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第三章 夜が明けるまで

 放課後になると、クラスの準備のほうは一度区切りがつけられる。学祭まで目途(めど)のたったクラスは帰宅するし、部活のほうの準備がある生徒はそちらに専念するし。といっても、とくに用事がなければクラス展示の準備をするものと、部活の準備に行くものとで二分される。

 幹也(みきや)が陸上部のほうに顔を出すのと同じくして、夏弥(かや)も美術室へと向かった。幹也のほうではすでになにをするか説明されていて実際に動いているようだったが、夏弥のほうではまだこれといった説明をされていない。もちろん、美術部では各部員が一点作品を出展するということは知っているが、出展のための部屋の準備などはなにも指示されていない。

 美術室に向かって、雪火(ゆきび)夏弥と中間美帆(なかまみほ)は並んで歩く。二人とも同じ美術部員だからだが、こうやって一緒に美術室まで向かうのは珍しい。大抵、夏弥が美術室に行くまでに幹也とくだらない会話をしているのが原因ではあるが。

「美術部もそろそろ準備しないとまずいよな」

 最初に切りだしたのは夏弥だった。

「そうだね」

晴輝(はるき)先輩もすぐ帰っちゃうから、なにをすればいいかわからないし。他の先輩たちも美術室来ないし」

 幹也の陸上部もそうだが、ほとんどの部活は学校であてられている学祭の準備期間より以前から準備を始めている。必要物品を用意し、看板などを作成するのに放課後だけでは時間が足りないからだ。

 夏弥の所属している美術部では、しかしこれといった準備はしていない。個々人の作品はそれぞれで行っているが、出展場所の飾りつけや物品の準備はなにもしていない。

「でも、晴輝先輩は準備しているみたい」

 中間の言葉に、夏弥は目を開く。

「そうなの?」

 うん、と中間は頷く。

「雪火くんが部活に来なかったときがあるでしょ。そのときに晴輝先輩が、そろそろ学祭の準備をしなければ、って言ってたから、それなりに準備しているみたい。よく準備室のほうに行ってるのも見てるから」

 先週の一週間、夏弥は部活に顔を出していない。その間に先輩のほうで準備が進められていたらしい。

「……晴輝先輩には悪いことさせちゃったな。言ってくれれば、俺だって力になったのに」

 学祭二週間ほど前になればどこも学祭の雰囲気が(ただよ)い出す。その頃から準備が始まるということだ。そんな大切な時期に部活を休んでしまうのはやっぱり申し訳なかったかと夏弥は悪い気がした。

 うーん、と中間は声を漏らす。

「あたしも手伝いましょうか、って言ったの。そしたら、自分の感性に従っているだけだから(あん)ずることはない、って」

 夏弥は苦笑する。

「あの人らしい……」

「そうだね」

 中間も頷く。

 そんな話をしている間に、二人は美術室まで辿りついた。

「こんにち……」

「ようやく来たね!」

 扉を開けた瞬間、あまりの声量(せいりょう)に夏弥と中間はともに硬直した。

 振り返ったその男子生徒はモデルのように洗練(せんれん)した足取りで二人の前に立つ。女子が大半の美術部の中で貴重な男子部員であり、美術部の部長という大役を務めるのがこの男、北潮(きたしお)晴輝である。

 日焼けをしていない白い肌に、縁なし眼鏡をかけたその表情はいかにも優等生という雰囲気が漂う。女子生徒が(うらや)むほどの(なめ)らかなストレートに、同じ男子とは思えないほど整った顔立ちから、ほとんどの女子は彼の姿を一目見ただけで失神してしまうだろう。眼鏡を外して第二ボタンまではだけたら、もはや悩殺(のうさつ)ものだ。

 そんな北潮晴輝は夏弥たちの前でさっと腕を差し伸べる。そのあまりの華麗(かれい)さに、世の女性なら心臓の高鳴りを止められないだろう。ちなみに、中間はそんな晴輝の言動に慣れているのでもはや動じない。

「さあさあ入りたまえ雪火に中間くん。今日は君たちに重大な話があるゆえ、しばらく付き合ってもらいたい」

 と、引っ張るように二人を美術室に招き入れる晴輝。

 引きずり込まれるやいなや、夏弥たちは椅子に座らされる。普段から晴輝という人間は夏弥の理解を超えているが、今日はさらに輪をかけたようにハイだ。ここまでくると、もう声も出せない。

 上機嫌な晴輝から視線を外して、夏弥は美術室にもう一人の姿を認める。

「あれ、桜坂(さくらざか)いたんだ」

 桜坂は珍しく美術室にいた。一応、夏弥とは同学年の美術部員ではあるが、桜坂は学祭実行委員でもある。一カ月ほど前から学祭の準備で美術室には顔も見せなかったのに、もう学祭間近のこのタイミングにいることに、夏弥は条件反射のように首を傾げる。

 むす、と桜坂は口を曲げる。

「いるわよ。いちゃ悪い?」

 じろり、と()めつけてくる桜坂。

 桜坂は男女隔たりなく接する女子生徒で、だから男子に対しても遠慮がない。普段はそこまで悪態を吐くわけではないのだが、今日は最初から妙に刺々しい。……なにやら、ものすごく機嫌が悪そうだ。

「いや、別に悪いとは言ってない」

 そう弁解をしてみたが、桜坂はふんとばかりに顔を(そむ)ける。そのまま、今度は晴輝を(にら)みつけ始めた。

「晴輝先輩。そろそろ話を始めてください。あたし、この後、実行委員の仕事があるんです。というか、まだ仕事が残っているので行かせてください」

 そう訴える桜坂。

 ……なるほど。機嫌が悪いのはそのせいか。

 その怒りの矛先を向けられて、しかし晴輝は意に(かい)さず高らかに(こた)える。

「そう慌てるな桜坂くん。あと一人、重要なメンバーが欠けている。彼女が来るまでしばらくそのままでいてもらいたい。昔からよく言うだろう、急がば回れというやつだ。いや、今の君には短気は損気という言葉がぴったりかな」

 清々しいくらい、晴輝には悪意がない。

 いや、晴輝先輩。ここでその引用はどうだろう。機嫌の悪い人に短気は損気なんて、余計に苛立(いらだ)たせて逆効果なんじゃないですか。ほら、なんだか桜坂がさらに怖い顔をしている。あんまり関わりたくない顔だ。

「…………」

 そんな桜坂を極力見ないようにして、夏弥は今の晴輝の言葉に引っかかるものを感じた。

「あれ。一人って、二年生の人ですか?」

 美術部にはあと二年生と、晴輝以外の三年生がいる。三年生は晴輝以外にも数名いるらしいが、夏弥は一度も会っていない。あと一人、となると二年生のことだろうか。二年生には、確かに女子生徒が一人いる。

 三年生はいいのだろうか。

 夏弥の言いたいことを理解して、晴輝は役者がかった動きで応える。

「三年は他の準備のためにすでに動いてもらっている。それに学祭準備は次の代に引き継がねばならない。我々三年が卒業した後に部屋のセッティングができないのでは困るからね」

 なるほど、と夏弥は納得する。

 部屋の準備は夏弥たち一年生と二年生がやるのはいいだろう。では、他の三年生は一体なにをしているのだろうか。

 学祭では部員が一点ずつ作品を展示する。しかし、夏弥は二年生の女子も晴輝以外の三年生も、この一カ月見ていない。一体どこで絵を描いているのだろうか。彼女たちも、学祭の絵を描かなければいけないはずなのに。

 そんなことを夏弥が考えていると。

 ――ガラガラ……。

 と、扉が開く音。

 誰もがその先を見つめる。

「……」

 その女子生徒は、ただ静かに美術室へと入ってきた。

「やあ十宮(とみや)くん。ようやく来たね」

 晴輝部長の大袈裟なまでの出迎えに対して。

「……」

 沈黙。

 ここまで沈黙が似合う人もそうそういないだろう。

 二年生で唯一の美術部員、十宮(はゆ)。夏弥も入部したての頃に数回だけ彼女を見ただけで、今日会うのも久しぶりだ。

 桜坂も中間も髪は短いほうだが、十宮はあともう少しで腰まで届きそうなロング。体つきは細く、桜坂や中間より背は高い。絵を描くときは眼鏡をかけていた印象があったが、今はなにもつけていない。細い瞳に、静かな表情。すでに一枚の絵画なのではないかと思うほどに十宮は静止している。

