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蟲床フラストレーション  作者: 桜谷 卯月
第一章 非現実への入り口
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第七話 欲ノ蟲

「八年前。と言うと、僕は九歳だ。僕の誕生日は七月二十日で……あ、知ってる? わかった。その頃の僕は、今では考えられないけれど、誕生日を祝うとか、祭りとか、そういう賑やかな事が大好きだった。さすがに三度の飯より、ではないかもしれないけどな。

「それで、その日は月夜兄さんの誕生日で、親戚が集まってサプライズパーティー、と何とも当時の僕のツボを押さえた催し物があったわけだ。当然、僕は喜んで親に着いて行くことにした。

「父さんと、母さんと、妹と。僕は泊まりでもないというのに、丸く膨らんだバッグを背負って、いつもの白い軽自動車に乗り込んだ。

「今では考えられないけど、楽しみだった。

「どんなことをして遊ぼう、どんなことを話そうと九歳の僕は心躍らせていたよ。何が起こるかも知らないでね。 

「まあ、予測できるものでもなし、愚か、とまでは言わないけど。

「間抜けではあるかもしれないな。

「そんな、間抜けな僕は車の中で眠りこけていた。前日にはしゃぎ過ぎたせいだ。もう、死んだように眠っていた、はずだ。

「おかげで詳細は知らないんだ。

「事故のことだよ。唐突な出来事だった。

「まず最初に感じたのは衝撃。鉄の潰れる爆音。世界が回り、両親と妹の悲鳴が遠くに聞こえた。何が起こったのか、当然僕にはわからなかった。

「ただ、何か大変なことになってしまったとだけ、おぼろげに理解した。

「しばらくして音が止み、静寂が訪れた。本当に静かだったよ。まるで、自分以外は全て死に絶えてしまったかのようだった。

「身体を動かすと、全身が酷く痛んだ。身体を見てみると、頭と左腕以外は車の下敷きになっていた。……絶望したよ。

「泣きだしたかった。叫びたかった。

「それ以上に、生きたかった。

「周りには腕時計を付けた父さんの腕と、腹からガラスの破片を生やした母さんが燃えていた。きっと、妹も同じく。

「それでも生きたかった。

「徐々に死んでいく自分の身体を知りつつも、生への渇望は治まらない。かすれた声で、焼き切れた喉で、生きていることの証明として、何か、言葉を叫んだ。

「でも、それは無駄なあがきだ。徒労もいいところだった。

「少しずつ『諦める』という選択肢が姿を見せ始めた――その時だ。

「『奇跡』が現れたんだ」




「……奇跡、ですか?」

 今までじっと話を聞いているだけだったレンがその言葉に反応を示す。

「そう、奇跡だ。そう表わすに相応しい、あり得ないこと。だから奇跡」

 蝶が人語を話すことを奇跡と呼ばずして何と呼ぶ。怪談とも言えるかもしれないけれど。でも、あの場合、奇跡と言った方がしっくりと来る。

「…………蝶が、現れませんでしたか?」

「え?」

「蝶が現れませんでしたか、と訊きました。どうなんです?」

「あ、ああ。その通りだよ。でも、どうして」

 知っているんだ、と口にしようとして、レンの表情に気付く。どこか同情を含んだような、憐れむような。

 僕はこの話に対する感想のようなものか、と思いはしたが、レンはそんなことを気にしているわけではないようだ。

「やはり、そうなんですね。あなたで、間違いはない、ですか」

「何が間違いないんだよ?」

「その蝶は人語を話しましたか?」

「…………ああ、馬鹿げてるけどな」

「馬鹿げていません」

 レンは真剣な目つきで僕に詰め寄る。その迫力に僕は若干後退する。風邪の症状を話していたら、「それ、ヤバいよ」と言われたような気分だ。実際にそんなことはあったことがないけど、きっとこんな感じだろう。

「蝶は人語を話しません」

「だろうな」

「…………しかし、私は人語を解する虫がいることを知っています」

「……いるのか?」

「ええ。しかし、それは『蝶』という名前ではありません」

「違う種類の虫ってことか? でも、アレは」

(しゅ)ノ(の)(むし)

