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第二章 まだ見る、儚い夢

 魔術の存在が現代において人々の心の中から忘れ去られてしまったのは、ひとえに科学の発展がある。遥か昔、魔術は人々に奇跡とさえ呼ばれる代物(しろもの)であり、魔術を使えるものはまさに神の代行者(だいこうしゃ)であった。

 しかし、科学が発展してからというもの、その神秘性(しんぴせい)は次第に薄れていった。今まで魔術でしか行えなかったことが科学で代用がきく。魔術は科学同様、理論や法則から導かれた学問体系の一つだが、使用する個人によって魔術を構築するまでの術式や発現したときの効果が異なり、安定した結果がえられない。

 科学が発展した大きな理由は、誰が扱ってもその構造、結果が大きく変わらないこと、何代かかってもその効用を維持でき、修復も安易であることが挙げられる。魔術のように、不安定要素が極めて少ない。

 それでも、魔術師がまだこの世界に存在しているのは、彼らが生じた起源ともいうべき最大の目標が、科学技術をしても到達していないからである。

 魔術師の目的は、この世界の起源を知ること。この世界そのもの、あるいは人類が生じた最初の起源。全ての起源に達することが、魔術師の最大の目的であり、存在意義である。

 ゆえに、魔術師は世界の起源を知るためにあらゆる方法を試みた。しかし、誰一人として世界の起源にまで到達できた魔術師は存在しない。

 今この町で密かに行われている楽園(エデン)争奪戦では、勝ち残った一人にあらゆる願いを叶えるとされている楽園(エデン)への(かぎ)が与えられる。そしてその楽園(エデン)こそ、世界にもっとも近い場所とされている。

 楽園(エデン)争奪戦で優勝することは、すなわち魔術師の祈願(きがん)である世界の真理に近づくことであり、楽園(エデン)争奪戦に選ばれるということはもっとも世界にふさわしい魔術師であると世界から認められたことを意味する。

 雪火夏弥(ゆきびかや)()しくも楽園(エデン)争奪戦に選ばれた魔術師の一人である。この戦いに巻き込まれるまで、夏弥は自分が魔術師であることを知らなかった。ゆえに、夏弥には魔術師の誇り(プライド)も、魔術師としての力もなに一つ持っていない。

 当初は乗り気でなかった楽園(エデン)争奪戦に、最近では夏弥も最後の一人まで勝ち残るべく、決意を固めている。

 その理由は、この魔術師同士の戦いのために無関係な人々が巻き込まれていることを知ったからだ。あらゆる願いを叶えてくれる楽園(エデン)、それを手に入れるために、魔術師の中にはこの戦いに関係ない一般人から魔力を奪おうとしている者がいる。

 魔術師の中で、魔術師(じぶん)以外に魔術を使うことは禁忌(タブー)とされている。しかし、強欲な参加者の中には、勝つために手段を選ばないものがいる。この町で最近頻繁に起きている神隠しもその一つだ。

 人が忽然(こつぜん)と姿を消す、なんておとぎ話みたいなことが現実に起きている。人が消されたと思われる場所には、その人間が身に着けていた鞄や衣服が残されるだけだ。

 夏弥は、理不尽に人が傷つけられることを憎んでいる。それは、夏弥自身の生い立ちに起因(きいん)することだが、世間で騒がれるような殺傷事件や暴力を人一倍許せない。

 この町からこれ以上の被害者を出さない、なんて英雄的なことを真剣で考える、いまどきの高校生からすれば珍しいタイプだ。

 そんな夏弥も、戦いがなければ一高校生にすぎない。駅前のデパートの地下一階、食料品売り場で今日のお昼の買い物をしている最中だ。五年も一人暮らしをしているせいで、高校生にして主婦の性分(しょうぶん)がすっかり板についてしまっているが、夏弥本人も仕方ないかくらいにしか思っていない。

 今朝は美琴(みこと)も来るだろうから少し多めに作っておいたのだが、結局美琴は朝食を食べずに、すぐにローズを連れて出て行ってしまった。しかも、お昼頃に戻ってきたら美琴とローズと、さらに水鏡(みかがみ)栖鳳楼(せいほうろう)(そろ)って夏弥の家にやってくるわけで、これはいつもよりかなり多めに昼食の準備をする必要がある。

 朝の残りでは量が少ないので、こうして買い出しに来ているわけである。文句を言いながらもしっかり出迎えの準備をしてしまうあたり、このお人よしの性格も困りものだなと胸の内で溜め息を吐く。

「新しいお茶、っつってもなー」

 夏弥は茶葉のコーナーを見て回る。ローズに頼まれて新しいお茶を探してはいるが、夏弥自身そんなにお茶にこだわったことがなかったのでどんなものを買えばいいのかわからない。

「……こんなんでいいか」

 何度も同じ場所を回って、夏弥は一つ選んでそれを買った。この一週間で夏弥なりにわかったことは、お茶でもそれなりの値段のものを選ばないとダメらしい。あまり安いものを買うと、ローズは二度と飲まないと言いかねない。これくらいの値段ならいいだろうか。あとは夏弥の()れ方次第である。

 さて、と夏弥は買い物のほうへと戻る。今日は朝からいろいろ大変だった。三人が帰ってきてからそれなりに仲良くなってくれていればいいが、水鏡のあの顔を見ると、それはかなり難しいだろう。あの大人しい水鏡があそこまでショックを受けた顔を見るのは初めてだ。美味しい御馳走でも食べて機嫌をよくしてくれればいいが、夏弥にはそれくらいしか手段がない。

「ま、こんなもんだろ」

 高校生の夏弥としては、今日はかなりの出費だ。夏弥の生活費はどこから出ているかというと、父親が残してくれたお金と、美琴からの差し入れで全部になる。バイトでも始めようかと思ったが、それならあたしが出すと美琴が申し出たので、今のところ夏弥はバイトをやったことはない。元が自炊で、小さい頃からの感覚であまり高価なものは買わないので、そこまで雪火家の財政は厳しくない。たまの出費くらい、多めに見よう。

 すぐに帰ろうと、夏弥は買い物袋を二つ提げてエスカレーターへと向かう。流石に五人分の食材は肩にくる。いや、正確には七人分かあるいは八人分。美琴は当然二人分を消化する。そして問題はローズで、その食欲は男の夏弥以上だ。式神として魔力を補うから仕方がないのかもしれないが、もう少し夏弥の身を考えてほしい。そろそろ自転車でも買おうかと、夏弥はふと考えるようになった。移動手段があるのとないのでは、大きく違うだろうから。

