第二話 授業風景、西條さんは策士
教室に戻ると男子生徒が机に突っ伏して座っていた。よく見ればそれは篠本さんに告白した男子Aであることがわかる。見事に玉砕したのだろう。ドンマイ。しかし、回り込むと、その顔は何故か満足そうな色を孕んでいる。まるで一仕事終えた後の変態のようだ。
そして、この男子Aをここまで打ちのめした麗しき張本人はその斜め前の席で平然と教科書なんかを読んでいた。既に慣れ切った様子である。
難攻不落と言うのはなんとも、的を射た言葉ではないか。
「さっきの女子についての話を聞きたいのだがね、ええ? 色に狂った錬次君」
「何故そうなる。僕は篠村さん一筋だ。さっきのはちょっとした拍子にああいう状況を作り出してしまっただけであって……」
「つまり、自分はラッキースケベだと?」
「馬鹿! そんなこと言うんじゃない! 否定できないだろうがっ!」
あの柔らかい感触といったらもう、ああ、思い出すだけでも少し熱くなってくる。主に身体の一部分が。あ、頬だから。いや、ホントに。
「お前、本当に篠本さんが好きなのか?」
「当たり前だ。この恋心、だれにも止められはしないさ」
さっきは一瞬揺らいだがな、という台詞は胸の奥にしまいこんでおく。
「だったらいいけどさ。もし、他に気になる奴がいるんだったらそっちの方が無難なんじゃないかと思うわけよ。俺はね。初恋にこだわらなくてもさ」
「まあ、望み薄っていうのはわかってるけどな。僕は冴えないし。だけどさ、それ以外にモテない要素ないと思わないか?」
「いや、あるだろ」
「…………え!?」
「なんだその今気付いたような感想!? 馬鹿か! お前がどんだけ厳しい位置にいるかわかってんのか?」
「まあ、百歩が常人の距離だとするなら……十歩くらい?」
「百歩どころか百一歩だっての! お前、話したこともないのによくそんな強気になれたもんだな……」
「話せば十歩か?」
「そこで落ち込んでる奴は毎日篠村に話しかけて、結構仲良さげだったな」
「…………もしかすると、不思議系男子が好きかも」
「そこで自分を不思議系と言うか。お前も相当必死だな。残念ながら無理あるぞ」
……馬鹿な。僕は右手で頭を抱え、椅子に座り、左手で身を抱き、足を組み、背もたれに寄りかかった。
「まあ、それで困った時の態度だとしたら不思議系なのかもしれないが……いや、なんというか、イタいな」
「なんの事だよ?」
「自覚なし、か。性質悪いな……」
正人が何事か呟き、自分の席に着く。正人の席は篠本さんの隣だ。僕からの距離で言えば、僕の席の四つ前、四つ右に進んだ位置に……まあ、随分と離れていることがわかれば問題はない。というかアイツ、今思えばなんともうらやましい席にいるものだ。あれならさりげなく話しかけることも出来るだろうに。でも、不思議なことにアイツは篠本さんに興味はないなんて言う。僕が興味を示す篠本さんに興味があるらしいけど、どうなんだか。
ふと、篠本さんに目を向ける。彼女の周囲は男子生徒が多い。と言っても直接話しかけようなんて男子はほとんどいない。こんな大勢の目の付く所ではそんなのは自殺行為だ。視線に殺される。視殺される。
というわけで、多いと言っても周囲の席という意味だ。そして大抵チキンの集まりである。もちろん、鶏肉の方ではない。定規を鏡的に利用し、姿を隠れ見るとか、目だけを動かして盗み見るとか、わざと近くを通り過ぎて香りを嗅ぐとか、まあなんとも変態チック。臆病な紳士たち。そんな連中が集まっている。
確かに、気持ちはわからないでもないが。
「目線が危ないぞー。大丈夫か? そろそろ戻って来ないと俺の中のお前のイメージが
現在進行形で着実にブレイクしていくんだが」
「大丈夫。元から正気だよ」
「それはむしろ危ないような気もするが……」
正人は僕の肩に軽く手を乗せ、そのまま何も言わずに自分の席に戻った。すると、それを見ていたかのようなタイミングで教師が教室の戸を開く。ざわめいていた教室の空気は瞬間、静かになり、僕のように席を立っていた生徒は慌てて席に着く。もちろん、僕も例外ではなく。
一通り生徒が席に着くと、教師が号令をかける。白髪の多い生物教師、愛称みっちゃんこと三沢先生は生徒に号令をかけさせることを嫌がる人だった。高齢の男性教員にみっちゃんはどうかと思うのだけど、それは僕の脳みそが現代の流れについて行けていないだけなのだろうか。
授業が始まれば、教室はチョークが黒板を叩く音と、生徒から評判高い、美しいテノールでの説明だけが淡々と続けられる。
皆は必死にノートを取っている。当たり前の光景だ。しかし、僕は授業と言うこの時間、ずっとある行為に没頭している。授業を聞くでもなく、ノートを書くでもなく。ただただ、僕は篠本さんを見つめている。
…………ガン見ではないけども。こう、ちらっ、ちらっと。客観的に見れば気持ち悪いのかもしれないが、まあ、大目に見ていただきたい。恋する純情少年である。
それにしても、やはり綺麗だ。ノートを取っているだけだというのに、何故か輝かしく見える。後光が差しているような、そんな感じ。
「はい、ここ。え~今日当たる人は~」
三沢先生は座席表を取り出し、目をつむって勢いよく人差し指を突き立てる。噂では見えている、という話だが。
「久東」
「…………はい?」
「久東錬次。はい、教科書の続き読んで」
黒板を見る。ページ数は書いていない。教科書を開く。どこをやっているのか、全くわからない。まずい。
正人に目線を投げると……奴は肩を震わせて笑っていた。人の不幸をなんだと思ってやがる……!
