第三十六話 世界の空白
真っ白な景色があった。死んだ後にこんな続きがあるとは、生きている時は考えもしなかった。
三途の川とか、天国とか? イメージとしては天国に近いのかもしれない。白いというのは良いイメージがある。
「や、久東さんどうも」
「え、八重子さん?」
声が出た。どうやら身体機能は生きている時と変わらないらしい。
パーカーに半ズボン、頭にハンチング帽といういつもの恰好をした八重子さんは、さも当然のように僕の目の前に立っていた。
「どうしてこんなところに? 天国じゃないのかこれ」
「そんなわけないでしょう。あなたは主ノ蟲の力を使って、世界改変を行ったでしょう。だから死んでいるわけではありません」
「世界改変、主ノ蟲? ……ああ、そういえば」
どうにも思考がはっきりしない。頭でも打ったのだろうか。飛び下りは頭直撃コースだったのか。
「もしかすると、削除されつつある項目なので記憶が曖昧になっているのかもしれませんね。世界改変ではよくあることです」
「いや、世界改変なんてそんな頻繁に起こってるものなのか?」
「割と。気付いていないだけで、消滅したり復活したりといったものは存在しますよ。神様の調整みたいなもんですね。デジャヴってあるでしょう? 既視感。あれ? こんなの前にもなかったっけ? みたいな感覚。あれって大体そうですよ」
「え、本当に?」
「若干盛りましたが事実ですよ」
笑いながら八重子さんは大きく伸びをする。
改めて何者なんだろうか、という疑問が浮かぶ。きっと聞いて納得できるものではないのだろうとわかってはいるが、最後なのだから、せっかくだから、
「知りたい、ですか?」
「うえ、あ、また読まれた」
「はははは、まあ、これも一応面白機能と言いますかびっくり人間と言いますかね。いや、これも以前は当たり前のようにあったものの名残ですよ。欲ノ蟲と同じような、そんなもののですね。まあ、私は私なりに解決して、久東さんと同じように結果を出して現在に至るわけです。
言ってしまいますと、神様の真似事とかしておりましてね。久東さんの件は介入出来るだけしないつもりだったんですが、結構していましたよね。これは申し訳なかったと思っています」
「神様? まあ、なんだか疑う気は起きないな」
「そうでしょう? そういう印象になっている気がしましたよ……」
八重子さんは疲れたように肩をがっくり落として大げさなため息を吐いた。
「まあ、私のことはいいんです。せっかく最後なんですから、色々見ていきましょう」
「色々って」
「蟲床の元凶とか、ですかね」
「蟲床、か。元凶って、なんだよ。……大爺様とかいうやつか?」
「そうそう、そいつです」
八重子さんが真っ白な空中に手で円を描くと、たちまちそこに丸い暗闇が生まれた。
僕はとっさに距離を取ろうとしたが、八重子さんに肩を掴まれ、僕はその暗闇の中に呑み込まれた。
宇宙空間に放り出されたような暗闇の海に、僕はとっさに息を止める。あれ、でも僕は死んだんだっけ? 違うんだったっけ。
「別に悪いものではありませんから、息はして大丈夫ですよ。それに、もう彼にはあなたに対して干渉など出来ませんから」
「そう、なんだ?」
確かに呼吸は普通に出来た。真っ暗闇が広がっているだけで、空気がないとか変なものが漂っているとかといったことはなさそうだ。
「明かり点けましょうか。別に肝試ししようってんじゃありませんからね」
すると八重子さんはポケットからコンビニにでも打っていそうな使い捨てライターを取り出し、火を点ける――その床に。
「ちょっと!?」
「まあ、いいじゃないですか。燃やすものありませんでしたからね。一時的に燃やすだけですよ」
「いや、これは一時的にでも燃えたらアウトなのでは」
「何がアウトですか。どうせこの世界にはもう関わりを持たないでしょうに。久東さんが気にするべきはこれから現れる新世界の方ですよ。よろしいですか? ん?」
「わ、わかってるけど」
火は床に燃え移った後、油でもまかれているのかと疑うほどの速さで燃え広がって行く。
とっさに後ずさるが、火の熱さは感じられない。それに気づいてから床の火に手で触れてみるが、空気と大差ない温度と感触があった。
火に感触があるのかは疑問だが。
「ね、大丈夫でしょう?」
「いきなりだとびっくりするじゃないか」
「それは申し訳ない。まあまあ、今は目の前のやつを見てお話戻しましょう。メインはなんちゃってマジックではないでしょう?」
「前?」
周囲は広がった火の橙の灯りが不規則な動きで照らす。
どうやら石造り、扉などは分厚い木で出来ているのだろうか。現実にこんな火が広がっていれば窯焼き状態だ。