 レンは、その名をぼそりと呟いた。その瞬間、左の手の甲で何かが蠢くような感覚があったような気がした。

「しゅのむし?」

「そうです。またの名を『禁欲ノ蟲』。欲ノ蟲を無力化させる、唯一の存在」

「え、と、なんだかさっぱりって感じなんだが」

よくのむし? なんだそれ、設定か? レンって、実はこういう人だったのか? まあ、知り合って間もないわけだし、知らないことがあって当然ではあるが、それでも、これは衝撃だな…………。

「言っている意味がわかりませんか?」

「……まあ、そんな感じかな」

「当然の反応ですね。まだ、私については何も話していないわけですから。……教えたところで、信じてくれるかどうかもわかりません。妄想だと一蹴されるのが、正しい反応ですから」

 レンは一人言のようにぶつぶつと呟く。こんなに思いつめた顔をするなんて、レンにとっては深刻な問題なのかもしれない。ならば、多少アレな話でも真面目に聞こうじゃないか。それが、優しさってものだろう。

「いったい、どういうことなんだ? いきなり知らない単語を出されてもさ」

「…………ここまで言っておいて、と思うかもしれませんが、あなたにはこの先の話を聞く勇気がありますか? 退屈で生ぬるい、平穏を捨てる勇気がありますか?」

「そこまで深刻な問題なのか? ……いいよ、聞いてやる。地獄はとうに見飽きたくらいだからな。なんでも来いだ」

 僕は考えが甘かった。彼女の言葉をもっと、深刻に受け止めるべきだった。

 平穏を捨てる、という言葉を、冗談だと受け止めてはいけなかったのに。

「いいんですね」

「いいよ……と、長くなるならそこに座らないか?」

 ちょうど通りかかった公園のベンチを指さすと、レンは公園内を見渡し、頷く。人を警戒したのだろう。それは僕も確認済みで、ハトに餌をやる老人一名と鬼ごっこをしているらしい子供数名がこの公園の人口だ。……住んでいるわけじゃないだろうけどな。

 僕たちは三つ並んだ茶色のベンチのうち、真ん中の一つに腰を下ろす。酷く木が痛んでいるようで、体重をかけると今にも壊れそうに軋んだ。まるで、座るな、と拒んでいるようにも聞こえる。

 腕時計を見ると時刻は四時半を過ぎたところ。夏の日差しは昼も大幅に過ぎたと言うのに、じりじりと肌を焼く。

「まずは私の家の、つまり魅上家の決まりについて、お話します。前置きしますが、これはフィクションではないので」

「ああ、わかったよ」

「それでは――――私たち魅上家は代々、この身に『欲ノ蟲』というものを宿してきました。欲ノ蟲、というのは簡単に言えば寄生虫ですね。私の場合、子宮に寄生する虫です」

「子宮に寄生って……なんでだよ? 普通、寄生虫って、腸とか、脳とかそんな感じなんじゃないか? よくはわからないけどさ……っていうか、自分から寄生させるのか? あと、私の場合って……」

「まあ、聞いて下さい。質問は色々とあるでしょうが、それは後に」

「…………わかった」

「欲ノ蟲は不老不死の研究のために作られた生命体です。本体は大気に触れれば死んでしまうほどに脆弱(ぜいじゃく)ですが、寄生された宿主はまず、寿命というものがなくなります」

「そんなことが―――」

 早くも質問の衝動に駆られる僕をレンは手で制する。そして、何故か肩を擦り寄せ、右手を僕の右太ももの上に這わせ、蠱惑的な笑みを浮かべる。

「まあ、それには条件があります。寄生された瞬間から、とはいきません。寄生されてから十八年の経過、および、他の欲ノ蟲の抹殺が必要です」

「他の?」

「ええ、欲ノ蟲はなにも魅上家だけでの話ではなく、魅上家、幻夢(ゆめ)(かわ)家、(きば)(もち)家の三家で、それぞれ異なった種類の欲ノ蟲を所有していたのです。そもそも、欲ノ蟲をという名前の由来は、その蟲のもたらす、いわゆる副作用のようなものの特徴から来ています。文字通り、欲望を、暴走させるのです。人間の三大欲求は知っていますね?」

