らない者たちがいるのなら、それは幸福というもの。

 彼らは一生、その存在を知らない。

 人々に死を突きつける、恐怖という象徴を、知らないですむなら。

 ――ああ。

 それは、なんて。

 幸福――――――――――。

 一人、栖鳳楼は目を閉じ。

 ――塔の上から飛び降りる。

 遥か下界、迫るは館の頭。

 ――()、と。

 体育館の屋根に激突する直前に、栖鳳楼の体は浮く。

 そのまま、地を蹴るように、栖鳳楼は跳躍する。

 体育館すら、数歩で渡り、また地面へと舞い戻る。

 体育館は確認した。武道館も、異常はない。鍵も閉めたので、怪しまれることもない。――全ては全て、()の目の当たらぬうちに。

 栖鳳楼はその足で、今度は校庭へと向かう。数刻前までキャンプファイヤーで盛り上がっていたそこは、いまでは火も消えて静まり返っていた。

 校庭の中央には黒い(すす)(かたまり)が転がっているだけで、もはや人の姿さえない。だが、栖鳳楼は人の気配を感じる。物陰か、校舎か、教室の中そこらじゅうに、まだ人はいる。

「……」

 ふぅ、とさすがの栖鳳楼も息を吐く。

 夜の闇に紛れて、誰も彼もなにをしているやら……。

 祭りに、誰もが浮足立っている。そこに、無意味だとばかりに砂利(じゃり)を踏む。

 栖鳳楼は歩き、そこへと向かう。校舎と職員室の間、影になって、この闇の中ではいっそう暗く、誰にも知られない場所。

 ――此処(ここ)からなら、みえる。

 見る気など、ない。

 しかし、わかってしまうのだから、仕方がない。

 あれには、害などない。

 だが、決して無害では困る。

 ――あれは、敵だ。

 倒すべき敵。

 殺すべき敵。

 栖鳳楼の、敵。

 この夜が明けて、次の夜に。

 ――栖鳳楼礼(あたし)は、雪火夏弥(あれ)を殺す。

 向けるのは、殺意。

 決して薄れぬ。

 いつまでも鋭利(えいり)な。

 ――純然(じゅんぜん)たる、殺気。

 それを、()()ます。

 意識は、常にそこ。

 ――だから。

「あなたには、それだけの価値がないと、困る――」

 見つめる先、そこに、それがいる。

 それだけは、周囲の凡人(ただびと)と同じであってはならない。大海に(のぞ)めぬ(かわず)であっては、この栖鳳楼礼が許さない。

 ――許さない。

 栖鳳楼は一人、丘ノ上高校を去った。


 鈍い痛みは、まるで(もや)のように頭を覆っている。クリーム色の夢、その狭間(はざま)揺蕩(たゆた)っているうちに、ゆっくりと意識が上ってくる。目が覚めると、そのじーんと鈍い、頭を締めつけるような痛みに、自然目を細める。

「…………」

 鈍い痛みに頭を押さえながら、ぼんやりと辺りを眺めて、ここが美術室であるということを確認する。他に、人はいない。美術室の掛け時計に目を向けると、もう八時半。

「もう、朝……」

 まだ夢の途中なのか、それともあまりの頭痛にそんな(うめ)き声しかでないのか、桜坂(さくらざか)はぼんやりと体を起こそうとして、すぐに止めた。

 ……体が重い。

 眠くはないのに、体はまだ眠りの(ふち)にいたいと動くことを拒んでいる。けれど頭を押さえつけるようなこの鈍い痛みは、決して桜坂を寝かせてはくれない。

 寝不足や徹夜明けとはまた違う体のだるさ。これが二日酔いというものなのかと、高校生の桜坂はそう解釈した。

 そう思い至って、そんな自分が嫌になる。

「昨日……」

 うわ言のように(つぶや)く。

 昨日は、なにをしていたのか。いつまで起きていたのか。虫食いのように、記憶に穴がある。記憶の前後の、繋がりが希薄(きはく)

 ――桜坂は美術室にいる。

 ――他には誰もいない。

 けれど。

 昨夜、美術室には他にも人がいたことを、桜坂は覚えている。

「…………」

 それを思い出して。

「……うわぁ」

 なんて、情けない声。

 支えていた手で、顔を隠す。

 ――桜坂緋色(ひいろ)は、雪火夏弥(ゆきびかや)が好きです。

 我ながら、やってしまったと思う。

 酔った勢いとか、その場のノリとか、色々言い訳は出るが、やってしまったことは事実だ。そこだけは思い出せる。

 ……人間っていうのはどうして、こう嫌なことはしっかり覚えているものなんだろう。

「ほんと、わすれたい」

 どうせなら、もっといい思い出だけを覚えていたらいいのに。

 ――ごめん。

 思い出したくない。

 ――大切な女性(ひと)が、他にいる。

 思い、出したくない。

 じーんと、鈍い頭痛。

 嫌がらせにも、ほどがある。

「ばかだなぁ……」

 (しゃべ)るだけで、こめかみに(くい)でも打ち込んだように痛く、響く。

 その痛みに、涙を流せたらどんなに楽かと夢想(むそう)した。でも、それは叶わない幻想だ。体はだるいのに、痛みだけは明確な現実。その痛みに誘われて、思い出すのは嫌な記憶ばかり。