 地上に出るためにエスカレーターに乗ろうとして、夏弥は見知った顔を見つけて足を止めた。

「あれ。桜坂(さくらざか)だ」

 夏弥の通う丘ノ上高校の一年五組で、夏弥と同じ美術部に所属している。誰かと話しているみたいだ。相手は年配の男性で、ぱっと見て老人くらいの歳だろう。店の人だろうか、桜坂と少しばかり話すとすぐに奥のほうへ消えてしまった。

 夏弥が近づくと、桜坂も気づいたのか、こちらに向かって手を振った。

「あ。雪火。奇遇ー」

 休日なので、桜坂も私服だ。短パンのジーンズになにやら派手な模様の描かれたトップ。髪は女子の中ではショートで、特に飾り物はつけていない。美琴のように動きやすさ重視の恰好だが、年相応というか、それなりにおしゃれには見える。

 桜坂のすぐ隣に立って夏弥は訊ねた。

「また学祭の準備か?」

 うん、と桜坂は頷く。

「まー。そんなところ」

 桜坂は来週に行われる学祭の実行委員をやっている。実行委員の仕事は学祭での各クラス、部活の企画を把握し、企画に必要な物品の購入、部活には準備や学祭当日に必要となる空き教室の手配などを行う。

 学祭は丘ノ上高校でも大きなイベントの一つだが、基本的に生徒たちの自主運営によって行われている。その中心となるのがすなわち学祭実行委員会で、学祭時の実行委員の忙しさは、たった二カ月ていどだがほとんどの生徒たちが嫌煙(けんえん)するほどだ。

 そんな中で、桜坂は自分から学祭実行委員会に立候補した変わり者だ。

「大変だな」

 言って、夏弥は何気なく思ったことを口にした。

「手伝おうか?」

 夏弥の言葉に、桜坂はきょとんと目を開く。

「え?」

「一人じゃ大変だろ。なんなら手伝うよ」

 遠慮するように桜坂は手を振る。

「いいよ。一人で。それに、学校までだから、地味に疲れるよ」

 おそらく学祭で必要な物品をもらいに来たのだろう。学祭は昔からやっているので、贔屓(ひいき)にしてもらっている店があるようだ。どれくらいの量かはわからないが、学祭という大イベントから想像するに、かなりの量があるのだろう。

 そう思って、夏弥はなおも続ける。

「だったらなおさらだろ。俺の家、学校の近くだからついでみたいなもんだし。任せろよ」

 桜坂はしばらく思案していたみたいだったが、ようやく頷いてくれた。

「じゃあ、お願いしとこーかな」

 言うが早いか、桜坂は奥のほうへと駆け出した。遠目で見る夏弥には、そこが倉庫のように見えた。その中にさきほどの男性の姿が見えて、桜坂がなにごとか言っているのが見えたが夏弥にはその内容までは聞き取れない。


 デパートから出て、外の日差しに夏弥は一瞬目を細める。店の中は冷房がきいているが、外では夏に近づきつつある気温が肌にじっとりとまとわりつく。買い物袋と一緒に桜坂の荷物も運んでいるので、熱くなった体からは自然汗が溢れる。

「いっぺん、食料おきに家寄らせてもらうけど、いいよな」

「それくらい、全然オーケーだよ」

 顔の近くで親指と人差し指を結んでオーケーサインを出す桜坂。彼女の左手には夏弥の買い物袋のうちの一つが握られている。

「つーかなんだよ、この台車」

 夏弥は桜坂が受け取った荷物を押しながら不平を漏らす。

 運送業者が使いそうな台車の上に台車と同じくらいの大きさの箱が固定されている。その中には木の板や鉄板、ロープやペンキなど様々なものが放り込まれている。その一番上には夏弥の買い物袋が一つ置かれている。

 こともなげに、桜坂は答える。

「重いだろうからって、おじさんが貸してくれたの」

 確かに、台車でもなければこれだけの荷物は運べない。だが、桜坂はこんな荷物を一人で運ぼうとしていたのか。

「こんなの、一人じゃやばいだろ」

「あー、これ?お世話になっているおじさんに今まで預かってもらっていたもの全部出してもらったの。そしたらこんなになっちゃって」

 いやー、あたしもびっくり、などと他人事(ひとごと)のように言ってのける桜坂。

 その言い方に引っかかるものを感じて、夏弥は訊き返した。

「なんだよ。今まで預かってもらっていたものって」

 桜坂は表情を険しくして答える。

「本当は、学祭実行委員の一年で手分けして運ぼう、ってことにしてたんだけど、他の割り振られた連中がサボって、結果溜まった分がこれってわけ」

 その返答に、夏弥は愕然(がくぜん)とする。

「そんなの、サボったやつに行かせろよ」

「言ったわよ。サボってないで仕事しろって。でも、それでもやらないから、もういい、ってあたしが全部引き受けちゃった」

 あはは、と苦笑する桜坂。

 そんなひどい話があるだろうか。桜坂は見るからにスポーツ系でそれなりに体力もあるだろうが、女の子であることに変わりはない。こんな細い腕でこれだけの荷物、一人で運ぶのは無理がある。

 夏弥は仕事をしない連中に対して怒りを覚えたが、だからといって夏弥がそいつらに注意をするわけにもいかない。学祭実行委員ではない夏弥がそんなことをするのは、余計なお節介(せっかい)というものだ。

「大変なんだな」

 そんな、(なぐさ)めにもならないような慰めの言葉。

 ここ一カ月近く、桜坂は部活に顔を出していない。絵は、正直上手くないから他の部員よりも練習しないといけない。しかも、学祭では美術部として作品一点を出展しないといけなくて、それを描く時間だって桜坂は学祭実行委員のために(けず)られている。

 それでも仕事に手を抜かず、一人で頑張っている桜坂に夏弥は同情する。

 うーん、と桜坂は困ったように頬をかく。

「まー、最初はあたしも怒ったけどさ。今じゃ仕方ないのかも、って思えちゃうの。あたしはやりたくて学祭実行委員の係りになったけど、中にはじゃんけんで負けたからやってるだけ、ってやつもいるし」