「十宮先輩。遅いですよ」

 その沈黙を破るように桜坂がぞんざいな言い方をする。

「……」

 沈黙したまま、十宮は()いている席に腰を下ろす。

 ム、として桜坂はなおも十宮を睨む。

「どうして遅れたかぐらい言ってもらえませんか?」

 その言葉にようやく。

「クラスの学祭準備」

 とだけ答える。

 あとは、沈黙。

 それだけ、と桜坂は不平をぶちまける。

「あたしだって、学祭の準備があります。それに、あたしは学祭実行委員だから、この後も仕事があるんです。事前に美術部の集まりがあることは晴輝先輩から連絡がいっていたはずですから、もう少し早く来てもらわないと困ります」

 そう訴えても、十宮は沈黙したまま。

 そんな十宮の態度に、桜坂はさらに苛立ちを(つの)らせるという悪循環。このままでは桜坂が先輩である十宮に殴りかかるかもわからない。

「おいおい、桜坂。いくらなんでも……」

「全員(そろ)ったところで、早速説明に入らせてもらおう」

 折角夏弥が桜坂を(なだ)めようとしたのに、それすら無視して晴輝が高らかに声を上げる。

「諸君らも知っての通り、明日から学祭が始まる。年に一度のお祭りに各々(おのおの)思うところはあるだろう。高校生活という短い青春時代において……」

「晴輝先輩。前置きはいいですから、美術部の学祭の準備について話してください」

 すかさず、桜坂が晴輝の言葉を(さえぎ)る。

 晴輝は毎回、余計な口上(こうじょう)が多い。その俳優顔負けの演出に、世の女性ならうっとりと聞きいるところだろうが、今の美術部にそんな普通の観念は求められていない。

「我が美術部では学祭にて展覧会を開いている。そのためにここ美術部を美術館並みの素晴らしい展示場にするわけだが、まずはわたしの後について来てもらいたい」

「待ってください」

 すっと、桜坂は手を上げる。

「移動する前に、これからの準備の流れについて説明してください」

「説明する。説明するとも。だがまずはモノを見ないことには話は進まない」

「モノを見なくても、口で言ってもらえれば十分理解できます」

「しかしだな……」

「ああもう、じれったい!」

 苛立ちの頂点に達したのか、なにかが彼女の中で破裂したのか、桜坂は立ち上がって黒板の前に立つ。手にはしっかりとチョークが握られている。

「順序立てて説明をしてください。あたしが黒板に書いていきますから。くれぐれも、わかりやすく、簡潔(かんけつ)にお願いします」

 そのあまりの剣幕に、部員はおろか部長である晴輝でさえも言葉を失う。今の桜坂を止められるものは、生憎(あいにく)美術室には存在しない。

 渋々(しぶしぶ)、と晴輝が説明を始める。

「まずは、そうだな。ここを展示場にするために不要になる机や椅子、清掃用具や教卓の類まで全て片付ける。移動先は準備室の隣に空き教室があるから、そこに運んでもらいたい」

 かたかた、と桜坂は晴輝の言葉を簡潔に板書していく。

 片付け、移動先、準備室隣空き教室、という具合に。

「ああ、移動させるといっても彫刻(ちょうこく)は置いておいてかまわない。これはこれで良いオブジェになるからね。続いて、モノを出したら清掃(せいそう)にうつってもらう。例年相当な量の(ほこり)が目につくため、この作業は必要となる。モノを動かしたところはもちろん、普段から掃除などしない部屋だから念入りに行ってもらう。清掃用具にホウキとモップがあるからそれで行う。足りない分は、他のところから持ってくればいいだろう」

 これだけの晴輝の説明も、黒板には掃除(そうじ)という一言でまとめられた。

「続いて、ここからがいよいよ学祭に向けての重要な作業になるわけだが」

 いつもの調子を取り戻しつつある晴輝が眼鏡の奥でにやりと笑みを浮かべる。そのかっこうつけな笑みに、しかし好青年なので気にならない。

「準備室の隣の空き教室にすでにパネルを何枚か用意してあるので、それを運んでもらう。大きなものなので、二人で一枚ずつ運べばいいだろう」

「パネル?」

 夏弥が思わず訊ねると、晴輝はうむ、とよくぞ聞いたとばかりに頷いた。

「このままでは普通の教室となんら変わらない。それでは、美術館のような崇高(すうこう)とした静寂(せいじゃく)(かも)し出せない。他人には気づかれない、そういった細かい心配りの一つ一つが芸術というものを神の領域にまで高めてくれるのだ」

 いつもならここから北潮晴輝の芸術講義が始まるのだが、桜坂の視線を感じて晴輝はそうそうに話を戻す。

「例年は段ボールやら紙のプレートなどを用いてきたが、あんなものでは真の芸術には到達できないどころか、折角の芸術も台無しというものだ。安心したまえ、今年はわたし自らが足を運んで最適と判断したもののみを用いているゆえ、今までにない素晴らしい学祭となること間違いなしだ」

「ああ、美術部の段ボールって、そういう使い方してたのか」

 板書(ばんしょ)しながら、桜坂が一人納得する。桜坂が所属する学祭実行委員では毎年、各クラス、部活がなにを企画して、どういった物品を必要としているのか記録している。

「今年は必要物品になにも記載(きさい)していなかったから、どうしたのかと思ってたけど」

「うむ。実行委員会に任せると安物のプレートや潰した段ボールくらいしか届かないのでね。だからわたしが全て調達さえてもらった」

 選挙の演説のようにはっきりと断言する晴輝に、桜坂ははあ、と曖昧(あいまい)に頷く。

「それはかまいませんけど、費用とかかかりました?」

 桜坂の心配事はそこだった。

 ああ、と晴輝は大袈裟なまでに溜め息を吐く。その悩ましげな動きに、世の女性ならつい見とれてしまうだろう。

「なにかを得るためにはそれなりの犠牲はつきものだ。高校生という収入のない身分でこの出費は相当の痛手だ。ああ、みなは心配するに及ばない。諸君らの学祭を成功させるためだ。年長者としてこれくらいの負担は当然のことだ」

 まさに英雄か、財政難で会社からお金が出ないのに自腹を切って社員に給料を渡すベンチャー企業の若手社長のように晴輝は説明する。

 そんな晴輝の姿勢に、世の女性なら涙を(こぼ)すところを、しかし桜坂は(あせ)ったように声を上げる。

「ちょっと待ってください。そんなこと聞いていません。一体いくらかかったんですか?領収書はもらっていますか?領収書があれば、実行委員会のほうでちゃんとお金は出ますから」

 その言葉に、途端晴輝の表情は新品に取り換えたばかりの蛍光灯(けいこうとう)のように光り輝く。

「おお、そうか。それはありがたい。いや、必要ないかとも思ったのだが、念のため店の者から領収書をもらってきて正解だった」

 胸ポケットから、まるでこのタイミングを待っていたとばかりに、晴輝は紙切れを一枚取り出す。それを、桜坂は晴輝の手からかっさらって凝視する。間違いなく、領収書だ。

「………………ちゃんと、宛名は『丘ノ上高等学校学祭実行委員会』になっているんですね」

 北潮晴輝に抜かりはない。

 この好青年の役者がかった姿に、世の女性なら拍手喝采(かっさい)ものだが、この美術部の中にそんな気の()いたことをする生徒は誰一人としていなかった。


「――では、一度話を整理します」

 周囲からの視線を集めて、桜坂は口を開く。

「美術部の学祭に向けての準備ですが、まず美術部から机と椅子を運び出します。運ぶ際に、学祭終了後に元の形に戻せるように机と椅子の配置をメモするので、あたしの指示に従ってください。移動先は、準備室の隣の空き教室。机と椅子を運び終わったら、次に教卓、清掃用具入れを運び出します。後で清掃を行うので、清掃用具から(あらかじ)めホウキとモップを出しておきます。彫刻だけは、オブジェとして残しておきます。その後、清掃を行います。ホウキ、モップ等足りなければ、他の教室から持ってきてかまいませんが、使用後は元の位置に戻すようにしてください。清掃が終わったら、机などを移動させた教室からパネルを運び出して、壁と窓を(おお)うように配置していきます。その後、各自の作品を額縁に入れて展示するわけですが、展示場所等は晴輝先輩の指示に従ってください。流れについては以上です。晴輝先輩は領収書の手続きが終わり次第、お金をお渡ししますので、学祭後に実行委員室までいらしてください。では、各自作業を開始します」

