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蟲床フラストレーション  作者: 桜谷 卯月
第二章 睡ノ蟲
32/42

第二十九話 姉さん


 家に帰った僕が初めに目にしたのは主の帰りを待つ白犬……レンが申し訳なさそうに正座している姿だった。

「……ただいま」

「おかえりなさい」

 俯いて答えるレン。怒っているのか、それとも案外そうでもないのか。彼女のことだから、僕の言葉を重く受け止め過ぎているのではないか。考えるといてもたってもいられなくなった。

 僕はその場にしゃがみ込み、レンの両頬に手を添えて少しだけ顔を持ち上げ、こちらに向けた。

 頬はほんのりと朱を帯びている。目尻は少しだけ濡れているように見えた。

「レン」

「……なんですか」

 いじけたような声で答えた彼女の顔は複雑そうな顔をしていた。嬉しそうな、嫌そうな、葛藤が見て取れた。

「……とりあえず、リビングに行こう。色々話したいことがある。もう面倒臭いことはなしだ。楽しく過ごそう。少し前みたいにさ……ずっと前と同じ、という風には言えないけど」

「錬次、それは」

 はっとレンは顔を上げる。

「うん、いや、思い出してはいないんだけど、僕がレンと同じ場所にいたらしいことはわかった。これに書いてあった錬次って名前が僕のことならだけどな」

 座り込んでいるレンの手を掴んで起こし、両肩に手を添える。逃げられないようにという意図と、逃げないようにという自分への拘束。それは結果としてレンに少々動揺を生んでしまったが、どうやらそこまで悪いものではなさそうだった。

「頑張って思い出してみるよ。手繰る記憶の糸があることがわかったんだ、案外パッと思い出せるかもしれない」

「そうですか……」

 小声で呟かれたレンの言葉は極力感情を抑えるように発せられたのだろうが、きっと僕以外の人間が聞いたとしてもそこに滲む嬉しさには気付くことが出来ただろう。

 心に翳が差す。僕はレンに主ノ蟲の代償で記憶が失われてしまったかもしれないことを話すつもりはなかった。

 使う上での代償の有無に関して話せば、レンはこの力を頼ろうとはしなくなるだろう。せっかく本音を打ち明けてくれたのだから、僕はそれを全力で叶えてやるつもりだ。

 何を犠牲にしようとも。

 ふと、この選択に疑問が浮かぶ。彼女にどうしてそこまで入れ込むのか。あの事故で助かったこととこの出来事で頼られたことが運命によって結びつけられたように感じたからなのか? それが現実とはかけ離れていて、空想じみた世界で、それが魅力的だからか。

「錬次、大丈夫ですか? 顔色が優れないようですが」

「ああ、だいじょう、ぶ――!?」

 視界が電波不良のアナログテレビのように乱れる。眼前に迫るレンの顔が誰かの顔にダブって見えた。非常によく似た少女の顔だ。

 艶やかな白い髪、瞳は赤と青を歪なバランスで混ぜ合わせたような紫。その少女は僕に微笑みかけている。頭に開いた小さな穴から馬鹿みたいな量の血を吐き出しながら、それでも少女は、レンによく似た少女は僕に微笑みかけている。