「食欲、睡眠欲。性欲だろ? 昇進欲と金欲で五欲とも言うらしいけどな」

「そう、ここではその三つの欲求。食欲を支配する『(しょく)ノ(の)(むし)』、睡眠欲を支配する『(すい)ノ(の)(むし)』、性欲を支配する『(しき)ノ(の)(むし)』。それらをまとめて、欲ノ蟲、と言います。寄生された者は、それぞれの名前にあるように、その欲求を押さえる理性というものが希薄になります。つまり、その欲望に人一倍忠実になる、ということですね」

 レンは僕の胸の上に手を這わせ、首筋に息を吹きかける。スカートから伸びる足が妙になまめかしい。僕は、なるべく意識を話に集中させつつ。遊ぶ子供たちの方へと視線を向ける。…………ガキ共、指をさすな。

「それで、君には色ノ蟲が寄生しているというわけか? この動作的に考えると」

「はい、ご名答です。と言っても、乱れることはしません。それなりに強い精神を持っていると自負しておりますので」

「…………そうか」

 若干の心配はあるものの、そう返事を返す。

「先ほど言った通り、欲ノ蟲の不老不死を得るには他の蟲の抹殺が必須条件です。蟲を殺すには、どうすればいいと思いますか?」

「…………大気に触れさせるんじゃないのか?」

「そうです。蟲自体は脆弱ですからね。しかし、蟲は肉の壁に守られています」

「肉の壁、って……」

「人間ですよ。色ノ蟲は子宮、食ノ蟲は胃と腸、睡ノ蟲は脳に。寄生個所はそれぞれ違えど、人間という壁に守られているのは変わりません。それをどうやって突破するか、わかりますか?」

 寄生虫を身体の外に出す方法、と言うと、虫下しくらいしか思いつかないわけだけれど、胃と腸はともかく、脳に子宮となると……。

「…………熱する、とか」

「違いますね。わかりませんか? それとも、言いたくありませんか? 最もそれらしい確実な方法があるじゃないですか」

「まさか」

「ええ、簡単です」

 やめてくれ、と僕が彼女の口を押さえようと手を伸ばすも、レンはひらりとそれを交わして立ち上がる。そして、僕の顔をしっかりと掴み、海を映したような藍色の瞳で見つめる。


「――――殺せばいいんですよ。宿主をね」


 レンは微笑して、そんなことを言う。予想できた言葉。しかし、聞きたくなかった言葉。

 平穏は確実に壊れて行くぞと、もう一人の自分が笑っているような気がした。

 左の手の甲が、痛い。

「そうしなければ、私たちは壊れてしまいますから」

「へ?」

 放心していると、不意にレンはそんなことを言う。ダメージの上にダメージを重ねないでくれ。カバーするのが大変なんだ。だから、そんな、なんでもないように大変な事を言うのはやめてくれ。

「不老不死になれなければ、私たちはその欲におぼれて、廃人になります。人格さえも壊れて、魂のない人形のように。当然ですよね。不老不死のリスクとしては安すぎるくらい。あり得ないことが、人の命一つですからね」

「――――」

「サバイバルゲームですよ。殺し合いです。戦わなければ、壊れるだけです」

「なんとか、ならないのか? その、穏便にさ」

「そこで、あなたなんです」

「はい?」

 間髪いれずに放たれたレンの言葉。僕はその言葉にただ茫然と、間抜け面をするだけである。

 レンはいたって真剣な顔持ちで僕に迫る。

「主ノ蟲、というものがいます。これは欲ノ蟲の副作用を抑える、禁欲ノ蟲とでも言いましょうか。それに寄生された者は、欲ノ蟲の宿主を救うことが出来ると言います」

「出来ると言いますって…………もしかして、それが僕だっていうのか?」

「そうです。主ノ蟲は今までにその姿が確認されたことはありませんが、一説では蝶のような姿をしている、と。そして、その寄生方法は、体内への産卵です。その蝶と会話した時、どこか痛んだりはしませんでしたか?」

 僕は左手に目を向ける。――あの時、手の甲に走った痛みは卵を産み付けられた時のものだって言うのか? そんな、気持ちの悪いものが、左手の中に……?

