第三十五話 僕の願いは
家に帰るとなつかしい光景が飛び込んで来る。
ソファに腰かけるレンと、フローリングの上に寝転がる……睡郷。この頃は綾と呼んでいたはずだ。
「んあ、お、帰ってきた!」
「お帰りなさい、錬次。どうしてこんな遅くなったのかはわかりませんがやましい事情があったんですか」
「…………」
とっさに返事が思いつかず、ぼう、として立ち尽くしてしまう。そんな様子の僕を見て、睡郷は何か誤魔化すように散らかった周囲を片づけ始め、レンは怪訝な顔をしてこちらを見ている。
「……錬次、どうかしましたか? 私が言ったことが図星とか?」
「なんだかな、現実感がなくて」
「はい?」
さすがに未来を見てきた云々と話すことは正気を疑われかねない。適当に誤魔化すにもなんと言ったものか。
「どうして泣いてるんです?」
「え?」
頬を伝って何かがこぼれた。触れてみると水滴が指の腹を濡らした。レンの言葉通り、僕は泣いていた。
ただ、涙はその一雫。それ以降、目元からこぼれ出すものはない。瞬きを何度か繰り返し、
「少しごみが入ったかな。換気した方がいいかもしれないな」
あからさまな誤魔化し方ではあったが、そうしましょうか、とレンは窓を開けに僕から離れていく。ふと、睡郷の方を見るとちょうど目が合うが、彼女は優しげな笑みを向けるのみで特に話すということもなく、床に転がって視線を逸らした。
そういえば、こんなのが当たり前だったっけ。
睡郷は久東綾を名乗り、家を訪ねてくるたびにだらだらとして僕を困らせる。レンはしっかりしてはいるけれど、僕に過剰に絡みたがってやはり……困ってばかりだ。
幸せだ。
確実になくなってしまう幸せな光景だ。
「姉さん、お酒もらえる?」
「!? え、え? 錬次!?」
「な、なんですか錬次!? 不良ですか!? まあ、悪くないと思いますけど、そういう方向性のイメチェンとかは私にちゃんと話を通してからですね……!」
酒発言で一気ににぎやかになる。睡郷は慌ててグラスを取りに行き、レンは僕の額や首に手を当てて熱を測っているようだった。当たり前の反応、なのかどうかはわからないけれど、驚かれるのは覚悟していた。
でも、いいじゃないか、今日くらい。
蟲床の話なんてしない。今日は笑っていられる話をしよう。
「ほら、錬次! グラス! レンちゃんも飲むよね! はい!」
「あ、ありがとうございます。って、大丈夫ですか? 本当に飲むんですか錬次」
「ちょっと飲んでみたくなったからさ。なんて言うのかな、そんな気分。綾がいつも随分美味そうに飲んでるしさ」
「うん、美味いよ~! いやあ、嬉しいな。錬次が大人になる前に一緒にお酒飲めて! 本当にもう! ホントに!」
睡郷は酒を注ぐ前に僕に飛びかかって来る。既に酔っぱらっているのかもしれないが、それを僕が跳ねのける前にレンが押さえつける。
「ちょっと、危ないですよ!」
「レンちゃん! 姉弟ののスキンシップを邪魔しないでくれる!?」
「いや、錬次が何故か拳を握りしめているもので」
「危ないところをありがとうございました」
大人しくテーブルの元に戻ると、綾は深緑色の瓶を傾け、透明の液体を底の浅いグラスへと注ぎ入れる。それを二つ。
「ほい、どうぞ~」
僕とレンにそれぞれ私、自分自身も一つのグラスに酒を注ぎ入れ、手に持った。
「じゃあ、未成年でイケない初飲酒祝い!」
「なんかそう言われると」
「あ、私は始めてじゃないですよ」
「僕だけなのか」
「はい! はい! いい?」
せーの、と掛け声の後、三つのグラスが宙に掲げられる。
『乾杯!』
ガラスを打ち合う音が部屋の中に響いた。
目を覚ます。床に寝ていたり、ソファに寝ていたりと妙な光景が目に入るが、
「ああ、そういえばこんなのも前にあったっけなあ。僕はその時飲んでなかったはずだけど……どうだっけ」