僕は前を見た。それは一瞬何かのオブジェのように見えた。寺で置かれている大仏のようにも。
人のようだ。木と鉄の骨で出来た粗末な椅子に座っている。僕も座れば、その大きさは大して変わりはしないだろう。
ただ異様なのはその肉体だ。
人の形はしている。ただ、身体の中心、胸から腹にかけて、は何かの口のように縦に入った裂け目があり、人のものを一回り大きくした形の歯がその裂け目に沿ってずらりと並んでいる。脇腹からは無数の節足動物のような細く長い足が生えていた。
頭には甲羅のある虫のようなものがしがみつくような形でくっついている。よく見れば、それはどこかで見たことがあるような姿かたちをしていた。ただ、思い出そうとすると靄がかかったように思い出すことが出来ない。
さらに、下腹部は少し盛り上がり、陰茎が常時屹立したままになっており、睾丸は異常なまでに肥大化していた。
ただ、それらの部分を除けばそれは人間だった。若々しく、引き締まった男性の身体である。
「これは……」
「欲ノ蟲。性欲、食欲、睡眠欲。これ、本来はこうして一か所に集められるものだったんでしょうね。ただ、この身体を維持するためには一定の周期で食事を行う必要があったそうですよ」
「食事って、つまりは」
「そうですね。蟲床に寄生した欲ノ蟲でしょう。いえ、あれは宿主を乗っ取るわけですから、その人自身を食べていたのかもしれないですね」
「やっぱり、皆報われない運命だったのか」
「かもですね。いえ、そうでしょう。ただまあ、不老不死は確かにこれ、叶っているんですよね。そこに人の意志がないだけで」
「……そうなのか。嘘ではなかったんだな」
「もう関係ないことではありますがね。では、戻りましょうか」
「主ノ蟲は」
「はい?」
「主ノ蟲はどうなんだ。これは一体どうして僕に? それも欲ノ蟲とは何だか別物のように思える。八重子さん、もしかして何か知っているんじゃないか」
僕の質問に顔をしかめた八重子さんは唸り始め、腕を組んだ。
「知っていると言えば知っていますが、そうですね。主ノ蟲は欲ノ蟲に対する救済措置だったと考えてください」
「救済措置って、ワクチンとか?」
「いえ、そういうわけではありません。ただ……うーん、これ言っちゃうのまずいんですよねえ。必要以上の干渉とかなんとか」
「頼む」
八重子さんは散々悩んだようにハンチング帽をくるくる指先で弄び、やがて元あった位置に乗せ直す。
「では、一つだけ」
「うん」
「自らの人生が何者かの創作であると考えたことはおありですか?」
「……それはどういう」
「この世界が何者かの創作物。つまりは作り手がおり、その人の好きなように自分たちは動かされている。当然、その世界には綻びがあったりするわけで、手直しを行うために様々な試行錯誤を繰り返す。崩壊しない程度の調整を加える」
「それが、主ノ蟲?」
「さて、どうでしょう。私はこういう考え方をしたことがあるか、と問うただけですよ。深い意味なんてありません。ナッシングです」
そんなことより、と八重子さんは続ける。
「あなたのこれからの方が大変になるでしょう。久東さん、心の準備は出来てます?」
いきなりそう聞かれて「はい」と答えられるほどメンタルの自信はなかった。
「正直、どうしたらいいのか」
「どうにかなるでしょう。ここでの記憶、いえ、これまで積み重ねた記憶は消去されてその環境にあったものに置き換えられるでしょうし。
でも、今までと同じような生活が待っているとは思わない方がいいでしょう。主ノ蟲に食べられた『自分自身』という対価は支払われましたから、あなたはどうあがいても何かが欠落した存在となるでしょう。
例えば記憶の欠落。四肢の欠損、存在感の消失、表情、声、本来感じるはずの感覚全て、実体を失うなんてこともあるかもしれませんね」
「まあ、当然の代償だな」
「主ノ蟲が願いを叶えるなんてぶっ飛んだ力を持っているのは、ひょっとすると願いを叶えた本人が得をしないからかもしれませんね」
「得はしているじゃないか」
「使用すればいずれ消滅するでしょう。言っておきますが、久東さんもそこまで長く世界に存在出来るわけではないと思いますよ。いずれ誰にも気づかれぬまま消滅していくことでしょう……脅しになっちゃいましたか。
でもまあ話を戻しますと、自己犠牲で消えて得た結果は本人が見ることが出来ない以上価値のないものでしょう? 俺が死んでも彼女が幸せなら、なんてフィクションは腐るほど見ますけれども、それはその人の死後も世界が継続することを前提とした考え方ですからね。目を閉じている時の周囲の景色が目を開いている時の景色と同じとは限らないのですよ」