 簡単に話をまとめて、桜坂はてきぱきと指示を出す。最初に美術室の中の、どの列にいくつ机があるのかを数えて、桜坂が黒板に書き出す。その確認作業が終わったら、机と椅子を運び出す。

 いよいよ掃除が始まる頃になって、桜坂は晴輝を呼び止めた。

「晴輝先輩。あたしはこの後実行委員の仕事があるので、抜けさせてもらいます」

 明後日(あさって)、学祭は本番を迎える。学祭実行委員会では学祭前に山のような仕事がある。各クラス、部活の見回りから、物品、機材の準備まで、それこそいつも以上の人出が必要になる。桜坂がこうして美術部のほうに顔を出しているのも、本当は不可能に近い。

「かまわんとも」

 去り際、桜坂はびっと先輩である晴輝に向かって指を立てる。

「領収書のこと、くれぐれも忘れないでくださいよ。いいですか、学祭が終わった後、必ず実行委員室まで来てください」

 学祭直前はなにかと忙しい。だから美術部からの必要経費の処理はその後でなければできない。本来はもっと前に会計を終わらせて学校側に提出するのだが、桜坂ならきっとなんとかしてくれるだろう。

 桜坂のあまりの剣幕(けんまく)に、晴輝は降参したように両手を上げる。

「わかっている。わかっているとも。忘れずに立ち寄らせてもらう。君も、学祭までには絵画を飾れるように準備だけは(おこた)らないでくれたまえ」

 わかっています、と叫んで桜坂は美術室から出て行った。よっぽど気がたっているのか、遠くで階段を駆け下りる音が聞こえてくる。

 夏弥と中間は完全に蚊帳(かや)の外だ。

「桜坂のやつ、色々大変なんだな」

「そうだね」

 頷く中間。

 十宮だけが、一人沈黙を貫いている。

 掃除は美術室にある用具だけでことたりた。夏弥たちが普段授業を受ける教室とは違って、あまり掃除がされていないせいで埃が目立つ。しかし、掃除要因はここにいるメンバーしかいないので、掃除用具だけあっても仕方がない。人数も少ないしさっさと終わらせてしまおうかと思っていたら、晴輝部長は意外にやる気だ。いや、真の芸術のためならば惜しんではいけない努力のようだ。夏弥も割と()り性なので、掃除をやり始めたら結構時間が()ってしまった。

「さて、そろそろいいだろう」

 掃除も終わって、いよいよパネルを運び出す。一体どこから手に入れたのか、きっとホームセンターにでも行ってきたのだろう。しかも、パネルはぴたりと美術室の天井まではまり、数も壁を綺麗に覆えるという完璧ぶりだ。到底一人では運び込めないこんなパネルを、北潮晴輝は一体どんな手段で運びこんだのだろうか。訊いたら長くなりそうなので、夏弥は訊かないでおくことにした。

「さて、これから各自の作品を額に納めて飾ってもらうわけだが、そのための必要手順を説明しておこう。十宮くんは去年の流れで(おおむ)ね把握していることと思うが、今後下に引き継ぐことも意識してしっかりと聞いておいてもらいたい」

 なんて前置きの後、晴輝は説明を始める。

 額も、これまた上等なものが用意されていた。部長の話だと、例年は学祭実行委員会からの安物を渡されるらしいが、今年は晴輝部長の努力により、賞状を納めるような店で売っているレベルのものにするらしい。

「扉を開けて最初の場所には一年生、次に二年生、三年生と飾っていく。十宮くんに関しては二年生が一人しかいないから問題ないが、君ら一年生諸君にはそれぞれすでに場所を決めさせてもらってあるゆえ、そのように配置してもらいたい」

 晴輝の説明によると、扉を開けてすぐ、最初に中間の作品。一番無難そうだから、というのが理由だ。次が桜坂。色々な意味で、楽しくなりそうだというのが狙いらしい。そして最後、トリを飾るのが夏弥の作品。

 ……なにやら、妙に期待されてしまっている。

 夏弥も、中間も、そして二年生の十宮も、自分の作品を額に入れて飾り終える。部長のほうは当日の朝に飾るらしいので、まだ空席だ。

 と、そのとき。

「晴輝。学祭準備進んでる?」

 入って来たのは三名の女子生徒。

 見慣れない人たちだ。リボンの色から、どうやら三年生のようだ。ということは――。

「やあやあ、よくぞ来てくれた」

 なんて、大袈裟に手を広げる晴輝。

「ちょうど今、各自の作品を飾ってもらっているところだ。君たちの席は向こうに空いている。各自好きなところにおいてもらうことになるが、それでよろしいかな」

 もう一人の女子生徒がやんわりと頷く。

「ええ、そっちのほうが助かるわ」

 晴輝は急にきっと眼鏡の奥を光らせる。

「くれぐれも、美的センスを欠かないようにお願いするよ。折角下級生が綺麗に並んでいるというのに、上級生がその意を(くじ)くような真似をしてしまったら示しがつかない」

「わかってる。そんなつもりはないから安心して」

「もしも気に入らなかったら、晴輝くんのほうで適当に直しておいてよ」

 そう返す二人の女子生徒。

 その二人とは別の、三人目の女子生徒がとことこと夏弥の傍までやって来る。

「あっ。一年生で男子入ったんだ」

 急に話しかけられて、夏弥はわずかに緊張する。髪を茶色く染めて、波打つパーマまでかかっている。表情は柔らかく、笑顔が似合いそうな人だと夏弥は思った。

「あたし、美術部三年の深三弥癒(ふかみやゆ)。よろしくぅ」

 にこ、と笑う深三。

 その笑顔につられるように、夏弥も答えた。

「一年の、雪火夏弥です」

 うんうん、と満足げに頷いて、深三は中間のほうに顔を向ける。

「こっちのお嬢さんは?」

 中間も少しだけ緊張した感じで答える。

「中間です。中間美帆です」

「美帆ちゃんね。よろしくぅ」

 深三はその愛くるしい笑顔で気さくに笑う。

「映ちゃんはおひさしー」

 奥で黙っている十宮を見つけて、深三は満面の笑顔で手を上げる。

 そんな彼女に対して。

「……」

 十宮は、よくよく観察しなければわからないほど、小さく頷くだけ。あとは沈黙を貫いた。

 それで十分と、深三は晴輝に向かって首を傾げる。

「あれぇ?晴輝くん。今年って、一年生三人入ったんじゃないの?もうやめちゃったの?」

 晴輝は声高らかに答える。

「案ずることはない、深三くん。もう一人は学祭実行委員もやっているゆえ、今は席を外している」

 そっかぁ、と気の抜けそうな柔らかい声で頷く深三。脱力キャラというか、夏弥には天然キャラに見える。

 対照的に、最初に美術室に入って来た女子生徒はあからさまに表情を(ゆが)める。

「げっ。マジかよ」

 こちらのほうは、どちらかというと桜坂に近いかもしれない。髪は新たに入って来た三人の女子生徒の中で一番短く、美術部員というよりは体育系の部活に入っていると言われたほうがしっくりくる。

 彼女の隣で、別の女子生徒が優雅(ゆうが)な調子で深三を手招きする。

「弥癒。自己紹介は打ち上げのときにしなよ。今はこっち」

 こっちの女子生徒は、深三とはまた違う意味で柔らかな印象がある。黒髪を長く伸ばして、眼鏡をかけた姿はどこかのお嬢様みたいだ。ぴんと背筋を伸ばした姿など、気品さえ感じられる。

