第一章 姫たちの葛藤
一日の始まりは、朝の目覚めから。夏弥は頭の上で鳴り響くけたたましい目覚ましの音に顔をしかめる。時計を引き寄せて時刻を確認すると、そろそろいつもの起床時間。それでも、明かりを消した部屋は夜のように薄暗い。目覚ましを止めると、代わりに雨の音が耳に届く。起き上ってカーテンを開けると、見事なまでに雨天だ。
六月も後半となり、今日学校に行けば明日、明後日は土日で休み。来週からは学祭の準備が本格化する。夏弥の通う丘ノ上高校では六月の終わりに学祭が開かれる。今年入学したばかりの夏弥は高校の学祭というものがどんなものかわからないが、それなりに期待はしている。
「学祭のときくらい、雨はやんでほしいな」
窓の外を眺めながら、ぽつり、呟く。
六月は春から夏への移行期間。すなわち、梅雨の時期。学祭は六月の終わりなので、例年その頃までには梅雨が明ける。けれど、こう雨が続いてばかりだといささか心配にもなる。
「ま、心配してても仕方ないけど」
そう、心配していても仕方がない。天気ばかりは、夏弥にもどうしようもない。夏弥は部屋の明かりを点けて、カーテンを閉めた。
「さて、今日一日を乗り切ろう」
今日が終われば、明日明後日は休み。その次の週からは、学祭の準備期間で授業は午前の半日しかない。午後は学祭準備のため結局学校に残るが、授業が半分ですむのはありがたい。今日さえ終えれば、夏弥にとっていい日が続く。
夏弥は寝巻きのまま一階に下りた。夏弥の家は木造二階建てで、少し時代を感じる日本家屋。部屋は基本畳で、廊下や階段は年代ものらしく踏めばギシギシと音を立てる。小さい頃から父親と二人で暮らしてきたが、その父親も夏弥が小学五年生のときに他界。今は一人では広すぎるような気もする家で一人暮らしをしている。
はずだったのだが。
「ローズ。朝だぞ」
一階の客室の前に立って、夏弥は襖を開けた。
この家には夏弥以外に、二週間前からもう一人の人間が暮らしている。いや、人間と呼んでいいかわからない。
少女の名はローズマリー。少女は長いからローズと呼ぶようにいっているので、夏弥はそう呼んでいる。
この世界には魔術師と呼ばれる、魔術を使うものたちが存在していて、彼らは科学技術が発展した現代社会においてその存在を知られないていどに魔術の研究を行っている。その魔術師にとって有名な戦いが、この町では密かに行われている。
楽園争奪戦。
選ばれた六人の魔術師がお互いの魔術を競い合い、その戦いで勝ち残った一人には、あらゆる願いを叶えてくれる楽園への鍵が賞品として与えられる。
楽園争奪戦に選ばれたものは刻印と呼ばれる印が腕に刻まれ、そしてこの戦いの中で参加者は自分の魔術以外にも楽園の一部である欠片を使用して戦いを進めていく。
ローズマリーは、夏弥の持つ欠片〝無限回廊〟から呼び出された式神で、その本来の姿は黒い龍。だが、普段は魔力の消費を抑えるためと、一般社会に溶け込むために人の形をしている。だから、襖の奥にいるローズは、夏弥と同じくらいか少し年上ほどの少女の姿をしている。
「夏弥か。おはよう」
愛想良く返事をするローズ。
しかし、夏弥はその先の言葉が出ず、硬直する。
もう一度確認しておくと、今のローズは人の、少女の姿をしている。
普段、ローズは夏弥よりも少し早めに起きて、いつもなら屋根の上にいるか、今日みたいに雨が降っていれば縁側で外を眺めているだろう。それが習慣化してしまったからこそ、夏弥も襖を開ける前に一声かけるという行動をしなくなっていた。
――今日に限って、ローズは寝坊をしたらしい。
布団の中で、少女は上半身だけ起こしている。少女がいつも身につけている黒いドレスはハンガーにかかっていて、あろうことか彼女は裸だった。もう夏も近いからと、ローズは腹部だけタオルを巻いただけで、つまり上半身も、お腹以外の足の部分も、なにも覆うものがなくその白い肌を曝している。
「……」
もう一度、と。夏弥は頭の中で整理する。
ローズは夏弥の式神で、つまり人ではない。しかし今の姿はどう見たって夏弥と同じくらいの少女なわけで。
――そんな少女が、ほぼ全裸の状態で布団の上に寝そべっている。
硬直した夏弥をよそに、ローズは欠伸をして目をこする。そのあまりにも人間くさい動作に、夏弥はさらに混乱する。
ローズは不思議そうに目をぱちぱちさせて夏弥を見上げる。
「どうした、夏弥。顔が赤いぞ」
熱でもあるのか、と立ち上がりかけたローズに、ようやく夏弥の理性が叫びをあげた。
「服を着ろ!」
勢いよく襖を閉めて、夏弥は逃げるように階段を上って自室にこもった。あまりの勢いに、夏弥は布団を頭から被ってそのまま固まってしまった。
明日は土曜日で学校は休み。来週からは学祭の準備が本格化して授業は半日で終わる。今日さえ乗り切れば、夏弥にとってこのうえなく最高な日々が続く。
そう、今日さえ乗り切れば……。
――その、今日の始まりが。
今朝の天気のように、全て水で流せてしまえればどんなに楽かと、夏弥は布団の中で強く願った――。
「あははは。すまんすまん」
大声を上げてローズは笑う。
朝食の時間、いつもなら朝ご飯のメニューを起きてから作る夏弥は、しかし今日は昨日の残りものと冷奴などすぐに食べられるものばかりを出した。布団の中に三〇分以上こもっていたこともあるし、なにより今の夏弥の精神状態でまともに食事を作れる気がしない。明らかな手抜き料理に、しかし夏弥は動揺を抑えるのに必死だ。
夏弥とローズはいつも向かい合うようにして食事をする。だから夏弥は、今日ばかりはローズと目を合わせまいとわざと視線を外す。その顔は、端から見てもわかるくらい耳まで朱に染まっている。
「夏弥が年頃の男性だということをすっかり失念していた」
そんな夏弥をよそに、ローズはくくく、といまだに笑いをこらえきれない。時折、こらえきれずにテーブルを叩くくらいだ。
ローズは腹を抱えながら涙目で小さくなった夏弥を見る。
「だが良かったではないか。女子の裸などそうそう見る機会はないぞ。朝から得したな」
「ばっ。馬鹿言え!」