 そういう人のほうが多いんだけど、と桜坂は溜め息を吐く。

 学祭実行委員はクラスの仕事の中でも特殊で、学祭準備一カ月と当日、あと片づけの一週間くらいしか仕事がなく、その代わりその期間が死ぬほど忙しい。

 仕事の期間が短いからと立候補するものは少なく、その短期間でも忙しいことを知っているやつなら誰もやりたがらない、そんな役職。

 そんな中、桜坂は自分で立候補して、美術部もやっている中、学祭実行委員の仕事を懸命にこなしている。

 自己責任、という言葉を夏弥は不意に思い出す。以前、美術部部長が言っていた言葉だ。

 自分で選んだことは、本人が責任を持たなければいけない。自分が決めた以上は、自分でそれを(まっと)うしなければならないのだ。

 ――でも。

 と、夏弥は思う。

 いくら自分で決めたからとはいえ、大変そうだと思ったら手を貸すぐらいのことは、してもいいと思う。そんなことを考えるあたり、やっぱり自分はお人よしなんだと、夏弥は台車を押しながら苦笑する。

 とりあえず、バスに乗って夏弥の家の近くまで移動する。これだけの荷物を押したまま夏弥の家まで行けないし、なにより長時間外にいたら食材が痛んでしまう。

 こんな大きな荷物を持ってバスに入れるのか心配だったが、桜坂が運転手に話をして乗せてもらった。周りから変な目で見られたが、仕方がない。段差なし(ノンステップ)と冷房の()いたバスの中は至極快適だ。

 夏弥の家のすぐ向かい側にバス停があったので、バスを降りて五分もせずに夏弥の家に到着した。そこが自分の家だと言うと、桜坂は感心したように夏弥の家を見上げる。

「へー。ここが雪火の家か」

 なにをそんなに感心するところがあるのかと、夏弥は桜坂を外で待たせて買って来たものを冷蔵庫にしまって、また玄関に戻る。

「なんか年代ものそー」

「オーバーだ」

 そんなやりとりをしながら、夏弥は台車を押す。ここから丘ノ上高校まで二〇分。そんなに近くないなと思いつつ、でもデパートから運ぶよりかはましかと台車を押す手に力を入れる。

 桜坂はまだ興味があるのか、後ろを向いて夏弥の家を眺めている。

「こういう家だと、おじいちゃんやおばあちゃんと一緒に暮らしてる?」

 なんだそりゃ、と思いながら夏弥は答える。

「どんな迷信だ。言っとくけど、家にはじいちゃんもばあちゃんも、親もいないからな」

 えっ、えっ、と桜坂は妙な声を上げる。その顔は、今まで女だと思っていた人が男物の服を着ていた現場を見つけてしまったような、困惑に(にじ)んでいる。

 ああそうか、と夏弥は桜坂に自分の家について話していなかったことを思い出す。いい機会だし、ここで話しておくか。

「つまり、俺一人」

「一人暮らし?」

 桜坂は訊き返す。

 夏弥は頷く。

「ああ、桜坂には話してなかったな。俺って養子でさ。親って親父しかいないんだ。その親父も、小五のときに死んじまった」

 途端、桜坂は申し訳なさそうに表情を暗くする。

「あ。ごめん。変なこと話させちゃって」

 いいって、と夏弥は平気な顔で答える。

 複雑な家庭には見えるだろう。自分は養子で、今まで面倒を見てくれた父親も亡くなって一人暮らしをしている。だが、その父親が亡くなって五年近く()つわけで、それだけ経てばこんな話どうってことない。

 逆に気にされるほうが変な気がする、と答えると桜坂もそこまで言及することはしなかった。

「じゃあ、雪火の買い物って、お手伝いじゃなかったんだ」

 そんな話題にも、夏弥は自然と答えた。

「まー。そうなるな。モノがなくなったら自分で買い物して、料理してるわけだし」

 桜坂が目をぱちくりと開く。まるで空に魚が飛んでいる光景でも見てしまったような顔をしている。

「完全自炊ぃ?」

 そこか、と夏弥は頷く。

「そう言ってもいいのかな。まあ、コンビニ弁当とか食べないし、カップ麺も置いてないし。冷凍食品くらいは使うけど」

 その冷凍食品でさえ、夏弥は好んで食べない。作りたてと冷凍したものでは、明らかに味が違う。買い物に行けなかったときの緊急手段に使うていどだ。

 その返答に、桜坂は信じられないとばかりに頭を振る。

「無理だ。あたし、料理とか絶対無理」

 確かに、と頷けてしまう。

 桜坂は見るからにスポーツ万能な少女で、中身もスポーツ系少女だ。体を動かすことが好きで、細かいことは好きではない。そのため、美術部では小学生が描いたような作品を入部当初夏弥は目にしている。入部当初と限定しているのは、それ以降桜坂の絵を夏弥が見せてもらっていないからだ。

「慣れだよ。親父がまだいた頃から料理は俺が作ってたから。親父って料理下手でさ。だから俺が作ってた。家の掃除とかも、よく手伝ってたし」

 そうは言ってみたが、桜坂がエプロンをつけて料理をしている姿など、夏弥には全く想像できない。おそらく形も不揃いな食材を、結局黒焦げにしてしまうのだろう。そっちのほうがぴんとくる。

 夏弥の勝手な想像など知らない桜坂は、そっか、などと妙なところで納得している。

「じゃあ、いつでもお嫁に行けるわけだ」

「……なあ、殴ってもいいか?」


 丘ノ上高校に到着してからすぐに休めるわけではない。桜坂は夏弥を学校の倉庫まで案内して、そこでようやく目的地に到着だ。

 疲れた、と夏弥はコンクリートの上でかまわず大の字になる。

「ありがとう。そこで待ってて」

 夏弥をおいて、桜坂は教室のある校舎のほうへと駆けていく。なにをしにいったのだろうと待つこと一〇分。大分経ってから桜坂はビニール袋を片手に持って戻ってきた。

「ええっと。これが三年二組で、これが陸上部で……」

 ノートを見ながら、桜坂はビニール袋からマジックと紙切れを取り出して、なにやら書くと運んできた品物に次々と貼っていく。

 不思議に思って、夏弥は訊ねる。

「なにしてんの?」

「物品の割り振り。どのクラス、部活が頼んだかわかるようにしておくの。ちゃんとチェックしておかないと、勝手に持ち出しちゃうとことかあるから」

 なるほど、と夏弥は納得する。

「なんか俺にもできることあるか?」

 つい、そんな言葉が口を出る。

 疲れてはいたが、てきぱきと働く桜坂の前で一人だけ休んでいるわけにもいかない。ここまで来たのだからついでにと思って訊ねると、桜坂も遠慮なく(こた)えた。

「じゃあ、()り終えたやつを倉庫側にわける作業をしてもらえる。終わったやつとまだのやつが混ざってるとやりにくいから」

 了解、と夏弥は起き上って貼り終わった物品を移動させる。模造紙やガムテープなどの軽いものならまだ楽だが、鉄板のように大きくて重いものは少しだけ大変だった。荷物を運んだ直後なだけに、余計に重く感じる。

