クラスト家の少し未来のお話
『天からの従者』の番外編です。ネタバレがありますので、先に本編をご覧になってからの閲覧を推奨します。基本的にほのぼの路線です。
その日、ガルヴェイン・クラストはひどく不機嫌だった。
シルダーク王国において、彼の名を知らぬ者はない。十数年前の戦で、圧倒的戦力差があった帝国を退けた英雄であり、王の信頼篤い近衛騎士団長であり、黒の竜の従者の夫でもあるからだ。
黒の竜の従者は、シルダーク王国を救う為に遠く天より遣わされた尊き存在だが、民にとっては『王の最も親しき友』として愛されている。
その黒の竜の従者と彼が夫婦の契りを交わしたのは今から3月ほど前。現国王の戴冠式から20日ほど過ぎた、穏やかな晴天の日だった。近衛騎士団の証である白銀の鎧に身を包み、近衛騎士団の徽章が描かれた盾を背負い、愛剣を腰に携えた凛々しき姿に世の少年は胸を躍らせ、世の乙女は感嘆の息を漏らしたという。
黒の竜の従者はその名の通り、この国には存在しない黒い髪と瞳の持ち主だった。純白の花嫁衣裳に黒髪は神々しいほどに映え、少し涙ぐんだせいか潤んだ漆黒の瞳の神秘的な輝きに、多くの者は魅了された。
民に祝福されたふたりは、神前に永遠の愛を誓い合った日より、誰が見ても羨むほどに仲睦まじかった。
が、その日のガルヴェインはひどく不機嫌で、王宮の廊下を大股で歩き去る彼を見かけた者は彼から発せられる強烈な殺気に臆し、声をかけることも敬礼することすら出来なかった。彼の怒気に気圧され咄嗟に壁に張り付いた王宮書記官の記憶が正しければ、彼はひと月前に王の命で隣接する帝国へ親善試合とやらに参加する為に旅立ったはずであった。
帝国は、自国の軍事力強化と人材育成の為、全国民に参加権が与えられる武闘大会を4年に一度開催していた。優秀な成績を収めた者は、栄誉と10年は困らない程度の賞金と軍への入隊資格を得る。帝国を上げての一大イベントに、招待選手として声がかかったのがガルヴェインだった。
シルダークの砦、天下無双の豪傑、無敵の鬼神―――様々に称される彼の武を一目拝みたいのは帝国民も同じことらしかった。
当時は、いや今も新婚である彼は長く国を離れることを渋ったのだが、王に「帝国との親睦を深める為だ」と言われれば断ることなど出来なかった。戦場で数多の敵を蹴散らしてきた怖いものなしの近衛騎士団長といえど、所詮上司には逆らえないのだ。
お戻りになられたのだ、と書記官は察した。しかしでは何故あれほどお怒りなのか。閣下は元々にこやかなタイプではないが、所構わず怒りを顕わにするようなお人ではなかったはずではないか。
未だ怒気を撒き散らしながら去りゆく背中を見送り、書記官はくわばらくわばら、と呟いた。
厩舎に繋がれていた愛馬フローブラッドが嬉しそうに鼻先を擦り付けてきて、ガルヴェインはようやく少し落ち着いた。彼女の首元を優しく掻いてやると、喜びで爛々とした琥珀色の瞳を向けながら、背に乗りやすくする為か首を下げた。彼女自身も久々の実家への帰宅を心待ちにしているようだった。
空は既に薄赤く染まっていた。シルダークへ到着したのが昼前だったので、王宮で5時間近く足止めされていたことになる。
報告など明日でいいではないか! ガルヴェインは心の中で己の従弟を罵倒した。ただでさえひと月も新婚の妻から離されていたのだ。一刻も早く帰り、あの笑顔を見たかった。声を聴きたかった。その身を抱きしめたかった。ところが王と宰相は故意にそうしているかのようにガルヴェインを引き止めた。無論彼とて帝国から学んだことや皇帝への謁見の様子などを報告することが義務であることは重々承知している。が、翌日以降に書面にまとめて提出するつもりだったのだ。
王は彼の妻を姉のように慕っているから、『姉』を奪った男をほんのり快く思っていないことは認める。とはいえ彼は忠義に篤いので、まさか国王陛下に私情で文句を言うわけにはいかなかった。
だが、従弟は別だった。従弟に至っては邪魔立てする理由はひとつ、面白がっているだけだ。血縁といえどあちらの方が宰相という王に次ぐ身分であるから自分の上司に当たる。公の場では逆らえないことを、奴は分かっていて敢えてやっているのだ。
―――あいつめ、後で絶対に無理やり乗馬につき合わせてやる!