 有り体に言うのならば悪夢だった。その光景はあまりにも非現実的だった。

 それが何故、レンと重なってしまうのか。

「ああ、ああ……!」

 息がままならない。気が付くと僕は蹲っていて、レンに背中を擦られながら口に手を添えられていた。軽い過呼吸のような状態になっていたらしい。

「どうしたんですか、いきなり!? 錬次!」

「なんだ、これ。まさかこれも」

「とりあえずソファまで移動しましょう。さすがに二階まで運ぶことは私の身体じゃ出来ませんが、これくらいなら、で、き」

 脇から押し上げて来る感触を支えにしてなんとか体勢を持ち直す。なおもふらつく足元が柔らかく、不安定な地面を歩いているようで不快感が拭えなかった。

 耳鳴り――はない。頭痛もない。ただ、身に覚えのない記憶を脳が拒絶しているようで、吐き気のような感覚が胸の辺りに溜まっていた。

「なあ、レン。昔事故とか、何か事件とか、とにかくそういうので大怪我したことってあるか?」

「大怪我、ですか? ……思い当たりませんね。それより、早く横になれるところまで急ぎましょう。きっと錬次は疲れています。自分で思っているよりもずっと」

「そうか」

 言われて見れば納得だ。八重子さんに連れられて怪しげな森に放り出されて、見知らぬ家まで歩いた後に謎の人物との会話。あと、頭に叩きこまれた情報量。恐らくこれからもっと増えるのだろう。

 そんなこんなで、僕が疲れていないはずはない。断言できる。僕は徹夜というやつをなるべくしないようにする、疲れを溜め込みたくない人間だ。今日一日の行動量は、久東錬次の人生中でかなり上位……というと大袈裟かもしれないが。

 疲れている。

 この言葉はどうも情けなく聞こえて嫌いだ。


 レンは僕をソファに寝かせると、その傍の床に座り込んで僕の顔をかなりの至近距離から見つめてきていた。

「どうかしたか」

「いえ、最近錬次の顔を間近で見ていないような気がして」

 そうだろうか。口にはしないことにする。

「……なんだろう。レンの顔を久しぶりに見た気がする」

「なんですかそれ」

「僕には突っ込むのな……いいけどさ。レンって確か、コンタクト付けてるんだっけか?」

「ええ、そうですよ。青いやつを」

 レンの瞳を覗きこむと深い青のような、濃い紫のような色をしていた。先ほどの記憶にあったような色に似ていたのが少し気がかりだ。

 そんな僕の心情を知ってか知らずか、レンはほんのりと頬を染める。

「あまり見られると興奮します」

「そのノリも久々な気がするな……」

 しばしの沈黙の後、図ったかのように同じタイミングで笑みがこぼれた。長らく緩んだ空気というものを感じていなかった気がする。ここのところ緊張続きだったせいだろうか。

 それから特に何かを話すでもなく静かな時が流れた。

 穏やかな時間というものはこんなに早く進むものだっただろうか。時計の時針は緩やかに、しかし確実に僕の残り時間を削っていく。

 頭に乗せた左手が水に浸したように冷え切っていた。

「錬次」

 不意にレンが口を開いた。時計は正午まであと数十分まで迫っていた。

「もし、何もかもが上手くいかなかったとしたらどうします?」

「それは具体的に言うと?」

「具体的に――例えば、蟲床全滅とか、蟲が暴走とか。実は私たちが知っていたことは、正しいと信じ込んできたものは全てまやかしで、考えたり、実行した努力は全て水の泡になってしまったとしたら。錬次はどうします?」

「そんなことは考えないよ。考えたくない」

「逃げちゃダメですよ、あり得る話なんですから。避難訓練みたいなものです。想定していなきゃ、いえ、想定していたとしても実際に起これば動揺が走り、普段通りに動けなくなってしまう。だから確認です。錬次はどうするのかです」

 どうしたいのか。

 僕はレンを助けたい。蟲床たちを助けたい。あの事故で生き残った奇跡の代償として、この身を擦り減らして彼女たちを助けたい。

 それが失敗したら。目の前で座っている少女が冷たく、物言わぬ有機物の塊になり下がった時、僕は何をするのか。

 決まっている。事実を捻じ曲げてその結果を変える。それが出来るのだから。

「どうだろうな。どうしようもない時ってのはやっぱり人間あるだろうし、その時はバッドエンド一直線だよな。僕にはどうにも出来ないかもしれない」

 出来てしまうことはレンに隠しておこう。

 僕の中に芽生えた思考は何故かそれ一つだけだった。

 もちろん、手元にある日記やら今までの話を総合すれば、もしかするとレンは主ノ蟲の可能性に気が付いているのかもしれない。そもそもソレを知った上で今まで接してきたのかもしれない。