足元に何か重さを感じる。柔らかい感触もある。視線を下げてみると、睡郷が僕の足を酒瓶か何かのように抱えて眠っていた。
幸せそうに寝ている。よだれで所々濡れているらしく、動くと冷たい箇所がある。
「動けないな……」
「んー?」
僕の言葉に反応したのか、睡郷は足を解放し、転がったかと思うとその場に大の字になった。
部屋から薄い布団を取り出し、一応睡郷とレンの上にかけ、朝食の支度を済ませる。
テレビは……いいか。どうせ嫌な内容のものしかやっていないだろう。
やがて二人は目を覚まし、朝食を済ませた後に学校へと向かった。
向かう際、玄関で「錬次」と睡郷に引きとめられた。彼女は昨日のようなだらけた顔ではなく、そう、僕の従姉ではなく蟲床としての顔。
「あのね、もしかしたら変かと思うかもしれないんだけど」
「なに?」
「昨日さ、楽しかったからさ。また、また今度一緒に飲もうね」
「……うん、また一緒に飲もう」
手を振って別れる。睡郷は間違いなく僕の家族だった。優しく、手間のかかる姉だった。僕は確かに家族として彼女を愛していたと、今なら断言出来る。
学校に着く。道中では陽炎が立ち上る程の日で熱され、汗で服は肌に張り付いていた。
「あら、久東くん?」
僕が教室に入ろうとしたところで背後から声がかかる。聞き覚えのある声だ。
「篠本さん」
「今日は暑いねえ。もうくたくた」
まだ猫を被っている頃だ。いや、随分となつかしい。そんなに時間は経っていなかったはずなのに。正人がこの人に関わることが出来ていたのも、今思えばおかしい話だった。
教室に入ると、籠った熱気が廊下に吐き出されるようにして飛び出した。教室に二人、机に突っ伏すのはほぼ同時だったろう。
「ねえ、篠本さん」
「ん? なに?」
きっとこの頃、未来を見た限りでは、僕は篠本さんにしどろもどろにしか向き合えていなかっただろう。
少し、話をしてみたくなった。
「この世で一番大切なものってなんだと思う?」
「なんだか、不思議なこと訊くんだね」
「うん、なんかごめん。暑くて頭回ってないかもしれない」
「いや、いいよ。話せない話題じゃないしね。ただ、聞きたいんだけど、それは自分を含んで考えた方がいいのかな」
「? もちろん」
「だとしたらね、幻滅されちゃうかもしれないけど、私は一番大切なのは自分だよ。世界は自分中心に回っている、なんてことは言わないけれど、他の大切なものを感じる時、自分がいなければそれを大切だと思うことも出来ないと思うから」
「大切なもの、というのを認識するためには自分が必要ってこと?」
「そう。大切だと思いたいから、思う自分を失いたくないって感じかな」
「じゃあ、自分以外だと?」
その質問に篠本さんは照れ臭そうに笑った。
「年下の弟と妹かな。血は繋がってないんだけどね。そのために色々頑張れているきがするよ」
「そうなんだ」
「久東くんは?」
「え?」
「私が答えたんだから、久東くんも答えて欲しいな。大切なもの」
僕の大好きだった、恋焦がれていた笑顔での問いかけ。やはり、僕は彼女のことが好きだったようだ。ほんの少しの緊張が胸を満たしている。
答えようとするが、思考の整理が追いつかない。大切なもの、なんなんだろうか。
これからすることで救われる人たちは全て大切な人だ。元に戻す。あるべき姿に戻す。それを一言で表すとすれば、どんな言葉がいいだろう。
「ええと」
「うん」
声を出すと、しっくりくるものが見つかった気がした。
「平凡、かな。日常。いつも通り」
「……なんだか、変わってるね」
「そうかな? きっと皆心の底では、優先順位が高かろうが低かろうが、これは大切だと思っていると思うんだけどな。
何かが変わらないと動き出せない。何かを変えないと前に進めない。よくあるよね、こういう葛藤。これってさ、誰かが変わらない平凡さを保つために頑張るから変わらないんだと思う。逆に変えようとしている人は、それを日常とは感じていないってことなんだ。結局は正義と悪みたいに、平凡さを取り戻そうと必死になっている、みたいな。
