第三十二話 凶弾
一夜明け、僕とレンは普段通りの生活を送ろうということで話をまとめた。
挙動がおかしければ西條に怪しまれる。焦らず、しかしなるべく早く事を進める必要があった。
篠本さんとの繋がりは現時点では薄い。決定的に信用が欠けている。この状態で恐らく、この一連のおかしな出来事の真相を知っているであろう西條に話を聞くのは少々心細かった。
「私たち二人だけでなんとか出来る前提に計画を立てましょう」
レンはそう言いつつ台所の方へ視線を向けていた。凶器において最も身近なところである包丁に向けられているであろうことは想像に難くはなかったが、あえてそのことには触れなかった。
話し合いで解決することが最も望ましい。しかし何が起こるかは全く予想も出来ないのだ。事が事だけに、現実離れした事態が起こることもあり得る。
事実、単なる跳躍で飛行する人間を僕は知っている。
慎重になり過ぎて困ることは何一つない。
そんな話があり、僕たちは普段通り学校へ向かう支度を進めていた。
靴を履き終えたところで、「あっ」とレンが声をあげた。
「何か忘れた?」
「いえ、そういうわけではないんですが……むしろ思い出した方と言いますか」
「?」
神妙な面持ちで口ごもるレンに不安を覚えつつ、その内容を催促するも、言いづらそうに曖昧な返事をするばかりで話し出そうとはしない。
「……まあ、行く道で聞く感じでいいかな」
「はい、その、そうしていただけると幸いでございまする……」
妙な敬語口調に気が付いたのか、「です」と言い直すレンに思わず軽く噴き出しつつドアを開け、妙に涼しくなった外の大気に身を浸す。
天気予報は見なかったが、まあ夏の中に一日くらいはこんな気温の日もあるものだ。
空を見上げても雲の影は見られない。風が特に強いわけでもない。機嫌の良い太陽がただ浮かんでいた。山でもあるまいし、突然傘が必要になる事態になることはないだろう。
「呑気な空だよ、全く」
「そうですね。……きっと何も知らないんでしょうね、私たちの事なんて」
「案外、知ってて笑ってるのかもしれないけどな」
「嫌な想像ですね」
大声で下品に笑う太陽を想像して、その光を受けて生活しているのがどこか気持ち悪く思えた。顔を少し俯かせて足を進める。
「錬次、死んだ後の事って考えたことありますか」
「唐突だな……なんかそういう話題は」
「いえ、別にこの先のもしもを考えているわけじゃないですよ。洒落になっていないのは理解しているつもりです。ただ、気になったんですよ」
レンの顔色を見てみるが、特に変わった様子はない。先ほどの話したいと言っていた話ではないのだろうか。雑談の一種、なのか。
「死んだ後ってどうなるんでしょう。天国やら地獄やらといった場所に向かうのか、それともそのまま消えてしまう? 転生するというのもありますか」
「深く考えたことはなかったなあ。生きている内は、考える必要はないんじゃないかな」
「生きているからこそ考えるんじゃないですか。見てしまったらもうその事実だけですし」
「ふむ……レンはどうなって欲しい?」
「私、ですか」
レンはそう呟くと、考え込んでいるのか押し黙ってしまう。
似たような話を睡郷とした。そのせいか、この手の話をされるとどうしても身構えずにはいられなかった。
死の前触れに思えて、息が詰まる。
「いっそ消えてしまえば楽なのかもしれませんね。この世界は一種の地獄なのかもしれませんし」
「地獄か」
「ええ。生きているだけでこんなに辛くて、何をしようとしてもこの身体ではもどかしく感じてしまう。言葉を発するだけで、大切な何かが簡単に壊れたりする」
歩む速度は重く、まだ人のいない通学路の景色がただ流れて行く。指先は涼しい風に触れ、擦り合わせると冷たくなっていることに気付いた。
「じゃあ、天国って何なんだろうな。幸せなんて人によって違うだろうに」
「まあ、天国と言ったら西洋の考え方が主流でしょうしね。幸せというと知の探求やら誰それに愛されるやらというのが答えなのではないでしょうか」
「……愛されるっていうのはまあ、わからないでもないか」
「まぶしい響きですよね。錬次は天国に行きたいですか?」
「いや、地獄でいいよ」
