予感と約束
クライマックスっぽい感じです。
◇ 10月
そして、その日は突然訪れました。
私はいつものように学校から帰ってきて手洗いウガイをすませます。そしてダイニングテーブルに置かれた三時のおやつに手を伸ばそうとした、まさにその瞬間でした。
――ピリリリリ……
リビングの電話が大きな音で鳴きだしました。すぐにお母さんが電話に出るのを、私はおせんべいをくわえながら眺めていました。
お、このおせんべいメーカーさん、前よりも焼きかげんを整えてきましたねぇ。分かってるじゃないですか。今度おばあちゃんにも教えてあげないと、ですね。
ふと、最近のおばあちゃんの様子を思い出しました。
あいかわらず元気なおばあちゃんですが、最近はよく咳をするのを見かけますし、いつもは赤い頬っぺも少し白っぽくなっているような気がしました。
九十五歳にしてはすごく若いですが、それでもやはり気になります。こんなことを考えていると、おせんべいの味が分からなくなってきました。
「……はい、はい。そうですか、分かりました……」
そして、変なことを考えたせいでしょうか。お母さんの声すら、どこかコワく感じてしまいます。
「では今からそちらに向かいます……はい、はい、では」
受話器を置いたお母さんの顔はとても真剣でした。キョロキョロとして、どこかあせっているようでした。いつも優しいお母さんからは考えられないような、そんな顔です。
「お母さん、どうしたのですか?」
「日和……」
お母さんが私を見る目は、とても悲しそうでした。一体、どうしたのでしょうか。私もだんだんと不安になってきます。
そして……お母さんの口から、私の抱える不安に追いうちをかけるような言葉が飛び出しました。
「今から……病院に行くわよ。おばあちゃん、倒れたんだって……」
私は目の前が真っ白になってしまいました。
おせんべいが床に落ちる音だけが、かすかに耳に入ってきました。
*
「はぁ、はぁ……!」
私はお母さんに手を引かれて病院の廊下を走っていました。ふだん学校の廊下も走ったことのない私でしたが、今回は気にしている場合ではありませんでした。
私もバカではありませんから分かってはいました。
最近のおばあちゃんは、あまり具合がよくなかったことくらい。
実は、時々せき込んでいたのも、おせんべいがノドをつかえたせいではなくて、何かの病気のサインだったのかも……。
その時にお医者さんにみてもらうべきだったのかもしれません。そうだったら今回のように、倒れてしまうなんてことにはならなかったのかもしれません。
でも、倒れるまで我慢しちゃダメですよぅ……おばあちゃん。
エレベータの動きがやけにおそく感じます。とちゅう出入りする人達の動きがとてもじれったいです。
おばあちゃんが心配で心配で、不安な気持ちばかりが先に進んでいきます。もしかしたら……おばあちゃんは、もう……。
「そんなの、ダメですよ……」
これからももっともっと、あなたと一緒にいたいです。もう一度「ふぇふぇふぇ」と笑う元気な声を聞きたいです。初めて「おせんべい」という楽しみを一緒に味わったあの日みたいに、また二人で笑い合いたい……。
神さま。どうかお願いします。おばあちゃんを助けてあげてください! お願いします!
エレベーターの中。ひたすら目をつむり、両手を組んで神さまにお祈りします。でも、まぶたの裏側にうつるのは神さまではなく、苦しそうな表情のおばあちゃんでした。暗闇の中、その顔がどんどんと遠ざかっていきます。
「いや、ですよぅ、おばあちゃん……。いっちゃやだぁぁ……」
やがておばあちゃんがいるはずの階に上がってきました。ぼやけた視界も、零れる涙も気にせず、ただただ走ります。今は一秒でも早くおばあちゃんの所にたどり着きたかったから。
お母さんは看護師さんにおばあちゃんのことを尋ね、やがてお医者さんがやって来ました。お医者さんがお話をしている間、私はいてもたってもいられずおばあちゃんのいる部屋を目指しました。
「おばあちゃん!」
叫びながら涙をごしごしとぬぐい、ぼやけた視界を元に戻しました。
そこには白いベッドが左右に三つ。その一番奥、白いカーテンがひらひらと風にゆれて踊っていました。
そこに人影が一つ。
「お、おばあちゃん?!」
「んあ?」
バリバリ。
バリバリ。
おばあちゃんは赤い頬っぺで、とても苦しそうに息をあらげて、濃い色の醤油せんべいをバリバリと…………って、あれ?
「日和ちゃんも食べるかい、りにゅーあるした新作せんべいだよ」
おばあちゃんはベッドの上、いつものように、おせんべいに入れ歯をつき立てていました。
お、おっかしいですねぇ……。目の前のおばあちゃんはまるで何ごとも無かったかのように元気です。お医者さん、これはどーいうことでしょうか。ちゃんと説明してくれないと私、わかりませんよ?
「おばあちゃん……倒れたんじゃ、ないんですか?」
「ああ、ちょっと庭で足引っかけて転んじまったんだよ。大したことないって言ったのに、隣のジジイが慌てて救急車呼んでねぇ。全く人騒がせなジジイさ」
ふぇふぇふぇ、と笑う声はケンザイのようです。
いやぁ……あなたもかなりの人さわがせですよぅ?
「大した怪我もしてないから、二、三日したら退院さ」
「そうだったんですかぁ……」
正直に言うと、おばあちゃんとはもう話すらできないかもしれない、そう思ってました。私は何をとんでもないことを考えていたのでしょうか。
そんな自分のバカさとおばあちゃんが元気だということに、再び涙があふれてきました。
「おやおや、心配してくれたんだねぇ。日和ちゃんは優しい子だねぇ」
「ひっぐ……ぃっぐ……ふえぇぇぇ……」
しゃっくりが止まりませんでした。号泣です。でもこの時は、人目を気にしてる余裕なんてありませんでした。
よしよし、と言いながら、おばあちゃんはゆっくり頭をなでてくれます。
そのゴツゴツした温かい手に安心してしまい、私はおばあちゃんのひざに顔をうずめます。
こんなのあんまりですよぅ。
どれだけ心配したと思ってるんですかぁ……。
言いたいことは山ほどありました。
でも、おばあちゃんが元気でよかった。
本当によかったです。
私は心の底からわき出てくる温かさに身を任せて、しばらくの間泣きつづけました。
久々に大泣きしたせいか、家に帰る頃にはすっかり喉がかれてしまい、まるでおばあちゃんの声のようでした。これでまた一つ、入れ歯族に近づいたのでしょうか。
(今回は……それでもいいかな)
なんて思う自分が少しコワイです。
「また家に遊びに行きますね、おばあちゃん」
「ああ、いつでもおいで。待っとるから」
窓から入ってくる夕日に顔をしかめながら笑うおばあちゃん。私達は手をふって病室を出ました。
元気で、おせんべいばかり食べて、そしてたまに人さわがせ。
そんなおばあちゃんが好きで……大好きで仕方ありません。
早く怪我を治して、また一緒に縁側でおせんべい食べましょうね、おばあちゃん。
私は、彼女との思い出をさらに増やせたような気分で、帰り道を歩きました。
ここでほぼ終了ですが、短いエピローグもあります。
今回ともどもお世話になります。