だから、と言うわけじゃないけど。きっとそういう環境が僕は一番大事だと思う」
「ふぅん、でも、確かに普通は大事だよね。普通が続くのは、いいこと」
会話はそれきり途切れた。
篠本さんのことが好きだった。気持ち自体は、実のところあまり変わっていないのかもしれない。
彼女を死なせたくはない。正人も、篠本さんのことを大切に思っている。家には彼女を待っている人たちがいる。
昼休み、僕は喫煙室に足を運んだ。煙を吹かす白衣の男は無精ひげを掻き毟りながら、こちらに目線を飛ばした。
「話があります」
そういうと、西條瑛悟は僕を保健室へと促した。気だるそうに、首をひねって音を鳴らしながら歩いて行く。
「話ってのはなんだ。初対面? だよな。とりあえず名前を」
「久東錬次です」
「久東……久東!?」
予想通りの反応をして髭男は振り返る。睡郷こと久東綾の件でこの男は僕に話を持ちかけるはず。
「ちょっと来い」
西條は相談室に僕を通した。入るや否や、西條は僕に縋りつくような素振りを見せたが、僕はそれに手を突き出し、
「それもありますが、ちょっと聞いてほしいんです――蟲床を救うための重要な話です。西條瑛悟先生。主ノ蟲の扱い方について、またどうなるかの予測を窺いたく思います」
「……綾から聞いたのか?」
「信じられないかもしれませんが、未来を見ました。どうやって見たのかは、正直あまり覚えていないですが」
未来について知っていることを全て話した。
無論、西條を信用しているわけではない。恐らく、狂い始めてはいるはずなのだ。全てを話して信じるかどうかは怪しいし、それを信じたとしても協力が得られるかはわからない。
話を聞いてしばらく西條は黙り込んでいた。何かを考えるように無精ひげを撫でる。
「……全てを信用、というのは無理だ。綾から聞けばなんとかなる程度の情報が多いからな。まあ、展開を聞いた限りだと少し信用寄りではある」
未来を見るなんて馬鹿げてはいるが可能だからな、と頭を掻き毟った後、
「で、どうするつもりなんだお前は」
西條は双眸を鋭くして僕に向けた。
「どうにもならなくなる前に、全てをなかったことにします」
「全てというと」
「つまり、蟲床。欲ノ蟲、禁欲ノ蟲の存在を世界から消失させ、現状を崩壊させます」
僕の言葉の後西條は何も言わず、ただじっと僕の方を見ているだけだった。
「それが、どういう意味か分かっているか」
「正直、わかりきってはいないと思いますけど、たぶん、蟲を基盤にして築かれた人間関係は崩壊するんじゃないかと」
「全く違う世界だぞ?」
「でも、いずれ悲劇が起こることは決まりきっているじゃないですか。選択肢なんてありません。可能性を示すなら、これでいいはずです」
「……そうか」
西條は椅子に座り込み、祈るように組まれた手に頭を預けた。
「それで、救われるだろうか」
「わかりません。自己満足に終わるかもしれません。でも、このまま黙って何もしないでいることだけは出来ません。一度、失敗したので」
「そうかい。じゃあ、もう止めはしねえよ。止められねえしな――死の間際、じゃなくても強い願望。それがキーになってるはずだ。頑張れ」
「ありがとうございます」
「敬語はいいよ」
「……ありがとう」
「おう――ははっ、あいつに似てやがる。むかつくなあ」
相談室を後にする。僕は屋上を目指した。
屋上には気だるそうにしている三人が転がっていた。
「遅いぞ~、錬次」
「悪いな、レンもいたのか」
「探すより待つ方が確実かと思ったので」
レンは上手く影を見つけ、そこに収まる形で座っていた。篠本さんは胸元を大きく開け、風通しが良さそうである。正人はティーシャツ一枚になっていた。