「それはまたどうして?」
どうして、と聞かれるととっさに答えは浮かばなかった。
「なんでかな」と曖昧に返事を返し、理由に関しての詳しいことは避けた。言葉にすると暗い言葉が飛び出すような予感があった。
なるべく明るい思考にして行かなければ。マイナス思考は行動に影響するとかなんとか。余計なことは考えない、言わない方向で。
「じゃあ、私も地獄に行きますよ」
レンは冷たくなった僕の手を取り、その温かい手で包み込む。透き通りそうな白い手が、しっとりと吸い付いた。
「私は蟲床ですし、きっと欲に見合った所に落ちるのは目に見えてますから。同じ所に落ちたいものですね、錬次」
そんな性質の悪い愛の告白を残して、彼女は少し急ぎ足になって僕の手を引いた。
きっと彼女の話したかったということはこれではないのだろう。レンの言葉の中にはどことなく誤魔化すような色が感じられた。
結局、語られることのないまま足は校門を通り過ぎた。
いつも通りの校舎。白塗りの壁面にやや大きな窓、屋上の鉄柵は所々が錆びて赤い。人影はまだない。
「では錬次、また後で」
レンは上履きを履くなり小走りで先へと行ってしまう。
遠ざかる靴音を聞きつつ背中を見送り、下駄箱から靴を取り出す。周囲の下駄箱を何気なく見ると、多くの下駄箱に上履きが入っているのがわかった。
普段の時間よりゆっくり歩いて来ているのだからもう少し人がいてもいい気がしないでもないが、こんなものだっただろうか。
そんなはずはないが。
日に照らされた廊下は靴音を響かせる。教室の戸はどこか重く、開ける時に知らずため息が洩れた。
しかし、戸を開けてみれば人がいないことで感じた不安は杞憂だったとわかる。中には数人の生徒が机にだるそうに突っ伏している光景が広がっていた。篠本さんは姿勢よく読書、正人はこちらに手を振っていた。
朝だからこの光景も納得出来る。廊下に出る人が少ないのはたまたまだったのではないか。僕は正人に手を振り返し、席に着いた。
しばらくするとまばらに生徒は登校し、普段より人は少ないように感じられたが、皆各々パンを食べたり寝たり駄弁ったりと好きに過ごしているように思えた。
僕の日常だ。
篠本さんはしかめっ面をして本を読んでいた。普段は猫を被っているはずだが、あの顔で大丈夫なのだろうか。そういえば、水上さんはどうしているだろう? あの後体調は大丈夫だろうか。僕には少し会いにくいかもしれないが……等と考えていると、正人が声をかけてきた。
「錬次」
「おう。なんと言うか、変にあの場を立ち去ったもんだから少し緊張するな。怒られたりするかもしれないな」
「それはそうだな。……でも、それどころじゃないかもしれないぞ」
「なんだよ、脅かさないでくれよ。こっちだって色々敏感だ」
正人は無言で周囲を見るようにと顎をしゃくった。仕方なく周囲の様子を先ほどより注意深く眺めてみる。しかし、どう見たところで僕の目に映るのはいつも通りの風景だ。正人たちが危ぶむような状態だとは思えない。
「別に、何もないじゃないか」
僕の回答に呆れたように正人は首を横に振る。その目には責めるような色も窺われた。
「確かに、一見するといつも通りのように見える。食べて寝ているのは高校生には珍しくない光景かもしれないけどさ、限度ってもんがあると思わないか?」
正人の言っていることの意味がわからず言葉を促す。予感はある、悪い予感が。見たくないものを見る時に、人の目は都合よくそれを避けようとする。
「眠っている件についてはよくわからない。ただ、俺たちはお前の四十分くらい前からいるが、食べてる奴は皆登校した時からずっと何かを口にし続けている。あと、トイレの方で……その、何人かヤってた」
言いにくそうに言うのを見て大体何の事を言っているのかを把握する。なるほど、性欲というのは実にわかりやすい。
「皆感染してるって言うのか? どうして……」
「知らねえよ、俺たちも学校は休んでたんだ。何がどうしてこうなってるのか……まあ、誰がやったかについての心当たりはある程度付くんじゃないか」
「西條か」