「…………」

 わかっていたじゃないか。

 雪火夏弥には、もう相手がいる。

 夏弥が展覧会に出した女性の絵。直前まで、夕日の絵を出すはずだったのに、夏弥は当日になって別の絵に替えた。

 恋愛関係には(うと)い桜坂だって、もしかして、なんて思ってしまう。それくらい、あの絵は雪火夏弥にとって特別なものだ。

 ――今日は、用があるから。

 昨晩の夏弥の言葉に、桜坂は聞きだそうとして、言えなかった。

 桜坂自身の気持ちを優先した結果だ。夏弥の気持ちではなく、桜坂の想いを伝えたくて、だから聞かなかった。

 聞いてしまったら、きっと桜坂は夏弥に自分の想いを伝えられなかった。だから、桜坂は耳を(ふさ)いだ。

 ――でも。

 わかりきっていたことだ――。

 雪火夏弥に、桜坂緋色の気持ちは伝わった。

 けれど、それ以上に、夏弥の気持ちは決まっている。

 だから、桜坂にはそこに入る余地がない。

 それを、知ってしまった。

「はぁ……」

 溜め息は、ただ痛い。

 その声をかき消すように、美術室の扉が開く。ハッとして顔を上げると、そこからゾンビが()ってくる。

「あ、美帆(みほ)……!」

 近寄ろうとして、しかし頭痛がひどくて動けない。

 中間(なかま)は、本当にぐったりして、もう立っているのもやっとだった。すぐに中間は体を(くず)して、ドアにもたれるようにその場に(ひざ)をつく。

「美帆、大丈夫?」

 声をかけるが、それ以上のことができない。

「ぁ……うぅ…………」

 中間の口からはうわ言のような声が漏れるばかり。

 後ろから、十宮(とみや)が中間の脇下(わきした)(うで)を通して持ち上げる。十宮に引きずられて、中間は桜坂のすぐ隣の席に放り出される。

 ぐったりと、椅子に(すが)りつく中間。顔色がやや白く、表情は苦悶(くもん)のそれに(ゆが)んでいる。

「きもち、わるぃ…………」

 本当に、気持ち悪そうに中間が呟く。

 昨晩の打ち上げ直後からダメそうだったが、いまもそんなに変わらない。

「美帆って、下戸(げこ)……?」

「しらないぃー…………」

 中間の呻き声を無視して、桜坂は椅子に腰を下ろした十宮に訊ねる。

「美帆、大丈夫なんですか?」

 椅子の足にしがみつく中間には一向にかまわず、十宮は椅子に座って淡々と答える。

「峠は越えた」

 その簡潔な返事に。

「きもち、わるいですぅ…………」

 と訴える中間。

 そんな中間を。

「自業自得」

 あっさりと斬り捨てる十宮。

「はゆせんぱいの、おにぃ…………」

 最後に一つ鳴いて、中間はそのままばたりと動かなくなった。

 経験の浅い桜坂には、中間が大丈夫なのかわからない。近寄りたくても、桜坂自身も大丈夫な状態ではない。中間のことが心配ではあったが、介抱した十宮はもはや興味を失ったように中間を見てもいない。

 どうしようかと迷っているところに、中途半端に開いた扉が勢いよく開けられた。

「とうちゃーく!」

 大声が美術室全体に響いて、桜坂は顔を上げた。

 深三弥癒(ふかみやゆ)が、どこか抜けたような笑顔で美術室に入ってきた。

「およ。みんな、生きてるかーい」

 美術室の中を(のぞ)き込んで、深三はメガホン代わりに手を口に当てる。

「……大声だすな。頭いてぇ」

「あらあら、死屍累々(ししるいるい)、って感じね」

 深三のあとに続いて、姫路(ひめじ)相澤(あいざわ)が美術室に入ってきた。美術部員というよりは体育会系の雰囲気がある姫路は、どこかぐったりしているように見えた。手で頭を押さえて、半分目を閉じている。対して相澤は、にこやかに頬に手を添えている。

