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第四章 ひと夏の思い出

 人の気配で目が覚めた。気配、というと大袈裟(おおげさ)だけれど、要するに人が入って来たのだ。がらがら、と扉が開く音。その音に、桜坂緋色(さくらざかひいろ)の意識はゆっくりと現実へと浮かび上がってくる。窓も(ふさ)がっているために、この部屋は昨夜から同じような明るさで、今が何時なのかちっともわからない。

「おやおや。随分と早い登校だね、桜坂くん。それとも、ここはおはようとでも言ったほうが適切だろうか」

 なんて言葉で、桜坂は誰が教室に入って来たのかわかった。

「いつも通りですね。晴輝(はるき)先輩」

 まだ意識がぼやけながらも、桜坂はそんな言葉を返す。

 つい自分の顔を手で触れる。いつの間にか眠ってしまったようだ。体が妙にだるい。少しも眠った気がしないのは、きっと夢を見ていないせいだ。

 人は意識が完全に落ちる一歩手前で夢を見るらしい。俗にいうレム睡眠がそれにあたる。だからうたた寝やこんなふうに明かりがついている部屋では睡眠は浅く、夢を見やすい。だから、夢を見るのと睡眠の深さは正反対のことだから、桜坂の感覚は正しくない。

 桜坂が夢を見ていないと感じるのは、夢と現実があまりにも似通っているため、どちらがどちらなのか判別がつかないからだ。桜坂が絵を描いていたつもりが、実は眠っていたかもしれない。そんな曖昧(あいまい)な状況にいたために、桜坂はどうも眠っていた気がしない。こんなに明るい中でも、桜坂は気を許せばすぐに眠れそうな気がした。

 晴輝はおかまいなしに桜坂に話しかける。

「当然だとも。人の性質とはそう易々と変わるものではない。いや、起きたばかりのものにこんな話をしても無粋(ぶすい)というものだ。いやはや、それにしても驚いた。まさか徹夜するものが出るとは一体何年振りかな。少なくともわたしが在籍(ざいせき)していた間では君が初めてだ。全ては過去の先輩方から引き継いだ噂話(うわさばなし)にすぎなかったわけだがな。なるほど、作品の締め切りに間に合わない生徒のために準備室に毛布が置かれているということは聞いていたが、実際に使っている人を見るのはこれが初めてだ」

 いやいい経験になった、などと晴輝はなにがそんなに嬉しいのか満足げに頷く。

 (いぶか)しんで顔を上げると、桜坂は自分の体に毛布がかけられていることに初めて気がついた。誰がかけたのだろう。少なくとも、桜坂ではない。桜坂はずっと絵を描いていて、美術室から出た覚えはない。

 桜坂が身に覚えのない毛布に首を傾げていると、晴輝はつかつかと美術室に入りながら問いかける。

「ところで、君の作品は完成したかな。桜坂くん?」

 その言葉で、桜坂の眠気は嘘のように吹き飛んだ。

「え、ああ、そう、絵……!」

 絵は、完成したんだっけ?

 そんなことも、桜坂は覚えていない。

 それを確認したくて、桜坂は目の前のキャンバスに目を向ける。

「あれ……?」

 そこで、桜坂は初めて気づいた。

「ない……」

 キャンバスが置かれているはずのそこには木枠(きわく)しかなく、向こう側が見える。別にキャンバスが透明になったわけではなく、本当になくなっている。

 あまりの動揺に立ちあがりそうになったところで、晴輝の実につまらなさそうな声が耳に届いた。

「なんだ。もう飾ってあるか」

 桜坂は顔を上げて晴輝のほうへと顔を向ける。

 美術室から入ってすぐのところにアイスグリーンの山の絵が飾ってあって、その隣に黒く塗りつぶしたような鉛筆の線画が置かれていた。

 桜坂の絵だ。中間(なかま)の色彩豊かな絵の隣に飾るには申し訳ないような、黒一色の絵。桜坂は人物画のつもりなのだが、果たして周囲からはどのように見えることか。

「飾ってから睡眠体勢に入るとは、忘れ物の常習犯である君らしからぬ行動だな」

 むむ、と(うな)るように桜坂の作品を眺める晴輝。絵の評価などそっちのけで、その事実にしばし信じがたい思いを抱いているようだ。

「いつの間に……」

 桜坂も、信じられない。

 自分で飾った覚えはないし、そもそも桜坂は飾り方の説明を受けていないからやろうにもそのやり方を知らない。では、一体誰だろう。桜坂は頭がぐるぐる回るばかりだ。

「もっとも、完成したのであれば問題はない。これでなにも案ずることなく、学祭を始められるというものだ。美術部員である以上、部の展覧会さえ成功してくれればそれ以上のことはなにも望むまい」

 良好良好(りょうこうりょうこう)、と一人頷く晴輝。

 そこで、桜坂は晴輝がいるという事実を改めて認識する。

「……ところで、晴輝先輩」

 ん、と晴輝はその(なめ)らかなストレートをなびかせて振り向いた。

「今何時ですか?」

 天井までパネルを張りつけたため、時計が見えない。晴輝は自分の腕時計に目を向けて簡潔(かんけつ)に答える。

「朝の七時半だが」

「七時半!」

 がばっと顔を上げて、途端桜坂は椅子に寄りかかる。

「それって、校門開いたばかりの時間じゃないですか。ああ、驚いて損した。もう学祭始まっちゃったのかと思ったのに」

 桜坂の声に、晴輝は眼鏡の奥でわずかに目元を(くも)らせる。

「なにをがっかりしているのかね。まだまだゆっくりしていられる時間があるわけだから、よかったではないか。朝から学祭実行委員では集まりがあるのだろう。加えてよかったではないか。もう起きてしまったから、遅れることもあるまい。まさか、朝の集合の時間を忘れたとは言ってられないだろう」

「…………」

 文句を言いたいが、寝起きで頭が回らない。いや、単に寝不足か。桜坂は視線だけで晴輝に不平を訴える。

 晴輝の言う通り、学祭実行委員会は学祭の朝から仕事がある。その朝の集まりに遅れるわけにはいかない。だが、まだ時間があるのならもう少し寝かしてくれればいいのにと、桜坂の気は晴れない。