夏弥は勢いよく手にしたコップをテーブルに叩きつける。割れはしなかったが、中身の牛乳が浮き上がる。
夏弥は真剣に怒っている。それは、夏弥だっていきなり襖を開けたことは悪かったと思うし、ローズの、女の子の体を見てしまったことはいけないことだと感じている。
しかし、ローズのその後の態度は夏弥の反応を子どもっぽく扱うばかりで、あまり驚いているように見えない。むしろ、夏弥ばかりが気にしているみたいで、夏弥だけ居心地が悪いのがばかみたいだ。
自分のほうが悪いとは思いつつも、ローズの態度に夏弥は不平の一つでも言ってやりたくなった。いや、言わないと気が治まらない。
「ってか。なんで服着て寝ないんだよ」
夏弥にとって、これは当然の反論だった。
夏が近づいているとはいえ、まだ六月だ。それ以前に、女の子がなにも着ないでタオルケット一枚で布団に入るなんて、どうかしている。夏弥はローズが式神であることを完全に忘れている。
そんな夏弥に、ローズは当然とばかりに口を尖らせる。
「仕方あるまい。一日中同じ服を着るわけにはいかんだろ。俺の手持ちはこれしかないんだから」
|同じ服を着続けるわけにはいかない《そういう》ことだけは理解しているのかと、夏弥は頭痛がしてきた。ならどうして服を着ないで寝るということは平気なのだろうか。
「つーか、お前元々龍だろ。龍から人になれるなら、替えの服だって作れるだろ」
夏弥の動揺はまだ治まらない。つい乱暴に指さしてしまう。
ローズは、むっとして口元を曲げる。
「簡単に言うな。変化とは対象の容姿に似せて形を変える魔術。現代人はみな服を着ているから、変化を発動した段階で衣服が形成される。替えの服を用意するということは別に魔術を発動する必要があり、生憎だが俺は具現魔術はできん」
だからこの服しかない、とローズはすました顔で食事を続ける。
専門用語ばかり出てきて、ローズの答えはすぐに理解できない。夏弥は魔術師だが、それもつい最近のことで、楽園争奪戦に選ばれてからだ。それまでは、夏弥は自分が魔術師であることなど知らなかったので、魔術に関することは完全に素人だ。
魔術は理論体系が確立している学問で、万能ではない。魔術を成立させるにはその構造となる術式と、駆動するための魔力が必要となる。
魔術にも限界があるということは、魔術師見習いの夏弥でもなんとなく理解はしている。だからこれ以上はなにを言っても仕方がないが、しかし夏弥もそう簡単に納得ができない。
「せめて下着くらいつけろよ」
こればかりは、と夏弥は最後に訴える。
それは無理だな、とローズは事もなげに答える。
「変化とは術者の持っている情報を元に形成され、術者の心象の範囲でしか実現しない。俺の人間としてのイメージは、肉体とその表面を飾る衣服までで、それ以上の情報は持ち合わせていない」
変化魔術は術者が思い浮かべるイメージを自身に上書きする魔術の一種。自分は何者で、自分は何者たるという確かなイメージ。それを固定して、魔術として定着させる。変化魔術は術者のイメージが重要となるから、曖昧なイメージでは成立しない。さらに、確かな存在としてこの世界に定着させる必要があるから、この世界に即さないイメージを含ませると秩序が乱れて自己崩壊しかねない、かなり危険な魔術でもある。
ゆえに、変化魔術では術者は必要最低限、自分がもっともイメージしやすい形を決めておいて、それ以外の情報は極力排除する。どれほど高位の魔術師でも変化できる対象は数体に限り、普通は衣服などという余計な情報は適用しない。
ローズが衣服まで変化魔術の対象にできるのは、式神というその高度な魔術構造体だからこそなせる技である。
そんな苦労を夏弥は知らないから、そんなものかと不承不承に、けれど頭痛は一向に治まらない。
「というか、夏弥」
ローズは四杯目のおかわりを盛りながら口を開く。あまりの食べっぷりに、ローズのすぐ横には炊飯器が置かれるようになった。
「たった数秒ほどの間によくそこまで見れたものだな」
かあっ、と夏弥の顔がのぼせたように赤くなる。二階に戻ったときに着替えてきたから、ブレザーの中まで熱くて仕方がない。
「な。変なこと言うな!」
叫ぶ夏弥。
もはや熱すぎて、正常な判断ができない。叫ぶだけで、精一杯だ。
そんな夏弥を、ローズは憐れむように見つめる。
「よほど女に飢えていたのだな。どうせならもっとよく見ておくか」
黒いドレスの胸元を掴んで、ローズはくいとその白い肌を見せる。
黒と白の対比。
色っぽい黒いドレスに、艶めかしいまでの白い素肌。
その強烈な色に、女性特有の弾力感のある肌が目に飛び込んでくる。
つい、自分が呆とローズの服の下に見とれていたことに気づいて、夏弥は慌てて顔を上げた。ローズの憐れむような視線に、しかし口元は笑いをこらえようとぷるぷると震えているのが見える。完全に小馬鹿にされている。
「ふざけるな!」
持っていた箸をテーブルに叩きつけ、夏弥は勢いに任せて立ち上がる。
夏弥は逃げるようにしてその場を去った。生憎、夏弥には女性の素肌を前にして冷静でいられるほどの度胸はない。
夏弥の背中から、対照的に惚けたような声がかけられる。
「夏弥。飯がまだ残っているぞ」
夏弥は振り向かない。確かにご飯は半分も喉を通っていないが、そんなことは気にする内に入らない。
「もういい。学校に行く。片づけは任せた」
着替えは済ませてある。鞄も、着替えたとき一緒に下に持ってきているのですぐにでも学校に行ける。
もう食事を続けられる状態じゃない。片付けも、それをするだけの余裕がない。時間はもちろんだが、もっとも重要なことは夏弥の精神的に無理、ということだ。
「ああ。待て、夏弥」
玄関に立ってすぐにでも家を出ようとしている夏弥に、ローズは慌てて声をかける。
「いってらっしゃい」
その言葉に、夏弥は意図せず足を止める。
その言葉を、ここ最近はいつものように聞いている。しかし、父親が亡くなってからは、久しく聞いていない、夏弥にとって大切な言葉。
振り向くと、そこに満面の笑みがある。さっきまでのからかった様子のない、純粋な好意。夏弥はくすぐったい気分になって、笑って返した。
「……いってきます」
