第四話 久東錬次の家庭事情
「ただいまー」
家に着くと条件反射で出る言葉だが、僕にその言葉の対象となる人間はいない。少々暗い話になってしまうが、僕の家族は八年前に死んだ。
別に感動的なエピソードはなく、いとこの家に行く途中、乗用車同士で衝突しただけ、と言っても、こちらもあちらもスピードはかなり出ていたから、酷い事故になってしまったわけだけれど。しかも、後から来たトラックにそれを跳ね飛ばされるなんて、運がなかった。新聞の片隅にひっそりと載って、次の日には忘れ去られる。悲しいことに、自分からすれば「地獄のようだった」だけど、他人からすれば「不幸な事故があったらしい」くらいの認識だから、まあ、仕方ない。それが当り前なのだ。
それから、僕は親戚の援助を受けつつ、一人でひっそりと暮らしている。一緒に暮らす、という話もなかった訳ではないが、僕は断った。なんとなく、その方が楽な気がしたのだ。
「さて、今日は……まあ、カップ麺でいいか」
水を半分くらいまで入れたやかんをガスコンロに置き、火を点ける。ちなみに、天然ガスだ。環境には貢献している。
料理は出来ないわけではないが、面倒なので普段はあまりしない。もっぱらカップ麺である。
金は親戚の援助に甘えている。バイトでもしようかと思ったが、どうにも、僕はあまり人に好かれないらしい。面接はことごとく落ちた。皆、不快な顔をして、最後はかなり投げやりな感じに不採用的な意味の言葉を並べる。酷いものである。
それに、親戚の送って来る金額がおかしい。一か月に五十万ほど送られてくるのだ。
最初こそ実はあとから請求されるのでは、と疑ってかかったものの、そのうち疑うのも億劫になり……いや、金額の多さにくらりときたのは確かだ。誘惑に負けたと言ってもいい。仕方ない。だって、その時、目の前にあったのって百四十二万。少し使ったのはまあ、返せるからで、うん、とにかく、今では控えめに使って生活している。当時、僕は十歳。重すぎたのは言うまでもない。
無駄に豪華な二階建ての我が家の維持費も、お世話になっている。
テレビの電源を入れる。画面には見慣れたニュースキャスターが現れ、事件やら政治関連の出来事やらを読みあげる。
冷蔵庫から二リットルのミネラルウォーターを取り出し、年季の入ったソファに身を投げ入れる。腰の辺りからじわりと疲れがにじみ出て行くような感覚、と同時に襲ってくる眠気。
ミネラルウォーターを喉に流し込むと、少しだけ眠気が後退する。眠ってしまえば、次目覚めたときは火の海、なんてことになっているかもしれない。さすがにそれはごめんだ。
『次のニュースです。本日未明、D市S町に――』
この町だな、と若干興味を向ける。この町がニュースになるようなことはあまりないのだけど。
『――――殺人事件が』
「は?」
まさかの、大事件勃発である。
D市全体は知らないが、S町は平和な所だ……という認識は改めないといけないかもしれない。
しかも、その殺人は少しレベルが高かった。まあ、殺人にレベルも何もないかもしれないけれど、そう、異常性の高さが。
なんでも、「食べられている」のだそうだ。腕の肉が噛みちぎられていたり、腹を裂かれて内臓を…………しまった、少し想像した。吐き気が……!
「なんだか、物騒なもんだなぁ……動物園から熊でも逃げたのか?」
ピィーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!