 この決心はまったくの無意味なのかもしれないけれど。

「そうですか……ええ、それが一番ですね。変に足掻いてこじれては大変ですから」

「レン、まるでこれから失敗しますよって言ってるみたいじゃないか。やめてくれよ、そういうの」

 レンはそれに苦笑して、

「そうですね。確かに、良くない思考だったかもしれません」

 と、どこか疲れた表情で答えた。

「どうしたんだ」

「いえ…………嫌な夢を見ただけです」

「夢か……魘されないように一緒に寝てやろうか?」

「いえ、そんなことはしなくてもだい……じょうぶじゃないですね! 魘されるのは怖いので今日は添い寝しかないですね!」

「元気そうで何よりだ」

 僕はその後、資料の事についてレンに話した。主ノ蟲の事を少々省きながら、過去に関しての手がかりになりそうだということ。僕が出会った謎の人物について。

 ひとしきり聞き終えると、レンは一つ息を吐いて眉間をつまんで揉みほぐした。

「一応魅上家はその手の情報に事欠かないはずだったんですが、その資料は知りませんでした。あと、その謎の人物についても心当たりはないですね」

「そうか。まあ、なんとなくそんな感じはしてたんだよな。八重子さんが絡んできてたからさ」

「ぶっ飛んだ方、でしたっけ」

「そうか、まだレンは会ったことがないんだったかな」

 確かに、今まで八重子さんに会った時にレンが傍にいることはなかったな。あの様子を見て目を丸くするレンの顔を見てみたい気はするけれど。

 まあ、珍獣を見るのとそこまで変わらないかもしれない。

「うむぅ……なんと言いますか、あれですね。最近流行りの動物がいるのは知ってるんですが実物は見たことがない、というか」

「ああ、やっぱりそんな感じか」

「はい?」

「いや、こっちの話だよ――さて、ご飯にしよう。カレーでも作ろうか」

 時計の秒針は静かに時を刻んでいた。


 


 約束の日、結局レンに一言残しただけで僕は八重子さんに連れられて(攫われての方が正しいかもしれないが)幻夢川家へと向かうことになった。レンは特に反対はしなかった。ただ、気を付けて、とだけ。

 心配はしているが、どうせ言っても聞かないのでしょう?

 そう聞こえてくるようだった。

 風を切って空を駆ける感覚は既に慣れた、とは言い難いが、ある種の快感を感じられるようにはなってきた。ハンググライダーなんかでもこんなスピードは出ないだろう。

「……?」

 しばらく飛んで、僕は見覚えのある景色を見たような気がした。見たことのある、屋敷の焼け跡を確実に通り過ぎた。僕はあそこで寝ていた。

「八重子さん? もしかして、目的地ってあの焼け跡と近い?」

「え? はい。めちゃくちゃ近いですよ」

「……」

 意図せず約束の場所の下見を済ませるところだったというわけだ。

 あのまま寝とけばよかったんじゃないか、というのはもう過ぎた話だ。忘れてしまおう。

 それよりも今は心の準備が必要だ。

「ほら、あれですよ」

「あれ……どれだ」

「ほら、あの」

 八重子さんが指をさす(この時僕の身体の支えが不安定になる)ところには屋敷の周囲と同様に立派な木々が鬱蒼としており、特に建物らしいものは見えてこない。そして僕の身体のバランスも気になって気が気ではない。

「んまあ、着けばわかりますから。遠足で目的地見えると距離遠く感じるのと同じで見ない方がいいですよ」

「遠足でそんな感覚は味わったことないけどな……」

「あいや、目標到達による休憩をかなぐり捨てるタイプでしたか。意外とマゾいですね久東さん。いや、でも難易度最高まで上げてゲームやりたくなる気持ちはわからなくないです」

 どうやら八重子さんは若干マゾが入っているらしかった。

 そもそも僕はゲームというものをあまりやったことがない。最後にやったのはいつだったか……随分やってないように思える。

 そうしてどうでも良いことを考えているうちに僕は森の中へ落ちて行った。飛行機の着陸のごとく長距離にわたって八重子さんの足が地面を削ると、僕はようやく地に足を付けた。