「だろうよ。こんなことが出来るのはもうそいつくらいしか残ってないだろ。少なくとも俺やお前が認識してる範囲ではな。事態が深刻になる前に問い詰めて収拾したいところ、と言ってももう手遅れか?」
乾いた笑いを洩らし、正人は篠本さんを一瞥してこちらに向き直る。
「お嬢は今の段階で何かをしようって気はないみたいで動こうとはしない。もし良ければどうにかしてもらえないか。何かがあれば動くきっかけになるかもしれないし、その時は全力で手助けさせてもらう……最悪俺だけでも」
正人は申し訳なさそうに鼻の頭を掻く。机の傍らには布に包まれた棒状のもの。ばれたらかなりまずいだと思うのだが、まさかこの状況を見越して持ってきたのだろうか。
協力を一人でも得られるのならありがたい。どうしてこのような状況になったのかは不明だが、西條は僕たちに害意を持っているのかもしれない。周囲の感染は僕たちに交渉をしに来ることを強制しているようにも感じられる。
誘われているのだろうか? それとも狂ってしまったのか。いくらなんでもこれは正気な人間の発想とは思えない。
「考えても始まらないな。どうせわからないことだらけだ」
正人に放課後西條と接触してみると告げ、ひとまず会話はそこで終わった。不思議なもので、指摘されればいつも通りの風景ががらりと変わって見える。僕の周囲はすっかり化け物に侵され尽くしていた。
いや、僕が生まれた頃から、僕が知らなかっただけで世界はこんな有様になるように出来ていたのかもしれない。そうなると、僕の奮闘は全くの無駄になるのかもしれない。
西條に話を聞くことで何かを終わらせることが出来るだろうか。ぼんやりとそんなことを考えながら、僕は本の世界へと逃げ込んだ。内容は全くと言っていいほど入っては来なかったが。
結局その日担任の教師は現れず、現れた西條によって臨時休校が言い渡された。その時彼の話をまとも聞けている人間は、僕と正人と篠本さんの他にはこの教室には存在しなかった。教室にいる者は大半が眠りこけているか、無心に手元の食べ物を食い漁り、なくなれば自らの指をしゃぶっていた。
「これは全く酷い有様だな、校則も何もあったもんじゃない。君たち三人は優等生だな」
西條はその髭面になんの表情も浮かべず、ズボンのポケットからくしゃくしゃにつぶれた煙草の箱を取り出し、煙草を一本加えると火を点けた。
「先生」
僕が声をかけると、西條は煙を吐き出しつつこちらに目を向けた。教室は喉を刺すような臭いに満ちていく。
「どうした、久東錬次。敵でも見るような目だな」
「これ、全部先生がやったんですね」
「まあな」
さして重要な問題でもないと言わんばかりに西條は答えた。どうやらこちらのことは既に知っているということらしい。
「それで、君らは俺をどうしたいって? 殺す? 情報を引き出す? これを元に戻させる? まあそこら辺だろうなあ」
正人と篠本さんの様子を確認する。正人は様子を窺っているように見える。篠本さんは気だるげに西條を睨みつけていた。
「まあ、そうですよ。どうにかして元に戻したいんです」
「頑張ればいいんじゃないか? 一人一人お前の、主ノ蟲の感染者であるお前の体液を配って回ればいい。間に合うかどうかは知らんがな」
「そういうことを言ってるんじゃ」
「じゃあどういうことだ。魔法みたいに事態を解決出来ると思ったのか? ファンタジーに毒され過ぎだ。ここまで広がったものを例の期間内に、なんてのは不可能とは言わないが難しい。それに、実験がてらに色々弄った欲ノ蟲を寄生させたりしたからな」
その言葉に篠本さんが反応し、初めて口を開いた。
「弄った? 寄生?」
怒気を孕んだ声を受けても西條は動じない。それどころか挑発的な笑みを浮かべ、小馬鹿にするように篠本さんを鼻で笑った。
「君たちは見ているか。弄ったと言っても、寄生の浸食速度を上げただけだがね。なれの果てには興味があったからな。……もしかして知らなかったか? 蟲床たちはいずれ蟲に乗っ取られて死ぬ哀れな存在だということは」
異常な感染者は篠本さんの屋敷に襲撃してきた奴等のことだろう。人間とは思えない、まさに化け物と言うべき姿が思い出される。