 桜坂は本当にてきぱきと仕事をこなしていく。物品を仕分けながら夏弥にもときおり指示を出す。あとの作業を考えてだろう、指示が終われば再び作業に没頭(ぼっとう)する。熱心なやつ、と夏弥も素直にモノを運ぶ。

 それだけで、一時間は経過した。それなのに、あまり時間が経ったようには感じられない。時間の経過を知ったのも、桜坂が自分の携帯で時間を確認したからだ。

「もうお昼か。雪火、そろそろ休憩にしよ」

 桜坂は倉庫からビニールシートを取り出して、外に出したままの物品の上にかけた。物品を中にしまわないのは、後でちゃんと整理するためらしい。どこにどのクラス、部活の物品があるかわかるようにしておくと、いつその担当者が来てもすぐに対応できるからだそうだ。そういうところも、けっこうしっかりしているんだ、と夏弥は感心する。

「ありがとね、雪火。なにからなにまで」

 倉庫に鍵をかけると、桜坂は振り向いた。

「いいさ。もういいのか?」

 まだ物品は外に出したままだったが、桜坂は特に気にしていない様子だ。

「いったんお昼とって、午後からまた作業。ここ以外にも、まだまだ仕事あるからさ」

 その返答に、夏弥は驚いた。

「午後もやるのか?月曜からでいいんじゃないか」

 もちろん、出しっぱなしの物品くらいは片付けないとまずいが、それ以外の仕事があることに夏弥は驚く。せっかくの休日を仕事に使うなんて夏弥には信じられない。こんなにも桜坂が働いているのに、桜坂にはなんの見返りもない。それこそ、サボっている他の実行委員たちにやらせるべきだ。

 そうもいかないんだ、と桜坂は肩を(すく)める。

「月曜は月曜で見回りやんなきゃいけないの。まあ、それは上級生が中心だけど。あとはクラスや部活との対応があるから、休みのうちにやれることやっとかないとあとで大変になるの」

 ここ一カ月近くで桜坂が学んだことらしい。

 できることはできるうちに。

 早めにやっておかないと後で大変になる。

 言葉の上ではわかるが、それを理解して休みを使い果たしてしまうことに、夏弥は感心するしかない。

 そうだ、と桜坂は手を叩く。

「雪火。このあと、時間あったりする?」

 突然のことに、夏弥は首を傾げる。

「なんで?」

「いや、午後も空いてるなら、手伝ってほしいかなー、なんて」

 上目遣いに訊ねる桜坂。

 なるほど、と夏弥は素直に納得する。しかし、どうしたものか。これだけ頑張っているのだから手伝ってやりたい気もする。

 思案したが、夏弥はローズたちのことを思い出して断ることにした。

「ああ、悪い。午後は用事がある」

 午後は買い物から帰って来た美琴たちの相手をしないといけない。夏弥がデパートまで行ったのだって、元はお昼の準備のためなのだから。午後まで手伝っていたら、美琴たちが空腹で文句を言ってくるだろう。

 そっか、と桜坂は少しばかり残念そうに呟く。

「ごめんね。付き合わせちゃって」

「いいさ。手伝うって言い出したの俺だし」

 校門まで行くと、桜坂は夏弥の家とは反対の方向を指差す。

「じゃ、あたしこっちでご飯にするから」

 その方向は夏弥がよく行くスーパーの他に、大通りに面しているのでレストランやコンビニがある。運動部では土日の練習後にはよくレストランでたむろするらしい。

「ああ。じゃあな。仕事、頑張れよ」

 それだけ残して夏弥は家に向かう道を歩き出す。桜坂のことをまだ気にしつつ、夏弥は家に帰ってからのことを考えた。ローズたちはもう帰ってきているだろうか。人数も人数だから、さっさと昼飯を作ってしまおう。


 夏弥が家に戻ると、美琴と栖鳳楼と水鏡、そしてローズの四人は先に帰っていた。なにやらローズの部屋にしている客室で騒がしい声が聞こえる。

 夏弥が声をかけると、中から美琴が顔だけ出してきて。

「男子立ち入り禁止」

 一言残して、美琴は素早く扉を閉めた。部屋の中からはまだ騒がしい声が聞こえる。なにやら、とても楽しそうな女子の声が聞こえる。

「まあ、入ったらまずいよな」

 おそらく着替え中なのだろう。そんなところに飛び込んだら、余計に夏弥の状況は悪くなる。

 でも、なるほど。着替え中か。

「…………」

 女子の楽しそうな声に、夏弥は変な想像が働いて、慌てて手を振る。顔が赤くなっているのを誤魔化すように、台所へと駆け込む。あっちもしばらく時間がかかるだろう、その間に昼食を作ってしまおう。

 それから一時間ほど。

 いい加減、お腹が空いてきたのか、途中で美琴が昼食の催促(さいそく)をしてきたが、こちらは八人分、もとい五人分作っているのだから、すぐにできるわけがない。むしろ一時間でできたのはかなり早いほうだと思う。下ごしらえをする時間だってなかったのだから。途中で、水鏡が手伝ってくれたからできたようなものなのだが。

 そうしてできた今日のお昼。ゆでなす、ブロッコリー、トマトときゅうりのサラダ、中華丼のあん、サーモンのマリネ、あとはご飯に味噌汁。

 今日は人がいるからと、大分はりきった。夏弥以外は女なのにそれなりに量があるのは、およそ特定の二人のためである。

「いただきます」

 五人が食卓に並んで、昼食が始まる。

 水鏡は夏弥の料理の腕を知っているのでいたっていつも通りだが、栖鳳楼は感心したように、へえ、と漏らす。

「……」

 サーモンのマリネに(はし)を伸ばして、一口。

 まるで吟味(ぎんみ)するように口に含んで、ゆっくりと飲み込んでから感想を漏らす。

「おいしい……」

 ごく自然な感想。

 夏弥も少しばかり肩の緊張が解ける。

 栖鳳楼の家は時代錯誤(じだいさくご)大豪邸(だいごうてい)で、お(かか)えの料理人がいるほど。一級料理人の作る食事を毎日食べているわけだから、もちろん栖鳳楼の舌は肥えている。そんな相手に納得できる料理が作れて、夏弥は嬉しいんだか誇らしいんだが、妙に安堵している。

