第三十四話 夜道の先は
暖かい風が頬を撫でる。夕暮れを終え、闇に包まれていく風景が目の前に広がっている。
僕はそんな景色の中で気が付いた。
ぼうっとしていたのか、立って寝るという不思議な体験でもしていたのか。僕は確かにはっとしたのだ。何かから覚めたような感覚が残っている。
目の前には見慣れた少女が立っていた。少女という言い方も妙にかしこまっていて気持ちが悪い。同級生という言葉に変えよう。
艶のある黒髪が風に吹かれてなびく。眠たそうな目をこちらに向けているのは僕の友人である西條瑛子その人であった。
……あれ? 僕は今までレンの屋敷にいたのではなかったか。周囲を見渡してみると、家の近所の川が目に入り、今立っている場所はその川を見下ろす形になる程度に高い位置で、足元はしっかりアスファルトで舗装されている。遠くを見てみれば町の明かりが見え始めている。
「お帰りなさい」
西條にしては強い口調。珍しいはっきりとした声音だった。
「ああ、ただいま? いや、僕今まで何を……あれ?」
覚えている。これは確か、レンとの買い物の帰りだった。その途中で西條と会ったのだ。西條も何か用事か、と理由を聞くと話があると言うのでレンを先に帰した。それから、それから――。
「そうだ、そうだ! よかった、無事で。早くここから逃げよう! まだ、あれ? でもどうしてここに?」
「落ち着いて。最初から説明する。しっかり、説明するから」
「でも落ち着いて話していられるような状況じゃ」
「そういう状況だから。いい? 今まであなたが見ていたのは『未来』。今のまま進めば確実に起きる展開。結末」
心なしか必死な形相で語られるその言葉には、どうしても現実味が感じられない。今までの出来事が夢のような何かだったとは到底思えなかった。
「久東錬次!」
叫んだ。
あの大人しい西條瑛子が。
「二度目だけど、落ち着いて。私には時間もない。だから、事実を受け入れてほしい。可能な限りあなたにわけを説明する努力もする。現実逃避はやることを終えた後にいくらでもすればいい」
周囲の音が遠ざかっていく。僕と西條だけを切り取った世界が現れた気がした。夜のように深く、光を内包した彼女の目に思わず引き込まれ、自然と雑念は消えていった。
僕の様子を見て取ったらしい西條は次の言葉を紡ぐべく、その薄い唇を動かした。
「先ほど錬次が見ていたものは未来、だと言ったけれど、一応種明かしすれば主ノ蟲の力。死の可能性の排除よりは優しいはず。だから、ある程度は信用してくれると説明が楽」
「え、いや、ちょっと待て。どうして西條の口から主ノ蟲なんて言葉が出てくるんだ? 西條……そういえば兄って言ってたな。もしかして西條瑛悟と関係があるのか? そもそも主ノ蟲の力って、僕が?」
「まあ、疑問が多く出て来るのはわかってたけど。色々なことに気が回っていないようだし、順番に話すね。それまで黙ってて」
「あ、ああ」
「ええと――まずは西條という名前について。これは当然、関係しているというのが正解。西條瑛子っていうのは偽名なんだけれど。ばれたらやばい、でもそこら辺はあの人しっかりした人だったから大丈夫だった。
偽名まで使って西條の名を使っていたのは彼の下での研究をやりやすくするため。欲ノ蟲のことについてはよく教えてくれたし、私のことを貴重な研究対象として扱ってた」
「研究対象?」
たまらず口を挟むと、西條は軽く首を縦に振り、
「そう。実は私も主ノ蟲の宿主。蟲床って言った方がいいかな。主ノ蟲の研究を進めるために、彼は私を傍に置いておきたかった。事故の後で強引に引き取られたのにはちょっと腹が立ったけど、でもまあ、結果的に錬次を守ることに繋がった気がするから良しとしようと結論した。
主ノ蟲の寄生方法って知ってる? 欲ノ蟲もだね。簡単に言えば卵。寄生虫と考えればそれはかなりメジャーな方法だとは思うけれど。ただ、主ノ蟲は蟲の意志で強制的に、欲ノ蟲は人為的に寄生させる必要があったってあの男が言ってた。さらに、その卵っていうのが別に生殖が必要なわけではないらしくて、正確にはそう呼べるかどうかはわからないらしい。まあ、そこら辺はどうでもいいから省くけれど。
話を戻すけど、主ノ蟲の寄生方法は産卵。それも蝶のような形の生物が行うとか。
……見覚え、あるよね。私も見たから。あの火の海の中で」
蝶。火の海。遠い目をして語る西條の言葉が妙に頭に響く。
もちろん覚えはある。あの凄惨な事故のただ中にいた僕はその光景を目にしている。目にし、焼き付いている。激しく揺れ、音を立てる炎に呑まれる車、天高く上る黒煙、そして、奇妙な蝶と謎の声。
引っかかる。何故西條は『あの』と言ったのか。それはまるで、僕と全く同じ体験をして、その場で同じものを見たとでも言いたげで……。
「西條の名前は偽名って言ったな。引き取られたって」
「そう」
「じゃあ、本当の名前は――」
「知らない方がいい。私は西條瑛子。そういうことにしておいて、錬次。今大事なのは状況を整理して、解決すること」
