第三十七話 世界の外側
真っ白な空間を歩く者がある。
土色のハンチング帽を頭に乗せ、黒のパーカー、半ズボンという一目見ただけでは少年のように見える格好をした八重子は、凝り固まった肩を回してため息を吐いた。
仕事としては楽な部類、と最初は考えていたものの、いやはや、殴る蹴るで解決出来ないのがここまで面倒なものだとは思いもしませんでした。
思い浮かべるのはB級ホラー染みた世界で悲惨な目に遭う少年少女たち。
悪趣味、と言いましょうか。現実にあったことをとやかく言っても仕方ないのですが、なんだか消化不良。
自分が完全に介入すれば、という思考を八重子は打ち消す。
今回はそういう依頼だった。そもそも自分は正義のヒーローではなく、こういった非常識な現象の管理が仕事だ。
規制ではなく、管理。
何事も程良く、世界が滅亡しない程度に。人死にはよくあることなので、ある程度は黙認すべし。
暗黙のルール。誰が決めたわけでもないが、なくしてもどうせが次が出るという諦めから来る決まりごと。
八重子は淡々と足を進める。目的の場所は遠くも近くもなく、あそこかと思えばここにあるといった曖昧な場所にある。
だから、運が良ければ一歩で辿り着くこともあるが、逆に悪ければ何キロメートルも歩かされる羽目になる可能性がある。
なんでも、八重子のこの世界の師のような存在であった男によれば、曖昧な場所にこそ不可思議な出来事が集まるのだという。
「いや、それでもこの大ざっぱさはどうなんですか……人に依頼しているんですから、向こうから出向いてくれても良さそうなもんですが」
無論、向こう側も条件は同じなので延々歩く羽目になる。苦労しろ、と八重子は口を尖らせた。
「おや?」
この先、愚痴を吐き散らしながら歩いて行ってやろうと思い始めていた八重子はとうとう目的のものを見つける。
噂をすれば影? 八重子は今後何かを探して歩くときは愚痴りながら行こうと心に決めた。
この空間に直接生えている、周囲と同じ真っ白な椅子に座る青年。彼もまた白髪頭に白衣という外敵から身を守るような色合いをしている。少なくとも八重子にはそう見える。
青年の目の前には巨大なスクリーンがある。見上げるほど大きなそれは、今は何も映さず真っ暗闇を八重子に見せている。
青年の傍らには黒髪の少女が立っていた。それは今まで八重子のいた空間、つまりはスクリーンの先の世界で西條瑛子を名乗っていた人物だ。彼女は八重子に気が付くと、わずかに頭を下げた。
「依頼された件、終わりましたよ。見ていましたよね。満足していただけましたか」
八重子が問いかけると、青年は一言、「うん」と答え、より深く椅子に背を預けた。
「概ね良い結果だった、と、そう思うよ。彼女の名を思い出せなかったのは残念だけど、継続する世界にはまだ希望がある。何より、久東錬次以外が救われているのは大きい」
「ご満足いただけたなら何よりですがね。今後こういった依頼は避けていただけるとありがたいですよ。こちらとしても複雑な気分になるので」
「……ああ、今回は良かった。どうせ弄ってもこれ以上良い結果が出るとも限らない。もしかしたらもうやめるかもしれないな」
軽く笑い混じりな青年の言葉に八重子はうんざりしたようなため息を吐く。
これ、絶対またやりますね。
その時は自分がこの現場にいないことを願っていようと八重子は眉間を揉んだ。
「繰り返すことが良いこととは限りませんよ。最良は既に出て、後は悪化を見るのみになる可能性もあるのですから」
「そうだね。僕も最悪はいくらでも想定出来るけど、最善はどうも浮かばない。これは一見穴のある結末ではあるけれど、やはりかなりいい部類に入ると思う。だから、なるべくならこのままがいい」
だが、と青年は続ける。
「そうすることで、まだ見ぬ最善を捨ててしまっているのではないかと、そう思う。何度最悪を見て苦しんでしまっても、だ」
いや、それなら最初からこの事件はこの登場人物たちに任せずに私のようなイレギュラーを投入して片付けた方ががいいですよマジで。
八重子は言葉を呑み込んだ。
今回八重子は『この世界における良い結果をもたらしてほしい』という漠然とした内容の依頼、もとい願いを受けていた。
その世界というのが、彼の作り出した箱庭のような世界である。
まあ、そもそも世界なんて大体神様の箱庭みたいなものなのだけれども。この真っ白な空間とて管理するものがおり、そこに存在する万物を眺めている何者かが確実に存在している。世界に優劣はなく、どのような結果もある程度は深刻に受け止めなければならない。
それが何度もやり直しの利く世界であったとしても、その世界の住人にとっては一度きりの人生が何度も繰り返されているということで。
嬉しさも悲しみも、楽しい思い出も苦い思い出も、全てが薄まることなく繰り返されている。それを眺めているこの青年は果たして正気なのだろうか、と八重子はその白髪頭を見つめる。
八重子は青年の名を知っている。
彼の名は久東錬次という。
主ノ蟲の力を使った彼は今や人の身を捨て、不老不死として一つの世界を管理している。
全てが朽ち果て、滅び去り、消滅した後。それでもこの青年だけが存在し続けた結果。
この真っ白な空間は夢でも幻でもなく、現実そのものであった。
「もう、過去を振り返るのはやめた方がいいでしょう。全てわかっているのでは? 何を知らなかったのか、何が起こっていたのか。だからどうしようもなかったということも」
「知っているとも。何千何万とこの世界を作り直してきた。当然どこでどんな思惑があったのかも把握している。何が悪かったかを強いて挙げるとすれば、久東錬次があまりにも無知で無力な男であったところか。運が悪かったとも言える。