やかんがギブアップの悲鳴を上げる。
我に返った僕は急ぎ火を止め、煮えたぎるお湯を確認した後、カップ麺にお湯を注ぐ。何気なく除く乾燥麺が何故か内臓っぽく見えるのだから、もう、大分疲れているらしい。
「早く風呂に入って……ああ、沸かしてねぇや。シャワーだけでいいか……うおっ」
不意に鳴り響く携帯の着信音。舐めないでもらいたい。僕だって携帯電話くらいは持っている。友達が少なくても、アドレスを交換する機会が滅多になくても、使用頻度が一カ月に一、二回でも。持っていることは持っているのだ。しかも、友人の数=アドレス数ですらない。もちろん、折りたためる。今のところ、この小さな機体に入っているのは正人と、西條と、親戚のみだ。西條が教えてくれたことには驚きだったけど…………。
「(思い出してしまったな……)」
顔が熱くなるのを紛らわせるように携帯を乱暴に開く。画面に表示されたのは「久東綾」、つまり、親戚の名前。実は親戚だけで八人登録されている。
メールで、内容はいたってシンプル。「お邪魔します」とだけ。
「お邪魔します……って、は?」
「ねえっ! 開けて! 開けてれんじぃ~~~!」
直後、騒がしく扉をたたく音。そして、聞き馴染んだ、厄介ないとこの声。
僕は急いで鍵を開け、思い切り扉を開け放つ。すると、ごっ、と何かがぶつかる鈍い音。
「いった! ちょっと、気をつけて開けてよ錬次!」
「こんな夜遅くに騒がしく訪ねてくる奴には妥当な処置だと思うんだけどな」
「む~、この鬼畜ぅ~」
茶色に染めた長髪に、黒のタンクトップ、さらにジーパンという服装。さらに、酒の臭いをまとっているのは紛れもなく、久東綾その人だった。
わざとらしく頬を膨らませる綾から漂う酒の臭いは少し離れていても感じるほどだった。どうやら夜遅くまで飲みに行っていたらしい。ダメな姉貴分だ。
「まったく……今風呂沸かすから、リビングでだらりと待ってろ」
「言われなくともそのつもりっ! お邪魔しま~す」
綾は雑に靴を脱ぎ棄てると、よろよろと小走りしてリビングへ向かって行く。そして響く、転んで倒れたであろう音。まあ、別段気にするほどのものでもないのでそのまま風呂場へ向かう。どうやら、今日はどっと疲れる日和らしい。
「それでねっ! 酷いのよ彼! こんなに可愛い彼女が傍にいるっていうのにね……もう」
「はいはい、わかったから早く風呂入って寝てくれ」
「イヤよ! 朝まで語り明かすんだから! 飲みなさい!」
「それ麦茶な……」
風呂を沸かし、戻って来るといきなり酔っ払いに絡まれた。どうやら別れ話らしい。まあ、いつものことである。なんとか話を切り上げないと、本気で朝まで引っ張られることもしばしばある。朝まで麦茶をエンドレスで飲まされるのだ。勘弁してほしい。
「ほら、さっさと風呂入れ」
「……今日の錬次冷たい! この冷血漢! 連続婦女暴行殺人犯!」
「酔っ払いの頭でとっさにそんな複雑な言葉が出るかね……ほら、行くぞ」
「やーっ! まだ話すの~!」
「ガキかお前は!」
ジタバタともがく綾を文字通り引きずり、風呂場まで持って行く。暴れるのでたまに足がヒットしたりする。一苦労だ。
「う~」
「ほら、着替えは置いておくから、ちゃんと入れよ」
怨みがましい目を向けてくる綾からはさっさと離れなければいけない。経験から学んだ知恵である。ちなみに、着替えは普段から転がり込んでくる綾が今後のために、と置いて行ったものだ。用意周到な。
僕が離れようとすると、綾が僕の右足を掴む。凄まじい力だ。そういえば、コイツは酔っ払った時だけ握力が六十キロ超えるとか、聞いたことがあるような……。
「どうかしたか?」
「……脱がして」
「は?」
「脱がせろって言ってんのよ! 脱がせないと……吐く!」
「なっ……! やめてくれ! ここは、家の中で最も清潔でなければいけない場所じゃないか! 風呂からあがって最初に踏みしめる床が、かつて吐瀉物があった場所だなんて考えたくもない!」