ただそれだけ。その言葉を言われて、ただ返せるだけで、夏弥の生活は大きく変わった。長く一人暮らしをしていて慣れたつもりでいたが、やっぱり挨拶ができる相手がいるというのはいいものだ。ちょっとだけ、そんな相手に感謝をしたい気持ちにさえなってくる。
丘ノ上高校に登校して自分の席に着くと、さてこれからどうしたものかと夏弥は一人で考えに耽る。その内容は、ローズの衣服に関して。
ローズが夏弥の家で暮らすようになってから、もう二週間近く経つ。ローズの服については、もっと早く気づくべきだったと後悔しつつ、しかし夏弥のここ最近の環境の変化はそれだけの余裕を与えてはくれなかった。
〝楽園争奪戦〟――――。
魔術師同士の戦いに関わって、夏弥はすでに多くの魔術師と会い、そして戦った。夏弥はこの戦いに関わるまで自分が魔術師であることなど知らなかったから、この戦いで勝ち残るための特訓などもして、自分のことだけで手一杯だったかもしれない。二週間もローズが同じ服を着ていれば流石に気づけただろうに。そうは思ってもすぎてしまったことはどうしようもない。
だからこれからなんとかするしかない。
「で、どうっすっかなー」
ついそんな言葉が漏れる。
ただの独り言のつもりが、しかし耳聡い隣人はしっかりと夏弥の言葉を拾っていた。
「なにが?」
前の席で伏せていた男子が顔を上げて振り返る。
夏弥から見ればまだまだ伸ばせる髪をバリカンで刈ったのか、男子生徒の頭は頭蓋骨の形に沿って歪な坊主頭。両耳に二つずつピアスをつけていて、校則違反なのだがこの男はそんなのおかまいなし。頭も坊主にして、ピアスをつけていて、ここで眉まで剃ったら道を歩いているだけで補導されそうだ。
麻住幹也は中学校からの付き合いで、高校になってもこうして近くの席にいるあたり、腐れ縁もいいところだ。
夏弥は目の前の不良一歩手前少年にひらひらと追い払うように手を振る。
「おまえには関係ない」
その夏弥の態度に、幹也は不服そうに口を尖らせる。
「おいおい。また秘密かよ。おまえ最近多いぞ。それ」
その言葉に、夏弥は胸が痛む。
事実、夏弥には幹也に話せない秘密事が、ここ最近多い。――楽園争奪戦。それは魔術師同士の戦いで、魔術師は魔術の存在を一般人に知らせることを禁忌としている。だから魔術師になった夏弥はなにも知らない一般人の幹也にそのことを話せない。
幹也は夏弥が自分たちに話せない隠し事を持っていることを知っていて、けれど夏弥はそれを話せない。それが、夏弥には辛い。
「……悪いとは思ってるよ。でも、こればかりは仕方ねーんだ」
幹也は夏弥が秘密を抱えていることを、しかし追及しようとはしない。いつもはどこかふざけたところがあっても、こういうところは妙に友情に厚い。普段なら冗談半分で話すことも、こればかりは幹也に心底感謝している。
かまわねーって、と幹也はひらひら手を振る。
「ま、そういうときもあるだろうよ。もしもどうしようもねーって思ったら、相談でも愚痴でもいいから、俺に言えって」
どん、と自らの胸を叩く幹也。
「幹也……」
おまえってやつは。
いつもは学校の鞄を背負って走って登校するやつだけど、そんなどこからどう見ても変態だけれど、ちゃんといいところもあるんだな。ああ、なんだかおまえの存在が妙に眩しく見えるみたいだ。
にかっ、と幹也は笑う。
「いつでもおまえの困った顔見て笑ってやる」
清々しく、幹也はそう告げる。
ああ。
……なんだこれ。
俺は一体今までなにを見ていたんだ。
夏弥は冷静な目で目の前の男をよくよく観察する。
スポーツ少年よろしい丸坊主。不真面目な生徒であることを自己主張するような両耳のピアス。思い起こされる、本来手提げ鞄をリュックのように背負って小学校低学年のように駆け回る麻住幹也という男。
――こんな男に、少しでも尊敬の念を抱いた自分が、どうしようもなく馬鹿みたいだ。
やっぱり、幹也はいつもの幹也だ――。
夏弥は軽く明後日のほうを向いて呟く。
「で。どうすっかなー」
「こらっ。シカトか」
飛びかかってくる幹也に、夏弥は机の中の教科書で対抗する。
そうやって二人がふざけ合っていると、教室の前の扉ががらがらと開いた。
「みんな席に着きなさい」
日誌を片手に、一年三組の担任、風上美琴が教室に入ってきた。
紺のスーツを品よく着こなしているあたり、教師というよりは大手企業のキャリアウーマンにしか見えない。伸ばした髪をきちんとまとめてアップに結っているのも、その印象を強くする。
丘ノ上高校でも若い教師の内に入り、剣道部の顧問をしている。その実力は、二十代ですでに剣道五段というかなりの実力者。男子生徒すら黙らせるほどの力を持ちながら、しかし年が近いこともあって他の生徒たちからの受けはいい。
美琴は教壇の前に立って手を叩く。
「ほら、ホームルーム始めるわよ」
立ち歩いている生徒は急いで自分の席へと戻り、後ろを向いていた幹也は慌てて前へと向き直る。その幹也の慌てっぷりに、夏弥は内心で楽しそうに笑う。
朝のホームルームはいつものように、生徒たちの出席確認と担任からの連絡事項だけで問題なく進む。今日の連絡事項で目立つことがあったとすれば、来週から学祭の準備期間に入るので授業は午前中だけで済むという、生徒たちからすればまさに恵みの雨だ。
「以上でホームルームを終わります」
ホームルームが終わって、教室は再びがやがやとざわめきだす。次の授業の準備をするものや、授業が始まるまで生徒たちとお喋りに興じるもの。様々な生徒たちがいる中で、夏弥は一人教室を出ていく美琴を追った。
「風上先生」
階段を降りようとする美琴に、夏弥は後ろから声をかけた。夏弥の姿を認めて、美琴は教師の顔で振り返る。
「なんですか、雪火くん」
ちょっと、と夏弥は階段のすぐ隣の影になっているところに誘う。人目がないのを確認して、夏弥はいつもの調子で美琴に話しかける。
「美琴姉さんにお願いがあるんだけど」
美琴と夏弥は丘ノ上高校で会うより前から知り合いだ。夏弥の父親、雪火玄果は英語教師をしていて、美琴は玄果に憧れを抱いて教師になったほどだ。そして雪火家と美琴が務める、ここ丘ノ上高校が近いことから、美琴はよく雪火家に遊びに来る。