「さて、と」

「ここは……」

「あの屋敷の1キロメートル圏内ですよ。正確にはわかりませんが。じゃあ、ちゃちゃっと用事を済ませましょう、時間もありませんし」

 八重子さんは軽い口調でそう告げると、迷いのない足取りで歩き出す。僕はその姿を見失わぬようにして後を追った。

 時間がない。

 僕は死を看取りに来たのだろうか。それとも、皆を助けるための情報を得るためにここに来たのだろうか。

 土を踏みしめる感触が僕から現実感を奪う。中空や水の中をさまよっているかのようだ。草木の臭いが妙に腹立たしい。葉擦れの音は半端な覚悟の自分を蔑んでいるかの様。どこかでウグイスが涼やかに、弱々しく鳴いていた。

「あれですね」

 八重子さんの声にはっと顔を上げると、そこには小屋があった。まるで秘密の隠れ家のように木々に隠れ、その屋根には緑や黄色の帽子を乗せていた。

「あの中に綾――睡郷が?」

「そうですよ。待ち合わせはここで間違いありません。私は外で待っていますね」

 そう言って八重子さんは僕に道を開け、一本の木に身を預けた。

 小屋の引き戸に手をかける。予想していたよりも重かった。小屋の戸は石うすを挽くような音を立ててようやく開いた。

 その中には見慣れない服装の、鮮やかな朱の着物をまとった幻夢川睡郷の姿があった。

「早かったね、錬次。これ、どうかな」

 睡郷は照れ笑いで僕を迎えた。

「似合ってるよ」

「そう? ありがとう」

 慣れていない褒め言葉は案外すんなり口から出た。目の前の着物の女性は恐らく、僕でなくともお世辞を抜きにして綺麗だと答えるだろう魅力があった。

 ほんのりと化粧もされているようだった。

 死に化粧。

 そんな言葉が脳裏をよぎった。 

「ああもう、なんだか緊張しちゃった。慣れない格好なんてするもんじゃないなあ」

「そりゃそうだ。今まであんなだらしない生活してきたんだから、そんな格好疲れるに決まってる」

「違いない」

 睡郷は『綾』の顔で笑った。それがなんとなく僕の緊張もほんの少しだけほぐしてくれた。

「さて、色々話していかないとね。何から話そっか。錬次が疑問に思うことから答えて行った方がいい? お姉さんのお悩み解決コーナーってね。私が知ってることはぜーんぶ教えてあげる」

「全部か。そう言われると何から聞いていいのやら」

「……それじゃあ、昔のことから話そうか。と言っても重要な部分だけ、錬次がどうにも忘れてるらしい記憶のとこ」

「やっぱり、昔僕は」

「うん、会ったことあるよ、私と。何歳の時だったかな、忘れちゃったなあ。ただ妙に気に食わないっていうのが第一印象だった」

 さらりと重大発言。僕はどう反応していいものか、とりあえず「おう」とだけ返した。

「って言うのも錬次って私の……初恋の人に似てるのよね。知ってるでしょ? 月夜さん」

「え? ちょ、え!? 待ってくれ、なんだかもの凄い重要な事柄が波のように押し寄せてる気がするんだけど!?」

 月夜兄さんの研究が蟲床のものだというのは篠本さんから聞いていたことだ。なるほど、過去に関わりがあったというのは自然な話なのかもしれない。

 ただ色恋が絡んで来るというのはどうにも予想の範疇を超えていた。

睡郷は悪戯っぽい笑みを浮かべて、僕のことなどお構いなしに話を続けた。

「雰囲気がね、似てたんだ。月夜さん、随分嬉しそうに錬次の事を話してたから、もしかしたら錬次は月夜さんの影響を受けてたのかもしれないね。今となっては知る由もないことだけどさ」

「……縁ってのは繋がってるモノなんだな」

「そりゃそうなんじゃないの? 人がなんの縁もなしに人と繋がることなんて出来ないと思うよ。ロマンチックな話になるけどね、過去に関わりがなくてもさ、前世とか違う次元とかで深い関係にあったんじゃないかってたまに考える」