 桜坂の猫のような威嚇(いかく)を無視して、晴輝は美術室を(めぐ)る。

「――――」

 と。

 数歩歩いただけで、晴輝は足を止める。

 息を()む気配。

 その作品の前に立ち。

「…………雪火(ゆきび)のやつめ」

 意図せず、呟く。

「部長であるわたしに黙ってこんなものを用意していたとは」

 その声は、かすかに震えている。

 恐怖か。(すく)んだのか。晴輝は金縛りにでもあったように、そこから一歩も動こうとしない。まるでなにかに圧倒されたかのように。

 晴輝の異変に気づいて、桜坂も顔を上げる。

「あ――――」

 と、漏れる声。

 たったそれだけで。桜坂はどうして晴輝が立ち止まったのか理解できた。

 理性ではない。

 桜坂緋色という()が認識した。

 それは、意図せず。

 無意識。

 それは衝動と呼ばれるもの――。

 (ぼう)と。

 ――その作品に。

 二人は、心を奪われた――。


 人の呼び声で目が覚めた。呼び声、というのはきっと自分が呼ばれているのだろうと、ぼんやりと理解したからだ。何度も何度も、自分を呼ぶ声。自分の名前が呼ばれているはずなのに、まるで他人事(ひとごと)のようだ。

 辺りは暗かったが、夜の暗さではない。朝日は昇っているようだが、カーテンのために影が下りる。それでも、部屋の中は見渡せるほどに明るい。

夏弥(かや)

 誰だよ。

「夏弥。そろそろ起きたほうがいいぞ」

 うるさいな。

「夏弥。起きろと言っている」

 まだ眠い。

 もう少し寝かせてくれ。

「夏弥。……ダメだな。一向に起きようとしない」

 そのまま、寝かせてくれればいいのに。

 胡乱(うろん)な頭でそれだけを思う。

 明暗が溶けて、意識が曖昧で。このまま、また眠りに落ちてしまいそうだった。その声がどこかへいったと思ったら、別の声が聞こえた。

「そんなこと言ってられません。雪火くん、もう朝です。起きてください」

 耳元で(ささや)かれるような優しい声に、夏弥は薄く目を開けた。

「あ。やっと起きてくれた」

 ぼんやりとした視界。白黒の景色に色が帯びてきて、ぼやけた景色が一つの像を結ぶ。見慣れた顔だった。でもここにいるのはどこか不自然な気が……。

 水鏡言(みかがみあき)が夏弥の顔を覗き込んでいる。

「…………水鏡?」

 にっこり、水鏡が微笑(ほほえ)む。

「おはよう。雪火くん」

 ようやく夏弥の意識は覚醒(かくせい)した。

 がばっ、と勢いよく布団から起き上がる。狭い夏弥の部屋に水鏡と、その後ろにローズの姿が見える。

「……おはよう。水鏡」

 冷静に挨拶を返して、そんなことをしている場合かと夏弥は心の中で叫ぶ。

「……って。なんで水鏡がここにいるんだ?」

 辺りを見回しても、どう見たってここは夏弥の部屋だ。ローズがいるのは当然として、どうして水鏡がいるのかがわからない。

 水鏡はちょっとだけ困ったように眉を寄せる。

「雪火くん。今、何時だと思う?」

「何時って……」

 足元の目覚まし時計に目を向ける。今でも時を刻むそれは、八時半を通りすぎてそろそろ四〇分にさしかかろうとしていた。

「やばっ」

 慌てて上を脱いで、夏弥は水鏡に向かって叫んだ。

「水鏡。すぐ着替えるから、出ていてもらえる?」

 水鏡は困ったように微笑む。

「今から学校に行っても、どうせ遅刻だよ。今日は学祭で、最初は始めの集会があるから、どうせならサボっちゃおうよ」

 ぽかん、と。水鏡の思わぬ提案に夏弥は言葉を失う。

 水鏡は夏弥に言い聞かせるようにさらに笑う。

「だから、慌てなくていいよ。下りてきたら、もうご飯できているから。折角だし、あたしの料理食べてみて」

 なんて言い残して、水鏡は夏弥の部屋を後にする。気づけば、水鏡は夏弥のエプロンをつけていた。

「……ローズ。なんで起こしに来てくれなかった?」

 夏弥は部屋の中でまだ突っ立っているローズを睨む。

「起こしに来たが、寝ていたではないか」

「だから、水鏡が来る前にだ。いつも俺が起きてくる時間に起こせよ」

 その視線を受けて、しかしローズは少しも動じず(かえ)って不思議そうに訊ねる。

「急ぐ必要があったのか?」

「当たり前だ。学校に遅れたらまずいだろ」

 夏弥のクラスでは八時五〇分にホームルームが始まる。その時間までに間に合わなければ、遅刻扱い。この時点で、夏弥はすでに遅刻だ。

 基本的に遅刻、欠席をよいものだと思わない夏弥にとって、理由もなく学校に遅れるなどあってはならないことだ。

 しかしローズは、そんなものか、と首を傾げる。ローズが式神であって、普通の人間とは感覚が違うところがこのときばかりは恨めしい。

「それに、夏弥は眠って間もないだろう。人間は普通、十分な睡眠をとるものだ。だからもうしばらく寝かせておいてもよいと思ったのだ」

 そんな気のまわし方、なんでそんな余計なことをするんだと文句を言いかけた夏弥はぐっとその言葉を飲み込む。ローズなりに気をつかってくれたんだ、そのことが妙に嬉しくて、そんなことを考えた自分が妙に気恥しい。

「そうしていたら(あき)がやって来てな。夏弥がいつもの時間に来ないものだから不思議がっていたぞ。それで夏弥がまだ寝ていると告げたら、起こして来いと言ったので起こしに来たわけだ」