教師になるだけあって普段はしっかりしていて、しかしどこか抜けているところのある美琴は、夏弥にとってお姉さんのような存在だ。
夏弥の言葉に、美琴も二人きりのときの口調になる。
「なに?また珍しい」
改めて周囲を確認してから、夏弥は口元に手を添える
「ローズのことなんだけど……」
「ローズちゃん?」
うん、と夏弥は頷く。
「明日、ローズの服を買いに行ってもらいたいんだ」
夏弥のお願いに、美琴はすんなりと頷いた。
「いいわよ。明日暇だし。朝ご飯の後にでも行ってあげる」
美琴は週末にはほとんど夏弥の家に顔を出す。学校ではしっかりとした教師姿を見せる美琴だが、普段の生活では夏弥も呆れるくらいに手を抜く。美琴が作れる料理といったら麺類ばかりで、つまり大概はカップ麺というわけだ。
夏弥がしっかりと自炊していることから、美琴は夏弥の料理目当てに雪火家にやって来る。いつものことだから、夏弥はすぐに了承する。
「でも、ローズちゃん替えの服くらい持ってきているでしょ?」
美琴には、ローズは夏弥の父親が大学時代に留学先で知り合った人の娘だということで理解してもらっている。一般人に魔術師に関することは知られてはいけないから、ローズが式神であるなんてことは当然伏せてある。
夏弥は投げやりに呟く。
「替えの服があったら、こんなことは頼まない」
美琴の顔が急に暗くなる。不審そうに、美琴は眉を寄せる。
「ないの?」
黙って夏弥は頷く。
「俺には女物の服なんてわからないから、だから美琴姉さんにお願いしてるんだ」
少しまずい言い方だったかもしれないが、美琴は特に気にした様子もなく、すぐに表情を戻す。
「わかった。お姉さんにまかせなさい」
夏弥は内心でほっとする。
こういうとき、美琴のさっぱりした性格はありがたい。
実際、明日になったらいろいろと説明することがあるかもしれないが、一度納得してくれさえすれば美琴は大概のことは大目に見てくれる。あとは、明日の問題だ。
「じゃ、授業あるから、夏弥も教室戻りなさい」
それだけ残して、美琴は職員室へと向かう。夏弥も教室に戻って授業の始まりを待つことにする。
今日はこれで十分だ。明日のことは、明日になって考えればいいかと、夏弥は朝より気持ちが楽になった。
学校から帰ってきてから、夏弥は後悔することになる。
まず、朝にローズに食器洗いを任せたこと。台所に行ってみると、食器は今朝のままで、汚れがこびりついたその状態で流しに放置されていた。
夏弥も、多少なりとも反省している。断りもいれずにローズのいる部屋に入ったこととか、挙句ローズの裸を見たとか、そのことをからかわれて感情に任せてなにも説明せずに朝食の後片付けを任せたとか、思うところは色々ある。しかし、この結果はひとえに夏弥だけのせいだろうか。せめて汚れた食器を水につけておくくらいはしてほしかった。
「仕方ないだろう。食器洗いなど、一度もやったことがないのだから」
ローズの反論はこうだった。いかに主人の命令通りに動く式神といえど、経験したことのないことはできないらしい。今回は仕方ないけれど、次からはできるように教えておこう。
そして、翌日。夏弥は後悔しているもう一つの懸念事項をローズに告白した。
「今日、美琴姉さんが来るからな」
ローズは不思議そうにきょとんとする。
「いつものことじゃないか」
まあ、それもそうか。それでも夏弥は一言言い添えておく。
「今日は単に飯をたかりに来るだけじゃない。ローズの新しい服を買ってもらうためだ」
なにか余計なことを言ったような気がするが、事実なのだから仕方がない。別に、本人が聞いているわけでもないから、美琴に遠慮する必要もない。
昨日、ローズが服を一着しか持っていないということを知って、夏弥はすぐに美琴にローズの服選びをお願いした。美琴に任せて大丈夫かという不安はあるが、他に頼れる人もいない。
ローズはまだ不思議そうに首を傾げる。
「なんで美琴に?」
「女物の服は、やっぱり女同士で探したほうがいいだろ」
夏弥は今まで父親としか暮らしたことがないので、女物の服はどうもイメージがつかない。それなら同じ女性である美琴に任せるのが筋というものだ。ここは美琴の大雑把な性格には目を瞑るとしよう。
「まあ、夏弥がそういうならば別にかまわないが」
納得したのかそうじゃないのか、曖昧にローズは頷く。
夏弥は少しだけ安心して食事を続ける。
「というわけで、飯食って美琴が来たらさっさと買い物に行ってこい」
鮭の塩焼きを食べながら、夏弥はそうローズに告げる。
ローズは味噌汁を飲みながら、ん、と不思議そうに眉を寄せる。
「行ってこい、って。夏弥は?」
あのな、と夏弥は答える。
「俺が女の子の買い物に付き合っても仕方ないだろ。昼飯の準備でもしているから、二人だけで行ってこい」
というより、女性服売り場に男が歩いているという状況に夏弥が耐えられそうにない。美琴とローズの二人の間に、男子である夏弥は一人。しかも、美琴には言っていないが下着のほうも調達しないといけない。さすがに、女物の下着コーナーに入り込めるほど、夏弥の度胸はすわっていない。
「ふーん。なら仕方ないか」
三杯目のおかわりを盛りながら、ローズは納得したようだ。
そうだ、とローズは急に声を上げる。
「それなら、代わりに夏弥は新しいお茶を買ってきてくれ」
また妙なことを、と夏弥は心の中で呟く。
「まだあるだろ」
一週間近くで、夏弥はいろいろなお茶を買ってローズに飲ませた。料理に関しては文句を言わないローズも、お茶に関しては口うるさく夏弥に注文する。おかげで、夏弥は今まで|気にしたことのなかった《ノータッチだった》お茶についていろいろと知ることになった。
お茶に最適な温度、淹れ方、蒸し方――蒸すなど今までしたこともない――、注ぎ方――そんなものがあるのかと感心した――、などなど。お茶の葉によっても違うらしく、ローズから注文と指導が頻繁に飛んでくる。
なんでローズはそんなにお茶のことに詳しいのか、少し、というかかなり疑問だが、夏弥は言われるままにいろいろと試している。