 体育系の女子生徒が晴輝に向かってその大雑把(おおざっぱ)な性格を表すような口調で話しかける。

「ああ、そうそう。晴輝、例の看板できたから。今日、取りに来てもらっていい?」

 途端、晴輝の顔が宝石か太陽のようにきらきらと輝きだす。

「そうか。それはありがたい。いや、随分と待ちわびた。どれほどのできか、早速拝見させていただこう」

 次に、彼女は夏弥たちを呼びつける。

「三人と、弥癒はこっち」

 彼女に(うなが)されて、夏弥と中間と十宮は三年の女子三人の前に集まる。体育系の女子生徒は隣のお嬢様が持っている機器を指差して説明する。

「作品飾ったら、自分の学年、クラス、名前、そして作品の題名を入力してね」

 電子辞書より一回り大きなそれは、シールメーカーだ。好きな文字を入力して、フォントを指定して様々なシールを作ってくれる。

「こんな感じだよ」

 お嬢様風の女子生徒が文字を入力する。慣れた手つきで、あっという間に打ち込みを終える。

「最後に、オーケーボタン」

 押すと、独特な機械音を上げてシールが出力される。白いシールの上には黒い明朝で、三年一組相澤翔果(あいざわしょうか)と出てきた。

「出てきたシールを、このプレートに貼るの」

 お嬢様風の女子生徒――相澤翔果――は、左手に()げていたビニール袋から掌より少し大きめの白いプレートを取り出してシールを貼る。そのまま、パネルの作品をおく位置より少し下の場所にプレートを固定する。ちょうど、絵のすぐ下の場所だ。

「これで完成」

「すごいすごい」

「弥癒は知ってるだろ。……とまあ、こんな感じ。自分の作品の下に、同じようにつけといて」

 シールメーカーを差し出されて、夏弥たちは言われた通りにシールを作ってプレートに貼りつける。絵画も額に入れて飾って、学祭の準備もあと少しで完成する。


 美術室で北潮晴輝からの発表があってから、翌日、その放課後。

 桜坂緋色(ひいろ)は、さすがにまずいと思っていた。

 学祭実行委員の仕事も大分終わって、あとは申し訳ないけれども先輩たちに任せて部屋を抜けてきた。同期の男子たちは、はっきり言ってあてにならない。だからこそ、自分がしっかりやらねばと思ってやってきた。しかし、桜坂のほうも、さすがに時間がない。

 ――桜坂は、いまだに部で出展するための絵を描いてはいなかった。

 部員の前ではしきりに大丈夫、大丈夫だと誇張(こちょう)するように連呼(れんこ)してきたが、実際はこのとおり。準備はしていない、手をつけていない、なにを描くかも決めていない。それでも、明日はいよいよ学祭当日、今夜中に仕上げないとまずい。

 せっかく、学祭が成功するようにここまでやってきたんだ。最後の最後で、自分がへまをするわけにはいかない。

 桜坂は焦る気持ちを懸命に抑えて、けれども乱暴に美術室の扉を開いた。

「……」

 まず目についたのは、見慣れない壁。昨日部長が言っていた仕切りだろう。部長がこだわっただけあって、落ち着いた色合いの上に「美術部展覧会」と品のいい文字が描かれている。

 これはもはや、「書かれている」のではなく「描かれている」この文字は一つの芸術の域に達している。それだけ達筆していて、この空気を壊さない静謐(せいひつ)さ。

 その文字だけで、平静さを失っていた桜坂の心は、ぴたりと止まってしまった。そしてゆっくりと、本当の美術館に踏み入るように音を立てず、美術室へと入った。

「――――――」

 息を()む。

 まるで。まるでいつもの美術室とは違っている。机と椅子を運び出して、パネルで周囲を覆っているだけで、他の教室と同じ(つく)りのはずなのに、ここに、この場所に、学校の一教室にすぎないという表現は適さない。

 ここは、そう。

 確かに晴輝が語っていたように。そこはまさしく美術館だ。

 絵画が飾られているから、なんて単純な理由だけではない。その雰囲気、この空間が帯びている空気そのものが、すでに静謐としている。

「来ると思った」

 この静寂に、一つ声。

 美術室の中心で椅子に座って本を読んでいた少女はぱたんと本を閉じる。

「美帆……?」

 中間美帆はにっこりと微笑む。

「実行委員の仕事お疲れ様」

 桜坂が中へと進みながら辺りを見渡す。

「みんなは?」

 美術室にただ一人残っていた中間が答える。

「大分前に準備も終わって、みんな帰ったよ」

 そっか、と桜坂は納得する。

 あと少しで下校時間になる。クラス展示のほうはそろそろ片付けに入り、ほとんどの部活も帰ってしまっている。美術部も、その一つのようだ。

「緋色ちゃん。絵を描きに来たんでしょ?」

 ぎくり、と桜坂は肩を震わせる。

「…………わかる?」

 当然とばかりに中間は微笑んで頷く。

 やっぱりばれていたかと、桜坂は苦い笑みを浮かべながら頬をかく。部員には大丈夫だと言っていたが、桜坂の絵の技量(ぎりょう)を知っている周りからは、そうは見えていなかったようだ。

「それで、どれくらい仕上がってるの?」

 と問う中間。

 その声は、いかに桜坂とはいえあるていどは進んでいるであろうことを前提としている響きがあった。その、なんの疑いももたない中間に、桜坂は非常に申し訳ない気持ちになる。

「それが……」

 桜坂は絵画の進行状況を素直に白状する。

「全然……?」

 途端、中間の笑顔にひびが入る。中間も、ここまでとは予想していなかったようだ。なんせ桜坂は、なにを描くかすら決まっていないのだ。

「大丈夫っ。徹夜は得意だから。夏休みの宿題だって、二学期始まる前日に終わらせるくらいの技量をもってるのよぉ」

 自信満々に答える桜坂。

「……あんまり自慢にならないと思うけど」

 笑顔を張りつけた中間の表情は、どこか苦しげだ。

「絵だって、あたしが本気を出せば一晩で完成するって」

「……一晩じゃ、絵は描けないと思うけど」

「あー、もう。気持ちよ気持ち。気持ちが肝心なのぉ」

「…………」

 それ以上、中間はなにも口出ししない。

 よし、とばかりに気合いを入れて、桜坂は鞄だけ置いて準備室から自分のキャンバスを、隣の教室から椅子を一つ運んでくると、キャンバスの前に座った。

「さて、まずはなにを描くか決めないとね」

 なんて口に出して言ってはみたが、そう簡単に決まったらここまで苦労はしない。真っ白なキャンバスと睨めっこすること五分。根負けした桜坂はついに首を傾げる。

「…………なに描こう?」

 スポーツ系少女に芸術的な(ひらめ)きはそう簡単に訪れない。加えて、桜坂の絵の技量を考えても絵画にできる題材の範囲は絞られる。桜坂はついに頭を抱え出した。

「描きたいものを描いたらいいんじゃないかな」

 中間のアドバイスに、それが思いつけば苦労しないと、桜坂は視線で訴える。

「あ、ええっと……」

 困ったように視線を泳がせる中間。それでもなんとか言葉を探す。

「じゃあ、好きなもの描いたら。好きな風景でも、好きな人でもいいし」

「好きな人……」

 つられるように桜坂は呟く。

 ――思い浮かぶ光景。

 夕陽を前に、一人(たたず)む少年。白いキャンバスに筆を走らせるその表情は、どこか、自分には見えない遠くの世界を見ているようで――。

 顔から火が出たのではないかと感じるほどの熱さに、桜坂は慌てて手を振った。確かに桜坂の顔は夕陽以上に赤い。

 違う違う、と腕を振り回す桜坂。その様子を、ただ呆然と見つめる中間。疲れたのか、桜坂は腕を振るのをやめてぜえぜえと、本当に疲れたように息を荒げる。

「……緋色ちゃん、好きな人いるんだ?」

 びく、と桜坂の肩が跳ね上がる。そのまま体中の血液が沸騰(ふっとう)したように、耳から額まで鮮やかな赤。

 なにか口にしようとして、しかし出てくる言葉は意味をなさない。自分でもなにをいいたいのかわからないほど、桜坂は混乱している。つまり動揺している。

「な、なに言ってるの。あんたは!」

「もしかして、――――――雪火くん?」

「!」

 完全に、桜坂は硬直した。

 もはや、取り(つくろ)うこともできないほどに、彼女の顔はいっそ清々しいほどの紅色。ぽかんと開いた口は閉じることも忘れて、開ききった瞳はどこを見ているのかもわからない。その瞬間に、桜坂の中で時間が止まった。

 くすくす、と中間は忍び笑いを漏らす。

「雪火くん、なんだ」

 しおしおと、身を縮める桜坂。いつもは快活な彼女も、ここまで小さくなってしまうのは初めてかもしれない。

「………………………………わかる?」

 おずおず、と桜坂は小さく中間に問いかける。

 桜坂にとっては答えの見えない謎も、しかし中間はあっさりと返した。

「だって、緋色ちゃん、雪火くんのことになると、よく喋るから」

 しゅん、とさらに小さくなる桜坂。

 どうして女っていう生き物はこうも勘がいいのだろう。桜坂は自身のことを棚上げしてそんな(なげ)きを心の内で叫ぶ。知らぬのは本人たちばかり、とは言ったものだが、しかし桜坂は少しも周りに気づかれるようなことはしていないつもりだった。