 なるほど、と夏弥は納得する。

 それは水鏡に悪いことをした。幹也(みきや)辺りに連絡を入れておけばよかったが、生憎(あいにく)昨日――というよりは今朝か――は眠くて仕方がなかった。といっても、幹也は部活の学祭準備で泊まりこんでいたっけ。どちらにせよ、水鏡には連絡の手段がなかったか。

「だが、もう少しゆっくりしていてもいいのであれば、言も人が悪い。夏弥はまだ寝ていてもよかったわけだ」

 非難がましく肩を落とすローズ。

 その様子は悪意とか憎しみなんてない、子どものままの純粋な感想のようだった。

「……よくない」

 夏弥は溜め息を吐いてローズを部屋から追い出す。着替えて下に降りないと。学祭初日に遅刻とは、これはやらかしだ。やらかしなのだが、ブレザーに着替える頃には、やってしまったものは仕方ないかと思うようになり、鞄を持って居間に降りて行った。


 水鏡と朝食をすませて学校に着いたのは一〇時の頃。教室に入ったときは誰もいなかったが、しばらくするとぞろぞろと生徒たちが教室に戻って来た。

「おう。夏弥。遅かったな」

 机の上で突っ伏していると、前の席の麻住(あさずみ)幹也がどんと夏弥の背中を叩く。

「朝の集会にサボるなんて、おまえにしては珍しい。俺もサボっときゃよかった」

 学祭が始まる前に、全校集会が体育館で行われる。校長先生の挨拶や学祭実行委員長の挨拶、そして学祭での諸注意などが終われば、いよいよ学祭本番だ。

「おい、夏弥。反応悪いぞ。なんか言ったら………、って、どうした?」

 一向に反応のない夏弥に、さすがに幹也も訝しむ。夏弥は机に伏したまま簡潔に(こた)える。

「うん。寝不足」

「寝不足って、どんくらい寝たわけ?」

 あまりものを考えたくなかったが、まだ睡眠が恋しい頭で夏弥は幹也に返す。

「……三時間?」

 だいたいそれくらいだろう。適当に答えると、なぜか幹也は相当ショックな様子で声を上げた。

「うっそ。負けた。俺、四時間。ああ、あと一時間早く起きていれば。いや、逆か。あと一時間余計に起きていれば」

 なにが(くや)しいのか、夏弥はうまく機能しない頭で幹也を(ぼう)と眺める。睡眠時間は夏弥と大差ないのに、この男は朝からいつも通りにテンションが高い。

「というわけで、しばらく寝ていたい」

 ごん、と再び机に()せる。

 はあ、と幹也は(あき)れたような声を漏らす。

「寝ていたいって、そりゃおまえの勝手だけど、いいのか?学祭だぜ。折角の学祭でどこも行かないで寝てるなんて、なんのために生きてたんだよ」

「そりゃ、オーバーだ」

 いつも通りのやりとりでも、やたらに体力を使う。やはり睡眠時間が足りなかったのか、眠くて動きたくない。

「おっと、そろそろ部活の準備があるから、俺は行くぜ」

 がた、と幹也は立ち上がって教室を出て行った。呆然と幹也の消えた後を眺めていると、教室の中もがやがやと賑わっていることにようやく気づいた。

「でも、そっか。今日は学祭なのか」

 いまさらに、そんなことを呟く。

 夏弥のクラスでもクラス展示があるので、教室の中はそのための飾りつけが施されている。ほとんどの椅子や机は他の空き教室に移動させられ、窓側の夏弥の席は端に寄せられていただけなので今まで机に伏せていてもなんの違和感もなかった。

 さすがにここでは寝ていられないか。このクラスにも、クラス展示を見に人がやって来る。丘ノ上高校の生徒だけではない。学祭では一般の人もやって来るから、眠ってなどいたら目立ってしまう。

「どっか行くか」

 そう呟いてみたが、どうしようか。

 夏弥もクラス展示の手伝いをしなければいけないのだが、それは明日の午後の担当だ。夏弥のクラスでは学祭実行委員を中心としたやる気のある男子たちが(もっぱ)らクラス展示の担当を独占していて、他の生徒たちは一応不平等にならないように担当の時間を決められているが、別に来なくても大丈夫な気もする。

「ローズに、会いにいくか」

 そういえば、ローズが学祭に来るとか言ってたっけ。朝もそんなことを言っていた。約束したし、行ってやるかと夏弥は外に出る。

 校舎を出れば、そこには人の姿で溢れている。たくさんのテントが並び、ここが学校であることを一瞬忘れさせる。様々な屋台が並び、丘ノ上高校の生徒、教師、その他にも他校の生徒や一般の客まで、ほんとうにたくさんの人がこの学祭に(きょう)じている。


 人の波を()って歩き、夏弥は武道館に向かった。ローズとの待ち合わせ場所をそこにしたのだ。校庭では屋台が並んでどうしても人が集まるので、待ち合わせにするならと夏弥が決めた。ローズがこの学校でわかる場所といったら、そこくらいしかないのも事実だけど。

「でも、こんなに人がいるなんて」

 あまりの人の数に、夏弥もすっかり目が覚めた。中学時代では外部の人を入れないようにしていたので、これほど盛り上がることはなかった。やっぱり高校になるとスケールが違うんだな、と妙に感心しながら武道館へ向かう。

 体育館のすぐ隣の武道館に向かおうとして、夏弥は愕然(がくぜん)とした

「…………なんだ、これ」

 人の数は一向に減る様子がない。体育館では朝の集会の後に演劇があるんだっけ。準備に時間がかかるからまだ始まっていないはずなのに、しかしこの人の数はなんだ。

「で、ローズは武道館の前だから……」

 人の波を、本当にかきわけるように進んで武道館を目指す。すぐ目の前にあるはずなのに、なかなか辿りつけない。

 なんか、人の密度が異様に高くないか。

「なあなあ、さっきの人、ヤバくね」

 不意に、生徒たちの間から声が聞こえた。いや、これだけの人数、話し声がないことはないのだが、その内容に夏弥は耳を集中させる。

「どこの学校の人だろう」

「ありゃどう見ても大学生だろ」

「でもなんでこんなところに」

「誰か待ってんのかな」

「そうっぽいけど」

「普通、校門とかじゃない」

 他にもいくらでも人の話し声はあるというのに、その話ばかり耳にしてしまうのはどういうわけだろう。夏弥は頭の上に疑問符を浮かべながら、さらに聞き漏らすまいと彼らの会話に意識を向ける。

