エレジー先生と抜け出せない話
若葉さんは、オンライン小説にはまって抜け出せなくなってしまい、他のことが何もできなくて困っているという。どうにかならないでしょうか、とエレジー先生に言った。
「助けてください。私だって買い物に行ったり、仕事を探したり、その他いろいろやりたいことがあるんです」
エレジー先生は白衣の袖をまくり、緑茶を飲んだ。
「それは大変だね」
「ええ。腰も痛いし目もしょぼしょぼで。どうすれば抜けられるんでしょうか」
若葉さんは真剣な声で言ったが、目はエレジー先生を見ていなかった。ノートパソコンの画面を見ている。小説サイトでランキング一位の『異世界転生からの電気屋バイトが楽しすぎる件』最新話だ。
「そんなに面白いの?」
「面白いですよ。主人公は世界一冴えない中年男なんですけど、誰にも言えない特技があって、その特技というのは」
「みかん食べないの? エレジーがもらうよ」
あっ、と若葉さんは初めてパソコンから目を上げた。結わえた髪から後れ毛が落ちて顔にかかる。
「最後の一個なのに」
「えっ。もう一個食べようと思ったのに」
「何でそんなに図々しいんですか。ここは私の家ですよ」
「わざわざ往診してあげたんだから、みかん一個じゃ安いよ」
エレジー先生はぺろりと一口でみかんを食べてしまった。
「問題は小説やパソコンじゃない。たとえばアオイロヒョットコ族の陰謀で海の色が青く見えたり、太陽を転がし続ける子供たちが時々道を間違えたり、そういう変化に気づかないせいで、取り返しのつかないことになるんだよ」
「ごたくはいいから、早く治療でも投薬でもしてください」
せっかちな人だ、とエレジー先生は思う。野生のアウマニトラウフが取り憑いているのかもしれないし、新種のパピパピ病かもしれないが、今は応急処置をするしかない。
「必殺! エレジーアップリフト!」
エレジー先生は両手を広げ、こたつの両端をつかんで持ち上げた。空になったみかんのざると若葉さんのパソコンが転がり落ち、カーペットの上に埃が舞う。
「何するんですか!」
若葉さんは座椅子から立ち上がり、こたつを取り返そうとした。エレジー先生は素早くこたつ布団を引き抜き、ベランダに干してしまった。
「ほら抜け出せた。簡単だったね」
「私はこたつじゃなくて、オンライン小説にはまって困ってるんですよ」
「でも今、こたつのことしか考えてないでしょ」
若葉さんは言い返そうとしたが、考えがまとまらなかった。そんなことより小説の続きを読まなければ、と思ったが、こたつがないと腰を据えて読む気になれなかった。
「こんなの、治療って言わないと思いますけど……」
とはいえ、エレジー先生は普段は往診をしないのに、若葉さんの病状を聞いて飛んできてくれたのだ。少しくらい感謝してもいいのかもしれない。
「ちょっと待っててください」
若葉さんは部屋着のまま、サンダルを履いて出ていった。走って五分の八百屋で、二百円の小粒みかんを買ってきて、エレジー先生に渡した。
「よかったらどうぞ。甘いかどうかわかりませんけど」
エレジー先生は袋いっぱいのみかんを見ると、赤茶色の目をルビーのように輝かせた。
「せっかくだから、ここで食べていこうかな」
エレジー先生はみかんを食べながら、若葉さんのパソコンでオンラインゲームをした。夜になっても、次の日になっても、いつまでも遊んでいた。
若葉さんはこたつ布団を取り込み、テレビを見ながら編み物をした。パソコンがない頃はいつも何かしら編んでいたっけ、とまるで半世紀前のことのように思いながら、エレジー先生に似合う紫の毛糸でマフラーを編んだ。早く帰ってもらうためだ。