ちなみに、ローズの好みは緑茶に限る。外人のような見た目から紅茶のほうが似合うかもと思って買ってきたことがあったが、紅茶よりも日本茶のほうが好みらしい。そのときついでに、紅茶と緑茶ではお茶の淹れ方が根本的に違うらしい。それだけで大分説教をくらったが、どれだけ時間がかかったのかは面倒なので夏弥も覚えていない。
ローズは夏弥の返答にあっさりと返す。
「あと少しだろ。それに、あの味は飽きてきた。また変わったのを買ってくれ」
なんとも乱暴な言い方だ。それでいて出せば出したでいろいろとコメントするのだから、まったく世話がやける。
「はいはい」
そんなやりとりをしていると、まるで見計らったように家のチャイムが鳴った。
「お。来たな」
夏弥はわずかに残っていた最後のご飯を飲み込むと、玄関へと向かった。
夏弥の家は元々父親と二人暮らしをしていたので、一人で暮らすには広すぎるくらいだ。当然、玄関もそれなりの広さがある。玄関のすぐ前には簡単な客間がある。テーブルがあって、それを囲むようにソファがある。
インターホンという文明の利器は夏弥の家にはないので、扉を開けるまで相手の姿は見えない。今時の家だったら洋式のドアなのだろうが、夏弥の家は日本式の引き戸で、すりガラスのためにぼんやりと誰かが立っているのがわかる。
もう一度チャイムが鳴る。
「はいはい。今、出るよ」
聞こえない扉の向こうの相手に夏弥は声をかける。サンダルを履いて、鍵を開け、玄関を開ける。
「おっはよー。夏弥」
そこに、予想通りの美琴がいて――。
――予想外の二人の女子の姿が目に入って、夏弥はその場で硬直した。
玄関には一人の女性と、二人の女子。
一人は風上美琴。夏弥の担任で、よく雪火家に遊びに来る、夏弥にとってはお姉さんのように親しい存在。
学校では紺のスーツにアップに結った髪で教師というよりキャリアウーマンといった姿だが、休日の普段着はジーンズに緑のボーダー。髪は黒のゴムでポニーテールにまとめている。動きやすさを重視した、美琴らしいいつもの服装だ。
それはわかる。
夏弥が美琴を呼んだのだから。
――しかし。
あとの二人はなんだ――?
その二人に、夏弥は見覚えがある。
一人は、水鏡言。夏弥と同じクラスで、席替えをする前までは近くの席だったのでよく話しをして、話しをしているうちに夏弥の家の近くに住んでいることがわかったので一緒に登校している。今でも水鏡とは幹也とともに昼食を一緒に食べている。夏弥が自炊していることに興味を持って、今は自分でお弁当を作って持ってきている。
いつも制服ばかり見ていた彼女のファッションは、黒のニーソックスに黒のスカート、赤のインナーの上に緑色のカーディガンを羽織っている。髪の左側だけ茜色のリボンを巻いて垂らしている。
もう一人は、栖鳳楼礼。一年一組に所属していて、中間試験では学年トップという優秀な生徒像を全校に知らしめた。家はここ白見町でも有名な大豪邸で、夏弥も何度かお邪魔したことがあるが、夏弥の家の二倍か三倍くらいの大きさの家を離れと称して五つくらい所有して、それとは別に本家と呼ばれる――夏弥も見たことはないが、おそらくさらに大きな――屋敷を所有している。加えて丘ノ上高校でも有名な美少女で、才色兼備の非の打ちどころがないお嬢様だ。
栖鳳楼の私服は夏弥も何度か目にしたことがあるが、今日は赤と黒のボーダーのハイソックスに黒のレザースカート、茜色のブラウスに首から下げたネックレスにはシルバーの十字架が揺れている。髪はいつものようにポニーテールでまとめていて、今日はトップと合わせて茜色のリボンだ。
「…………」
夏弥は硬直した。
美琴以外の二人がどうしてここにいるのか咄嗟に理解できない。一体なにごとかと頭の中が遊園地のティーカップにでも乗せられたように回転していると、美琴は不思議そうに首を傾げる。
「夏弥。おはよー」
覗き込んでくる美琴の顔に、夏弥は一瞬だけ冷静に挨拶を返す。
「……ああ、おはよう」
言って、改めて三人の姿を眺める。三者三様、といった感じか。美琴は純粋に不思議そうに、水鏡は居心地が悪そうに両手を組んで閉じたり開いたりして、栖鳳楼は夏弥も滅多に見ないなにか含むものがある微笑を浮かべている。
「風上先生、水鏡、栖鳳楼…………」
美琴は明るく――。
水鏡は大人しく――。
栖鳳楼は余裕で――。
夏弥に挨拶を返す。
「美琴姉さんでいいって。二人には、ちゃんと話してあるから」
こともなげに、美琴はそう夏弥に告げた。
その言葉に、夏弥は背後からナイフを突きつけられたようにどきりとする。夏弥と美琴との関係は学校の生徒たちには知られていない。栖鳳楼は薄々知ってはいただろうが、水鏡などは初耳だろう。
今まで秘密にしていたものをさらりと暴露する美琴に、いつもなら不平を述べる夏弥も二人を前にしては冷や汗ものだ。
「ちょっと待て。一体どこまで話した?」
ええっと、と美琴は指を折って数えるようにして答える。
「夏弥とあたしが昔からの知り合いで、姉弟みたいに仲良しってことでしょ。それから、夏弥の家にローズちゃんがいることでしょ。そんでもって、ローズちゃんの服がないから、お姉さんに買ってきてほしいってこと」
頭痛がした。
二人が見ていなければこの場で頭を抱えて座り込みたい。
美琴の中では、ローズは父親が大学生時代に留学先で知り合った人の娘ということになっている。おそらく美琴も二人にそういうふうに説明したのだろう。
美琴はまだいい。それなりに納得してくれたみたいだから。
だが、この二人はどうだろう。
まあ、栖鳳楼は夏弥とローズの本当の関係、つまりローズが式神であることを理解しているからいいだろう。
問題は水鏡だ。
水鏡は楽園争奪戦とは関係がないから、美琴と同じような説明で納得してもらうしかない。しかし、それはつまり、一つ屋根の下、年頃の男女が二人きりで暮らしていることを了解してもらうことになる。加えて、今日美琴を呼んだのはローズの服を買ってもらうためで、二週間近く一緒に暮らしていてどうして服がないことに気づかなかったのかという疑問も浮上してくる可能性があって…………。