「なあなあ、声かけてみようぜ」

「いってみるか」

「でも、誰か待ってるかもしれないよ」

「ばーか。こういうのは早い者勝ちなんだよ」

 まとまった男子生徒たちが指差すほうを見て、夏弥の思考は一気に吹き飛んだ。

 彼らが指差す武道館前には不自然な空間が開いていた。正確には、その女性の周囲だけ他の生徒たちとは一メートルほど距離が開いている。

 少女の長い髪は白に近い美しい銀髪で、一瞬外国人のような雰囲気もあるが、しかし顔の(つく)りは日本人に近い。

 いや。

 そんなことより。

 ――見慣れているはずの彼女は、いつもとは違う恰好をしていた。

 バイオレットのスカートの下からレースが揺れて、ノースリーブのブラウスは桃の花みたいに白い。女物のポーチを()げて、どこで覚えたおしゃれなのか手首に金の腕輪をつけている。

「ローズ!」

 夏弥は叫んだ。

 ここが学校で、周りに他の生徒たちがいる、なんてことはすっかり忘れている。人の波をかきわけて、夏弥は目的の少女の前に立った。

「お。夏弥。来たな」

 なんて、その少女はいつもの調子で夏弥に応えた。

 ざあっ、と人の波が引いていく。

「なんだ。男待ちか」

 そんな言葉まで聞こえてくる始末。

 夏弥は慌ててローズの腕をとり、そのままぐいと引っ張る。

「ほら、いくぞ」

 乱暴な扱いに、しかし夏弥は気が回っていない。夏弥にとって、この状況はあまりよくない。周囲の男子生徒たちが噂するくらい、今のローズは完璧だ。高校の学祭だから、中にいる人たちはほとんどブレザーだ。他校の生徒だって、自分の学校の制服を着る人が圧倒的に多い。

 ……そんな中で。

 ローズは私服で、一体どこのパーティーに出かけるんだ、ってくらいしゃれこんでいる。夏弥は極力ローズを見ないように、彼女を引っ張る。周囲の視線が痛い。そんな気がしてならない。周囲の視線も、ローズの手の、少女のように細い腕の感触も、全部無視して、夏弥は逃げるようにその場を抜ける。

「…………」

 ようやく人の波がなくなって、夏弥は足を止めて大きく息を吐いた。武道館から校舎へ向かう途中の道に出たようだ。ここは奥のほうへ行けば人気のない影になる。プレハブの部室やらが密集するせいで、学祭中など物置ぐらいにしか使われない。そこまで来るだけで、夏弥の息は完全に上がっている。しばらく呼吸のやり方を忘れるくらいだ。

「……?どうかしたか?」

 後ろで、ローズが不思議そうに首を傾げる。

 その声に応えようと振り向いて、夏弥は再び言葉をなくす。

 ――本当に。

 これはローズで間違いないんだよな――。

 頭の中で確認する。

 いつも着ている漆黒のドレスもそれなりに見栄(みば)えがするが、この不意打ちは反則だ。なんていうか、一人暮らしをしている高校生の夏弥には、こういう女の子らしい恰好は麻薬よりも効果がある。

 制服ではない。私服というのが、さらに夏弥の神経を参らせる。

 ――美琴(みこと)姉さん?あんなの、論外だ。

「いや、行こう」

 夏弥は素早く顔を逸らして、再び歩き始める。

 と。

「おい、夏弥。なにか言ってもいいだろう」

 不満そうにローズが声を上げる。

「折角新しい服を着てきたんだ。なにか感想はないのか」

 ぴたり、と夏弥の足が止まる。

「あっ……」

 ローズの姿を正面から見て、夏弥はそんな声を漏らす。

「…………」

 冷静に。

 ようやく冷静になって、夏弥はローズの姿を見れた。

 白いブラウス、スミレ色のフリルのスカート、トップと合わせた清楚なヒール。女性らしいポーチは、ローズのさばさばした性格とは合わない気がしていたが、こうやって実際を目の前にするととても合っている。金の腕輪が、また一つアクセントになっている。夏弥とは違う、銀の髪がすらりと伸びて、それは一つの絵のよう。

「――――――――」

 言葉に困る。

 こんなとき、男として、女性になんて言ったらいいものか。経験の少ない夏弥には、うまいことばが浮かばない。

 ()めたらいいのか。それはそれで不自然すぎやしないか。なにより、そんなことを言う自分が恥ずかしい。

 ぐるぐると言葉が巡って、(しま)いに夏弥は。

「……似合ってる」

 とだけ返答した。

 かあ、と顔が熱くなる。

 ――たった一言で。

 体が溶けてしまいそうだ――。

 ローズは嬉しそうに笑う。

「そうか。よかった。変に見えていないか、心配した」

 本当に嬉しそうに、ローズは笑った。

 その笑顔だけで、夏弥は焼け死んでしまいそうだった。

「じゃあ、夏弥。学祭に連れてってくれ」

 言うなり、ローズは先に歩き始めてしまった。ローズが向かったのは生徒たちで賑わう校舎のほう。まだどこになにがあるのかも知らないのに、ローズは一人先頭を歩く。

 振り返って、ローズが夏弥を()かす。その活発な姿に、夏弥はようやく安心した。やっぱり、彼女は彼女のまま。どんなに着飾っても、それだけは変わらない。

 小さく肩を落として、夏弥はローズの後を追いかけた。

「はいはい」

 ――姫の(おっしゃ)る通りに。

 なんてキザなセリフを心の中で呟きながら。


 学祭が始まった丘ノ上高校の中はいつもにはない盛り上がりを見せている。武道館から校舎に向かうまでの途中で校庭を通るわけだが、その人、人、人の数に、ただただ圧倒されるばかりだ。校庭にかまえる部活や有志(ゆうし)による模擬店(もぎてん)の数々、その前に列をなす大多数の生徒たちの姿。波にもまれているだけで疲れてしまう。しかし、まだ学祭は始まったばかり。今日一日は授業のことなんか忘れて、そして楽園(エデン)争奪戦のことも頭の隅においやって、ただこの雰囲気を楽しもう。