欲ノ蟲に乗っ取られるというのは、あの時には既に西條は知っていたということなのか? だとしたら、睡郷は知っていたのに見殺しにされたということなのか? 途中から離別したとは聞いていたが、そこまでこじれた別れ方をしたというのか。
「そうかよ……」
篠本さんが幽鬼のように立ち上がる。手は握り締められ、目は殺意に満ちていた。口には獲物を前にした獰猛な笑みが浮かんでいる。
彼女が立ち上がった直後、耳を裂く破裂音が教室全体に響き渡り、僕はとっさに目をつぶった。
何が起こったのか。未だ耳にこもったような不快感が残っている。何かが倒れる音。そして、女性の叫び声が響いているような気がした。
恐る恐る目を開けると、篠本さんが腹に手を当てて床に膝を突いていた。正人が手を抑えて蹲っている。灰色の床は新しく赤い色彩をその身に加えていた。
「……え?」
声は上手く自分の耳に届かない。怒涛のごとく情報が脳に押し寄せる。僕の目は、耳は、鼻は、それぞれ別の生き物のように活動を始める。
赤い物は血。漂うのは煙草とはまた違う燃える臭い。大音量を響かせたのは西條が手に持つ、日本では見ることの少ない金属塊。未だその口から硝煙を揺らめかせ、僕の視線を釘付けにする。
「拳銃……? なんでそんなもの」
「まあ俺の計画にも色々あってな、これもその一部ってわけだ。お二人さん、痛いのはわかったろう? 危害を加えようってんなら今度は頭だ。ま、今度があるかはお前らの生命力次第だがな」
西條は回転式の弾倉を人差し指で撫で、油断なくこちらに向けている。
この男の言う通り、正人は篠本さんを庇おうとしたのか右手を負傷した様子、篠本さんに至っては早く止血しなければ命に関わりそうな有様だった。
安易に治療は出来ない。僕なら感染を気にすることもないが、もしどこからか僕の体液が傷に触れれば彼女にとっての死活問題となる。当然放っておいても失血で命はない。
「撃つことはなかったじゃないか!」
「油断は出来んからな。……油断と言えば手負いの獣を残して置くのは少々怖いな」
「おい!」
「冗談ではないよ。まあ、今は放っておくとしよう。それ以上近づけばもう一発ぶち込む」
西條は紫煙を吐き出すと、短くなった煙草を床に落とし、靴で踏み消した。
「治療」
「あん?」
「治療は、してもいいのか」
「出来るもんならな。銃創の手当てなんて出来るのか? 見たところ腹に当たったみたいだがな、適切な処置がなければ確実に死ぬ。適切な処置があったとしても当たりどころによっちゃ致命的だ。漫画や小説とはわけが違う」
「どうして……こんな」
言葉が浮かばなかった。この男の言葉はもっともだ。腕を切ったとか、足に何かが刺さった程度ならまだ対処の見込みはあったかもしれないが、腹部の、それも銃創の治療など今手元にあるものでなんとか出来るものではない。道具が揃っていたとしても傷を抑えるくらいのことしか出来ないだろう。
僕は平和過ぎた。あの事故を経て僕は誰よりも平和だったに違いない。地獄などもう起こらないと、二度目はないと安心していたに違いない。
どうしてこんなにも無知なんだ? 僕は人がどれほど簡単に死ぬかを知ったはずなのに、人を生かす方法を少しでも学んでおけばよかったものを!
「おい、動くな」
西條の声に意識を引き戻される。見ると正人が手を押さえつつ、篠本さんの元へ向かおうとしていた。
「頼む、行かせてくれ。許してくれるなら両足を撃ってくれて構わない」
「……俺に情を期待しているのか?」
「頼む」
そう言うと、正人は床に膝を突き、手と頭を着けて頼み込んだ。
西條はそれを鼻で笑うと、「行け」と吐き捨てるように言った。正人がそれに礼を返し、篠本さんの元へ向かおうと立ち上がると、それを追うように銃声が一つ鼓膜を震わせた。
「――――っぐ」
息の詰まる音。正人の右足の太もも当たりに銃痕が見られ、そこからは止めどなく鮮血が流れ出た。それでも正人は蹲る篠本さんの元へと腕の力と残った片足を使って這い寄った。
「今は一本で勘弁してやる。反抗すればもう一本だ」
手が冷たい。見れば真っ白だ。これを形容するとき、青白いなどという言葉を使うのだろう。血も出ていないのに、まるで血を失っているのは僕のように思われる。
どうしてこんなことになる? 話し合いではいけなかったのか?