「でも、生存者もいるよ」

 ねえ(はゆ)ちゃん、と右手を突き出す深三。そんな深三に、沈黙したままわずかに首を縦にふる十宮。二人の関係は、これだけで十分に成立する。

 突然湧いた騒ぎに、桜坂は声を漏らすのが精一杯だった。

「先輩たち……」

 消え入りそうな声だったが、深三が耳聡(みみざと)く桜坂に気づいた。

「ありゃ。こっちは半死人くらい?」

 ぱたぱたと深三は桜坂の元へと駆け寄る。

 美術室の惨状(さんじょう)を目にしても、美術部副部長の相澤は依然、冷静に微笑んでいる。

「じゃあ、もう少しくらいここにいましょう。十分休んで元気になったら、そしたらみんな帰りましょう」

 後夜祭も終わって、丘ノ上高校の学祭は完全に終了した。その翌日である今日は、まるでその後の生徒たちの運命を知っていたかのように休校だ。桜坂たちが教室で(しかばね)になっていても、誰からも文句は言われない。言われないが、教室で死んでいるよりは自分の家に帰って眠ったほうが健全(けんぜん)だ。

 深三が小学生のように元気よく手を上げる。

「はーい」

 その声量(せいりょう)に、姫路は不服だとばかりに頭を押さえる。

「くそぉ。今度こそ潰してやろうと思ったのにぃ…………」

 姫路の視線の先には、後夜祭が終わってなお元気そうな深三がいる。たしなめるように、相澤が苦笑する。

「そう言って、毎回返り討ちに合ってるじゃない、(あおぎ)ちゃんは」

「この、ザルめぇ…………」

 呪詛のように、姫路は呻く。

 なんのこと、と完全に(とぼ)ける深三。打ち上げのときは大分できあがっているように見えた深三は、実はあれが()のようだ。姫路も深三も、同じくらいのペースだったはずなのに。

 半死人の姫路を無視して、深三は急に真面目な顔をして桜坂に小声で訊ねる。

「――――そういえば、緋色ちゃん。あれから上手くいった?」

 急に話を振られて、どきりと桜坂は深三を見上げる。

「…………」

 言葉が出ない。

 顔に苦いものが浮かぶ。

 その表情を読み取って、深三は目を丸くする。

「ありゃりゃ、残念」

 結局、桜坂の告白は玉砕に終わった。それを思い出すだけで、また頭がズキズキと痛んだ。

「どーしてこう、美術部には男運ないんだろう」

 実はね、と深三が桜坂に耳打ちする。

「あそこの二人、昔フラれてるの」

 指差す先に姫路と相澤がいる。

 深三は桜坂だけに話しているつもりのようだが、「あそこの二人」にはしっかりと深三の声が聞こえていた。

「ちょっと、弥癒。訂正してください。あたしは、考え方が合わないので、丁重にお断りしたんです」

「そもそも、あのとき、あんたがけしかけたんじゃないかぁ…………!」

 きっと反論する相澤と、呻くように訴える姫路。

 そんな彼女たちを無視して、深三はやれやれと首を振る。

晴輝(はるき)くんは芸術一筋だからしょーがないけど。夏弥くんもダメだったか。まあ、すでに相手がいるんじゃねー」

 なんて、深三は笑う。

 最後の言葉に、桜坂の頭が急速にクリアになっていく。

 今年の丘ノ上高校の学祭、美術部の展覧会で夏弥が飾った作品は『追想』黒いドレスを身にまとった女性の絵。雰囲気からして、桜坂よりもずっと大人で、外国の女性。

 そんな大人な雰囲気の女性を、夏弥は作品として描いた。

 そしてその絵を、美術部全員が知っている。優秀作品として、打ち上げのときみんなの前で公開されたのだから、目にしていないわけはない。

 桜坂も、もしかしたらと思っていた。

 桜坂が夏弥の絵を目にしたのは学祭当日の朝で、その絵に魅了されると同時に、そんな予感はあった。

 そんな予感があったから、桜坂は学祭中、雪火夏弥に近づけなかった。ずっと遠くで眺めているだけ、中間から何度も()かされたが、結局擦れ違うこともできなかった。

 打ち上げの後、一人で校庭を眺めていたとき、桜坂はほとんど諦めていた。それなのに、桜坂は深三の言葉でもしかしたら、なんて思ってしまった。

 そして、桜坂を(そそのか)した本人は、彼女の目の前でこの調子。鈍い桜坂だって、さすがに理解できる。

「………………弥癒先輩」

 底冷えするような低い声で、桜坂は目の前の先輩を呼ぶ。

 なに、と深三はいつもの調子で首を(かし)げる。そんな惚けた顔に、桜坂の頭の中で、線が一本切れた。

「――――本気で、怒りますよ?」

 先輩でなかったら、桜坂は手を出していた。

 静かに炎を燃やす桜坂に、対して深三は乙女(おとめ)な叫び声を上げる。

「いやーん。緋色ちゃん怖ぁい」

 そのまま桜坂に抱きつく深三。

 言っていることと、やっていることがかみあっていない。

「く、くるし……」

 スポーツが好きな桜坂は、それなりに体は丈夫だ。体調が万全なら、このていどの攻撃はなんともない。だが、いまは二日酔いで頭が痛い。しかも、深三の締め付けは的確に桜坂の弱い部分をついてくる。