「さあ、どうする~? 私の限界はもうす……うっ」
「わかった! 脱がせてやるから勘弁してくれ!」
仕方なく、僕は綾の服に手をかける。黒のタンクトップは妙にタバコ臭い。
僕の手が下着に差し掛かると、綾がわざとらしく反応する。
「あんっ……乱暴にしないで」
「はいはい、わかった、よっと」
「え? ひゃっ! ちょ、ちょっと! 遠慮なさすぎじゃない?」
僕は綾の言葉を無視して、躊躇なく下着をはぎ取ろうとする。すると、何故か綾が冷静になって抵抗し始める。
「ちょっと待ちなさい錬次! まあ、私が頼んだことではあるんだけど、こうも照れた様子なく女の子の下着をはげるものかしら!」
「慣れてるし」
「慣れてるって何よ! じゃあ何? 私のおっぱいは見飽きたというわけ!?」
「いや、別に……うん、まあ、そんな感じ」
「面倒になったわね! 今の確実に面倒臭くなって適当に答えたでしょう!」
確かに、綾はスタイルがいい。篠村さんと比べても互角以上だろう。でもなあ、綾に興奮できるかどうかというと……微妙なんだよなぁ。
「ほら、脱がせるから、その手をどけろ」
「イヤよ! 何か今の錬次の目ちょっと怖いわ! 本気で何か、犯されそうな気がする!」
「いや、お前を犯そうとするやつなんて世の中指で数える程度しかいないだろ。そして僕はその中に入っていない」
「……錬次、今日あなたの身に何が起きたの? お姉ちゃん心配だわ……!」
まあ、そりゃあ色々起きましたよ。お前のことも含めてな、という言葉をぐっと飲み込み、代わりに大きくため息を吐き出す。
「風呂の中で寝ないでくれよ」
「大丈夫、だと思うわ。うん、たぶん絶対に」
「どっちだよ」
風呂場から退場し、リビングまでの道中で綾が脱ぎ散らかした靴を整頓し、消費した麦茶を作り……と、風呂に放り込んだ後はびっくりするほど暇だった。
気まぐれに携帯を開くも、特に変わりはない。僕はソファに腰掛け、目をつむった。
疲れが僕の意識を奈落の底まで引きずり込む。身体にかかる重力が倍に増えた気がする。心地よく身体を包むソファの生地がそれをさらに加速させる。
しかし、それは電子音によって妨げられる。
「なんだぁ?」
少し眠りかけていただけに、それを邪魔された怒りは大きい。僕は怒りをぶつけるためにその音の主を探す。
それは割と近く、ソファの前にあるテーブルの上にある赤い携帯電話から鳴っていた。綾のものだ。長く鳴っているので通話だ。
僕は悪いと思うこともなく、素早くその通話に応じる。
「もしもし」
『……誰だ、お前。これ、綾の携帯だよな?』
聞き慣れない男性の声。もしかして、綾が話していた男だろうか。携帯電話の画面を視界の端に入れる。「イングリッシュ」と表示されている。どういう名前だ。
「間違いない。んで、僕はいとこです」
『いとこ? ……まあいい、綾を出してくれないか。話がしたい』
「散々愚痴られた後ですよ。たぶん、あんたについて」
『……どんな感じに言ってた?』
緊張した声が流れる。どうやら、相手は割と真剣な態度のようだ。
「他の女を見てた、とか、話しかけた、とか」
『それ、誤解なんだ。その様子だと、直接話しても効果は薄いな。もし良ければ、お前の口から仲介の言葉を言っては』
「お断りします」
『意外とキツイ性格だな、お前』
「ええ、姉さんとそういう色事の話をすると朝までかかりますからね。今日は眠いので、きっちりお断りします。いや、すいません、正直めんどいんで」
『…………わかった、後でかけ直す。すまないが、このことを綾に伝えてくれ』
「まあ、それくらいなら。寝ていなければの話ですが」
『寝るな』
「無茶言わないで下さいよ。こっちだって今日は大変だったんですよ。突然告白まがいの事をされたり、何の前触れもなくキスされたり」
『嫌味か? 嫌味だろうお前』
『まあ、よろしく頼む』と言って相手は強引に通話を終わらせた。まあ、話した感じではそんな悪い奴、という感じではなかったような気がしたけど。