言葉を振り絞ろうとするが、西條の持つ凶器を目に収めた時点で喉が凍る。目じりからは諦めがこぼれ出そうとしていた。
「さて」
西條がこちらを振り向く。銃は白衣のポケットの中にしまわれた。
「交渉しようか、久東錬次」
「交渉? な、なんの」
「落ち着けよ、思考が馬鹿になってちゃ話にならん。全てが元に戻るとっておきを提案してやろうと言っているんだ」
西條は拳銃をしまった手で煙草を取り出し、また新たに火を点け、煙を燻らせる。
「主ノ蟲を使え。この世界をやり直すために」
「やり直すなんて……そもそも、使えと言われても」
「使い方がわからないと?」
答えに詰まる。ここでわからないと答えて良いものか? 嘘でもわからないと答えておけば、場所を変えて交渉することが出来れば、負傷した二人は自由になるのではないか。
しかし、この場で使えと言われれば嘘だとばれてしまい、西條にまた拳銃を使わせる事態になるかもしれない。それだけは避けなければならない。狂人を相手に博打を打つのはかなり心臓に悪いことだ。
「どうなんだ」
「わからない」
「そうか、まあいい。こちらはある程度把握している。一応当人が知っていれば、と思ったくらいだ」
「……」
「さて、まずは世界をやり直すことに関してのメリットを大きくしないといけないわけだが、そうだな。やっぱり殺しておくか」
ことのついでと言わんばかりの軽い調子で、西條は取り出した拳銃を血にまみれた二人に向けて鳴らした。
「何をして……!」
「これで生存率がまた下がった……いや、死んだか? まあどっちでもいい。主ノ蟲の力の発動条件には強い願望が必要でね。死にたくないとか、もう一度やり直したいとか、そういったことさ。久東錬次、お前には強い絶望からもう一度世界をやり直してもらわねばならない。死の間際に脳内を支配する言葉は絶望でなければ意味がない」
正人と篠本さんの方へ目を向ける。先ほどの銃弾は正人がかばったようで、彼の背中からは赤い液体が洩れ出して来ていた。
死ぬ。正人も篠本さんもあれでは助からない。正人がどんな処置をしたのかは知らないが、あの出血では続いた弾丸を受けていなくとも……。
「錬次! これはやはり――?」
教室の戸が開き、レンが慌てた様子で駆け込んでくる。僕の姿を見つけた後でこの状況を確認してしまったらしい。彼女の目は見開かれ、赤く染まった二人へと向けられていた。
「ああ、そうだ。こいつもいた方が効果は高いか」
西條がレンに向けて拳銃を向ける。レンの暗い藍色の瞳がそれを捉えると同時に、僕の足は弾けるように動き出した。
しかし、それでは間に合わない。銃の口は既にレンへ向いている。西條が拳銃の引き金を引く方が明らかに早い。レンはまともに銃撃を受けてしまう。
こんな時に主ノ蟲の力を使うことが出来れば。強く願ってみても僕の左手はなんの変化も見せない。
どうして使えない? 何が足りないのか。心の底では、彼女の死などどうでもいいと思ってしまっているのか。僕はそこまで薄情な人間だったのか。
西條の手がわずかに動いた。あと少しで、指が白みを帯び、その腕を振るわせた時、目の前の少女の命を吹き消す鉄の息吹が放たれるのだ。
しかし、その瞬間は一つの金属音によって阻まれた。
何か、棒状のものが西條へ向かって飛び、教壇を跳ね、拳銃に添えられた二本の腕の二の腕辺りに食い込んで止まった。途端、西條が低く唸り声を上げる。
「させるか、馬鹿野郎」
正人が呟いた。よく見てみれば、その棒は抜身の刀であり、投げて当たっただけなのにも関わらず、その刀身は確実に西條の肉を切り裂いている。
「錬次、逃げろ! こいつの話なんて聞く必要はない! 簡単に人を撃ってる時点で狂ってるのはわかるだろうが!」
だらりと両腕を下げ、刀の刃の触れた位置から血を流している西條を擦り抜け、レンの元へ駆け寄る。その後に彼女を背中に庇う形にして西條へと向き直った。
西條はただ、血のあふれ出る傷口を、なんの感情も浮かんでいない瞳で虚ろに見つめていた。
「君の死の間際に、願いは叶う」
西條は一言そう言うと、残った力で両腕を上げようとする。
「早く、逃げろ錬次!」
正人の言葉と共に足は動いた。