 ……実は全部わかっててやっているだろこの人っ。

 桜坂緋色は、なにかを悟った。

 そんな桜坂の耳に。

「自業自得」

 十宮の淡々とした言葉が耳に入った。

 桜坂は反論したかった。だが、苦しくてもうなにも言えない。体力には自身のある桜坂も、深三のヘッドロックからは逃げられなかった。


 時を(さかのぼ)り、雪火宅。

 空が青みがかり、そろそろと()が昇ろうとしている、そんな頃。

「ただいま」

 夏弥は自分の家へと辿(たど)りつく。朝帰りなど、これが初めてだ。高校一年生にして朝帰りを経験するなど、自分はなにをしているのかと問うてみても、まあ、成り行きなのだから仕方ない。お祭りだから、というのは所詮いいわけだ。そんなお祭り、子どもの頃には全くなかった。

「おかえり、夏弥」

 予想していなかった返事があって、夏弥は顔を上げる。居間からローズが顔を出しているのが見える。

 夏弥は驚いて、欠伸(あくび)()み殺す。

「起きてたのか」

 ああ、とローズは(うなず)く。

美琴(みこと)に朝まで付き合わされた。ちょうど美琴を家まで送って、戻ってきたところだ」

 さすがのローズも、やれやれといった感じ。生徒は生徒で後夜祭を楽しみ、教師も教師でお楽しみがあったようだ。これでいいのかと、まあ、人のことは言えない。

 玄関を上がり、夏弥は家の中へと入る。

「あと、ローズ、お土産(みやげ)

 夏弥は持っていたビニール袋を差し出す。

 ローズは受け取りながら、首を傾げる。

「なんだ、これは」

「ティーセット、だって」

 美術部の展覧会の優勝賞品。話によると三年生の女子の先輩たちが選んだらしく、それなりに上等なものらしい。男の夏弥がこんなものもらってどうするのかとも思ったが、この家にはお茶好きの人間がいるから、まあいいかとすぐに思い直す。

 受け取ったローズは、夏弥の言葉にぱあっと、傍目で見ていてわかるくらい、表情を輝かせる。

「開けてもいいか?」

 どうぞ、と夏弥が頷くと、ローズは早速居間へと戻って、テーブルの上で包みを開け始める。

「おおぅ!」

 箱の中からはティーポット一つとティーカップ二つが出てきた。女子の先輩たちが選んだだけあって、女の子の好きそうな花柄のデザインが施されている。

「なかなか上等なものじゃないか」

 彼女たちの選択(チョイス)を、ローズも気にいったようだ。飽きずに何度も眺めている姿は、彼女には珍しい。

「でも、ローズは緑茶派だろ」

 ティーポットとティーカップといったら、紅茶だろう。夏弥の言葉を、しかしローズは気にも留めない。

「別にかまわんだろ。これに緑茶でも」

 なんて、言ってのけた。

「……」

 夏弥は想像した。

 優雅にティーカップを持つローズの姿。黒のドレスを身にまとった、白に近い銀の髪の少女。彼女がティーカップを持つ姿は、なかなか様になっている。

 でも、中に入っているのは、ルビー色の紅茶ではなく、草色の日本茶。いつもの、湯呑(ゆのみ)を持って茶を(すす)っているローズの姿が重なって、夏弥は思わず()き出した。

「なんだ。急に笑って」

「……いや、似合わないなー、と思って」

 ム、と(にら)んでくるローズ。

 彼女に睨まれても、夏弥はまだ笑いを(こら)えるのに必死だ。それくらい、その想像は破壊的だった。

 とりあえず、いまティーセットは使わないので台所の戸棚に仕舞う。前から使っていた急須(きゅうす)と湯呑の隣に並べると、不思議とバランスが取れている。確かに、ローズなら関係なく合いそうだな、と変に納得してしまった。

「俺、寝るけど」

「ああ、俺も寝ておこう」

 振り返った夏弥に、ローズもすぐに応じる。

 ――今夜は、やることがある。

 栖鳳楼との、決着をつける――。

 その約束を、夏弥は忘れていない。

 学祭の次の日なんて、皮肉もいいところだ。そんなことが、一瞬頭をよぎったが、だからといって、夏弥の決意を揺らげるわけにはいかない。

「…………」

 着替えだけ済ませて、夏弥はすぐに布団へ潜り込む。直前まで眠れるかなと不安だったが、よほど疲れていたのだろう、夏弥の意識はあっさりと夢の中に埋没(まいぼつ)した。

 ――そして。

 ――時を同じくして、栖鳳楼邸。

 風呂からあがり、着替えを済ませた栖鳳楼は、自室へと戻る。朝早い時間だが、栖鳳楼はすぐに眠れるように、部屋着を身につけている。

 こんな朝早くでも、栖鳳楼家ではすでに一日が始まろうとしている。栖鳳楼家に仕える下々の者は、すでに朝食の準備などを進めている。だから、栖鳳楼が帰ってきたときも、それなりの出迎えはあった。風呂の支度も、部屋着の用意も、彼らが(とどこお)りなくすませてくれる。栖鳳楼家の次期当主として、彼らに対して、さも当然のように彼女は振る舞う。