 それが親愛であれ憎悪であれ、と睡郷は付け加えた。

「……」

「ちょ、ちょっと、ここ笑うところでしょ? もう、神妙な顔しちゃって!」

「え? 笑うところだったのか? 結構デリケートな部分かと思ったんだけど」

「いや、笑ってくれないとちょっと。ほら、恥ずかしいじゃない。ああ、もう! なんで最後の最後でこんな感じになるかなぁ……ふふふ」

 その笑いに釣られて僕も笑ってしまった。以前ならこの風景も随分当たり前のように感じていたのだろうが、今は得難いものだと思えてしまう。おかげで笑顔がぎこちなく引きつった気がする。

「ふう、笑った笑った。やっぱ姉弟はこうじゃないとね――さて、どこまで話したっけ。錬次と昔会ったことがあるってところだったかな」

「ああ、間違いない」

「よし、空気もほぐれたし、これからぺらぺら喋っていこうかな」

 睡郷はわずかに笑みを浮かべると、その言葉通り饒舌に言葉を並べた。

 僕と出会った時のこと、月夜兄さんの人柄、久東がどのような立場にあったのかということ。

 あの日記を読んだ後で聞くと、その話は十分に真実味を帯びていた。

 日記は主ノ蟲の研究に関する概要、また、久東家が魅上家から主な資金援助を受けて活動していたということ。蟲床たちと関わっての感想等が、一人の男の主観で書かれている。

 そういえば、日記の中には『西條』という名前があった。偶然でないとすれば、僕の考えていることは正しいのではないだろうか。

 僕は話し続ける睡郷を遮って口を挟んだ。

「睡郷、確か前西條先生となんか……あったけどさ。もしかして、関係あったりするのか」

「…………まあ、そうね。なんとなく話しちゃマズイ気がしないでもないけど、色々話せば辿り着くものか。そう、錬次の想像した通り、西條瑛悟は蟲床を研究している西條家の関係者。ちょっと喧嘩しちゃったけど、協力関係にあったのよね」

「あいつが……ってことは、敵に回ることもあるのか」

「さあね。アイツはやることがあるって言ってたけど、なんのことなんだか。錬次の事は研究対象として見てはいるかもしれないけど、危害を加えるかというと微妙かな。研究分野は主ノ蟲というより欲ノ蟲全般だし」

「十分可能性はあるんだろ?」

「これから絡んで来ることはあるかもしれないわね。だから、面倒なことになる前にちゃちゃっと終わらせちゃいなさい」

「終わらせるって言ってもな……」

「簡単じゃないの。一人残して殺すか、逃げちゃえばいいじゃない」

 顔が熱くなった。妙に軽い口調な睡郷が気に食わなかった。

 そう出来ていればどれだけ楽なことか。そう言ってやりたかった。

「冗談よ。でも、常に考えておいた方がいいことでもあるから、覚えておいてね。自分の命以上に大切なものなんてないでしょう」

「あるだろ」

「例えば?」

「……大切な人の命とか。家族とか」

「でもさ、それって自分が死んだ時点で意味がないものだと思わない? 死んだ後のことはわからないけどさ、試しに目を閉じてみなさいよ。真っ暗でしょ? 死んだ後あなたが見られる世界はきっとそれくらいのものよ。他の人の命を心配したところで何も残らないでしょうに。錬次、アンタは常識を見過ぎだよ。日常を生きる人に非常識は似合わないように、非日常を生きる人に常識は不格好が過ぎると私は思うんだけどね」

「なんだ、それ」

 言葉の暴力という表現がある。暴言の事を言い変えた言葉だとばかり思っていたが、どうやらそれは僕の認識違いだったようだ。 

 言い返せない。まるで口を見えないテープで縛りあげられたようだ。

 その通りだ。僕は既に非日常を生きている。そんな人間が常識を説いたところで、それは非常識でしかない。

 僕の考えは根本からずれているのかもしれない。

 見捨てるという選択肢は現実的で、間違いなく有効な手段だ。創作世界のの主人公がやればバッドエンドも良いところ、それで成長するならまだ先は見込めるかもしれないが、僕のその行動は終わらせるための手段だ。