 校舎の前までやって来て、夏弥はローズへと振り返る。

「どこに行きたい?」

 生徒たちに配布されたパンフレットを見せる。カラー用紙を学校の印刷機で大量生産した簡素(かんそ)なものだが、そこにはクラス展示、模擬店の数と種類、そして文科系の部活の出し物や演劇やライブの時間など細かい情報までびっしりと書かれいている。

 慣れない人間が見たら、どこへ行こうか迷っているだけで日が暮れてしまいそうだ。夏弥はクラス展示のページを指す。普段生徒たちが生活する教室が集まる校舎近くにいるので、ここから行くとしたらクラス展示を回ったほうがいい。

 パンフレットも見ずに、ローズは即答する。

「まずは夏弥のクラスに行ってみたい」

 ぎくり、と夏弥は慌てて返す。

「そんなに面白くないぞ。どうせ見るんだったら、三年生とか、上級生のものを見たほうがずっと面白いよ」

 ローズを連れて自分のクラスに行くなど、自爆行為もいいところだ。さっきの武道館前の生徒たちの話ではないが、今のローズの恰好はぱっと見て大学生に見えるだろう。一高校生にすぎない夏弥が、大学生らしい女性と並んで歩く。そんなところを同じクラスのやつらに見られでもしたら、今後の学校生活に支障がでる。

 夏弥の訴えや希望を、しかしローズは無視して(ゆず)らない。

「夏弥のクラスを見ておきたいんだ。夏弥がどんな場所でいつも生活しているのか。気になる」

 なんて真顔で仰った。

 ……さて、どうしたものか。

 しばらく脳内会議が必要な時間だ。

 このままローズを自分のクラスに連れていくのは、今後の夏弥の生活、果ては人生の問題だ。自分を優先するならば、夏弥はローズの申し出を簡単に受理してはいけない。

 けれど。

 ローズの希望をあっさりと却下してしまうのは、夏弥の性分(しょうぶん)には難しい。一度お願いされたらノーと言えない。それが夏弥の、良くも悪くもある性格なのだ。

「……………………わかった」

 ローズの笑顔が眩しい。

 なにか妙な敗北感があるのだが、これはなんだ。

 今さら後には引けない。夏弥はローズを連れて校舎の中へと入る。外の賑わいに比べれば校舎の中などかわいいものだが、それでも生徒たちの姿はそこかしこに見受けられる。下の上級生たちの階は、さすが上級生と思えるほど賑わっていて、上の下級生の階ではそれに比べれば若干(おと)る。廊下を歩いているのも、自分たちのクラスをひやかしに来た同期のやつらがほとんどだ。

「ここだけど」

 自分の教室を指差すと、隣のローズは素早く扉をくぐって中に入ってしまった。

 ……もう覚悟を決めるべきだ。

 夏弥もローズの後に続いて中へと入る。

「いらっしゃい!」

 男子生徒の清々しい掛け声が響いた。模擬店でもないのにその挨拶はいかがなものか。夏弥は扉付近で待機している生徒の前を通りすぎ、先に歩くローズを見失わないていどの間隔で後をつく。

「雪火……?」

 周囲の生徒からそんな声をかけられる。そこで微妙に語尾を上げるのは勘弁してほしい。

 実際、三組には見物客の姿もあり、それなりに賑わっている。「星の神秘」なんて(めい)打っているだけあって、壁には星座やいつかの流星群の写真が飾ってあって、ちゃんと説明もついている。天井からは五芒星(ごぼうせい)の星や惑星を意識した(いびつ)な球体がぶら下がっている。

 前を歩くローズは、とても楽しそうにキョロキョロと(せわ)しなく顔を動かす。星の説明がある場所に立ち止まってはじっと眺めて、そしてまた次へ動く。

 そして目の前に大きな垂れ幕が現れて、ローズは夏弥へと振り返る。

「夏弥、これはなんだ」

 なにかを隠すような、巨大な黒い垂れ幕。自分のクラス展示なので、夏弥もその内容は知っている。けれど、答えたのは係り役をしているクラスメイトだ。

「プラネタリウムです。どうぞお入りください」

 ローズが入っていくのに続いて夏弥も入ろうとすると。

 ――がっ。

 と腕を掴まれた。

「雪火」

 ローズを通した男子生徒は、しかし夏弥だけ止めてずいと顔を近づける。

「誰だ、あの人」

 単刀直入に訊かれて、夏弥も一瞬言葉がでない。周囲の、クラスメイトからの視線が夏弥に突き刺さる。

「知り合い。高校で学祭やってるって話したら、来ちゃったんだ」

 咄嗟にそれだけ言ったが、その男子生徒はまだ夏弥を解放してくれない。まだ色々と訊きたいらしい。

「おい、夏弥。早く来い」

 黒幕から顔を出してきたローズに引っ張られて、なんとかその場はやりすごせた。

 けれど、それだけですまされなかった。

 プラネタリウムと称するその暗幕の中には、クラスの実行委員含め有志たちによる正座が描かれており、ご丁寧にも解説まで流れている。

 先客はいたが、まだ数名ほど。しかも、夏弥たちのようなカップルはいないから、夏弥とローズという異色の組み合わせは、暗いにも関わらず大分視線を集めた。もはや星座鑑賞ではなく、自分たちが観察されているみたいで、居心地が悪い。

「――すごいな」

 隣では、ローズは感動したように人工の星座を眺める。入るときにローズに手を引かれたために、ずっと手は握ったまま。夏弥はもう、自分がなにをしているのかもわからないほど頭の中が熱く回っている。いち早くこの場から出て行きたかったが、ローズは飽きることなく星を眺めている。夏弥はただ、ローズが満足するまで周囲からの視線に耐えることに必死だった。