 ――だって。

 桜坂自身でさえ、この感情がそういう類のものなのか、まだ確信がもてないから――。

 黙り込む桜坂に、中間は思春期の女子特有の甘い雰囲気で近づく。

「――――告白、した?」

 ふるふる、と。桜坂は即否定。

「じゃあ、学祭の絵は雪火くんにしよう」

 ぱん、と手を叩いて、中間はそんなことを言ってのける。

「そ、そ、そんなの、無理。絶対無理」

 激しく拒否。

 そんなこと、できるわけがない。

 そんなことをしてもしも中間以外に気づく人が出てきてしまったら、桜坂は学祭が終わってから学校に来れない。

 いや、それよりも。

 桜坂が描いた夏弥の絵を、夏弥本人が見て、下手くそなどと笑われたら。

 そう考えただけで、桜坂は目の前が暗くなっていくような気さえした。怖くて怖くて、ただただ体が震える。

 そんな桜坂の気持ちなど知らず、中間はにっこりと迫る。

「いいじゃない。せっかく学祭なんだし、そのまま告白しちゃおーよ」

「告白、って……!」

 それ以上の言葉が出てこない。

 その単語。告白という響きだけで、桜坂はくらりとする。

 自分が告白するんだ、という恐怖と――。

 ――告白してしまうんだ、という甘い誘惑。

 まだ恋というものを知らない少女は、その得体の知れない行為に身震いしながら、しかしその頬はどこから見ても乙女(おとめ)(しか)りの(とろ)けるような笑みが浮かんでいる。

「もしかして、告白はするつもりだった?」

 中間が桜坂の曖昧な態度を不思議に思って訊ねた。

 桜坂はもう反論する気力も失ったのか、あるいはその甘い誘惑に身を(ゆだ)ねようとしているのか、もじもじと両手を擦り合わせる。

「……………………まあ、できればいいなぁ、くらいは思ってたけどぉ」

 ぼそり、消え入りそうな声で呟く。

 それで十分とばかりに、桜坂の友人は大きく頷く。

「じゃあ、告白しようよ」

 桜坂は頬を赤らめたままじろりと睨む。

「あんたね、他人事(ひとごと)だと思って」

 簡単に言うなと文句を言おうとしたところで。

「だって、あたしは告白したから」

 なんて、中間はあっさり告白した。

 ぽかん、と一瞬我を忘れる桜坂。

 中間がなにを言っているのか、よくわからない。

「告白って、美帆が、雪火に?」

 言葉にしてみても、いまいち実感がわかない。

 中間という少女を、桜坂はこの三カ月で理解しているつもりだった。大人しい性格。暗いというわけではなく、単に自分から積極的に話をしないタイプ。行動型の桜坂とは対照的に思慮深い性格。考えるよりも動く桜坂に対して、行動よりもよく()てよく考える。桜坂とは、本当になにからなにまで対照的だ。運動が得意な桜坂。絵が得意な中間。体を動かしているほうが性に合っている桜坂。教室で本を読んでいたり美術室で絵を描いているほうが様になる中間。

 理解していた、はずだった。

 ――それがまさか。

 桜坂(じぶん)より先に中間(かのじょ)のほうが行動(こくはく)していたなんて――。

「ふられちゃったけど」

 照れたように、中間は苦笑する。

「だから、緋色ちゃんもアタックアタック。告白しないと、そういうの、わかってもらえないよ」

 経験者は語る、というもので、中間の言葉は説得力があった。

 ――確かに。

 夏弥(ゆきび)桜坂(じぶん)恋心(きもち)がわかるわけないか――。

「…………わかった」

 もう、諦めた。

 けれど、これは決して悪い意味ではない。

 ――決心がついた。

 なら、一か八かでも、告白するしかない。

 桜坂はまだ頬を赤くして、しかしその表情にもう動揺の色はなくなっていた。うん、と中間も嬉しそうに微笑む。

「じゃ、雪火くんの絵、描いちゃおうか」

 その提案に、しかし桜坂は難色を示す。

「そんな、無理だって。人の顔なんて、本人もいないんだし」

 桜坂の絵の技量は、美術部に所属する高校生としては奇跡に入る。幼稚園児は卒業しているが、小学生からやり直したほうがいいのは確かだ。人の絵を描かせれば二等身は当たり前、教室の絵を描かせれば背の低い枯れた木が無数に生えたようにしか見えない。そして、それすら完成まで辿りついたことは一度もない。

 そんな、お世辞でも上手いとは言えない桜坂に、モデルも見ないで絵を描くなど暴挙(ぼうきょ)以外のなにものでもない。

 ふふふ、と中間はなにか含むような笑みを浮かべる。

「これ見ながら描けばいいよ」

 差し出されたものを手にとって、桜坂は愕然(がくぜん)とした。

「これ…………?」

 差し出されたものは小さな紙切れで、つまるところ写真だ。そこに写し出されていたのは、満面の笑みを(たた)える雪火夏弥だ。今の桜坂には破壊力抜群だ。

「美帆、これ、ちょっと、いつの間に……!」

 叫びながらも、ついついまじまじと凝視してしまう。盗撮の類ではない。確かにこっちを向いて笑っている。こんなふうに雪火も笑うことがあるのかと、桜坂は妙な感情を覚える。

「……って、これ私服じゃない。いつ()ったのよ」

 写真は上半身だけのアップで、場所まではわからない。背景の色から、外であることはわかる。でも、それだけだ。

「今年の三月。海原(あまはら)町の港で撮ったんだ」

 あっさりと中間は白状する。

 まるで邪気のない返答に、桜坂は首を傾げる。

「海原?しかも今年の三月って、あそこなにもないでしょ」

「うん。なにもなかった。――――大きな事故があったんだって」

 中間は中学まで別の町で暮らしていた。つまり、高校に上がる少し前にここ白見(しらみ)町に引っ越してきた。だからこの辺りのことはほとんど知らない。

「そっか。美帆は知らないか。八年前に大きな事故があってね。その中心だった海原町はみんな焼けちゃった。ニュースじゃまだ行方不明者がいるっていうけど、あれじゃ誰も生きていないと思う。そんだけひどい事故だったから」

 海原町は、白見町の隣。海に面していて、それ以外はここ白見町となんら変わらず、どこにでもあるような町だった。家やビルがあって、当然のように人が住んでいた。

 ――その町が、一晩にしてこの世界から消えた。

 町が、()けた――――。

 ビルは倒壊し、家は焼き払われ、町としての機能は失われた。多数の死傷者を出し、いまだに行方不明者の捜索が続いている。生存者は、いないと言われている。つまり、死体さえも見つからないのだ。

 どこにでもあるような町。

 平凡な人々の営み。

 海が見えることが唯一の特徴のような場所。

 ――そんな町が、消えた。

 あれから八年も()つ。

 誰も住まない町。

 あそこには、まだ事故が起きた夜の傷跡が、誰の目にも見えず残っている。

 ――もう、町ですらない場所。

 桜坂はその町に数えるくらいしか足を踏み入れたことがない。まだ小さい頃の話だから、両親に連れられて海を見に行ったな、ていどの思い出しかない。

 それでも、桜坂には十分だった。

 ――あの町に近づきたくない。

 なにか、危険なものに触れてしまいそうで――。

 町であったときの面影を知らない中間は思い出すように口を開く。

「あたしなにも知らなくて、ただ綺麗だな、って海を見てたの。そしたら雪火くんに会って、事故のこと教えてもらったんだ」

 そのとき、桜坂はどんな表情をしていただろうか。

 桜坂自身、ただただ驚いていた。

 純粋に、その事実に驚いた。

 どんなことがあっても、桜坂はあの町にはもう二度と行くことはできないだろうと思っていた。どんなことがあったって、あそこにだけは行きたくないと、彼女の深いところで警告している。