そう思っていると、ちょうど綾が風呂からあがって来る。身につけているものは下着のみ。だらしないことこの上ない。
「ん、錬次。人の携帯勝手にのぞき見るなんて、そんなに私の恋愛事情が心配? ねえ、心配?」
「微塵も」
「はいはいそうですか。期待はしてません~」
綾は携帯をひったくり、一応内容を確認し――みし、と赤い機体が悲鳴を上げる。それが綾の握力で握りつぶされそうな音だというのが瞬時にわかるのは、付き合いが長い、という理由に尽きるのだけど。
その後、僕に向けられる怒りの声。正確には、会話した相手に対する。
「……話したの?」
「眠りを妨げられたので」
「何て言ってた?」
「キツイ性格だな、お前」
「よし、わかった。死刑確定」
なんとなく綾の背後に炎のエフェクトが見えるような気がしないでもないが、僕はそんなもの見えない。決して見えない。罪悪感なんてない。知らない人だ。
「錬次! ビール!」
「ない。未成年の家に何を期待してるんだ?」
「ちょっと、私が来ることは事前にわかってるんだから酒くらい用意しておきなさいよ」
「怖い、いや、怖いって。そんな殺気のこもった目で見ないでくれ」
「別に殺気なんて。私は苛々してるから酒で忘れたいのよ! もう酔いは醒めちゃったし」
猛獣のごとくうなり声を上げる綾。僕にはどうしていいのかわからない。というか、考えてみて欲しい。店は未成年に酒を売らない。
「忘れたいなら寝てくれ。今すぐ寝てくれ。きっと忘れられるよ? もう、何もかも忘れられるさ。それは酔いの延長だ。だから寝たら全部忘れるはずだから。お願い、というか寝ろ」
「どんだけ寝て欲しいのよ……あ、もしかして、寝込みを」
「襲わない」
「そんな厳しい口調で言わなくても…………っていうか怒ってるの私よ? 何怒ってんのよ!」
「お前が怒らせたんだよ! なんだよ、そんなに襲ってほしいのか? 欲求不満か? ならいっそのこと襲ってやろうか、ああ?」
僕の中で何かが壊れたような気がした。
「あ、あの、あれ? 本気で怒ってる?」
「…………」
「あ~えっと、あの、うん。寝るから。寝る。うん」
「…………」
僕は綾をソファに押し倒し、無言で下着に手をかける。すると、綾は焦った声で僕の手を掴み、抵抗する。
「わー待って。待って待って待って! ごめんなさい、お姉ちゃんが悪かったから! だから待って! やめて! わ、私、まだ処女なのよ!」
「へ―意外」
「棒読み!? ああ、ダメだわ! 目に生気が感じられない! まさか、初めてが錬次なんて……でも、顔はまあまあだし、いとこって結婚できるのよね……よし!」
随分とたくましい考えを持った姉貴分である。
「…………どんだけ愛に飢えてるんだよ」
「あれ? 冷静になってる!」
僕は綾にデコピンを一発喰らわせ、綾の足をソファの下に投げ出し、そこに腰を下ろす。綾はでこを押さえて、不満そうな顔で僕を見ながら起き上がる。
「錬次のいけず! なんなのよ、もう……」
綾の弱点は知り尽くしてるからな、と心の中で笑みを浮かべる。この姉は大変わかりやすい性格をしていらっしゃるのだ。
「早く寝ろよ。僕は明日も学校あるんだからさ」
「むぅ~、わかったわよぅ。……おやすみ、錬次」
「ああ、おやすみ」
綾は酔いの余韻があるのか、ふらふらとした足取りで部屋の方へ向かう。元は母さんの部屋として使われていた場所だったが、今は客の泊まる部屋と化している。まあ、家に来るのは綾くらいなものであるが。
しばらく経って、誰かが転んだような音が聞こえてくる。誰かと言っても、僕がここにいる以上、転んだであろう人間は綾を置いて他にいないわけだけど。
さて、漢字の書き取りを終わらせて、早く寝てしまおう。面倒事がこれ以上増える前に。
どうも、桜谷です。イトコ回です。ダメ姉です。
相変わらず日常パートが続いているわけですが、ここから若干の変化を見せます。
感想等、お待ちしております。