さらに事態は悪く、買い物に行けばローズが下着を一切身につけていないことが判明する。
ドレス一枚まとっただけの少女が、同年代の男子の家で寝泊まりしている。このことを知って、水鏡は今まで通り夏弥と接してくれるだろうか。明日からどう水鏡と接すればいいのか。まだ朝だというのに、夏弥の体は真昼の太陽を浴びたように汗だくだ。
「…………それで、なんで二人がここにいるの?」
緊張と焦りで、夏弥はこれくらいしか口が動かせない。
その夏弥の問いに答えたのは、真ん中で俯いている水鏡だ。
「昨日の放課後、調理室から教室に戻ってきたときに、見回りをしていた風上先生と会って……」
水鏡は料理部ではないが、最近夏弥の自炊に影響されて料理をするようになった。そのせいか、水鏡は料理部にお邪魔して料理の勉強をしているらしい。
美琴は剣道五段という実力をかわれてか、学校の見回りを任されている。最近は物騒なので、生徒はおろか教師までも遅くまで学校に残らない。遅くまで見回りの美琴が残っていることはよくあることだ。
そこまでは、まあいいだろう。なんとなく納得できる。しかし――。
「そのときに買い物に付き合ってくれないか、って誘われて」
水鏡の言葉に、夏弥はくらりとした。目眩で倒れそうだ。
――なんで誘うんだよ。
きっ、と夏弥は美琴を睨みつける。
その視線を感じて、美琴は誤魔化すように人差し指で頬をかいて遠くを見る。
「いやー。頼まれたはいいんだけど、ローズちゃんくらいの子の服装ってわからなくてさぁ。ただでさえローズちゃんの恰好、変わってるし。だから同じくらいの年の子のほうがずっといいと思ってさ」
確かにローズの恰好は、いまどきにしては変わっている。黒いドレスなんて、いつの時代の貴族が着るものだ。
そもそも美琴に頼んだのが悪かったと、夏弥は猛烈に反省する。
美琴の服装は土日によく来るから見慣れているが、動きやすさ重視で楽なものがほとんどだ。いまどきの女子高生なら、もう少しおしゃれするだろう。
なんてことは始めから覚悟していが、それを他人に話してけろりとしているのだから、もう少し慎重にするべきだった。
そんな夏弥の心の内を知ってか知らずか、水鏡はさらに続ける。
「あたしで良ければ、と思ったんだけど、あたしもそこまで服に詳しいわけじゃないし、どうしようかなって思っていたところで栖鳳楼さんがちょうど帰るところだったから、誘ったの」
夏弥は重い頭を持ち上げて栖鳳楼を見た。今まで所在なさげに黙っていた栖鳳楼は夏弥の視線に気づいて、夏弥にだけわかるように小さく口元を緩める。
「なんでそこで栖鳳楼を誘うんだ?」
栖鳳楼は一学期の中間でトップという成績を出していて、物腰もおしとやかなことからお嬢様の雰囲気が漂う。確かに美人なのだが、雲の上の綺麗さというか、普通の高校生とは違う世界にいるような印象があるためか、栖鳳楼のことを気にかけている男子は多いという噂だが、どうも話しかけにくい雰囲気がある。
それは女子の中でも例外ではなく、組も違うし、内気な水鏡がどうしてそんな栖鳳楼に、ただ近くにいたからという理由で誘えるのか、夏弥ははなはだ疑問だ。
水鏡は困ったように口を開きかける。
「ええっと、それは……」
「あたし、水鏡さんとは親戚なの」
「……!」
水鏡の言葉を遮って、今まで黙っていた栖鳳楼が口を開く。
「…………マジ?」
夏弥の口からついそんな言葉が漏れる。
ええそうよ、と栖鳳楼はさも当然、まるで勝ち誇ったかのように胸を張る。
初耳だ。
水鏡はもちろん、栖鳳楼からもそんな話は聞いていない。なんという偶然か、夏弥はこの二人の前では軽はずみなことは言えそうにない。
もはやなにも言えない夏弥に、美琴は能天気なコメントをよこす。
「まあ、一人より三人のほうがいいでしょ。三人寄れば文殊の知恵っていうし」
その言葉はここで引き出すものか。
元々の意味は、馬鹿でも三人くらいいればまともなことが思いつく、という意味で、美琴はともかく、あとの二人にそれは当てはまらないと思う。
いや、そもそも美琴にお願いした時点で、夏弥が馬鹿なのか。
「で、そのローズさんってどこ?本当にいるの?」
意地悪っぽく栖鳳楼が訊ねる。
――こいつ、知ってて……。
思わず右腕がぷるぷると震えだすが、気づかれるわけにはいかない。ここはなんとしてでも耐えるしかない。
「あの、雪火くん……」
水鏡が心配するように声をかけてくる。
いつも水鏡にこんな表情をさせるときは夏弥に隠し事があるときで、今回も背水の陣並みに状況が悪い。
夏弥の熱は一気に冷めて、体からは嫌な汗ばかり出る。
言いづらそうに、水鏡が口を開く。
「あの、その、本当に女の人と一緒に……!」
「おーい、夏弥。飯食い終わったぞ」
夏弥の後ろで大きな声が上がった。
玄関の外にいる三人がその声に反応して夏弥の後ろに一斉に視線を向ける。
さーっ、と夏弥の体温がさらに下がる。もうこれ以上下がらないのではないかと思いながら、夏弥は三人の視線の先へ振り向いた。
ローズが朝食とお茶を終えて、玄関までやってきた。話題にされている渦中の少女は、しかしいつも通りに夏弥のすぐそばまでやって来た。
「待たせて悪い。もう出れる」
ローズは黒いヒールに足を入れる。この靴はローズの持ち物で、どうやら靴は作れるらしい。
――いや、今はそんなこと問題ではない。
ん、とローズは外の三人に気づいて首を傾げる。
「なんだ。その二人は。美琴以外にも来るやつがいるのか?」
呑気にそんなことを言ってのける。
美琴はいつも通りに挨拶して。
栖鳳楼はなにか面白いものでも見るように笑っていて。
――水鏡は、凍りついたように表情を失っていた。
「ローズさんは、雪火くんとはどういう関係なんですか?」
開口一番。水鏡はローズに詰め寄った。
バスの中で、美琴と栖鳳楼と水鏡、そしてローズの四人は駅前のデパートへと向かっている。このあたりで服を買うといったら、駅前のデパートが一般的だ。そこに行けば、大概のものは手に入る。
朝早いせいか、バスの中はほとんど人がいない。四人は入り口より後部の座席に座っている。正面から右の窓側にローズ、その隣に水鏡、左の窓側に栖鳳楼、その隣に美琴という並びだ。