 それだけ、あの場所は痛い。

 それでも、夏弥がそこにいたという事実。

 夏弥が、自らの足でそこに立っていたという事実。

「――――きっと、そのとき。あたしが、雪火くんのことを好きになったのは」

 そんな小さな想い出を、大事に大事に温めるように中間は呟く。だって、それこそが中間美帆と雪火夏弥との接点。そこから始まって、丘ノ上高校で、美術室にまで続いている、二人の関係だから。

「いま内緒で、そのときの海の絵を描いているんだ」

 照れたように、中間は告げた。

「完成したら、見せてあげるね」

 見せてあげる、と。

 確かに中間はそう告げだ。

 夏弥にではなく、同じ想いを共有する桜坂緋色にだけ、中間は見せることを約束した。それだけで、中間(かのじょ)は十分だった。


 それからしばらくして、中間は帰った。帰るまで桜坂に絵の指導をしてくれたが、桜坂がそれに応えられたかはわからない。それでも、中間はいやな顔せず隣にいてくれた。

 そんな中間も、自分の絵を飾って帰ったのがおよそ七時。いつもなら見回りの先生に帰らされるところだが、見回りに来た風上(かざかみ)先生は特に二人を注意せず、ただお疲れ様と声をかけてくれた。

 学祭前日から学校に泊まり込むという伝統が、生徒たちの間でこっそりと存在している。最後まで学祭の準備に取り掛かる部活もあれば、前夜祭とばかりに騒ぎ回る生徒たちもいる。そのせいか、学祭実行委員会も教師側も、学祭前日は見回りが甘い。丘ノ上高校卒業生である風上先生は理解があるためか、下校時間すぎても残っている生徒たちに(ねぎら)いの言葉をかけてくれるくらいだ。

 そんな好意に甘えて、桜坂は学祭本番に向けて絵を仕上げるために奮闘(ふんとう)している。描くのは同級生である雪火夏弥。モデルとして、中間から写真を借りている。明日が本番である以上、なんとしてでも今晩中に仕上げるしかない。完全に徹夜コースだ。

「…………」

 黙々と、桜坂は鉛筆を走らせる。

 鉛筆なんて、いつ以来だろう。小さい頃に使った記憶がおぼろげにあるばかりで、今ではシャーペンばかり使っている。いまどき、鉛筆を使うなんて、マークシート式の試験を受けるときくらいだ。

 デッサンには鉛筆を使う。鉛筆のほうが(しん)が太いから、濃淡(のうたん)の微妙な加減に向いているのだとかなんとか。桜坂からすれば慣れない鉛筆に戸惑うばかりで、それほど使い勝手がいいかはわからない。モデルの輪郭(りんかく)をなぞるばかりで、鉛筆で影を入れようなんてとてもじゃないが無理だ。

 それでも、桜坂は無心で鉛筆を走らせる。

 絵の上手さなんて、この際どうでもいい。ただ、自分が思い通りに描けるかどうか、それだけを意識して桜坂は絵を仕上げていく。

 ――ここまで集中して絵を描くなんて、桜坂には初めてのこと。

 いつも途中でうまくいかないとばかりに丸めてしまうのに、今はちっとも集中力が乱れない。描いては消して、大雑把に輪郭をなぞって、いらない線をまた消して。

 夜も()けて、美術室の中は深い闇。けれど、明かりを()ける気にはなれなかった。そんなことしなくても十分に描けるし、十分に見えた。

 キャンバスの(かたわ)らで、モデルの写真を見つめる。

「…………」

 小さな紙切れの中に収まっている、純粋な笑顔。

 ……雪火も、こういう顔、するんだ。

 まだ表情もわからないキャンバスに向かって、しかし桜坂が思い描いているのは写真の表情ではない。

 ――あれは、四月も終わろうとしていた頃だ。

 桜坂は学祭実行委員会の仕事で、この特別教室が密集する校舎に足を運んでいた。仕事といっても、それは個人的な用事。この校舎は、以前は生徒たちの教室もあって頻繁に使われていたのだが、新しく校舎を建ててそっちに移動してからは、ほとんどの空き教室と、一部の教室を美術室や化学室などの特別教室にすることで残されている。そのため、位置づけとしては旧校舎といった感じで、学祭実行委員室も昔はこちら側にあったそうだ。そのため、古い資料や当時使われていた道具なんかは結構残っていたりする。毎年、新しく学祭実行委員になった新入生には旧学祭実行委員室の掃除と必要物品の整理、回収が最初の仕事として与えられるが、慣例のように誰もやらず、その役目は毎年言葉だけで中身のないものとなっている。

 そんな中で、桜坂だけが一人、律儀にその仕事をこなそうと、何回か旧校舎までやって来ている。他のじゃんけんで負けてやって来た生徒たちとは違い、桜坂は自ら学祭実行委員に立候補しただけあって、やる気はある。確かに大変だけれども、お祭りを盛り上げるためには仕方ないかと割り切っている。

 ――その少年を見かけたのは、本当に偶然だった。

 その日も、桜坂は下校時間ぎりぎりまで旧学祭実行委員室の整理をしていた。過去の資料なども発見して、仕事の要領も覚えてきた。過去の資料などで学祭の歴史、生徒たちの生の声などが見れて、少しずつこの地味な仕事も楽しく感じ始めていた頃だ。

 通りかかった教室。

 廊下は外からの光で(あかね)色に染まる。

 人気のない校舎。

 誰もいないって、わかりきっている場所。

 だから、余計に周囲を見ていたのかもしれない。

 その教室に人の姿を見つけたとき、桜坂は驚いて足を止めた。

 ――あれ?誰だろう。

 最初に思ったのは、それだった。

 まだ丘ノ上高校に入学して一カ月。

 その男子生徒が同じ一年生だってことに、桜坂は最初気づかなかった。

 頭を上げると、「美術室」なんて札がかかっている。見れば少年は一枚のキャンバスの前に座っている。

 逆光でなにを描いているかまではわからない。絵を描くなんて、変なことをするやつだと桜坂は素直に思った。

 小さい頃から体を動かしてばかりの桜坂は、部屋の中でじっとしているという習慣がなかった。教室の中で一人読書しているよりはみんなと話をしていたほうがいいし、みんなと話をしているよりは休み時間になって外で遊んでいたほうがいい。高校生にもなると女子で校庭までいってサッカーやドッジボールをするなんてできないから、体育の時間がなによりも楽しいひと時だ。

 絵を描くなんて、桜坂は今までの人生で考えたこともなかった。もちろん、授業で絵を描いたことはある。でも、自分から絵を描こうなんて思わないし、ましてやあんな大きな紙の上に筆まで用意するなんて、夏休みのポスターの宿題のときくらいだ。それだって、ちゃっかり親に手伝ってもらうのが常だけど。

 ――変なやつ。

 それが、桜坂の最初の感想。

 だからその日の仕事も一段落して、そろそろ帰るかと廊下を通ったとき、まだその生徒が残っているのを見つけて、桜坂はますます変に思った。

 四月の終わり頃。冬よりは日が長くなって、下校時間には鮮やかな夕焼け。

 日が傾いたせいで、少年が描いている絵がようやく見えた。周囲の色と同じ、燃えるような茜空。

「――――」

 その絵を、目にして。

 桜坂は、(ぼう)とその美しさに見とれた。

 遠くから眺めるその景色は、外の景色と同じように、光り輝いている。波打つ茜、暖かな夕陽、視界一杯に広がる夕焼け。

 それが、純粋に美しく。

 ――それ以上に。

 桜坂の胸を(つか)んで離さない――。

 この感覚は、なんだろう。

 この感情は、なんだろう。

 無性に()かれて。

 無性に、熱い。

 ()ける()ける――。

 見ているだけで。

 ()ていたいと思う。

 ――思う以上に。

 強く、(おも)う――。

 ああ、と。叫びかけて。

 言葉を()んだ。

「――――――――」

 ちら、と見えた、その横顔。

 少年の、どこかを、どこかを見つめるような、自分には見えない、桜坂緋色では到底()ることができない、そこは遠く、遠い遠い世界を見るような――。

 ――胸が、高鳴った。

 とくん。

 とくん……。

 とくん…………

 いつまでも。

 ()ていたいと、(おも)った。

 その感覚が。

 その感情が。

 なんであるかなんて、ちっとも問題じゃない。

 ただ――。

 ――桜坂緋色は、(おも)った。

 鐘がなるまで。もう少しだけ。

 誰もいない。誰も来ない。忘れられた校舎で、二人だけ。遠く、廊下から。暖かい光に包まれた、美術室から。二人同じ、夕焼けを()る。茜色の空は、ただ美しく、廊下も床も壁も、そしてこの世界も。二人が描いた世界に染める。