 自室に戻った栖鳳楼に、潤々(うるる)はミルクティーを持って訪ねてきた。

「アーちゃん、おかえりなさい」

「ただいま、潤々」

 一日の疲れをとるように、栖鳳楼はカップに口をつける。

「学祭はどうだった?」

 にこにこと訊ねる潤々に、栖鳳楼は至ってシンプルに(こた)える。

「異常なし。結界の気配はないし、気になる魔術師もいなかった」

 そのあまりの飾り気のなさに、潤々は困ったように(まゆ)を寄せる。

「折角の学祭なんだから、楽しんでくれば良かったのに」

「なぜ?」

 (とげ)のある言葉で、問う栖鳳楼。

 それに、潤々は苦笑を浮かべるだけ。

 栖鳳楼は冷めた調子で続ける。

「いまこの町では楽園(エデン)争奪戦が行われている。最近はないけど、いつ神隠しが起こってもおかしくない。少し前だって、学校に結界が張られた。用心するに、越したことはない」

 栖鳳楼の言葉は、間違っていない。

 潤々の顔には苦いものが残る。

「それはそうだけど。学祭のときくらい、お休みしてもいいんじゃない?」

「敵はそんなこと、関係ないわ。むしろ、そういうタイミングを狙ってくるかもしれない。だったら、こちらは常に警戒しないといけない」

 栖鳳楼は顔を上げない。潤々から渡された簡単な報告書に目を通している。白見の町全体にも、特に異常はないようだ。それを確認して、栖鳳楼は報告書を本棚に仕舞う。

「…………」

 潤々から、もう言葉はない。

 栖鳳楼も、もう用はないとばかりに、顔も上げずに告げる。

「もう寝るわ。今夜も、やることがあるし。(ひる)には起きる」

 潤々が部屋を出るよりも先に、栖鳳楼はベッドに潜り込む。明かりが落ちて、小さく扉が閉まる音を聞く。目を閉じて、いつものようにすぐ寝てしまおうと思った。けれど、今日はなかなか寝付けなかった。


 ささやかな休息の時間。

 それはこれから始まる戦いの、戦士たちの一時の夢。

 夏弥は目を覚まし、上半身を起こす。目覚まし時計を止めもせずに起きるなんて、夏弥には珍しい。もっとも、起きる時間も珍しいのだが。

「…………」

 意識はまだ半分、夢の中。

 夏弥は、自分が身を起こしていることにすら、気づいていない。

 夢は、()けるように、夏弥の身の回りの出来事に近かった。学校での授業、幹也(みきや)との他愛(たあい)のないじゃれあい、水鏡(みかがみ)のお弁当、スーパーでの買い物、登下校に使ういつもの道、食事の支度、居間から見上げた天井、夏弥の部屋――。

 あまりにも当たり前のことが、夢に混じる。だから、いま自分が夢の中にいるのか(うつつ)にいるのか、わからなくなる。

 きっと、それは幸せな夢だ。

 だから、夏弥はそれが夢だと気がついて、思い切り自分の(ほお)を両手で打った。

「…………」

 戦いを前にして、夏弥が見たのは、そんな夢。

 栖鳳楼に話でもしたら、叱責(しっせき)の一つでも飛んできそうだ。

 ――あなたに魔術師のなにがわかるっていうの?