ローズは水鏡の質問の意図がわからず、不思議そうに答える。
「どういう関係って。さっき美琴が言った通りだ」
バスに乗る前にも、水鏡は似たような質問をローズにした。それに対して美琴が、ローズのことについていろいろと説明した。ローズは夏弥の父親が留学していた頃に現地で知り合った人の娘で、その関係で雪火家にお邪魔していること。その説明を聞くのも、水鏡は一度ではないはずだが、しかし水鏡はローズを追い詰めるように顔を近づける。
「ローズさんは替えの服を持っていないという話ですけど」
ああそうだ、とローズはあっさり頷く。
ここぞとばかりに水鏡はさらに詰問する。
「こっちに来るときに、服くらい持ってきますよね」
それが当然とばかりに訊いたつもりが、しかしローズはなんでもないように答えた。
「途中でなくした」
愕然と、水鏡はローズを見返す。
「なくしたって……」
替えの服をなくして平然としていられるなんて、水鏡はとても信じられなかった。しかし、目の前の少女はそんなこと一向にかまわないとばかりに冷静そのものだ。
ここで引くわけにはいかない、と水鏡は顔を引き締める。
「じゃあ、ローズさん。その、服はずっと同じものを着ているの?」
美琴の話では、ローズはしばらく前から夏弥の家にいるらしい。一日、二日ではない。もっと前から同じ服を着続けていることになる。
問い詰める水鏡に、ローズはさらりと答える。
「まあ、そうなるな。あ、でも寝るときは脱いでる。流石に一日中、ってわけにはいかないと思ってな」
今度こそ、水鏡は言葉を失った。
隣で一部始終を聞いていた美琴と栖鳳楼も、それぞれの反応を示している。そもそも水鏡がローズの隣に座った時点で、二人は水鏡とローズに意識を向けていた。
水鏡の人となりを、美琴は教師として、栖鳳楼は親戚として、それなりに知っている。性格は内気で、あまり自己主張はない。しかし話をしてみれば水鏡なりの考えをもっていて、意見もしてくるのだが、しかし内気な性格のためか人のことを深く探ろうとはしない。こちらが話を打ち切れば、それ以上の追及はしない性格だ。
そんな水鏡がローズのこと、主に夏弥との関係を問いただそうとして、さらに自らローズの隣に座るという、普段ならば考えられない行動に出た。
ローズの返答に、水鏡はもちろん、美琴でさえ固まった。ただ一人、栖鳳楼だけが笑いをこらえようと口元を歪めている。
一分はすぎただろうか。
水鏡は頬をうっすらと上気させて声を上げた。
「そんなの。まだ着ていたほうがいいです!」
水鏡も人前にいることを意識しているから、叫び声はまだ小さい。まだ朝の早い時間でバスに乗る人が少ないことが救いだが、隣の二人にはばっちり水鏡の声が聞こえていた。
真剣な水鏡の表情を見て、しかしローズは楽しそうに笑う。
「おまえ、面白いな。夏弥と同じ反応だ」
不意な言葉に、水鏡は呆となる。
「雪火くんと?」
ああ、とローズは頷く。
「夏弥も、俺の恰好を見るなり服を着ろ、だ。あのときの夏弥は傑作だった」
そのときの様子を思い出しているのか、ローズは腹を抱えて笑い声を漏らす。バスの中だというのに、ローズは少しも気にするところがない。
水鏡はというと。
――しばらくその言葉の意味がわからなかった。
一〇秒ほどして。
水鏡の顔が耳まで赤く染まる――。
「み、み、見られたんですか。その、は、は、はだ…………」
「ああ。見られたな。夏弥に、裸」
あっさり、ローズは頷く。
「だから、夏弥も美琴に頼んだんだ。服一着じゃ、流石に不便だろうってな」
そんなローズの返事も、水鏡の耳には届いていない。
水鏡はバスが駅前に着くまで、顔を真っ赤にしたまましばしローズを見つめいていた。いや、もはやローズさえ見ていないのかもしれない。時折、意味不明な言葉を漏らしたが、言葉になっていないのでなにを言おうとしているのかも不明だ。
ローズは、そんな水鏡が面白いのか、じっと水鏡を観察することにした。
――隣の二人はというと。
美琴はなんとも形容しがたい面白い表情のまま固まって。
栖鳳楼はただ一人、口に手を当てて笑いを必死にこらえている。窓のほうを向いた栖鳳楼の耳は、水鏡と同じくらい真っ赤だったことは誰も気づいていない。
駅前のデパートにて。
美琴と栖鳳楼、水鏡とそしてローズはレディースを扱うフロアにいた。デパートの中はそれなりに広いため、人がいてもそんなに多くは見えない。
バスを降りてから、四人の間には妙な空気が流れている。バスの中の勢いを失ったように、水鏡は俯いたまま沈黙を続け、彼女を気遣って美琴が声をかけても空返事ばかり。その隣でローズがおかまいなく声をかけてくるが、それには水鏡は反応しない。栖鳳楼だけが唯一、この状況を楽しんでいるようにしか見えない。
「じゃ、ローズさんの服を選びましょうか」
そんな声を上げたのも、栖鳳楼だった。
「ローズさんはどういうものが好きなの?ワンピース?」
今まで笑いをこらえていたのが嘘のように、いつもの冷静な態度で訊ねる。
栖鳳楼の言葉に、ああ、とローズは思い出したように返した。
「先に下着売り場に行ってもらっていいか?下着をつけないと、夏弥が困るらしい」
栖鳳楼の冷静な顔にぴし、と亀裂が入る。思わず噴き出す、一歩手前だ。
ぴくり、と水鏡の肩が反応する。
「…………下着を、つけないと?」
目元に影が落ちたまま、水鏡は口だけで訊き返す。
「ローズさん。まさかと思いますけど、その下、なにもつけていないんですか?」
この。
言いようのない空気はなんだろう。
休日のデパートにいて、あたりには休みを満喫する人々の姿が目に入る。
そんな中で。
ここだけ明らかに温度が違う。
嵐の前の静けさが。
戦いが起こる直前のように、ぴりぴりと緊張している。
肌が、無数の針を向けられたようにうそ寒い。
――しかし。
この式神の少女はそんな空気を、気にも留めない。
「ああ。これ一枚だ」
決定的ななにかが、そこで壊れた。
そうですか、と沈んでいた顔を上げる水鏡。