 三組から出た後も、夏弥はローズに引っ張られるままにあちこちを回った。まずは一年生の階を制覇(せいは)して、他の学年も巡っていった。ローズは、見る物全てが珍しいようで、あそこまで真剣なローズはちょっとお目にかかれない。所詮は高校生レベル、どれもこれも張りぼてだらけでぱっとしないのに、ローズは心底楽しそうだ。大人っぽい見た目とは違って、こういうところは妙に子どもっぽかったりする。

「ローズ。そろそろお(なか)()かない?」

 教室の時計を見ると、もうお昼の時間はとっくにすぎて、いつもなら午後の授業が始まった頃だ。

「そうだな。言われてみれば、昼食の時間を大分すぎてしまった。あまりに楽しいから、すっかり忘れていた」

 その返答に、夏弥は溜め息が出る。嫌な気分ではなく、少しだけ気持ちがいいくらいだ。夏弥はローズを連れて校庭へと出る。

「屋台も出ているから、どこかで食べよう」

 外の人の数は一向に減らない。校庭(ここ)はいつでも満員のようだ。ローズはパンフレットを見ながら、さてどこに行ったらいいかと思案する。

 と。

「夏弥ぁー!」

 大声で呼ばれた。

 これだけ人が溢れているのに、その声はしっかりと聞こえる。夏弥が顔を上げると、その人物が大きく手を振っているのが見えた。

「…………風上(かざかみ)先生?」

 夏弥の担任で、小さい頃からお世話になっているお姉さんのような存在。風上美琴は夏弥たちの元へと駆け寄った。

「よお、美琴」

 ローズの姿に気づいて、美琴はさらに極上の笑顔を浮かべる。

「あ、ローズちゃんも来てたんだ。そうだよねー、学祭だもんねー」

 なんだか、いつも以上にご機嫌だ。

 嫌な予感がして、夏弥はまじまじと美琴を見つめる。

 いつもの教師の恰好はどうしたのか、美琴は休日に夏弥の家に訪ねるときのようなラフな格好をしている。ジーンズに、ポロシャツなんて、学校(ここ)で、教師の(こんな)ときにやっていいのだろうか。

 全く、準備万端だ。

 いつでも臨戦態勢というわけだ。

 いや、すでに戦ってきた後だ。左手にビニール袋を四つ以上は提げて、右手にはヨーヨーと綿菓子が握られている。

「……………………」

 唖然(あぜん)――。

 夏弥はなにも言えず、ただただ美琴を見上げるばかり。

「どう、ローズちゃん。学祭楽しい?」

 そんな夏弥を余所(よそ)に、美琴はへらへらとローズに話しかける。

「楽しんでいる。さっきまでクラス展示を見せてもらっていた」

「へぇー、クラス展示かー」

 なんとも、緩みきった返答が返って来る。

「それより、ローズちゃん外のお店回った?こっちも楽しいよー」

 むしろそっちのほうが重要だといわんばかりに、美琴が主張する。左手は塞がっているから、綿菓子を持った右手を振り回して精一杯アピールする。綿菓子が揺れて、指で()ったヨーヨーが不規則にバウンドする。

「いや、まだだ。ちょうどお昼を食べようと出てきたところだ」

 一瞬にして。美琴の顔がきらきらと輝きだす。

「よしっ。お姉さんと一緒に回ろ!」

 レッツゴー、と美琴は綿菓子を突きあげて校庭に向かって歩き出す。

 ……なんというか、また戦いに行く気か。

 すでに大量の戦利品を獲得しているというのに、美琴は躊躇(ちゅうちょ)せず、むしろノリノリで人だかりへと進んでいく。

「夏弥も行こう」

 美琴の後を追いかける途中で、ローズが振り向く。夏弥は逡巡(しゅんじゅん)して、しかしきっぱりと断った。

「……いや、陸上部の知り合いのところ寄ってくから、先行ってろ」

 そうか、とローズは夏弥をおいて人混みの中へと消えていく。あんなテンションの美琴について行ったらどんな目に合うのか、夏弥は想像したくない。


 学祭中、昼飯を食べるならと決めていた場所がある。来たらサービスしてくれると言っていた幹也の、陸上部の焼きそば屋だ。

 陸上部は食堂や購買部の固まっている建物のすぐ前に陣取って模擬店を開いている。メニューは焼きそばオンリーと非常にシンプルで、女子用の小と男子用の中、運動部用の特大の三パターンが用意されている。夏弥が陸上部の模擬店まで行くと、昼飯時をすぎたのか、人の姿は少ない。奥のほうで数名の男子部員が鉄板の上で焼きそばをかき混ぜている。その中に、麻住幹也の姿もあった。