「食べたいものがあったら早めに食べとけよ。すぐなくなるから」

 ちら、と特定の二人に目を向ける。

 美琴はご飯のおかわりをよそっていた手を止めてじろりと夏弥を睨む。

「ちょっと夏弥。なんでそこでお姉さんを見るのよ」

 山盛りにご飯をよそって、美琴はそう反論する。

 夏弥は(とぼ)けた顔で視線を逸らす。

「…………いや、あなただけじゃないから安心して」

 その視線の先にもう一人の大食(おおぐい)姫様が鎮座(ちんざ)している。

 美琴同様、夏弥や他の二人の倍近い大きさのどんぶりにたっぷりと中華丼のあんをかけて満足そうに頬張っているローズの姿。

 朝は黒のドレスだったが、さっきの買い物で購入してきたフリルのついた白のブラウスを着ている。今まで黒いドレスばかりだったので、対照的に白い色というのは新鮮だ。

「…………」

 つい見とれてしまいそうになるのをこらえて、夏弥は食事に専念する。これだけ大勢の前でそんな不自然な行動は目につくというものだ。

 夏弥の返答に納得したのか、美琴は大盛りのご飯に満足そうに箸を入れる。あ、そうだ、と思い出したように美琴は声を上げる。

「今日、夏弥の家に泊まるから」

 ……(あや)うく味噌汁を吹き出しそうになった。

 必死にこらえている間に、美琴はこともなげに続ける。

「お姉さんも甘かったわ。夏弥のことだから間違いが起こるなんてことはないと思うけど、ローズちゃん不用心なところあるから。念のためにね」

 なんてことを言ってのける。

 ようやく逆流しかけた味噌汁を胃袋に流し込んで、落ち着いたところで口を開きかけた夏弥より先に、水鏡が口を開く。

「あたしも泊まります」

 ――思考が飛んだ。

 その言葉を理解するより先に、もう一人がすました顔で続けた。

「あたしも泊まるから」

 栖鳳楼の言葉で、ようやく夏弥の頭はピースがハマったように理解した。理解したと同時に、夏弥は叫んだ。

「ちょっと待て!そんなに大人数、いっぺんに泊まらせられるわけ……」

「あら、大丈夫よ」

 さらりと、美琴が答える。

「布団が人数分あるのも、さっき確認したし。四人くらい簡単に入るわよ」

 夏弥の家は一人暮らしをするには無駄に広い。

 以前は父親と二人で住んでいたわけだが、二人でもこの家は広々としている。桜坂の言葉ではないが、二世帯でも十分入るだけの広さがある。

「いやいや。でも……」

「いいじゃないの。今までローズちゃんもいたんだから。一人増えるのも三人増えるのも、変わらないでしょ」

 問題ない、とばかりに美琴はさらりと言ってのける。

 …………いやいや、問題あるだろう。

 四人だ。四人もの女が同じ家に泊まり込む。唯一の男である夏弥にはこの状況は耐えがたい。男としてはこの上ない喜ぶべきことなのかもしれないが、夏弥には生憎それだけの度胸などない。

 ぐるぐると思考ばかりが空回りする夏弥に、隣の水鏡がおずおずと夏弥を(うかが)う。

「雪火くんだっていけないんだよ。ローズさんのこと、今まで黙ってたんだから」

 そう言われてしまうと、夏弥の反論の余地はなくなる。

「だから、今夜だけ。お願い」

 そんな。

 そんなふうにお願いされたら、男である夏弥は無下(むげ)に断ることができるだろうか。それができていたら、こんな苦労など最初からないのだ。

「……もう、好きにしろ」

 投げやりに、誰にともなく呟いた。

 決まりね、なんて美琴の思わず殴りたくなるようなセリフを遠くで聞いたような気がした。


 一難去って――。

 お昼時に女三人からお泊り宣言をくらって、夏弥の心は穏やかではない。昼さえ乗り切れればなんとかなるなどと考えていた夏弥が甘かった。

 別に、食事の心配をしているわけではない。午前中の買い物のおかげで食材は十分にある。問題は、夜になってからだ。

「はぁ……」

 つい、溜め息が漏れる。

 昼食が終わって、女性陣三人は居間でお茶を飲んでいる。夏弥と水鏡だけが台所で食器洗いに専念する。

 隣の水鏡が心配そうに夏弥の顔を覗き込む。

「やっぱり、迷惑だった?」

 普段なら心配させまいと取り繕う夏弥も、今はそんな余裕もない。愛想笑いだけ浮かべて返答する。

「いや、黙ってた俺が悪いんだから仕方ないさ」

「うーん。そう言われると困っちゃうんだけど」

 水鏡は本当に困ったように言葉を(にご)す。

 その後の沈黙が嫌で、夏弥は誤魔化すように笑った。

「水鏡も驚いただろ。あんなに動揺した水鏡なんて、初めて見たし」

 そんな、なんて声を上げて水鏡の顔が(しゅ)に染まる。そうやって恥ずかしがる水鏡が妙に可愛らしい。つい、顔が(ほころ)ぶ夏弥に水鏡の顔はさらに真っ赤になる。

「でも、きっとローズさんは純粋なんだよ」

 落ち着いた声で水鏡が呟く。

 その言葉に、夏弥はどきりとする。

「ローズのこと、わかってもらえた?」

 一番の懸念事項はそれだ。

 美琴や栖鳳楼はともかく、水鏡のことが最も気がかりだった。彼女たちが買い物をしている間になにがあったかは、夏弥は想像でしか知ることができない。少しでも事態がよい方向に向かっていればと、ただただ願うばかりだ。

「…………事故、だよね」

 ぽつり、水鏡が呟く。

「?」

 意図がわからず、夏弥は首を傾げる。

 ええっと、と水鏡の頬が上気する。

「その………………、雪火くんが、ローズさんの体、見たって……」

「!」

 どきり、と心臓が跳ね上がる。夏弥の顔は見る見るうちに赤く染まる。弁解するように夏弥は口を開く。

「わざとじゃないんだ。その、俺も不注意だったっていうか。……ああもう。俺も早くに気づいてればよかったんだ」

 もう自棄(やけ)だ、とばかりに夏弥は食器を洗う。冷たい水に、夏弥の体温が下がってくれることを強く願う。

 そんな夏弥に、水鏡は微笑む。

「大丈夫。あたしももう、わかったから。ローズさんって、見た目はすごい大人なのに、どこかあたしたちと感覚が違うんだよね。でも、本当に素直な人だから。必要なことだけわかってもらえれば、それで問題はないと思う。だから、一晩だけ様子を見ておきたいの。それだけは、わかって」