そこには、普段の彼女からは想像もできないような冷え冷えとした表情が覗いていた。目元も、口元も、凍ったように色というものがない。そもそも、人という温度が異様なまでに欠落している。
「――わかりました」
途端、水鏡はいつもの、いつも以上に笑顔でローズを見つめる。その笑顔が、なぜかこのときばかりは目を背けたい。
「では、ローズさん。まずは下着ですね。こちらです」
がし、とローズの腕を掴むと、水鏡は前だけ向いて店の中を歩き始めた。ローズは頷きながら頭の上に疑問符を浮かべる。
「あっ。水鏡さん。待ってください」
その光景でようやく我に返って、栖鳳楼は二人の後を追った。取り残された美琴は逃げるようにエレベータの隣の影に身を隠して、携帯電話を取り出した。呼び出し相手は、雪火夏弥。教師としての義務感が、美琴にそうするように命じたのだ。
その後は、なんの比喩もなく戦争だった。
一方的に水鏡が服を選んできては、ローズに試着させるという構図が定着しそうだった。その間に、栖鳳楼が入っていったが、決定権は水鏡にあるようだった。それでも、栖鳳楼のおかげでローズの服はそれなりにまともなものが選ばれた。ローズは着せ替え人形のように次々と衣服を試着して、気づけば衣服が詰まった袋を三つほど提げることとなった。
「はぁ。疲れた」
椅子に座るなり、水鏡は声を漏らす。
栖鳳楼と水鏡はエスカレータ近くの背もたれのない椅子に座って荷物番をしている。ローズと美琴はまだ買うものがあるらしく、店内をうろついている。
栖鳳楼はつい笑ってしまう。
「そりゃ疲れるでしょう。あんなに騒げば」
「え、あ、そんな……」
ぱたぱたと、水鏡は手を振る。
「珍しいわよね。言があんなに声上げるのって」
「…………」
恥ずかしそうに、水鏡は頬を赤くする。いつもの水鏡の反応に、栖鳳楼もほっとする。
「お家のほうは、どう?」
ぴく、と水鏡の肩が震える。
「どう、って……」
なにかに怯えるように訊き返す水鏡。それは、あまりにもいつもの水鏡で、小さい頃から見知った水鏡言の姿だったから、栖鳳楼は特に不思議に思わなかった。
「水鏡の家、問題ない?」
考え込むように俯いた水鏡は、三秒ほどで答える。
「はい。問題ないです」
そう、と頷く栖鳳楼。
それで、用はないように。
沈黙。
それを壊すように、水鏡は笑って栖鳳楼に話しかける。
「栖鳳楼さんは次期当主に就任されたんですよね。おめでとうございます」
ああ、と栖鳳楼は居心地が悪そうに笑う。――胸の奥に、ちくりと刺す痛みを抱えながら。
「ようやく、って感じ。それまでは跡継ぎの問題で家中ばたばたしてたけど、あたしに決まってやっと落ち着いたから一安心」
それは、真実とは言えない。
栖鳳楼家は白見町でも有名な家柄で、魔術師としての歴史も、力もこの町一と言える。栖鳳楼家は血族とも呼ばれていて、白見町の魔術師の管理と監視を行っている。
魔術師はその存在を一般人に知られてはいけない。そのために、魔術師は人前で魔術を使うことを禁忌として徹底しているが、しかし完璧ではない。誤って魔術を知られてしまうもの、あるいはなんのためらいもなく一般人の前で、一般人に魔術を使う魔術師も、中には存在する。そんな魔術師を取り締まり、処罰するのが血族の役目。栖鳳楼家は、代々この町を影から支えている。
栖鳳楼家の当主に選ばれるということは、この町でのあらゆる決定権を持つということ。それだけの権力を巡って、栖鳳楼家内部では激しい争いが行われる。跡継ぎ問題が解決したからといって、すぐに権力争いまで終息するなど、そんな都合のいいことはない。
「すごいです」
ぽつり、と水鏡は呟く。
その自分の言葉に、水鏡は慌てて言い直す。
「とても、素晴らしいことだと思います」
また。
ぴしり、と。栖鳳楼の胸が痛む。
栖鳳楼家は長い歴史をもつ魔術師の家系。血族という役目もあって、栖鳳楼家にはその下に四家と呼ばれる、栖鳳楼家を補佐する四つの姓が置かれている。
その一つが、水鏡。
栖鳳楼と水鏡が親戚であるということは事実だが、だが両者にとっては支配者と従者の関係でしかない。子どもの頃は、互いにそんなことは意識していなかったのに、大きくなればその意味は大きく膨れ上がる。
二人が互いに、公の場でその関係を見せないのは、そのことを意識してしまうからかもしれない。
やめてよ、と栖鳳楼は取り繕うように笑う。
「お父様が決めちゃったことで、周りにはまだ反対する人もいるの。だからそんなに威張れる状況でもないわ。ちゃんとお役目を果たして、誰からも認められる当主にならないとね」
なんて答える栖鳳楼。
そんなことはありません、とあくまで彼女を称える水鏡。
――二人の関係は、いつもそう。
――二人の関係は、いつからそう?
「…………」
「…………」
沈黙。
言葉が、続かない。
言葉の、一つ一つが、針みたいに痛い。
口にするたびに、どれもが重い。
こんなにも、言葉は重かっただろうかと、意識してしまうほどに。
それでも、二人は言葉を交わそうとする。それは、お互いがまだ友達だと認識したいため。けれど、お互いがもうそんな親しい関係ではいられないことを知っているから、二人の間に自然な会話などない。
栖鳳楼はなんとかして次の話題を探す。それは、彼女がまだ水鏡とは親友であると信じたいから。
しかし、それは水鏡も同じ。それ以上に――。
――水鏡は、栖鳳楼に従う者。
「……この町に、楽園が来ているんですね」
「……!」
水鏡の言葉に、栖鳳楼は驚いて顔を上げる。
水鏡はいつも通りに、本当に昔と変わらない表情で栖鳳楼の右手に目配せする。
「それです」
栖鳳楼の右手の甲に刻まれている、禍々しいまでの〝刻印〟――。
栖鳳楼が、〝楽園〟に選ばれたことの証。
魔術師同士の戦いに身を委ねる者の証明。
「……」
なにも、言えなかった。
せめて、頷くことだけでもと思ったけれど。
――なにも、言えなかった。
水鏡は、いつも通りににっこりと笑った。
「優勝、してくださいね」
それは友達としてだろうか。
――従者としての言葉だろうか。
「……当然よ」
と、栖鳳楼は返した。
栖鳳楼ははっきりと自覚している。
――この言葉が。
主人としてのものであることを――。