 途端、左手が痒くなって来るような気がした。もちろん、錯覚だろう。今の今まで、どうともしていなかったのだから。虫がいるのではないか、と過敏になっているだけだ。

「左の手の甲が痛んだ、と思う。けど、一瞬だし、意識はもうろうとしていたから本当にそれかどうかは」

「いえ、いいんです。それだけで。それが確認できただけで、私は満足です」

 レンはほう、と胸をなでおろす。……そうか。もし、レンの話が紛れもない事実だとするのなら、僕がその主ノ蟲とやらに寄生されていることがかなり重要な事のはずだ。何せ、殺し合いをしなくて済むかもしれないんだから。

 と考えて気が付く。

 僕は、この話を信じてしまっている。この、荒唐無稽としか言いようのない話を、心のどこかでは真実だと認識してしまっている。

 なんでだ? 寄生虫? 殺し合い? そんなもの、あるわけが――――、


『これは無償ではない。私はそこまで、お人好しではないのだ。まあ、人ですらないのだがね』


「あ――――!」

「どうかしましたか?」

「いや、なんでも、ないよ」

 やけに鮮明に思い出されたその言葉は、何故か僕の脳を揺さぶるように響く。

 無償ではない。ならば、僕は何かをしなければならないんじゃないか? あの事故で生還したことに対する、なんらかの代償を、払わなくてはいけないんじゃないか?

 どうして?

 アレは、アレは――――

「――奇跡だから、か」

 だからこそ、僕は何か埋め合わせをしなくてはならない。起こり得るはずのなかったことだから。それが、命と等価だから。

「それって、全部本当なんだよな?」

「え? ……はい、全て事実です。信じられないかもしれませんが」

「いや、信じるよ。だって、レンは僕しか知り得るはずのないことを知っていたし、何より――――それが、生かされた意味だと思うから」

 レンは怪訝な顔をする。僕はそんなことはお構いなしにレンに詰め寄る。

「レンの話が本当だとして、僕は何をすればいい? 僕には、何が出来るんだ?」

「……そうですね、あなたに出来ることは――――キスです」

「そうか……………………は?」

「キスです。くちづけです。接吻です」

「いや、聞こえなかったわけじゃないよ。聞こえなかったことにしたかったけど、ばっちり聞こえてた。信じたくなかっただけだよ」

「なんだか先ほどとは打って変わって、と言った感じですが、大丈夫ですか?」

「…………うん」

 待て、僕。うん、落ちつけ? よく考えてみろ、命の対価が、キスだって?

「顔色が悪いですが……」

「まあ、最近キスとかくちづけとか言った言葉縁があってな、頭痛が……」

「何か事情がありそうですが、とにかく。冗談で言っているわけではないことを理解してもらうために説明を一つ、させてもらいますね。寄生した蟲の影響が出るのは、体液が最も濃いのです。第一に血液。一般人が体内に含めば感染(、、)は確実であり、私たち、あなた以外ですが、が含めば、特殊な反応を示し、体中の細胞という細胞がズタズタになります。つまり、死にます」

「ちょっと待て。感染ってなんだ? あと、その、特殊な反応ってのをもっと詳しく」

「ああ、そういえば、説明がまだでしたか。面倒ですね」

「え?」

「あ、いえ、こほん――――欲ノ蟲の副作用は蟲の出すホルモンが原因です。これは宿主の体液に深く溶けています。それは他人の体内に入るとその人間に対してもその作用を働かせるのです。潜伏期間は、そうですね……一週間と言ったところですか。食欲、睡眠欲、性欲のいずれかに駆られた者はその欲望の限りを尽くします。その点でいえば、睡眠欲は比較的、害が少ないと言えますね」