従弟の唯一の弱点―――運動が苦手であること―――で仕返しすることをひそかに誓い、ガルヴェインは愛馬にまたがった。
城よりさほど遠くないのどかな田園地帯に、ガルヴェインと妻の新居がある。彼らが夫婦となったその日より住み始めたそこは、近衛騎士団長が住むには若干小さい邸宅に見えた。外観は目立った装飾もなく、悪く言えば地味でシンプル過ぎる。が、近隣の住民は、その飾り気のなさこそが彼ら夫婦の魅力なのだと却って好意的に捉えていた。2か月前に迎えた収穫期の折、男手が必要だろうと率先して手伝いに来てくれたり、働く者たちの為に冷たい飲み物や新鮮な果物を惜しげもなく振る舞ってくれたりしたこの夫婦に、誰が悪意を抱くであろうか。
フローブラッドを厩舎につなぐと、ガルヴェインは足早に屋敷へと急いだ。普段ならば彼女をいたわり体に櫛を通してやるのだが、今日ばかりはそんな余裕はなかった。彼女もガルヴェインの焦りを手綱越しに感じていたのだろう。早く帰れ、と背を突いてきたほどだった。
扉を開けるなり、侍女のハリアが出迎えた。
「お帰りなさいませ。長らくのお勤め、真にお疲れのことと存じます」
ハリアがガルヴェインに仕えて7年目を数える。身の回りのことは一通り自分で出来るし、今までは女っ気がまったくなかったので侍女など不要と思っていたのだが、かつて住んでいた屋敷が相当の面積があり、清掃に時間をかけるくらいなら槍でも振っていたい、と思い始めていた矢先に、知り合いの伝手で雇ってみたのが彼女だった。当時17,8の少女であったハリアだが、非常に優秀だった。若い娘特有の落ち着きのなさとも無縁で、無駄口を叩くこともせず仕事も早い。他に数名雇ってみたものの、妙に色気づいたり見えない所で手を抜いたりしたので暇を出した。ガルヴェインの厳しさに耐えられず辞めてしまった者もいて、残ったのはハリアだけだった。以来彼女だけは、と雇い続けていたが、妻を娶った際にさすがにハリアひとりでは辛かろうと妻に相談したところ、従弟アークレイムの城に気に入った侍女が2名いるという。早速声をかけてみたら、何と2名は二つ返事でやってきた。憧れの黒の竜の従者様にお仕え出来るなんて!と感涙に咽び泣いていた。3名に増えた侍女たちは、それぞれ歳も性格も違うがうまくやっているようだ。
「何か大事は?」
何事も、と返すのが通例だったが、今日のハリアは言い淀んでいた。さっとガルヴェインの脳裏に不安がよぎる。
「実は……奥様が」
皆まで聞かず、ガルヴェインは妻の部屋へと走り出した。
「マナミ!」
扉を勢いよく開け放つと、新しく入った侍女のうち年配の方……ノーラが睨んできた。
「何ですか、騎士様とあろうお方がノックもせずに。奥様が驚かれますよ!」
ノーラにはガルヴェインと同じ年頃の息子がいるそうで、ガルヴェインも彼女にかかれば「もうひとりの息子」に等しい。侍女というよりは口うるさい母のような物言いをするノーラが、正直彼は苦手だった。
「マナミに何があった?」
「ガルヴェイン? 戻ったの?」
ノーラに詰め寄ったところに、奥から聞きたかった声が届いた。ノーラを押しのけ振り向くと、妻が長椅子にぐったりと身を倒していた。
「どうした!?」
慌てて駆け寄ったが、マナミは病人らしからぬ明るい笑顔で首に絡みついてきた。
「お帰りなさい!」
「ああ……具合が悪いのでは?」
「え、何で?」