 苦笑を浮かべた夏弥は、苦いものを噛んだように笑みを消す。

 栖鳳楼と初めて言葉を交わしたときのことを、夏弥は不意に思い出す。あのときの夏弥は、彼女の放つ言葉の意味も、その重さも知らなかった。

 ――それがいま、再度問われる。

 楽園(エデン)争奪戦の戦いで、雪火夏弥は、その言葉に応えなければいけない――。

 夏弥は立ち上がり、着替えを済ませる。窓の外は、もう闇色に染まっている。時計を見ると、夕食の時間だ。

 朝飯など食べずに寝ておいて、昼の時間にも起きなかったのだから、いまさら夏弥は空腹に背中を丸める。

 戦いに行く前に、まずは腹ごしらえ。あれだけ眠ったというのに、まだ(まぶた)が重い。寝すぎたせいだろう、眠い目を叩き起こして、夏弥は台所へ向かう。

 その途中。夏弥は足を止めて、客室に向かって声をかける。

「ローズ、起きてるか?」

 確認しようと手を伸ばして、一瞬止める。

「……」

 なにか、強烈な既視感(デジャヴ)に襲われる夏弥。

 この(ふすま)を開けたらどうなるか、夏弥はこのときだけ未来予知の才能が開花したような気になった。

 ……心から()らない才能だ。

 夏弥は冷静に、襖から手を引いた。

 いまでなくていい。食事の準備が済んでから、また声をかければいい。そのときに、覚悟を決めよう。

 台所で、夏弥は戸棚から大量のそうめんを取り出して、火にかけた(なべ)に投入する。そうめんが()であがるまでに、鶏肉(とりにく)を醤油で炒めて、薬味を切っておく。これで簡単な漬け汁は完成する。冷蔵庫に入っている野菜を適当に取り出してドレッシングをかけて、生野菜のサラダの完成。

 夏弥にしては手を抜いたメニューだが、このあと戦いに行くのだから、あまり食べ過ぎるのは(かえ)ってよくない。栄養が重りになってしまわないていどのメニューとなると、これくらいがちょうどいい。デザート用に桃でも切って冷やしておこう。果物はビタミンと糖分が豊富だから、体を動かす前には適している。

 日ごろの主婦業の賜物(たまもの)か、本日の夕食もそれなりに。そうめんのときは麦茶に限るのだが、雪火家には約一名、食事のときには緑茶が欠かせない人がいるので、その準備も欠かさない。

「おい、ローズ。夕飯できたけど、食べる?」

 襖の向こうに声をかけると、「おう」なんて声が返ってきた。ようやく起きたらしい。

 ちょっと早い、夏の風物詩。まあ暑くなってきたし、そうめんも悪くないと白い糸を汁にくぐらして口の中へと流す。簡単な料理だが、こういうのもたまにはいいかと一人納得する夏弥。反対側では、ローズが緑茶を啜っている。早速、学祭での優勝賞品が役に立っている。花の模様に、花弁の形に口を開けたカップを持つローズの姿は、その黒いドレスもあってかなり様になっている。だが、中身が緑茶だとやっぱりミスマッチだ。

 夏弥は、そこには口を(はさ)まない。ティーカップで緑茶を飲むローズは、本人としてはそれなりに気に入っているようだ。だから、夏弥が口を挟むのは無粋というものだ。

 そうめんはかなり量があってもすぐに食べきってしまう。大食らいのローズには、まだまだ食べたりないご様子。食後のデザートを出しても、夏弥が(あき)れるくらいあっという間になくなってしまった。夏弥としては明日の朝のデザートにもなるかなと思っていたのに、ローズの前では一回分ていどだったようだ。

 もしも明日の朝があったら、なんてことは、いまは考えない。

 夏弥は自分の武器を腰にさす。それで、夏弥の準備は終わり。魔術師になって一カ月足らずの夏弥には、本格的な魔術はまだ使えない。だから、この武器が雪火夏弥の唯一の攻撃手段。

 玄関に立ち、夏弥はローズへと振り向く。

「じゃ、行ってくる」

「待て」

 玄関を開けようとした夏弥を、ローズが止める。

「なんだよ、ローズ」

「俺も行く」

 さっと飛び降り、ローズは(くつ)()く。

 そのとき、夏弥はようやくローズの恰好(かっこう)の意味を知った。最近、ローズは美琴や栖鳳楼、水鏡たちと一緒に服を買ったために、毎日コロコロと衣装を替えている。学祭のときも最初に会ったころとは違って女の子らしく着飾っていた。

 いまは、最初の頃を思い出させるような、黒色のドレス。

 それが、彼女なりの戦いに臨む意思だと、夏弥は理解した。

 それを知ってしまったから、夏弥も無下(むげ)にはできなかった。迫られて、どうしても断れないのが夏弥の悪い癖だ。

「いいけど、邪魔はするなよ」

 正直、夏弥は自分の戦いにローズが入ってくることを望まない。

 もちろん、夏弥はローズが式神(しきがみ)で、自分なんかよりも強いということを十分承知している。

 けれど、それ以上にローズは人間らしく、女の子だ。男の夏弥が後ろに立って、彼女に戦わせるなんて、やっぱりおかしい。

 ――それに、夏弥は決めた。

 ――だから、前に立って進む。

 ローズは正面から夏弥を見て、彼女らしく、堂々と告げた。

「わかった」

 そのまっすぐな答えに、夏弥は咄嗟になにも返せなかった。

 ローズが玄関を開けて「行こう」と言われて、ようやく夏弥の足は動きだした。

 少しだけ、なにか言われるのではないかと、夏弥は思っていた。しかし、ローズは夏弥の言葉をまっすぐ受け止めて、まっすぐ返してくれた。

 その意味を、夏弥は角を曲がった辺りでようやく気がついた。

 ――よし。

 夏弥は(こぶし)(にぎ)る。

 もう、準備は整った。


 約束の時間は、夜の十一時。

 家を出てきたのは、九時より少し前。場所は学校へ向かう途中の川原、なら、九時より少し過ぎた頃には約束の場所に到着する。

 夏弥は川原に向かう途中、いつも水鏡と待ち合わせしているミラーのすぐ脇を見上げた。一カ月前には、ここにもう誰も住んでいないマンションが(そび)えていた。それがいまでは見る影もなく、目の前の石段の上に瓦礫(がれき)の山を(さら)している。