「その人は……どうなるんだ?」

「わかりませんか? 欲望のままに行動するんです。つまり、そこに理性はなく、人格もない。獣と大差ありません」

「そんな…………」

「最近、ニュースでやっている殺人事件。恐らくあれは食ノ蟲に感染した者のなれの果てですね」

「殺人事件って……」

 確か、昨日のニュースで見たな。タイミングがいいのか悪いのか、僕はその内容をはっきり覚えている。死体は何かに食べられた状態で発見されている、とかなんとか。確かに、特徴は一致しているかもしれない、けど。

「そんなに、深刻なことだったのか……?」

「食欲に支配されれば、より大量のものを食べるようになる。すぐに調達できて、腹が満たされるもの。人間が選ばれるのは想像に難くありません」

「それでも、人間を食べるなんて……」

「カニバリズム、というのが今でもこの世の中で存在します。欲に支配された者は常に苦しみ続けます。この場合、果てなき空腹が。私の色ノ蟲では、そうですね、女性であれば、男どもに弄ばれて、そこの公衆便所辺りで廃人になって見つかるかもしれませんね」

 公衆便所を指さしてくすりとレンは笑う。笑い事ではない、と思うのだが。

 そうなって来ると、僕もそばにいる以上、危険なんじゃないか……?

「どうしました……ああ、あなたは大丈夫ですよ。蟲に耐性がありますからね」

 そう言ってレンは僕の左手を優しく撫でる。僕は反射的に左手を引っ込めると、レンはまた、くすりと笑った。取って食われそうで怖い。

「それに、血液に触れなければ大丈夫ですよ。何も心配はありません。あなたの場合、危険なのは私たちですし」

「? どういうことだ?」

「言ったでしょう? 錬次。あなたの、その主ノ蟲は禁欲ノ蟲。その血が私たちと混ざり合えば、この副作用は消える――ことは消えますがその時は命も一緒です」

「他の蟲たちと同じってわけか」

「詳しくはわかっていませんが、刺激が強すぎるのかもしれませんね。金魚を海水で飼っているようなもの、と考えるとわかりやすいかもしれません」

「じゃあ、尚更気をつけないと」

「キスをする時に唇が切れていないかの確認と、しっかりゴムを付けてもらえれば大した問題はないと思いますよ? 少なくとも私としては」

「…………蟲の影響でいいのか?」

「地ですかね」

「そっか」

「そうです」

………………………………ふう。まあ、深呼吸は大事。

「キスの意味はなんだ」

「唾液にも血液ほどではありませんが、同じ効果があります。そのため、あなたの唾液は私たちや感染者の蟲の影響を消しさる、可能性を秘めています。少なくとも、死ぬことはない、はずです」

「随分と曖昧な答えじゃないか」

「ええ、文献だけの情報ですから。曖昧なのは仕方のないことです。ですから、あなたには次の私の誕生日、つまりは次の年の八月の十五日まで、毎日私とキスをして下さい」

「…………まあ、いい。いや、よくはないけれど、ひとまず。で、大丈夫なんだな? その、本当に死んだりは」

「では、失礼」

「おむっ!?」

 気付けばレンの顔が間近にあって、やはり、すでに唇は重なっていて……僕は、女性から突然キスをされる運命なんだろうか。いつか、自分から堂々としてみたいものだけど。  それと、これだけしておいて、贅沢と言えば贅沢かもしれないけど、意中の相手とは一度もしていないというどこか納得のいかない僕のキス事情である。


いや、そうじゃないだろう。


「おい! お前、死ぬかもわからないって……!」

 レンの肩を押して引き離すと、青い顔をして口を押さえたレンの姿があった。もしかして、仮説は間違っていたのか? だとしたら……!

「しっかりしろ! 馬鹿! 試しで死ぬヤツがあるかって……!」

「大丈夫、です。ごほっ、ええ。少し、目眩(めまい)がしましたが……」

 少しも大丈夫そうには見えない。手は小刻みに震え、顔は真っ青だ。彼女の真っ白な髪と相まって、今にも死にそうに思えてならない。そのうち、血でも吐き出すのではないかと、僕としてはまったく、気が気ではない。救急車は何番だったか、11から始まったはず、だっけか?