マナミの頬は明るい桃色だし、弱々しい様子もない。病ではないとしたら怪我か、とも思ったが、一見して手当てを受けた様子もない。
「いたって健康ですよ」
「ならばいいんだ。ハリアが歯切れが悪かったから何かあったのかと……」
「私がお話があるから戻ったら呼んでくれって頼んでいたからかな? どうせ途中で勘違いして駆けてきたんでしょう」
行動が読まれていてギクリとした。一瞬泳ぎかけた目を戻す。
「何故長椅子に寝ていたんだ?」
「……えーーー、昼寝?」
申し訳なさそうにごにょごにょ呟く姿すら愛おしい。ガルヴェインは久々に再会した妻を、遠慮もなく抱きしめた。
「……ガルヴェイン、夕飯は?」
そうは言いつつも、胸の中のマナミは既にとろけている。甘えて寄せてきた頬に唇を落とす。ちらりと部屋隅へ視線を送るが、聡いノーラはいつの間にやら退室してくれていた。心置きなくイチャイチャ出来るというものだ。
「まずはお前がほしい」
頬から首筋へ唇を滑らせ、長椅子にマナミを押し倒したところで、マナミは手を前に突き出して降ってくるガルヴェインの身体を押し止めた。
「だ、だめだよ!」
「何故だ!」
思わず声を上げてしまった。ここにきて、目まで潤ませておいて、妻にまでおあずけを食らうとは思ってもいなかった。昼間散々足止めされた恨みが沸々と湧きあがってきた。
「俺は新婚早々お前から離されて遠い異国でひとりでひと月も働いてきたんだぞ!? 少しくらいねぎらってくれてもいいんじゃないか!?」
叫びつつ、脳裏に残った冷静な自分が「餓鬼か」と冷静にツッコミを入れてきた。マナミは呆れるでも眉をひそめるでもなく、ただ慈愛に満ちた微笑みで返してきた。
「おなかの子がびっくりしちゃうから、ごめんね」
「……今、何と?」
ガルヴェインはまじまじと妻を見つめた。妻は頬を染めてふふ、と小さく笑った。愛らしくもあり凛とした強さも感じさせる笑みは、もはや母親のものだった。
「我慢してね、お・と・う・さ・ま!」
喜びのあまり妻を力任せに抱きしめてしまい、その後お腹を潰す気か!と妻にしこたま怒られている様子を、侍女たちはため息交じりにドア越しに見守っていた。
マナミの懐妊を聞き、宰相アークレイムは複雑な心中にあった。
不器用で生真面目な従兄は、かつて多くの人間に裏切られ人を信じられなくなっていた。特に、自身を捨てた母と婚約者がそうであった、「女」というものを嫌悪した。屈強な体躯とは裏腹に、従兄は人が思うよりずっと繊細でずっと人が好きなのだ。不器用ゆえに素直になれず、ただ頑なに人を避けていた従兄が、ある朝女にまたがっているのを見て、ようやく愛せる女と出会えたのだ、と直感した。
ところが女は異世界から来た身元も定かではない怪しい女で、すぐに人を信じる優しい女だった。そう、直感は正しかった。傍から見て面白いほど急速にお互いが惹かれていった。もっともお互い、自分の想いに気付くのは遅かったようだが。
だから自分の中に微かに浮かんだ恋心を押し込めたのだ。
誰よりも幸せになってもらいたい、大切な従兄殿の為に。
彼女への興味は、あくまで『黒の竜の従者』として利用する為のもので、彼女自身ではない、と。
しかし彼女との結婚が決まり、へらへら鼻の下を伸ばして浮かれている従兄を見ると怒りが湧いてくるのも事実だった。幸い帝国が武闘大会へ従兄を招待したい、との文を寄越した。ともすれば耽溺しかねない従兄を危惧し、落ち着かせるつもりで帝国へ送ったのだが、逆効果だったように見えた。少し足止めした程度で怒りを顕わにしてきた。