「早く読め~」
「あ、はい、すいません。最初の字が読めなくて」
「……平仮名だぞ?」
平仮名平仮名平仮名……! ああ、ダメだ! 始まりそうなところは全部平仮名だ! サーチは失敗に終わった。
まずい。まずいまずい。この先生、授業を聞かない生徒には課題をそりゃあもうどっさりと山のように机の上に積み上げ、明日までにやってこい、とか言うのだ。その異常な高さから通称、「三沢ランドマークタワー」と呼ばれる。ちなみに僕はランドマークタワーがなんたるか、知らないのだけど。
くいっ、と左の袖が引かれる。顔を向けると、僕の左隣の住人が教科書の一点を指さし、じっと僕の顔を睨んでいる。しっかりしろ、とでも言いたいかのように。
「ありがとな、西條」
「…………(ぐっ)」
西條はガッツポーズを残し、教科書に目を落とす。西條瑛子という人間は基本的に他人には干渉しない、自分の世界に籠もり切っている人間なのだが、まあ、僕の数少ない友人その二である。
僕は淀みなく教科書の文を読み上げると、三沢先生は一つ鼻で笑った。
そして、再び、平和が訪れる。平和っていいな。つまらないけども。
「……危ないところ」
「ああ、助かったよ。ホントに。課題の山が置かれたらどうしようかと」
「…………あれ、私の方に倒れたら事だから。死ねる自信あり」
「そこまで、だったっけ?」
「見たことない?」
「いや、あるけど……そこまで高くなかったような……?」
「最大標高、一メートル六十五センチ。全部プリント。罪状により、量の変化あり」
西條は自分の頭の少し上の所で小さく手刀を振る。確かに、僕の机からその量のプリントが崩れ落ちれば西條を覆い尽くすくらいは出来そうだ。それでも、死にはしないだろうけど。
「…………信じた?」
「え、嘘? 嘘なのか?」
「……六割の真実、四割の嘘。それが私の主成分」
「なるほど……どっちなんだ? なあ、今の話は本当なのか?」
「……私は反対のことを喋ります。私は嘘しか言いません」
「なんだ、いきなり」
「………………(ぐっ)」
西條はガッツポーズを決めると教科書に視線を落とす……よく見れば、教科書なのは表紙だけで、中身は小説だった。コイツ、小説の内容が気になって、僕の応対どころではないのだ。
「はい、ここ。え~西條」
三沢先生の指名が入る。西條は不快そうに顔をしかめ、顔を上げる。
内心、「やれやれ仕方ないやつだ、僕が教科書を貸してやる」なんてことを思っていたわけだけど、しかし。
西條は無言で立ち上がり、艶のある長い黒髪を宙に払うと、教科書(小説)を胸の位置に構え立ち上がり、堂々と音読し始めた。
「……バイオレンス・ラブ(タイトル)」
…………教科書(小説)の内容を。冷や汗が、どっと溢れた。
「香織は修一に恋をしている。
しかし、その恋は歪んでいる。香織は暴力でしか愛情を表現できないのだ。ある時は灰皿で後頭部を殴り、ある時はシャープペンを手の甲に突き刺し、そのまたある時はトイレットペーパーの芯を修一の肛門に突き刺した。
修一はそんな彼女に対して恐怖するとともに、その恐怖と混ざり合った強烈なマゾヒズムを感じていた。
香織は自分の行為が修一への愛情へと繋がるのだと信じてやまない。しかし、修一はそれによって新しい世界への扉を開こうとしていた。
ある日、修一は言った」
そこまで一気に読み上げると、西條は妙に凛々しい声で修一の台詞を言い放った!
「香織、俺を……縛ってくれ!!」
「ストップだ西條」
さすがに三沢先生が正気を取り戻す。
「……西條、あとで先生のところに来なさい。課題を渡す」
「……なんで?」
「わからないのか?」
「……私、教科書を読んだだけ。……酷い」
酷くない。至極まっとうな処遇である。
「西條、教科書の中身が違うだろう」
「…………酷い……」
そう言ってなんと西條は泣きだしてしまう。頬を幾筋もの涙が伝い落ちる。顔は伏せているので、窺い知ることは出来ない。
「先生! いいじゃないですか!」
「そうですよ! 何も泣かすことはないでしょう!」
西條を憐れむ生徒たちの声。西條は人との関わりを極力持たないが、容姿はいいのでクラス内での人気は高い。その勢いに押され、三沢先生は口ごもる。
「あ、ああ、うむ…………ほら、わかったから。西條、もう座れ」
「……ぐすっ、…………はい」
三沢先生は困ったように頭を掻き、所在なさげにチョークを黒板の前で彷徨わせる。西條はというと……。
「この悪女」
「……策士と言って」
悪戯な笑みを浮かべた彼女の顔に、既に涙はなかった。
どうも、桜谷です。
個人的に好きなキャラクターの西條さん。ぶっとんだ人です。
感想お待ちしております。