「病院に連れて行った方が」

「大丈夫ですよ。錬次、結構優しいんですね。安心しました。私としても、ファーストキスが無神経で野蛮な男、というのは残念な所でしたし、ごほっ、まあ知っていましたが」

 レンは僕の方へ倒れ込む。彼女の身体を抱きかかえると、その軽さに驚く。果たして、人間というものはこれほどまでに、不安を感じるほどの重みしか持たない生物だっただろうか。

 何故、廊下で出会った時に気付かなかった? 人間一人が乗っているのだ、多少息苦しくなるくらいのことはあったはずなのに、それがまったくなかった。恐らく、女子に好意を寄せられたことで浮かれていたのだろう、愚かしいこの僕は。

「本当に大丈夫なのか? 今にも死にそうじゃないか」

「大丈夫です……まあ、健康体かと言えば途端に怪しくなりますが、それより。この感じ、恐らくなんらかの形で効果は現れているのだとは思いますが、よくはわかりませんね」

「……よかったら」

「すいません、お世話になります」

「僕の家に……はい?」

「この近くに錬次の家があるのでしょう? お世話になります。……正直、男性の家というのは初めてです。緊張します。エロ本とかありますか? 大丈夫、隠さなくても結構です。ノーマルから異種姦まで幅広く対応していますので……」

「それは助か……じゃない。レン、まさか最初からこういう計画だったのか? 話のタイミングやら何から何まで、計算されたことだったのか?」

「さて、なんのことやら。ただ、一つ言うとすれば、あなたが優しいことを知っている私が、大事な話になると言った時、人の少なく、落ちついて過ごせる場所としてこの公園を選ぶであろうことは容易に想像できる、という可能性がなきにしもあらずですかね」

 レンはしてやったりとでも言うようにニヤリと笑う。しかし、顔色は依然として良くはない。こういうところも計算だろうか、まったく、怒れないじゃないか。

「…………まあ、いいよ。ほら」

 僕はベンチを立ち、レンを背負うために彼女の前に背を差し出す。すると、レンは何故か驚いたように目を見開く。

「? どうしたんだ?」

「いえ、てっきり、文句の一つでも言われるものかと。本当に優しい、いえ、お人好しな方ですね」

「褒めてるのか、それとも馬鹿にしてるのか。……それは置いておくとして、早く乗れ。夕方になったって言っても、夏の熱気は鬱陶しい。早く、家の中に戻りたい」

「……はい、では、失礼します」

 ふわりと背に乗る人のぬくもり。柔らかい感触は確かにいいものだけど、その中にはおぞましいものが蠢いているという。

信じられない、という気持ちは事実、ないわけではないけれど、この少女の儚さ、か弱さ、必死さ。それらは本気なのだと感じ取れる。だから、とりあえずは信じよう。

レンは僕と大して身長差はないはずなのに、まるで赤子を背負っているような錯覚に陥るほど軽い。いや、言い過ぎだろうか? しかし、一度錯覚してしまうと、人間というヤツはそれから抜けられなくなってしまうものだ。

 この時より彼女は、レンは、魅上色夜は、僕の人生上、最も印象深い人物になってしまったのかもしれない。

 現時点での、という言葉を忘れてはいけないのだけど。


「ああ、あと、一つ大事なことを忘れていました」


 弱々しい声で呟くレン。僕は静かに返す。

「大事なこと、ってのは体調よりも?」

「まあ、それほどのことではありませんが、名前を忘れていたのです」

「名前? 欲ノ蟲の? それならさっき言ったろう?」

「いえ、私たちの、です」

「?」

 いまいちピンと来なくて、そっとした方がいいと思いつつもつい、訊いてしまう。どうも、レンの言葉は一つ一つが重大な意味を持っているような気がする。

「『蟲床』。私たち、欲ノ蟲の宿主を、私たちはそう呼びます」

「むし、とこ? それって……」

 声をかけるが返事がない。気付けば静かな呼吸。苦痛を堪える、静かな、静かな。

 僕は疑問を胸にしまい込み、とりあえず自宅へと足を向けた。


どうも桜谷です。

日常は崩れました。

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