 上目遣いに見られて、夏弥の心から焦りが消える。

 ああ。そうか。

 妙に納得してしまう。

 水鏡は信じてくれるんだ。

 あれは事故で、ローズは悪いやつじゃないって。夏弥にそんな気はないって、ちゃんとわかってくれている。

「ああ。わかったよ」

 それがわかって、夏弥は妙に安心した。

「心配してくれて、ありがとう」

 途端、水鏡は恥ずかしそうに俯いてしまう。気づけば、洗いものは全部片付いていた。水鏡は慌てるように手を()くと居間のほうへとかけていった。

 夏弥も食器洗いが終わったので、手についた洗剤を落とす。

「なにが、ありがとう、よ」

 手を拭いていると、どこからか含みのある声が聞こえてくる。振り返ると、台所の入口に栖鳳楼がもたれかかっていた。

「水鏡さんも、もう少し強く言えばいいのに」

 性格的に無理か、なんて溜め息を吐きながら肩を落とす。腕組みをしているせいで妙に偉そうだ。

 その態度にかちんときたのか、夏弥はむっとして言い返す。

「なんだよ、栖鳳楼。なんでおまえまで泊まるなんて言うんだ」

 そう訴えるが、栖鳳楼は涼しい顔で応える。

「間違いが起こらないように様子見てあげるんじゃない。今は落ち着いているけど、買い物の間とか、水鏡さん、結構大変だったんだから」

 くくく、と思い出したように栖鳳楼は笑う。

 途端、夏弥の体から冷や汗が出る。

「……やっぱ、まずかったか?」

 朝の水鏡の顔といったら。

 まるでこの世の終わりでも見たような人間の顔をしていた。そのまま倒れてしまうのではないかと思えるほどに。

「水鏡さんは自分の中で抱え込んじゃう人だから。あそこまで取り乱すところは、あたしも初めて見たわ」

 台所の入口から離れると、栖鳳楼は腕組を解いた。

「まあ、雪火くんも見てわかるように、もう大丈夫だから。月曜日からは、いつも通りじゃない。この後、なにも起こらなければ」

 最後のほうに余計なセリフを聞いた気がしたが、夏弥はそれを無視する。

「それより、三人ともこの後どうすんだ。着替えとか、そういうのあるだろ」

 当然、雪火家に女物の寝巻きなんてあるわけがない。彼女たちもいったん家に帰って着替えや入浴くらいはすませてくるのだろう、と夏弥は予想していた。

 しかし――。

「あたしは家に連絡したから、そのうち誰かが持ってきてくれるけど。風上(かざかみ)先生はあのままでいいって言ってたかな」

「水鏡は?」

 にやり、と栖鳳楼は心底楽しそうな、あの意地の悪い笑みを浮かべる。

「それがね。水鏡さん、デパートで服一式買ったから替えはそれにするんですって。結構、気合い入ってたわよ。明日の服はもちろん、パジャマも下着も全部買ってたから」

 後半のほうに夏弥は変な想像が働いた。

 わざわざ自分の家に泊まるために、パジャマと下着を買ってくる。水鏡の寝巻き姿か、一体どんな感じなんだろう。

 夏弥の心を見透かしてか、栖鳳楼は悪魔のように囁く。

「今夜は楽しみにしててね」

 どくん、と心臓が跳ねた。

 夏弥は自分の妄想を力一杯否定した。

「ちょっと待て!じゃあ、風呂とかどうするんだ」

 ああ、と栖鳳楼は惚けたように答える。

「見せてもらったけど、そこまで小さくないわね。この辺りで銭湯ないし、使わせてもらうわ」

 なんて、(のたも)うた。

「覗いちゃダメよ」

 そんな捨てゼリフを残して、栖鳳楼はさっさと消えてしまった。取り残された夏弥はあまりの頭痛に額を抑える。

「…………ああ、ますます不安になってきた」

 一難去ってまた一難。

 誰かこの状況を代わってほしいというやつがいたら、夏弥は喜んで代わってやりたいとそう思った。


 翌週、土日の休日が開けて人々が社会生活を再開する月曜日。ここ丘ノ上高校でもそんな社会の流れにならって授業が開始する。

 しかし今日はいつもの学校生活とは違う。そのわずかな変化に、生徒たちは色めき立つ。

「今日から授業は半日で終わりだー」

 昼休みが終わって、いつもなら五時間目の授業が始まるが今日はない。夏弥の前に座っている麻住幹也(あさずみみきや)は伸びをしてそのまま夏弥のほうへと顔を向ける。夏弥にはちょうど幹也の顔は上下逆さまに見える。

「さて、家に帰って遊びに行こう」

 幹也の言葉を受けて、夏弥は返した。

「馬鹿。(ちげ)ーよ」

 言って幹也は体を元に戻すと夏弥のほうへと振り向いた。

「グラウンド行って思い切し走るぞー」

 そんなことを言いながら天井に向かって右手を突き出す幹也。

 夏弥は(あき)れ半分に呟く。

「……そっちか」

 がた、と音を立てて幹也は椅子から立ち上がり、ガッツポーズでもするみたいに遠くを見つめる。

「よーし。走るぞーっ!」

「と、思ったら……」

「と、思ったら……」

 二人の視線が交差する。夏弥は席についたまま見上げるように、幹也は突っ立ったまま半ば呆然として。

 夏弥は目を閉じて答える。

「クラスの学祭準備がありました」

「なんですとーっ!」

「しばらく部活もありません」

「あーっ!マジやってらんねー」

 冷静な夏弥の言葉に、幹也はオーバーリアクションに体をよじる。頭を抱えて雷撃に撃たれたように体を揺さぶる幹也は、傍目(はため)で見ているとかなり面白い。

「しかもこの後、幹也くんにはクラブの学祭準備もあります」

「それは忘れさせろ!」

 びし、と幹也は夏弥を指さす。

 幹也は疲れたようにどっと席に座りこんで頭を抱える。完全に落ち込んでいる幹也に、夏弥は笑いをこらえきれず失笑する。

「あー、メンドくさ。クラス展示なんて、どうだっていいのに」

「それは言わないほうが吉だぞ。なんか周りのやつら、妙にやる気だし」

 今日と明日は学祭準備のために授業は午前中で終わる。つまり、午後は放課後ぎりぎりまで学祭準備の時間としてあてがわれる。

 夏弥のクラス、一年三組でも学祭準備が始まって、始まるまではなにをするのかさっぱりだったのに、いざ今日来てみればクラスの学祭実行委員やその仲間内ではなにをするかはもう決まっていたらしく、そういうやつらを中心にけっこう活気づいている。今までやる気のなさそうだったのが嘘のようだ。