「よお、夏弥。よく来たな」

 夏弥を見つけるなり、幹也はコテをぶんぶんと振り回す。

「どうだ、幹也。(もう)かってるか」

「まあ、ぼちぼちだな」

 ほれ、と幹也は焼きそばを差し出す。値段は中だが、量的には中と特大の中間の、つまりは大。幹也のサービスのおかげで、安くて十分な食事にありつけた。

「幹也はずっとここで鉄板?」

 すぐ隣のベンチに座って焼きそばを食べながら夏弥は訊ねる。

「今日一日はな。二日あるから、一日交代でやるんだ」

 丘ノ上高校の学祭は二日かけて行われる。学祭の規模も大きいから、二日くらいないと回りきれない。

 その貴重な一日を部活の手伝いで消費してしまう幹也に、夏弥は同情の言葉を漏らす。

「大変だな」

 幹也はなんでもなさそうに鉄板の上の焼きそばを容器に詰め込んでからベンチに腰を下ろす。

「なに。時々先輩から差し入れくるから、それなりに楽しんでるよ」

 鉄板を他の部員に任せて、幹也は先輩からの差し入れだという食事を取り出して、夏弥と一緒に遅めの昼食を()り始める。

「じゃあ、今日はどこも回れないのか」

 まあな、幹也は頷いて。

 すぐに、でも、と不敵な笑みを浮かべる。

「明日からは徹底的に他んとこ荒らしてやる。折角のお祭りなんだし、楽しまなきゃ損だ」

 なんて言っている間に、たこ焼き一ケースとお好み焼き一枚を平らげる幹也。夏弥はゆっくりと食事を続け、幹也はさらにフランクフルト三本を器用に片手で掴む。

「夏弥はどうだ。朝眠そうにしてたけど、それなりに回ったか?」

「まあ、それなりには。おかげで眠気も吹き飛んだ」

 そりゃ良かった、と幹也はコーラを一気に飲み干した。

 これだけ騒がしいんだ、眠っているどころではない。なにより、午前中ずっとローズとあちこちのクラスを立て続けに回ったのだから、正直目が回りそうだ。ここに来て落ち着いたので眠気がくるかと思ったら、周囲の騒音と楽しそうな雰囲気のせいで眠気も退場しているみたいだ。

 そんなことを思っていると。

「くださいな」

 隣から二人を覗き込む女子生徒の姿が現れる。同じクラスの中間美帆(なかまみほ)だ。

「あいよー」

 幹也は販売の棚から焼きそば中を掴んで、中間から小の代金だけ受け取る。中間は二人の座るベンチに腰掛けて、同じように食事を始める。中間も学祭を楽しんでいるのか、射的かなにかで()ったと思われるストラップを手にしている。

「そういや、お前の部ってどうなんだ。手伝いとかあるだろ」

 唐突(とうとつ)に、幹也が夏弥の部活について訊ねてきた。

「なんか二年生の人がやるんだって」

 夏弥が素直に答えると、幹也はあからさまに驚いた顔になる。

「おいおい、先輩にやらせるのかよ」

 陸上部は運動系の部活だから、先輩後輩の上下関係がはっきりしている。部活の準備やこういうイベントの雑用なんかは、完全に一年生の仕事だ。しかし、夏弥や中間が所属する美術部は、そこまで厳しくない。なにせ、学祭の準備を部長である晴輝一人で()し進めてしまうようなところだ。

「でもその人がやるっていうから」

 それは嘘ではないので、夏弥は正直に言い足した。学祭前日の準備の際に、十宮(とみや)のほうから申し出た。といっても、沈黙の彼女は最後まで沈黙を貫いて、決める際も自主的に手を上げただけだったが。

 ふーん、と幹也はなぜか難しそうな顔を作る。

「そりゃー仕方ねーな」

 よっぽど、陸上部では考えられないことなのか、幹也は頷いてはくれたがまだ納得いかない感じだ。

「三年生の先輩が交代に行くらしいけど……」

 と、一応付け足しておく。

 そんな二人の会話に、中間が割り込んできた。

「雪火くんって、この後、予定ある?」

 不意な申し出。

 夏弥はどう返答するか、一瞬迷った。

 特に予定は決めていないが、ローズに学祭の案内をする約束をしている。まあ、学祭ベテランの美琴に任せていい気もするが、一度引き受けておいて他人に投げるのは、夏弥は好きではない。

「…………悪い、知り合いの案内がある」

 そっか、と中間は妙に残念そうに返す。

 そこまで悪いこといったのか、と夏弥は妙に(あせ)る。

 ――しかし、もう遅い。

 さらに夏弥を焦らせる事態が、発生した――。

「夏弥っ」

 妙に大きな声で、呼ばれた。顔を上げると、さっきよりも大量の戦利品を抱えた美琴と、最初の美琴くらいの食べ物の数々を抱え持つローズが同時にやって来た。

「……………………」

「……………………」

「……………………」

 その場にいた三人は、同時に言葉を失った。


「美琴姉さんと一緒に、一体どこ回って来たんだ?」

 階段を上りながら、夏弥は話を切り出した。

「一〇件ほどは回ったな。持ち運びが難しいものは、その場で食べてきた」

 答えるローズは、今はなにも持っていない。あんな大量の食糧を持って移動などできない。動き始める前に全部食べてもらった。あの量でさえ、ローズにかかれば五分もかからない。

「美琴は随分と慣れていたな。行く先の店全てで話しかけられていた。あと、学祭のときには荷物を保持しておくための手と新たに買い物をするための手と完全にわけておいたほうがいいらしい。そうすれば、気になるものがあってもすぐに買うことができるそうだ。食事もおごってもらったし、美琴には感謝だ」

「…………それは、よかったな」

 曖昧に答える夏弥。

 夏弥は一年生で知らなかったが、美琴は学祭荒らしで生徒たちの間では有名だった。荒らしといっても、美琴が去った後には大量の収穫があるから、模擬店組には恵みの雨のようなものだ。なにせ、美琴は一日に二回も三回も同じ模擬店を訪れる。丘ノ上高校での美琴の位置づけがだんだんわかってきて、夏弥はひたすら頭が痛い。

「――いよいよ、夏弥の絵が見れるわけだ」

 階段を上りながら、ローズが呟く。

 夏弥たちがいるのは特別室が密集する棟で、向かっている先は美術室。階段を上るたびに、人の声がそこかしこから聞こえる。普段は人気のないこの場所も、学祭中は様々な人の姿で賑わう。美術部だけでなく、化学部など文科系の部活が独自の(もよお)しものをしているからだ。

「楽しみだ――――」

 本当に楽しそうに、ローズは上を目指す。刻一刻と目的地が迫ってきて、夏弥は妙な緊張のせいでなにも言えなかった。

 美術部の階は美術部がほぼ独占状態で、他の教室は(ひか)えになっている。だからここにいる人たちの目当ては美術部の展覧会で、廊下に溢れている人の数だけで夏弥はしばし呆然とした。あくまで、高校生レベルの展覧会だ。規模も技術も、本物には遠く及ばない。それでも、美術室を出て階段へと向かう人の数はもう一〇人を超える。これだけの人が自分たちの作品を見に足を運んできてくれたという事実で、夏弥は圧倒されそうだ。