 楽園(エデン)争奪戦――。

 夏弥が、最初に目にした傷跡――――。

 栖鳳楼家の名のもとに、目の前のマンションは老朽(ろうきゅう)のための解体工事と称して町から消える。ここに、魔術師同士の戦いがあったなど、誰も知らないままに。

 夏弥は立ち止まり、ここまで来た道を振り返る。ここにも、民家はある。人が眠る、朝には起きる。そんな日常が、ここにもある。そのすぐ隣で、魔術師たちは(おの)が魔術を行使(こうし)する。

 魔術は、その魔術師一人の力ではない。何代も、何百年と積み重ねてきた、家の歴史がある。その果てに、魔術師たちは世界を目指す。楽園(エデン)は、魔術師たちの目的となる世界に近づくための、大きな一歩。楽園(エデン)を手に入れるためなら、世界に辿りつけるなら、魔術師たちは手段を選ばない。――その結果が、神隠しという名の、誘拐事件。

 人々は知らない。

 でも、雪火夏弥は知っている。

 夏弥は、この戦いに関わるまで、自分が魔術師だということを知らなかった。いまでも、夏弥は魔術を使えない。できるのは、美琴に習った剣だけ。

 魔術師の考え方も、魔術師として生きる重さも、尊厳も、矜持(きょうじ)も、雪火夏弥にはわからない。夏弥は、ただ夏弥として、この戦いに参加するだけだ。雪火夏弥が、人が傷つくのを見たくないと思う。人が死ぬのを見たくないと思う。人が苦しんでいるのを見たくないと思う。そんな理由で、雪火夏弥はこの戦いに参加する。

 それだけを、貫く。

 他の魔術師たちからなんと言われようと、夏弥の信じられるのは、それだから。夏弥が納得できる答えは、それだから。

「……」

 夏弥は、前を見る。

 ミラーの横の、この先の細道を行けば、川原に出る。その川原、橋の下に、栖鳳楼はいる。

 夏弥は歩きだす。付き従うように、ローズがその後を追う。川原に下りるとき、夏弥は空を見上げた。星が瞬く闇の中に月はない。今宵(こよい)は新月。誰も、彼らの所業を、()るものはいない。

「――――ようやく」

 そこに、栖鳳楼はすでにいた。

 黒のスカートの上には赤の十字架が、赤いトップには黒の十字架が施されている。ポニーテールにまとめられた髪のリボンは、赤と黒のレースに色づいている。

 赤と黒に分けた彼女の衣装。

 それはさも、彼女のいる世界が(あか)(くろ)に染まっているよう。

 その世界に君臨するのは、絶対的な支配を司る十字架(けん)