怒りは人から冷静さを奪い、正常な判断を困難なものにする。将軍職のくせに未だ戦陣に立とうとする従兄にとって、その綻びは取り返しのつかない欠点となり得る。
やばいな、と思い、恨みを買う覚悟で翌日臨んだら、それはそれはにこやかに「子が出来た」と言ってきやがった。腹が立つことにその時の従兄にはもう怒りも不機嫌さも、あれほど渦巻いてた妻への執着も見られなかった。アークレイムは独身で子もいないのではっきりとは分からないが、妙に穏やかな深緑の瞳奥底に光る力強さは、『子』という絆を手に入れた人の親が持つ無限の愛情の証なのかもしれない。
もちろんアークレイムにとって大切な人であるふたりの間に産まれいずる子だ。嬉しくないはずはない。が、置いていかれた、という物寂しい気もあった。
恋人でもいれば気は紛れるのかもしれないが、生憎彼の気を引くに至る女性には未だ出会えていない。いや、正確には片鱗を見せた女性はいたが、既に人のものだ。しかも新たな命まで宿している。
「もういっそその子が女の子だったら俺がもらうわ」
冗談交じりで呟いたら、向かいに座って紅茶を飲んでいた夫婦が揃って表情を変えた。
夫の方は明らかなる敵意。おいおい、執着の矛先が子供に移っただけか?
妻の方は冗談を受け流す軽い笑顔だった。
「さすがに年が離れすぎてるからダメ。私、自分の娘を10年そこらで未亡人にしたくないわ」
「俺、死ぬの早過ぎるだろ……」
単純に計算しても60手前で殺されてしまっている。彼女なりの冗談返しなのかもしれないが。
その日の晩、城での勤めが終わると同時にガルヴェインの邸宅へお邪魔した。マナミは笑顔で出迎えてくれたが、その笑顔にはやはり慈悲深い聖母のきらめきがあった。
友が親になっていく姿を間近で見守れることは、何より価値のあるものに思えた。
「どのみち多分無理」
ハリアに紅茶のお代わりを頼みながら、マナミは言った。
「何が?」
「この子、男の子だと思う」
珍しくハリアまでもがガチャンとカップを震わせてしまった。一息置いて、ガルヴェインが詰め寄る。
「わ、分かったのか?」
まだそんなに育っていないだろ! 医者でも無理だ!とアークレイムは視線で従兄を怒鳴ったが、当の本人はまったく気付いた気配もない。それどころではないらしい。
「まさか。ただの私の勘」
「勘……そ、そうか……いや、だがどちらでもいいんだ。無事に産まれてくれさえすれば」
「そうだね……早く会いたいなあ」
ガルヴェインはそっと妻の腹に手を添えた。お互い魅入られたように見つめ合っている。向かいにアークレイムが座っていることすら忘れているのではないだろうか。
紅茶のお代わりを用意したハリアを連れ、アークレイムはそっと部屋を後にした。まったくもってアホらしい。だが何という愛すべき友なのだ!
アークレイムは、心の内にもやもやと燻っていた嫉妬心と呼ばれる感情が霧散していくのを感じた。
およそ10月10日後、マナミはあの時のあれはやはり黒の竜お得意の啓示だったのかと思い至る。
黒の髪と深緑の瞳を持ち合わせ産声を上げた我が子は、思っていた通り男児だった。
夫が涙して喜んだ隣で、かけがえのない友が「なんだ男か」と呟いたせいで、すわ乱闘かの大騒ぎになり2人して侍女に怒鳴られたのも、今となっては笑い話。