最後まで残っていた三人。いや、最後はレンだけだったが、学校までは共にいた三人だ。
適当なことを駄弁って、ふざけ合って、笑ったり、怒ったり。
やっぱり、いいなあ。失うのはすごくもったいない。当たり前のことながらきつい。
なくなるのは怖い。最初から何もなかったことになるのは堪えられない。友達が他人になって、忘れて、何もかもなかったことになる。胸が抉られるような感覚はここにいる限り、永遠に続くものなんだろう。
これは死だ。
死んで何もかもをやり直す。それと何も変わらない。
唯一安心出来ることは、死後の存在を約束されているということだ。死後も人として生きられるというのは、ほんの少しだけ安心できる。
僕はどうなるかわからないけれど、他の皆はきっとそのはずだ。
昼休みが終わった。チャイムの音と共に正人、篠本さんと立ち上がり、
「錬次、行くぞ~」
正人がこちらを見る。いつも通りの、別れなど微塵も感じさせない顔だ。
「ちょっとレンと話すことがあるから、先に行っててくれ」
「? ほう、適当に誤魔化しておいてやるよ……」
誤解されただろう。都合がいいので、特に訂正することなく正人を帰す。
「あ、あの、錬次? 話というのは、やはり人目がある場所では駄目、と言うことですから、そりゃもう……錬次?」
「ああ、あのな」
何を話したものだろうか。
何かを言おうとする度に後ろ向きな言葉ばかりが口を出ようとする。他に思い付くものはどうでもいい話ばかり。ここで話しておくべき事柄とは一体なんなのか。
レンの名前は知りたい。僕が事を成し遂げられるか、最後まで見守っていてほしい。もっと一緒にいて、他愛もない話をしたい。
でもそれを叶えてしまえば僕はやるべきことを成すことは出来ない気がする。
予感だ。よく当たる。
僕が言葉をこうして迷っている間、レンは顔からふざけた色を消し、濃紺の双眸を僕の方へ静かに向けている。彼女は僕のやることを聞いてどういった反応をするだろうか。
考えて、考えて、考えて。
始業のチャイムが響いた。郊外のスピーカーだ。
「――その、好きだ」
「……はい? え、いや、え? 真面目な雰囲気だから蟲床がどうとか、その」
「真面目な話。ああ、言わなければよかった。めちゃくちゃ恥ずかしいぞこれ」
「えっと、あの、もしかして」
「記憶とか、そういうのがってわけじゃないよ。ただ、言っておこうと……あれ、まだ会ってそんなに経ってないのにこれは軽いかな。なんか、難しいな」
「そうですか。でも、ええと」
レンはらしくなく顔を真っ赤に染めてうろたえていた。それが微笑ましくて笑ってしまいそうなのをこらえ、僕は顔をしかめる。
「悪い、妙なことを言ったからちょっと、その、教室に戻ってくれ。返事は後でくれるとありがたい。……涼みたい」
「あ、え、はい! どうぞ! あ、違いますね! 戻ります!」
レンは早足で屋上の扉を開け、こちらに一つ礼をして階段を駆け下りて行った。
……これくらいはいいだろう。
最後に新しい一面を見れて良かったのか悪かったのか。まあ、でもこれは良かったこととして心に留めておくことにしよう。
少々苦労して屋上の鉄柵を越える。鉄柵に掴まりつつ学校の縁に立つと、冷やかすように風が背を押した。
下を見るとはるか遠くの地面が見え、足が竦む。なのでなるべくまっすぐ、もしくは上を見るようにする。
まっすぐ見れば僕の過ごした町の風景が。空を見上げれば過剰に仕事をする太陽が輝き、広い青空が見下ろしている。
まあ、絶好のコンディションだろう。
僕は鉄柵から手を離し、宙に身を投げ出した。途中までは気持ちの悪い浮遊感。その後は容赦なく打ち付ける空気がそんな呑気な間隔を打ち消した。
窓が通り過ぎる。木々が近付く。地面が近付いてくる。
死ぬ。このままでは死ぬ。
だから――だからせめて。
「――――」