 ――それが、桜坂緋色にとって雪火夏弥と二人だけの原風景。


 雪火夏弥にとっての原風景とはなんなのか。

 その個人が個人たる所以(ゆえん)の原初、あるいはその()を象徴する起源。それは明確な形を持っている。少なくとも、その個人の中で個人を決定づける完全な存在というものは確実にあるのだ。

 全ての結果には、必然たる理由があり、その因果(いんが)こそを人は運命と呼ぶ。どんな存在であろうとも、その運命の流れに存在し、常に運命に寄り添う形でしか存在できない。

 それこそが、その人間の原風景。

 それを決定するもの。

 絶対なる支配。

 理由は衝動から。

 衝動は、その起源から。

 人はその存在から決められた運命を持ち、その運命の中で確率的にしか存在しえない。

 もしもその中で己が生を信じるならば、人はその支配的な運命の中に、不確定な運命を見出すしかない。

「学祭って、夏弥の学校の学祭か?」

 夕食も終わって、雪火家では夏弥とローズが二人して屋根の上で夜空を眺めていた。雲はなく、空はどこまでも見渡せるくらい広く、星々が輝いている。月はその白さを弱めて細く、数日のうちには新月に入る。

 夕食から、夏弥は明日から始まる学祭のことについて話していた。高校生最初の学祭。丘ノ上高校に入学してから初めての大イベントに、夏弥も期待に胸を膨らませている。

「ああ。明日から始まるんだ。丘ノ上高校だと、二日続けて行われるんだ。今年初めてだから、ちょっと楽しみ」

 ふーん、とローズも興味津々(きょうみしんしん)で頷く。

「学祭なら、一般の者も入れるのか?」

「うん。普通に入れるはずだけど」

 そうか、とローズはしばし思案して。

「じゃあ、俺も明日は夏弥の学校に行こう。学祭というものを見てみたい」

 と、突然そんなことを言い出した。

 その発言に、さすがに夏弥も驚いた。

「ちょっと。お前なー……」

「いいだろう。明日なら堂々と歩いていても問題ないわけだ。それに、毎日毎日家の留守番では気が滅入(めい)る」

 そう言われて、夏弥も言葉に()まる。

 夏弥が学校に行っている間、ローズには家の留守を任せている。ローズは元々式神で、あまり人に見つかると後の説明が大変になる。そのため、夏弥はローズにあまり出歩かないように言っている。

 だから、ローズからそんなことを言われたら、夏弥もあまり強くは言えない。普段我慢してもらっている分、この機会に外に出してもいいような気がした。

「まあ。仕方ないか」

「それは、了解してくれたという意味か?」

「ああ。連れてってやるよ。明日と、明後日(あさって)の午前中だったら手は空いてるし。どこにでも連れてってやる」

「本当か。約束したぞ」

 嬉しそうに微笑んで、ローズは大きく頷く。

 遠足前日の子どものように、ローズは機嫌よく空を見上げる。本当に楽しそうだ。高校生にもなった夏弥には、こういった素直な感情は表に出せない。楽しそうなローズの傍にいると、夏弥までいっそう明日が待ち遠しい。

「――ああ。本当に楽しみだ」

 空を見上げて、ローズが呟く。

「…………」

 その横顔に、夏弥はしばし見とれる。

 ――この感覚は、なんだろう。

 構想(こうそう)が浮かぶ。

 主題(しゅだい)仕組(しくみ)、思想内容、表現形式、あらゆる要素の構成が夏弥の思考を()ける。広さ、奥行き、明暗、色一つとっても夏弥が描いた額の中に綺麗に当てはまっていく。その作品を仕上げるまでに必要な絵の具、筆、技量、時間、全てが思考の中で準備される。

 構想する。

 見たもの。()えるもの。それを、逃すまいと()る。

「……?どうした、夏弥。急に固まって」

 不思議そうに、ローズは首を傾げる。

 夏弥はようやく我に返った。

 一体どれほどの時間そうしていたのだろうか。つい、真剣にローズを凝視してしまっていた。その行為に気がついて、夏弥は曖昧に顔を逸らす。

 正直、迷っていた。

 けれど、この感覚に偽りがないから、夏弥は自分の衝動に素直に従った。

「――ローズ。今晩付き合ってくれ」

 ローズを正面から見据えて、夏弥は立ち上がった。ローズはわけがわからず、(ぼう)と夏弥を見上げ返すだけ。その表情だけで、夏弥の胸は妙な高鳴りを上げていた。


 時刻はまもなく夜の九時。この時間で外を出歩く人の姿はなく、民家では寝るまでのささやかなひと時を示すように明かりが(とも)る。

 夏弥はローズをつれて学校までやって来た。校門は閉まっていたので、裏口から入ることにした。幹也の話では、学祭前日は生徒たちが居残って作業することもあり、職員室に近い裏口だけは開いている。宿直(しゅくちょく)の美琴の許しをもらって、夏弥とローズは学校の中へと入る。

 ローズは不思議そうにきょろきょろと学校の中を見回す。ローズが学校に来るのは初めてではないが、突然ここまで連れてこられて困惑しているといった感じだ。

「付き合ってくれとは、一体どういう意味だ?」

 何度目かのその問いに、夏弥は答えをはぐらかす。まだ目的の場所に着いていないからだ。夏弥は美術室のある校舎へと入っていく。この校舎には化学室や技術室などの特別教室が密集している。広い空き教室があるため、この校舎で前日準備をする部活もいくつか存在する。ちなみに、幹也の所属する陸上部もその一つで、なにやら下の階で騒がしくしていた。

 他の生徒に気づかれないように、そっと階段を上る。美術室はこの校舎の屋上一歩手間というなかなか高い位置にあるので、この階に用がある生徒以外はやって来ない。

 夏弥は美術室の隣の準備室からキャンバスと鉛筆、絵の具を出して屋上へと向かう。扉を開けて屋上に出ると、夏弥の家の屋根から見た景色と同じように、星々が瞬いている。月の光は弱く、星の輝きがいっそう強い。漆黒の海辺に、白い砂をまいたような風景。辺りは暗く、ただ静かだ。

 準備を進めながら、夏弥はやっとローズの問いに答える。

「俺が入っている美術部って、学祭で展覧会を開くんだ。部員一人一人が描いた絵を飾って、来た人に見てもらう」

 準備が整って、夏弥はローズを前にして、言った。

「――俺、ローズの絵を飾る」

 なんの飾りけもなく、純粋にそう告げる。

「今、一番描いてみたい」

 描きたい、と思った情景。浮かんだ構想。

 それは、どうしようもなく完璧で、夏弥の中で揺るぎないものとなっている。

 描きたい。

 他のなにものでもなく。

 今、美術室に飾ってある、あの夕陽の絵ではなく。

 ――ただ。

 『彼女』を描きたい――。

 自分が。

 自分が(えが)いた、彼女のままで。

「いいぞ」

 いつもの調子で、ローズは承諾(しょうだく)してくれた。

「夏弥がそうしたいというなら、俺は一向にかまわない」

 よし、とばかりに、夏弥はローズに指示を出す。夏弥が思い描いた構想。夏弥にとっての彼女のイメージは、まさにこんな高いところで、ただひたすら空を見上げている姿だ。その瞳の先はなにを見ているのだろうか。そんなことを想像させる、静かで、見ているだけで胸が熱くなる。

「…………これでいいのか?」

 ローズは手すりに手をおいて空を見上げる。黒いドレスをまとった彼女がいるだけで、学校の屋上(ここ)が貴族のお城にでもなったようだ。

「ああ。そのまま、しばらく動かないで」

 夏弥はキャンバスの前に座って、ものすごいスピードで輪郭を仕上げていく。まだ影すらない白黒の絵画は、しかしものの一〇分でそのイメージが形になっていく。

「…………」

「…………」

 静かな、時間。

 静寂、ではなく。

 ただ、静かで。

 妙に、温かい。

 そんな言葉が、あったらいいのに。

 静かで、けれど落ち着く。静かなこの一瞬が、こんなにも安らげるなんて。

「…………全く動かないというのも、退屈だな」

 不意に、ローズが口を開いた。その言葉で、夏弥は今まで一言も喋らなかったことにようやく気がついた。

「喋るくらいならいいぞ。でもあんまり動くなよ」

 多少動いたって、夏弥の技量があればカバーできる。元々、夏弥のイメージの中の景色を絵画として固定するだけだから、モデルを前にすることなんて、ちょっとした儀式みたいなもの。