「八重子さんは、僕のことを馬鹿だと思うかな」
「馬鹿ですね。でも仕方がなかったとは思います。私も自らの望みが全てそのままに叶えられるなら――こんな(・・・)こと(・・)はしていない」
そう自嘲気味に吐き捨てた八重子さんは僕の初めて見る顔で笑った。
彼女の本音を聞いた気がした。いつまでも同じ顔でいられる人間は少ない。
そうか、八重子さんも人間なんだ。
笑ってしまう。あれだけ出鱈目なことをしていても、こんな人間味を持っている。
「僕、誤解してたかもしれないな。笑顔で人ぶっ飛ばすもんだから、もっと非情な人かと思ってたよ」
「何言ってんですか殴りますよ」
「死ぬからやめてくださいごめんなさい」
八重子さんの拳が開かれる。洒落にならない。
「さて、戻りますよ」
八重子さんが手を打ち鳴らすと、暗闇は電灯を点けたように一瞬で消し飛び、先ほどの真っ白な空間が広がった。
「すごいな」
「久東さんもやり方覚えれば出来ますよ」
「え? 本当に?」
「はい。まずこう、ググッと」
「あ、もういいです」
この効果音を聞いただけでわかる。この人、すごく説明が下手だ。いや、今までの説明はすごくわかりやすかったけどどうでもいい説明が下手だ。
「そうですか? どうして何かのやり方とかルールとか説明すると皆して止めるんでしょう。いいですけど」
八重子さんは唇を尖らせて、ハンチング帽を指先に乗せて回し始めた。
「八重子さんも、普通の頃が?」
「普通の頃とはまた妙な言い回しですが……はい、まあありました。まともな頃が。楽しいスクールライフを謳歌していましたよ」
「戻りたいって思う?」
「そりゃあもちろん。異常を思い知ってこその普通の温もりと言いますか、思い返せばいくらでも恋しく思える自信がありますよ」
「そうか」
「久東さんには一足先に達成されるわけですから悔しい限りですよ~」
「そんなことは……でもまあ、戻れるのかな。何もかも違っても、普通には」
布の擦れる音。八重子さんが帽子を被った音だった。
八重子さんは茶色がかった癖毛を揺らし、真っ白な地面をゆっくりと歩み始めた。
「八重子さん?」
「ああ、付いて来ないでくださいね。これは言わば格好良く去る私の演出。あなたが付いて来てしまうとたちまちコントに早変わりですからね」
「それ、言ってしまうと駄目なのでは」
「細かいことは気にしないのが世の中を円滑に回すコツですよ久東さん。突っ込んだら負けという言葉をご存じですか? あ、レンさんのように突っ込むという言葉をいやらしい意味で使ったりは致しませんのでそういう期待をされても困りますよ?」
「してませんけど」
それは失礼、と笑いながら八重子さんは手を振る。言葉で返すのも違うと思ったので、こちらも躊躇いがちに手を振った。この場合、きっとさようなら、なんだろう。
「いえ、久東さん。案外人の縁というものは奇妙に繋がっているものです。故にまたねと言うのが適切ではないかと、私は思いますよ」
また人の心を。
その言葉の直後、八重子さんはこの白い空間の白さに紛れるようにして消えてしまった。
まるで霧のように、白い何かが彼女を塗り潰したのである。どうなっているのやら。
「ともあれ、これで一人か」
口に出してみると意外と心細い。こんなわけのわからないところに放り出されているのだから当たり前と言えば当たり前か。
地面に触れてみる。すべすべとしており、肌触りが良い。何で出来ているのかは定かではないが、どうせ関係のないことだ。
僕はその場に座り込んだ。もう特に何かをするようなこともない。またいつものように考え事でもしておこうと思ったわけだ。
さて、何を考えよう。
この先のことだ。どうなるだろう? 全てがやり直された世界とはどういうものだろうか。レンとは知り合えるだろうか。篠本さんや正人、睡郷も……どうだろうか。
名前も顔も忘れてしまうのだろう。全てがなかったことになるのだろう。この心配も忘れ去られて、何も苦労なく世界に溶け込むのだろう。
…………。
駄目だ。暗いことばかりが浮かんでくる。楽しいことを考えなくてはならない。
そうだ、生まれ変わったらきっと恋をしよう。今回上手く行かなかったことは最初から全てやり直せるのだから。プラスに考えなくては。
人に会ったら名前を覚えよう。今度は絶対に忘れないように。……どうして忘れていたんだったか? まあどうでもいいことか。
あと、それと―――――。
どうも桜谷です。
これにて色ノ章は終了です。残り二話を予定しております。