 一方、夏弥は丘ノ上高校のブレザーを身につけている。

 栖鳳楼にとってこの場所は特別なものになっている。もちろん、夏弥にとっても特別には違いない。だが、それは栖鳳楼とは意味合いが違う。

 ――栖鳳楼にとって、これは魔術師の戦い。

 ――夏弥にとって、これは夏弥が越えなければいけない戦い。

 この戦いが終われば、またいつもの生活に戻る。だから、夏弥は栖鳳楼との戦いにブレザーを選んだ。

 都合のいい考え方だと思う。

 でも、それを貫けなければ、夏弥は夏弥として、これからを生きていけない気がした。甘いと、偽善だと言われても、それが夏弥の決めた道だ。

 栖鳳楼は手首に巻いた時計に目を向けて、小さく()んだ。

「……と、約束よりも早いから、問題ないわね」

 夏弥も大分早くに約束の場所に来た。それよりも以前に、栖鳳楼はここにいる。一体どれくらい前からここにいたのか。

 ……いや、そんなことよりも。

「なんで……」

 つい、言葉が漏れる。

「…………なんで。潤々さんが、ここにいるんだ?」

 栖鳳楼のすぐ後ろで、潤々は愛らしく笑っている。夏弥に気づくと、潤々は夏弥に向かって手を振った。

 その、あまりの普通さに、ここが普通ではないのかと混乱する。そのあまりにも暗く重い、反転。潤々の笑顔が、いまは心臓にナイフでも突きつけられたように、(きし)む。

「気づいてなかったの?」

 そんな夏弥を見て、栖鳳楼は溜め息交じりに告げる。

「彼女は潤々。栖鳳楼家に代々仕える――――『式神』よ」

「!」

 動揺に、夏弥の足は震える。

 砂利に滑って、倒れそうになるのをなんとか堪える。

 ――目眩(めまい)が、する。

 自分の立っている足場が、崩れ落ちるように。

 潤々は栖鳳楼家に仕えている。それは知っている。栖鳳楼の家に初めて行って、自分の家に帰る帰り道、夏弥は潤々と一緒に歩いた。

 あの笑顔が、いまも重なる。

 そんな人が、式神なんて。

 そんなの、聞いていない。

「そんな……!」

 そんな、そんな、とそればかりが漏れる。

 ――理解、していなかったわけではない。

 ただ、気づきたくなかった。

 あんなに優しい人が。あんなに笑顔が似合う人が。魔術師同士の戦いに、関わる人なんかじゃないと、そう信じたかっただけ――。

 夏弥の後ろに(ひか)えていたローズが、一歩前に出る。

「まあ、夏弥は気づかないだろうな」

「ローズ、おまえ、知ってて……」

「最初に会ったときから、な」

 平然と、ローズは立つ。

 そこに動揺はなく、迷いはない。

 だからきっと、夏弥が口にしてしまえば、ローズはなんの躊躇(ちゅうちょ)もしないだろう。その手で、潤々を易々(やすやす)()る。

 その緊張を前に、潤々はやんわりと微笑む。

「それでは、よろしくお願いします」

 一礼し、ふわりと潤々の体が宙に浮く。闇の中でも、潤々の足が地面から離れているのがわかる。あまりにも自然すぎたから、夏弥はその現象をすぐに認識できなかった。

「ローズさん、でしたっけ。あなたはこちらに」

 誘うように、潤々はローズに手を差し出す。

 その誘いを、ローズは(けん)のある目で返すだけだ。

 やはり笑って、潤々は(うた)う。

「式神は式神同士――」

 併せるように、栖鳳楼は剣に手を添える。

「――神託者は、神託者同士」

 栖鳳楼の視線に、ようやく夏弥の震えは止まる。

 いや、まだ震えているのかもしれない。けれど、さっきまでの動揺は、すっかり夏弥の体からは抜けた。

 栖鳳楼の目は、まっすぐに夏弥を射抜(いぬ)く。

 一カ月、戦いの中に身を置いた夏弥だから、その視線を理解できた。鋭利なその目は、彼女の殺気。魔術師の戦いは、生死をかける。勝つとは、生き残るということ。だから、倒すべき相手は殺さなければいけない。

 ――その、殺気。

 目に殺気を燃やして、口元だけ栖鳳楼は笑う。

「そのほうが、そちらも都合がいいでしょ?」

 まるで、機械じみた声。

 淡々とした口調に、夏弥は意識を持っていかれないように手に力を込める。

「…………ああ」

 吐き出した声も、また他人のよう。

 自分を見失わないようにと、夏弥は奥歯を噛む。

「ローズ、頼む」

 ローズを見ずに、夏弥は告げる。

 夏弥の視界には、もはや栖鳳楼しかいない。対峙すべき相手は、彼女だけだから。

「了解した」

 声が届くと、ゴウ、と風が吹きあがる。

 ローズと潤々が、ともに虚空(こくう)に消えたのだと理解した。つまり、いまこの場には、夏弥と栖鳳楼の二人だけ。

「…………」

「…………」

 静寂。

 周囲を舞う風と、流れる水の音しか聞こえない。他に人の姿はなく、次の瞬間には完全に人の気配すら遮断される。

 夏弥には聞き取れないくらい小さく、栖鳳楼がなにごとか呟く。それが魔術的な手順で、結界と呼ばれる魔術だと夏弥も理解する。

 結界は、すなわち境界。こちらとあちらを(へだ)てる、境目。

 結界と一言でいっても、その性質は多種にわたる。外界からの攻撃を防ぐもの、内側からの逃亡を防ぐもの。しかし、その本質はただ一点。それは内と外を隔絶する線だ。栖鳳楼の張った結界は、内部の物理的、魔術的現象を、外界に漏らさないようにするための遮断装置。結界より内側のことは社会に漏れず、社会はその中でなにが行われているのか見ることができない。

 ――これで、この場は二人だけの世界となる。

 ――誰も、この戦いに介入(かいにゅう)するものはいない。

「では、始めましょう」

 栖鳳楼が(つか)を握る。

 夏弥も、武器を抜いて構える。

 もう、音は()こえない。

 風さえ死んだように、この場は静寂。

 その一言が、全てを動かす。

 激戦の、最初の一撃となる。

「――――始めよう」


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