その質問には答える気はないと話を戻される。風に揺れる髪を撫でつけると、西條は息を吐き出し、その口元に笑みを作る。
「どうせ、関係なくなることだし」
「それは一体どういう」
「今は何をすべきかが重要。私のことに関しては信用してくれれば助かる。信用して欲しい。
何をすべきか。これに関しては錬次の中で決まってくれているとすごく嬉しい」
「何を、と言われてもな。未来を見たってことは別に今があの大変な状況になっているというわけではない。だから、そうならないように動かないといけない、かな」
「そのためには?」
「そのために……あの糞保険医と話をしようと思う。話をして、今度は全てを知ろうと思う」
「そう。なら、大丈夫そうかな」
「あれ、でもあの保険医にお前が付いていたんだったら主ノ蟲は――そういえば、未来には西條瑛子の存在そのものがなかった気が」
「私はもうここまでだから」
「どういう意味だ」
嫌な予感。西條は吹っ切れたような笑顔を見せる。感情表現を表にあまり出さないせいか、それはどこかぎこちない。
心臓の鼓動が速くなる。何かをしなくてはいけない気になる。
「主ノ蟲の力は知ってるよね」
「ああ、記憶が」
「記憶じゃない。主ノ蟲の力を使った代償はね、自分自身の消失。記憶、身体、感情。その他にも自分を構成する重要な要素。彼らは願いを叶える代わりに、そういうものを根こそぎ持っていく。私は二回目だから、今度こそ終わり。というより、前回使った時運が良かっただけなんだろうけど」
「そんな、どうして!? 僕に未来を見せるためなんかに使って自分がなくなるなんて馬鹿げてる!」
「馬鹿げてないよ、大事なこと。上手く行けば蟲床を解放出来るし、私が見てきた苦しむ人たちも楽になるはず。
それに、私の力はあなたのためにしか使えないんだ。前に使った時に、その、守りたいだのなんだの言ったみたいで、それが錬次を守るためには役に立つけど他が不便、みたいなことになっていて……まあ、どうでもいいでしょうそんなこと。
結果として丸く収まるのであれば、私はここまで生きた価値があったってこと」
「そんな自己犠牲が……!」
「主ノ蟲に願いを叶えてもらったよね。ここまで生き延びたよね。だったら、文句を言う資格なんてない。理不尽なんかじゃない。これは当然のこと。
あの人たちをもう解放してあげなきゃ。そうでしょう?」
そんなことはわかっている。あの事故を生き延びたのには何か意味があるのだと、わかっているつもりだ。
そのために何がなくなろうとも、得た『時間』とは確実に等価だ。
僕の心はわがままに満ちている。だとしても理不尽だと、そう叫んでしまいたくなる。
「ああ、そうだ」
答えると、西條は僕に歩み寄り、またいつかのように唇を重ねた。
それは一瞬で、温もりはすぐに離れていく。ただ触れるだけの口付け。
「これは大して意味はなかったんだ。悔しかっただけ。先の未来はなんとなく予想出来ていたから。錬次と魅上さんがどんな生活をするのか。
きっと幸せな未来がある。救われて、錬次が見た未来には直結させないように、頑張って」
言葉が出なかった。
消えるなと言いたかったし、幸せな未来なんて言葉は言って欲しくなかった。
なんと答えれば正解なのか。握った拳は冷え切っていた。
「まあ、しんみりした話はこれくらいにして。錬次、空見て」
一転して明るい口調になる西條は、強引にその調子を作っているせいか、ややから回ったような様子が見受けられるのだが、僕の顔を無理矢理上に上げ、空を向かせる。西條は自然と僕に後ろから抱きつく形になる。
空にはいくつかの星が瞬いている。吸い込まれそうな夜の空がいっぱいに広がっている。
「口調、やっぱり違和感あるなあ」
「……確か、こんな感じ?」
「そうそう、物静かな感じだ」
涼しい風が首元を撫で、周囲の草を揺らす。背中からは一つ、大きく息を吐く音が聞こえた。それが悲嘆によるものか、安堵によるものかはわからない。
犠牲になる者の気持ちとはどのようなものだろうか。他人のための犠牲になるとはどんな気持ちだろうか。どうして犠牲にならなければいけないのだろうか。
考えてしまった。わからなかったのだ。答えは至極簡単に出た。
僕のせいだ。
「それじゃ、頑張ってね――お兄ちゃん」
僕の顔を強引に固定していた手が離れた。背に感じていた温もりが消えた。呼吸の音が消えた。
風の音、水の音。どこかでクラクションが鳴る。空に光が流れた。流れ星だ。遠く、街の景色にも光が流れている。何の光かはわからない。
振り返る。当然の結果に思わず笑みがこぼれた。
誰もいない。
周囲を見回した。
誰もいない。
先ほどまで誰かと話していた気がしたが、疑問は自然とどこかへ消えた。
やらなければいけないことだけが残った。強く呼びかける声がある。
終わらせなければ。
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