 夕陽の絵だって、いつも夕方でなければ描けない、なんてほどではなかった。ただ、今目の前にあるものを形にする、という意識が、夏弥をその場に留まらせた。夏弥が見ている世界、夏弥が思い描いた世界。それらを等価なものとして、現実にする。そのための、ちょっとしたこだわりだ。

 ローズは空を見上げたまま口を開く。

「なら、一ついいか?」

「なんだよ」

「――どうして、俺を描きたいと思った?」

 不意に、指が止まった。

「――――」

 たった。

 たったそれだけの言葉で。今まで滑らかに動いていた夏弥の筆は、完全に止まった。

「……なんでかな。よくわからない」

「なんだ。夏弥もわからずにやっているのか」

 夏弥は彼女を()た。

 彼女は律儀にも、モデルの役目を果たしている。夜空を見上げて、小さく輝く星たちを見上げて、その深い闇の先を見つめて。

 ――遥か昔、遠い過去を見つめて。

 彼女は、夏弥に問う――。

 夏弥は再び鉛筆を走らせる。おおよその輪郭ができても、まだ夏弥の納得できる形ではない。ここには、まだ夏弥の思い描いたイメージが固定できていない。

「でも、描きたいって思ったのは本当だ」

 そう。

 それだけは、真実。

 ――こうして、彼女を描きたいと思ったこと。

 彼女を、この世界に残しておきたいと感じたこと――。

「なあ、夏弥」

「ん?」

「どういうときに絵を描きたい、って思うんだ?」

 振り返らず、ローズは夏弥に訊ねる。

「俺は絵師ではないからそういう感情はわからない。どういうときに、そう思う?」

「絵師、って。俺も別に絵描きってほどじゃないからなー……」

 鉛筆をおいて、夏弥はモデルと絵画を見比べる。

「――綺麗だ、って感じるからかな」

 そう、夏弥は答える。

「その風景や印象から生まれるイメージから、目が離せない。衝動的に、目に焼きつけておきたいって、そう感じるんだ。思う、とはまた違う。そう、感じるんだ。目に焼きつける。そのイメージを、自分の世界に残しておこうとする」

 ――それが、描きたい、ってことだと思う。

 夏弥はよし、と頷いて絵の具を準備する。ここから、絵画に色をつけていく。()たものを、()た通りに形に残すためには、色をつけなければいけない。色彩(しきさい)には温度があり、雰囲気がある。そのイメージが持っている印象を確かな形にするために、色は重要な要素。

「じゃあ、俺は夏弥の世界にずっと残るのか」

 背中にローズの声を聞きながら、夏弥は絵の具を混ぜる。

 彼女の黒いドレスと、夜の闇は互いに混ざることなく色を帯びる。彼女のドレスの前では、どんな漆黒も強さが足りない。この空の闇も、まだ昼間の青さを残している。白い星は、本当に砂みたい。

 流れる銀髪。人の髪とは思えないほど、細く、(きら)めいている。上等な生糸(きいと)とは、きっとあんな感触なのだろう。柔らかくて、気持ちがいい。白い肌は星の煌めきよりもいっそう白く、今さらに、夏弥は彼女が人ではないということに気づく。

 ――同時に。

 彼女はとても人間らしくもあった――。

 ローズは式神で、その魔力は人と比べるまでもなく、その存在は人とは違う。

 けれど、こうして見ると。

 彼女は、どこまでも人間らしかった。

 いや、夏弥には。彼女が、人間にしか見えない。

 人間以上に、人間らしく――――。

 その魔性の美は、やはり彼女を一人の人間として見ているからこそ感じるものだ。

「ローズ、いまちょっと動いた」

「ん、すまん」

 ローズが元の姿勢に戻ると、夏弥は筆を持ち上げる。

「そう、そのまま」

 キャンバスに、湿った感触。

 絵の具が、紙の上を走る。

 ここからは慎重な作業だ。一点の狂いもなく、夏弥の()る世界を統一して、現実にする。外から受けるイメージと、中から溢れるイメージ。その両者が、同一のものとなって形になる。

 学校の屋上で。

 彼女は手すりに手を乗せ、静かに夜空を見上げる。

 黒いドレスは、まるで舞踏会の中の姫君のよう。

 夜も深く、辺りは星以外の光がない。

 それだけで、ここが彼女の見つめる過去まで(さかのぼ)ったみたい。

 夏弥が初めて、彼女と会った夜――。

 夏弥が初めて、彼女と眺めた同じ夜――。

 彼女との思い出は、いつでも同じ場所。

 だから、こうして眺め続けている。

 いつまでも。

 いつまでも。

 夜が明けるまで――。

 同じ景色を、眺めていよう。


 まだ空は暗い。しかし、あと少しすれば空は夜明け前の白い明かりに照らされる。その直前の、まだ夜のうち。

「よし――――」

 筆をおいて、夏弥は満足げに頷いた。

「できたのか?」

 ローズが近寄ると、夏弥は慌てて彼女を止めた。

「なんだ。見せてくれ」

「ダメ。いまは、ダメ」

 そんな夏弥の態度に、ローズは不服そうに眉を寄せる。

「む。なんだそれは」

「学祭当日のお楽しみ。明日になったら見てもいいから」

 夏弥の返答に、ローズは不承不承に頷いてくれた。

「まあ、夏弥がそういうならいいか。明日だぞ、忘れるな」

 うん、と頷いて、夏弥はキャンバスに布を被せる。明日なんていっても、もう学祭は今日だ。朝日が上れば、いよいよ学祭当日。絵画が完成して、今さら夏弥はその事実を思い出す。

 腰に手を当てていたローズがいつもの調子で口を開く。

「さて、用がすんだなら帰ろう。家まで飛んで行こうか?」

 夏弥は慌てて手を振る。

「いいよ。歩いて帰る。待ってろ、片づけだけしてくから」

 ローズの言葉は、なんの誇張(こちょう)もなく、本当に飛んで帰るつもりだ。ローズは式神で、本来の姿は漆黒の龍。ローズにとって空を飛ぶなんて、人が歩く以上に簡単なことだ。

 いくら夜中だとはいえ、人が住んでいる町の中で空を飛ぶなんて、夏弥には抵抗があった。ちょうど片づけと、学祭のために完成した絵を飾らなければいけないという仕事もあったので、夏弥は布を被せた絵画だけ持って美術室へと向かった。

 嬉しくて、つい顔が(ほころ)ぶ。早く光のあるところで見てみたい。まだ暗いし、電気を()けるのはまずい。明日、自分で確認しよう。

 夏弥が誰もいないはずの美術室に入ると、そこには先客がいた。その人物はキャンバスの前に座って、器用に眠っていた。

 桜坂緋色は、椅子に座ったまま片手をキャンバスに向けたまま、上半身を曲げて静かに寝息をたてている。器用なもので、まだ鉛筆を握ったまま離さない。

「なんだ。寝てるのか」

 夏弥は横からキャンバスを覗き込んだ。

「桜坂の完成した絵って、もしかしてこれが初めてか」

 暗くてはっきりとは見えないが、どうやら完成したようだ。さすがに色をつける時間はなかったのか、鉛筆で殴りつけたような白黒の絵。完成して安心したのだろう、桜坂は絵を額に飾る前に眠ってしまったようだ。

「っつっても、桜坂は絵の飾り方、知らないんだっけ」

 夏弥は自分の作品をひとまずおいて、部屋の隅においてあった額を取り出して桜坂の作品を額の中に入れる。桜坂の作品を所定の位置に飾ると、夏弥はよしと一つ頷く。

「あ、そうだ」

 自分の作品も交換し終えると、夏弥は準備室から毛布を持ってきて桜坂にかけてやった。この間掃除をしたときに見つけたものだ。長いこと放置されていて汚れているかもしれないが、ないよりはマシだろう。

「遅くまでご苦労様」

 それだけ残して、夏弥は美術室をあとにした。まだ片付けは終わっていない。絵の具を片付けて、鉛筆やパレットなんかを準備室に戻さないといけない。早くすませてしまおう。もう外ではローズが待っているはずだ。


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