 開かれた扉をくぐり抜けて美術室へ入ると、夏弥は無言の視線に刺されて足を止める。

「…………」

 誰だろうとその人物に気がついて、夏弥は妙な納得と、言い知れない緊張が体中を走るのを感じた。

 十宮(はゆ)はちょこんと椅子に座って静かに夏弥とローズを見上げている。

「…………」

 十宮はなにも語らない。

 ただ、彼女の目にも夏弥とローズが一緒にこの展覧会にやって来たことは理解できたはずだ。理解できていて、なお無言で見上げてくる十宮に、夏弥は嫌な汗が流れ出てくるみたいで息が止まりそうになる。

「……」

 どれくらい固まっていたのか。まるで夏弥だけ時間が止まってしまったよう。ローズは律儀に夏弥のことを待ってくれていて、後からやって来る客は夏弥たちを追い抜いていく。夏弥はただ、この無口の先輩と目を合わせたまま静止している。

「……お疲れ様です。十宮先輩」

 ようやくそれだけ言って。

「……」

 しかし十宮は無言で見上げてくるばかり。

 その瞳がなにを語っているのか、夏弥は変な想像に(しき)りに頭を振る。

「夏弥。もう行っていいか?」

 待ちきれなくなって、ローズが夏弥を(うなが)す。夏弥が頷くと、ローズはようやくと部屋の中へと進んでいく。

「じゃあ、十宮先輩」

 夏弥も十宮に会釈(えしゃく)して去っていく。

「――――」

 その背後から、十宮の視線が突き刺さるような錯覚に(とら)われる。振り返ってみると、本当に十宮はじっと夏弥のほうを見ていた。

「…………」

 その視線に耐えながら、夏弥はローズに続いて展覧会場へと入る。


 静寂(せいじゃく)した空気は。

 静謐(せいひつ)とした世界。

 静粛(せいしゅく)していて。

 静閑(せいかん)とする。

 ここでは、誰もなにも語らない。

 語りかけてくるのは、額に飾られた作品ばかり。

 人はみな、彼らの話し声に耳を傾ける。

 作品に刻まれた印象、残された感情、この世界に存在しているイメージと、書き手の心に浮かんだイメージと。

 静かなこの世界に、絵画だけの話し声が満ちている。この世界から切り取られて、新たな世界として固定された作品には、書き手の中で創造(そうぞう)された世界が広がる。その世界は他の誰でもない、その人固有の思考と、志向と、指向と、嗜好があり、その集合が極限の至高となる。

 一歩、夏弥は音を立てず進む。一枚目は中間美帆の作品で、彼女が選んだのは山の絵だ。キャンバスの大半を埋め尽くす鮮やかな緑と、清んだ青空。さすがに、中間の絵は丁寧で綺麗だと夏弥は素直に思う。

 ――でも。

 それだけだ。

 なにか、足りない――。

 なにかが、欠けている――。

 この絵には、感情とか感性とか、そういう作者に内包する世界観がない。いわば、鏡と同じ。映し出された景色は、ただその場にあるだけで、イメージが広がらない。

 あの、海の絵を飾ればいいのに――。

 夏弥は心の内で呟いて、すぐに次の作品へと足を進める。次は、桜坂緋色の作品だ。夏弥は改めて、光の下で彼女の世界を見つめる。

 彼女の絵は、鉛筆画。影はなく、ただ輪郭(りんかく)だけをとらえているせいで、下書きのままのようにも見える。絵の技量は、やはり四月の頃から進歩していない。これが人物画であるとわかったのは、ただこの絵には確かな想いがこもっているからだ。

「…………」

 (ぼう)、と。

 夏弥は彼女の作品の声を()く。

 桜坂緋色は、一晩かけてこの絵を描き上げた。高校に入るまで、真剣に絵など描いたことのない彼女の描いた、初めての作品。技量は稚拙(ちせつ)でも、その一本一本の線は確かに彼女が選び、彼女が込めたものだ。どれも貴重で、無駄なものなんてない。

 一つ一つに、真摯(しんし)さがある。

 この絵の全てに、彼女の真剣さが伝わってくる。

 ――彼女の絵が、誰を描いたものかなんて、問題ではない。

 この絵は真剣で。

 彼女の世界は、少しも揺るぎなく。

 彼女の想いは、切実なんだ――。

 いつまでも。

 叶うなら、いつまでも聴いていたいと思う。

 この絵の声を。

 彼女の想いを。

 この世界のイメージを。

「……」

 夏弥は、モノクロのキャンバスに背を向ける。

 その先で、ローズはすでに止まっている。ローズと並ぶように、夏弥は自分自身の作品を前にする。

 雪火夏弥『追想』――。

 夏弥に、この作品を語ることは不要だ。

 この作品に、夏弥自身はもう全てを(たく)している。

 だから、なにか感じるものがあるとすれば、それはこの絵を()る他者の意識の奥に宿るものだ。夏弥はすぐに次の作品を見に行こうと、ローズの横顔を眺め見る。

「……………………」

 夏弥の胸が、締めつけられる。

「――――――――」

 ローズは、悲しそうな顔をしている。

 (よろこ)んでいるわけでも、(たの)しんでいるわけでも、自らが作品となって満足しているわけでもなく。

 ただ、悲しんでいる。

 その表情は、今にも泣きだしてしまいそうで――。

 だから、夏弥は目を逸らす。

「…………」

 なぜか、わからない。

 ただ、胸が締めつけられる。

 だから、早く他の人の作品を()てしまおうと思った。早く()て、すぐにでもこの場から飛び出したい。

 逃げるように、美術室を抜け出して。でも、ローズはまだ出てこない。きっと、まだ夏弥の作品の前にいるのだろう。夏弥の絵を見て、彼女はなにを想っているのだろう。それは、夏弥にもわからない。わからないから、夏弥は美術室の前で彼女を待つ。何時間だって、待っていよう。

 そして、きっと夏弥は、彼女が帰ってきてからも、なにも訊いてやれない。

 ――だって。

 彼女は、(かな)しそうな顔をしていたから――。


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