 夏弥の前で座っている幹也はまだ不満そうだ。

「やる気があるやつがやればいいんだよ。こんなわけのわからないもの」

「……ま、否定はしないけど」

 ちらりと、夏弥は横目で教室の中を窺う。教室の扉側半分は作業の邪魔だからと机を窓側や端のほうに寄せて、その空いた空間ではやる気の溢れる主に男子生徒たちがなにやら作っている。夏弥もそれがなんなのかは聞いているが、ぱっと見ただけではなにをやっているのかわからない。ごわごわの紙をテープでぺたぺたと貼りつけている。内側から固定してテープのあとが見えないようにしているあたり、わりと本気だ。

 そんな完全蚊帳(かや)の外モードの二人の近くから水鏡が楽しそうに微笑(ほほえ)んでいる。

「でも、面白そうじゃない。『星の神秘』なんて」

 水鏡は二人に手に持っていた星型の折り紙を見せる。金色の折り紙で折っているので、本物の星みたいだ。もっとも、本物の星はこんな形はしていないのだろうけど。

「おぉ。水鏡、上手だな」

 感心したように幹也が漏らす。

 まるでさっきまでの気だるい雰囲気を感じさせない、見事な変わり身だ。この男は女子の前では調子がいい。

 水鏡は嬉しそうに微笑む。

「ありがとう。でも、結構簡単に作れるんだよ」

 協調性のある水鏡はその作業を気に入ったらしい。すでに五つほど折り上げている。一応夏弥たちも星を作らなければいけないのだが、きっと水鏡は放っておけば全部一人で作ってくれそうだ。

 そんな光景を微笑ましく眺めながら、幹也は思い出したように溜め息を吐く。

「これ終わったら、部活のほうにも顔出さないと行けないのか……」

「忘れたいんじゃなかったのか?」

 夏弥が意地悪く突っつくと、幹也は勢いよく立ち上がる。

「ああ、忘れたいよ。忘れさせてほしいよ」

 そのまま身をよじって叫び声を上げる(シャウトする)。学祭準備で辺りが騒がしいとはいえ、もう少し自重して欲しいものだ。まあ、今日に限っては面白いからいいかと夏弥も注意はしない。

 水鏡は新しい折り紙を手に取りながら幹也に訊ねる。

「陸上部はなにをやるの?」

 幹也が所属する陸上部でも、学祭に出店するらしい。各クラスでは自分たちの教室を使って演劇や肝試し、夏弥のクラスのように展示をするのがほとんどだ。

 対して各部活ではほとんどが模擬店を出して、中には放送部が映画をするみたいに特殊なのもあったりする。

 幹也はにやり、と見ていて清々しいほどの笑みを浮かべる。

「へへっ。それは来てからのお楽しみ」

 夏弥や水鏡たち一年生は丘ノ上高校での学祭の様子を知らない。だから、毎年どの部活がどんな模擬店を出しているのかは上の学年にでも聞かなければわからない。

 幹也は秘密と言って教えてくれないが、夏弥は周囲の噂話から大体の予想はついている。

「お前は鉄板の係りか?」

「おうよ。裏でバンバン焼いてるから、遊びにこいよ。サービスしてやるぜ」

 どん、と胸を叩く幹也。

 こんな鎌にかかっているあたり、幹也もなんだかんだいってノリノリだ。折角なので学祭の昼飯は幹也のサービスに期待しよう。

「雪火くんのところはなにをするの?」

 水鏡に訊かれて、夏弥は答える。

「秘密、ってほどでもないから話すけど。展覧会。美術部らしいといえばらしいけどね」

 夏弥も学祭が近くて気分が高揚(こうよう)しているのか、ついいつもより余計に話してしまう。

「部員一人一人が作品出してさ、それを飾るわけ。それで、見に来た人はその中から一番気に入った作品に一票を入れるんだ」

 へえ、と水鏡は目を輝かせる。

「面白そう。じゃあ、あたし雪火くんの作品に票を入れるね」

 そんなことを話していると、三人の輪の中にもう一人の生徒が入ってきた。

 中間美帆(なかまみほ)。クラスメイトの一人で、夏弥とは同じ美術部に所属している。中間はにっこりと水鏡に微笑みかける。

「ぜひ遊びに来てくださいね」

「そーいや、中間も美術部だっけ」

 幹也が訊ねると、はいと中間は頷く。

 水鏡は慌てたように中間に言い添える。

「じゃ、じゃあ。あたし、中間さんの作品にも一票入れるから」

「……水鏡。一人一票までだって」

 夏弥が訂正すると、水鏡は困ったように夏弥と中間を交互に見る。

「え。ええっと……」

 明らかに動揺している。そこまで律儀にしなくていいのに、と夏弥も中間も可笑(おか)しくて笑った。

「実際に見て、気に入った作品に入れればいいよ」

「そうそう。誰も、誰がどの作品に入れたかなんてわからないんだし」

 そう、と水鏡はまだ困ったように首を傾げる。

 とりあえず、水鏡が二票入れて無効票になるようなことはなさそうだ。さて、水鏡は誰の作品に入れてくれるのだろうか。

 なるほど、と幹也はなにか思いついたように手を叩く。頭の上から電球でも点いているような、まんまな反応だ。

「よし。じゃあ俺は夏弥以外の作品に一票入れてやる。そうだな、中間辺りに入れてやるよ」

 にしし、と笑う幹也。

 この男はどうも夏弥の邪魔をしたいらしい。幹也は知らないが、もっとも不人気だった作品を描いた生徒にはその後の打ち上げ代を全額払わなければいけない。美術部の部長氏(いわ)く、ざっと三万ほど。高校生には致命的な額だ。