レンの手を引き、学校の廊下を疾走する。異常な空間だというのに、外から変わらぬ日の光が差しているのがたまらなく不気味だった。
正人と篠本さんが死にかけていること、西條の言葉の意味、この学校の生徒たちのこの後。
全てがどうでもよくなった。
死ぬ。死ぬ。死んでしまう。生物は死ぬことに臆病であって然るべきなのだから、これは当然の行動なのだ。
レンが何か言っている。よく聞こえない。
学校からかなりの距離を離すまで、僕は無心で走り続けた。
「錬次」
ようやく言葉が耳に入った。自分がとんでもないことをしたという自覚も浮かび上がった。
「どうしようも、なかった」
レンは僕のことを責めている風には見えない。僕が言い訳をしているのはおそらく、自分自身に対してなのだろう。
「話し合いで済むかどうかはわからなかった。でも今までが上手く行っていたから、どこか期待していたんだ。あんなわかりやすい暴力に元から訴えるとは思っていなかった。篠本さんの時を思い出して僕が盾になれば、あの二人が無事だったなら、でも、でも」
「錬次、落ち着いて。パニックは仕方がありません」
レンが僕の肩を掴む。目の前に彼女の顔があった。どこか諦めのような色が窺える、そんな優しげな笑みを浮かべていた。
「私の家に、行きましょう。研究資料もありますし、何かわかるかもしれません」
「……いいのか?」
「時間がありませんから。とりあえず、ある程度荷物、と言っても生活用品はこちらにあるのでいいですね。このまま行きましょうか」
レンは僕の手を取ると、急ぎ足で歩を進めた。
彼女に引かれるままに歩いて行く。電線の上でさえずる小鳥、風が木の葉を揺らす音。靴はまばらに灰色の道を叩き、僕を現実から少しずつ遠ざける。
少し歩くと駅に辿り着いた。外見ばかりでかく、ベンチがただ並ぶ駅の構内にいるのは、僕とレンの二人だけだった。
僕をベンチに座らせると、レンは切符を買うために券売機に向かって行った。
青色で背もたれの付いたベンチは冷ややかに僕を受け入れる。天井で扇風機が回る駅は、腰の冷たさもあってか少し肌寒く感じられる。僕は服の保護がない肘から手首までを、多少は温かい手のひらで擦った。
レンの背中を見ると、その横にある窓口の中の駅員と目があった。制服で来たのは間違いだっただろうか。平日のこの時間でこの格好は良い印象を持たれない……まあ、些細なことか。
レンは切符を買い終えると、僕の隣まで来て腰を下ろし、二枚ある橙色の切符の内一枚を僕に渡した。
「お金はいいですから。私、こう見えてお金持ちなんですよ」
そう言いつつ、レンはもぞもぞと腰の位置を直すような動作をした。椅子が冷たかったのだろう。気を利かせて鞄でも敷いてやればよかっただろうか。
しかし、手元には鞄がなかった。そういえば、気が動転してそれどころではなかった。
「こうして二人でどこかに行くというのは初めてですね。新鮮です」
「そうだな」
「駆け落ちみたいですね」
「そんなに、ロマンチックなものでもないだろ」
いや、逃避するという意味では間違ってはいないのか。
僕の反応を見て、レンは自身の持つオレンジ色の紙片に目を落とした。
「いいじゃないですか、もう」
「レン?」
「いえ、なんでもありません。電車に揺られて、少し眠りましょう。冷静になればマシな考えが浮かぶようになるかもしれません。今は何も考えないようにしましょう」
言葉が終わるのと同時に改札が始まった。
電車が来るまでベンチでそのまま過ごし、その姿が現れる頃に改札口を通り、車両の中ほどの席に二人並んで座った。
年季の入ったくすんだ窓が、少しずつ景色を動かしていく光景を眺めると、どこか懐かしい気分になる。
こんな風に乗り物に乗って揺られる長旅は何年振りになるだろうか。事故を経験して以来、自然と乗り物に乗ることを避けていたところもあるだろう。電車に最後に乗ったのはいつだったか、思い出すことは出来なかった。
揺られる度に眠気を誘う。この感覚は昔の記憶を思い出させてくれる。事故が起きるまで揺られていた、軽自動車の中のこと。欠けた家族の思い出。
あの日はそう、今日と同じく、腹の立つくらい綺麗な青空だった。
 