対策の打ち方もわかってきた。この男に知識を徹底的に提供する必要がある。身を持って。莫大な印象を持って。だから、タブーに触れない程度の若干の干渉、外から人を送っての手助けや一瞬だけのメッセージ等を送り込む。後は一度だけのやり直しがあればいい。やり直しに関しては西條瑛子……久東錬次の妹の主ノ蟲が彼の死を回避させるために自動的に発生するわけだから、彼の死を確定するためになんらかの手を加えてやればそれはクリアだ。後は――」
「ああ、もういいです。あなたのゲーム攻略を聞きたくて私はここにいるわけではありませんから」
久東錬次の傍らに立つ女性が困ったように微笑む。謝罪の意を示しているようだというのがもなんとなく伝わったので、八重子は「いえいえ」と両の掌を女性に向け、ひらひらと振った。
過保護な母親のような様子だが、彼女は久東錬次の妹であった人物だ。『兄を守りたい』という少年漫画なら主人公が大声で叫びそうな願いを実現した少女は、今や不老不死の兄の傍で離れずにその様子を見守る存在と化している。
スクリーンの向こう側のように、途中で解放されて楽になってしまえばよかったものを、下手に曖昧な願いにしたせいで一生兄のわがままに付き合わされるとは哀れな、というのが八重子の感想であったが、本人は随分と幸せそうな顔をしているのでどうにも口を出せない。
「……幸せそうで」
八重子は二人から目線を切り、踵を返す。先ほどまで歩んできていた道を見て、ややうんざりしたが、このままここで話を聞き続けるよりはマシだと思われた。どうせ今までの苦労話しか聞くことはないだろうし、それが自分の身になることは万に一つもない。
「八重子さん」
久東錬次はスクリーンの向こうの彼と同じ呼び方で彼女を呼んだ。仕方なく、背を向けたまま八重子は、
「なんですか、久東さん」
「もし、やり直したい過去があれば言ってほしい。この作業に納得出来た時、お礼にそれを変えるくらいのことはしよう」
我が身と引き換えに、ですか。
八重子の口から奇妙な笑いが洩れた。これは苦笑というのかと思いながら、八重子は冗談交じりに、
「では、この空間を歩きたくはないので、これが出来る頃に戻ってその時の行動を変えてみたいですかね」
面倒臭いですから。
八重子はその言葉は口にせず、今度こそ彼の前から遠ざかって行く。
今度はどれくらい歩けばこの空間を抜けられるんでしょうか。
ここの出方くらいは教えてもらった方が良かったかもしれないと後悔するのは、彼女が数時間彷徨った後の話である。
◇
「ここまで妥協してこの結果、か。どうにも上手く行かないものだ。八重子さんにも呆れられてしまったし、さて、次はどうしようか」
不老不死というのはあまり面白いものではないな、と錬次は考える。余計なことを考え、余計なことばかりをする。案外人の命というものは期限があるくらいでちょうどよいのかもしれない。
「私はやっぱり、間違っているんだろうな」
傍らの少女に向けた言葉であったが、少女が言葉を口にすることはない。
主ノ蟲の力を利用する際、力の重複というものが発生することがある。西條瑛子――久東結果は兄を守ろうと。久東錬次はとっさに自らの死の回避を願った。
二人の方向性が重複した願い。それによってもたらされた効果の代償は分散される。
久東錬次と久東結果の過去の消失。この時の願いの代償はその程度で済まされた。
しかし。
願いの仕方がまずかった。死の回避という願いは期限が決められておらず、継続して代償が求められている。
死という結果を避けるために見てもいない未来が変わる。死に繋がる何かが排除される。物であることも人であることもあった。
ただ、死の枠組みに『消滅』は含まれていない。久東錬次は徐々に削られていった。
しかし、存在の消失もどうやら結果の『守る』という内容に含まれているようで、その負担は彼女と二分されていた。
久東錬次が消える前に久東結果が消滅する。それは彼女の願いの内容から明らかだ。
久東錬次は死を捨てざるを得なかった。
「厄介なものだ」
その願いで錬次の大体のものは消し飛んだ。大切な記憶も、想いも、五感のいくつかや、その存在さえも。
当然、傍らに立つ少女もそれと同等の代償を負っている。ただ、彼女もまた死ぬことはない。願いは『久東錬次と久東結果の不老不死』だったのだから。
錬次は思う。早く消してやりたいと。
しかし、まさか世界を任されるとは。ここまで至った経緯となればまた話は長くなる。しかし、簡潔に述べるならば、この世界では『不老不死がある周期で選別される』。
主ノ蟲はその選別するための道具の一つであった。
前任者は一通り錬次に声のみを聞かせて説明すると、世界を真っ白に塗り替えて去って行ったのだった。
それがどこかに行ったのか、それとも消えてしまったのかは錬次の知るところではないが。
「きっと、消えたんだろうな。全てに飽きたんだろう」
目の前のスクリーンに目を向ける。中ではまた、新しい世界が始まっていた。願いを叶えた、理想を形にした世界が。
たくさんを失った錬次は記憶らしい記憶を持たなかった。
ただ、いくつかは思い出せた。
白い髪の少女の名を求めていたこと。理不尽な惨劇があったこと。
ある町の世界を何度も作り直して、ようやく思い出した。
それは何度繰り返しても失敗する。試行錯誤して、成功するまでに長い時間がかかった。
何度か成功のようなものはあったが、それらはどれも白い髪の少女の名を知ることが出来ない未来であった。
今度は、どうだろうか。
錬次は椅子に深く腰掛ける。
今回は見たいものが見られる。そんな予感があった。
今度こそ、私は、僕は彼女の名を聞くことが出来るのだろうか。