 いつもならそんな幹也に食ってかかる夏弥も、しかし今日は落ち着き払って返してやる。

「ま。勝手にするがいいさ」

 そのいつもとは違う反応に、幹也は驚いて目を開く。

「おっ。なんだ夏弥。その余裕は」

「ふん。お前ごときの一票じゃ、そんな大差ないって」

「言ったな。その言葉、あとで後悔することになるぜ」

 びし、と夏弥を指さす幹也。

 流石(さすが)に調子に乗りすぎたかなと、夏弥は言い添えておく。幹也とだけこんな話をしているならいいが、周囲には水鏡と、なにより中間がいる。

「そもそも幹也は、一年だから学祭中ずっと店番だろ」

「ふん。お前を蹴落とすために時間見つけて票を入れてやる」

 意地悪い笑みを浮かべる幹也。

 きっとこの男は本当に美術部まで足を運んでくるだろう。美術部の展覧会だから、いつものノリで騒がしくしてくれなければいいのだが。

「…………まあ。冗談はこれくらいにして」

 と、夏弥は水鏡のほうへ向く。

「水鏡、折り方教えて」

「いいよ」

「こらっ。夏弥。逃げるな」

 訴える幹也に、夏弥はムっとした表情で応える。

「おまえも、ちゃんと手伝えよ」

 そんなことを言って、夏弥は平然と水鏡から星の折り方を教わろうとする。

「さっきと態度違くね?」

 不満そうに呟く幹也に、しかし反応するものはもういない。周囲は完全に学祭モードに入っている。

「雪火くんは、星に糸通してもらえる?」

 中間が提案する。

 星作りは他の生徒もやっているため、十分な数がある。夏弥は了承してロッカーから裁縫道具を持ってくる。丘ノ上高校では一年生の授業で家庭科があり、簡単な裁縫を行っている。男子はおろか、最近では女子でも裁縫を知らない人がいるようだ。夏弥は家で衣服の繕いもやっているので、難なくできたものだが。こんなときだけ、夏弥は周囲の生徒から尊敬と驚きの眼差しで見られる。驚きというのは、つまり意外だということだ。

 夏弥が学祭の準備を手伝っていると、不意に声をかけられた。

「雪火」

 振り返ってみると、クラスメイトの男子生徒だ。

「なに?」

「呼んでる」

 男子生徒はくい、と親指を廊下に向ける。

「誰?」

「他のクラスのやつ。廊下で待ってる」

 簡単に用件だけ告げると、男子生徒は自分の持ち場へと戻っていく。

 誰だろうこんなときに、と夏弥は手を休めて廊下へと向かった。教室を出ると、すぐに誰から呼び出されたかがわかった。


 周囲では生徒たちの話し声が賑やかに聞こえる。学祭の準備でどのクラスも大分盛り上がっている。いつもの授業の光景とは違う、もう一つの学校の側面がそこにある。

 そんな声が、妙に遠くに聞こえる。

 意識の問題だ。

 ――この世界には、必ず死が内包されている。

 生きているということは、必ず死ぬということ。

 平和に見える世界でも、どこかで人が死に、殺され、苦しみ、悲しむ。悲嘆(ひたん)も、悲痛(ひつう)も、それは事故かもしれないし、故意(こい)かもしれない。

 傷つくばかりの世界が、そんな世界を知りたくないから、人は目を(そむ)ける。たとえ世界の死を知っていても、それは自分とは関係ない、遠い世界のように区別することで自分の存在を安定にしている。

 ――認識の問題。

 世界は死に溢れているということを知って、それを見ているのか、()ようとしているのか。

 夏弥はその生徒を目にして、戦慄(せんりつ)する。

 でも、ここは学校で、今は学祭の準備期間。

 平和で、平穏。

 そんな当たり前の世界に、だから夏弥もここにいることを認識するため、あるいは認識したいから彼女の名前を呼んだ。

「栖鳳楼……」

 周囲の喧騒(けんそう)の中、栖鳳楼(あや)の存在は目を惹く。

 整った顔立ちにその静かな瞳は刃物のように美しい。彼女の周囲を包むお嬢様(しか)りといった品のよさは、どこか浮世離れした気品に溢れている。

 彼女だけがこの空間から切り離された、一つの絵画のよう。それは独立しているがゆえに、他を隔絶(かくぜつ)する。

 その存在に、誰もが目を奪われる。

 ()かれる、けれど近づけない。

 触れた瞬間に、自分という存在がまるごと矛盾しているかのような違和感。

 栖鳳楼は、夏弥にとって異世界へと導く一つの扉。

「なんだよ。今、学祭の準備の時間だろ」

 そんな、当たり前のセリフ。

 ここが学校で、当たり前の世界だと実感するための言葉。

 それを拒絶するように、栖鳳楼は口を開く。

「すぐ終わる。ちょっと来て」

 連れて行かれた場所は美術室だった。夏弥にとっては部活の活動場所なので、見慣れた場所だ。普段から人があまりよりつかないここは、学祭準備期間でもそう変わらない。

 空っぽの教室に、夏弥と栖鳳楼の二人だけ。

「なんで、わざわざ」

 こんな場所(ところ)に、と夏弥は不平を口にする。

「ここなら人は来ない。それに、あなたにとってここは居心地がいいと思って」

 (すず)しげに、栖鳳楼は窓から外を見下ろす。ほとんどの生徒が自分の教室で学祭の準備に取り掛かり、学祭実行委員など一部の生徒は物品を運んだりで走り回っている。そんな一部を除けば、外はいたって静かなものだ。

「で、なんの用だ」

 乱暴に、夏弥は訊ねる。

 栖鳳楼にこうやって呼び出されるときは、大抵魔術師関係(あちらがわ)の話だ。

「雪火くんが忘れていないか、確認しておきたかったの」

 くるりと振り返って、栖鳳楼は夏弥を見る。それだけで、夏弥は栖鳳楼がなにを言おうとしているのかわかった。

「勝負のことか?」

 素直に、訊ねる。

「覚えていてくれて嬉しいわ」

 それほど嬉しそうでもないのに、栖鳳楼はそう返す。その表情は精巧(せいこう)なまでに微笑を浮かべ、とても自然な表情とは思えない。

 いつもなら反発する夏弥も、しかし素直に次の言葉を続ける。

「で、約束だと、学祭が終わった次の日、ってことになるのか?」

 あまり反発しても、結果は変わらない。そんなことをしても、自分に嫌気がさすだけだ。夏弥はもう、決心しているのだから。

「そこまで覚えているのなら心配なさそうだけど、念のため。勝負の日はその日、時間は十一時、場所は学校近くの川原。例の取り壊されたマンションのすぐ横」

 用件はそれだけ、とばかりに栖鳳楼は夏弥の横を通り過ぎる。

「あなたの実力、見せてもらうわ」

 なんてセリフを残して、栖鳳楼は美術室を後にする。

 その言葉に、夏弥はなにも返さない。栖鳳楼は、きっと本気だから。

 ――だから。

 夏弥も、自分が決めたことを、最後まで貫かねばならないと、決意を固めるだけ――。


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