 逃げて、逃げて、そのまま逃げ切るための最終手段だ。

「……心に留めておく」

 そう口にした僕を見る睡郷の顔は彫刻のように哀愁を帯びていた。

「そう、よかった」

 そして笑顔。作っていることを少しも隠せていない。彼女が催眠術なんて物に頼るようになったのはその不器用さからか、それとも逆だったのか。

「ねえ、錬次。欲ノ蟲ってどうして生まれたんだろうね」

「どうしてかな。大昔からいて、たまたまモノ好きな人間に……とか、想像つかないな」

「……欲ノ蟲ってさ、まるで人間になろうとしてるみたいじゃない?」

「え?」

 木々を揺らす風の音が周囲に響く。隙間風が吹き込み、葉の青臭さが小屋の中に満ちた。知らず、僕の呼吸回数は少なくなっていた。

「いや、動物なら大抵そうなのかな。わざと欲望を大きくするのなんて生物をわかりやすく表現しているみたいだし、なんだかね。まるで生物を模倣しようとしてるみたいで」

「そんな馬鹿な……」

 さすがにそんな考えに至ることは出来なかった。なら何故人間に寄生する必要があるのか。人間になりたいというのであれば、近いところで乗っ取るなりなんなりすればいいのではないか?

 ふと、僕の頭に篠本さんの家を襲ってきた化け物たちが浮かぶ。感染者のなれの果てだと言われていたが、それはもしや、そういうことなのだろうか。

「もしかして身体を乗っ取ろうとしてるとか言いたいのか?」

 僕がそのままの事を尋ねると、睡郷は軽い調子で、

「ん、言う前から理解してくれるとは」

 と肯定した。

「いやいやいや、理解はしてないよ。ただ、そう言いたいんじゃないかと……なんでその考えに至る?」

 あえて篠本家での出来事については触れず、質問を続行する。何故か、睡郷の額には玉のような汗が浮かんでいた。

「……この考えに至るにはまず不老不死って考えを頭から捨てなきゃいけない。定められた十八年という期間と欲望をつかさどるというリスクについての考え。それらがペナルティなんかじゃなく、単なる準備期間であったとしたら。今まで人間の目線に立って考え過ぎてたんじゃないかってコト」

「つまり、なんだ。今まで不老不死になれると思っていたものがそもそも間違っていると?」

「そういうこと。不老不死には違いなくてもさ、それが人間だとか、意識があるとかそういうことは皆まるで気にしてこなかったわけでしょ? まあ皆命が惜しいから、とりあえず生き残ることしか考えられなかったのかもしれないけどね」

 ここにきて急に話がわからなくなった。どうなっている? そもそも不老不死が嘘だった? だとしたら、僕たちはなんのためにここまで考え、悩んできた? 

 あまりにも意味がない。

「西條瑛悟は言ってたよ。他の蟲を殺さなきゃ生き残れないってのはたぶん嘘だって。さっきは一人残して殺せって言ったけど、それはまた最終手段の話。ただ、そうね。蠱毒みたいなものじゃないかって言ってたかな」

 蠱毒。別名は確か、昔ホラー小説か何かで読んでみた覚えがある。器の中に大量の虫を入れ共食いさせ、最後に残った一匹を呪いの道具として用いるというものだ。

 なるほど、不老不死もある意味呪いの一種のように思えなくもない。

 しかし、彼女はそういうことが言いたいわけではないのだろう。

「最後に残った一匹がさ、何かにとって有益なモノになるんじゃないかな。もしくは最後に残った一匹じゃないと不利とかね。……私に残された時間じゃもう何も出来やしないけど、錬次に情報くらい引き継いでおきたくてね」

「ちょっと待てよ、わからないぞ。まず、今日死ぬって何が原因なんだ? 毒でも飲んだのか? それとも狙われてる? やはり、蟲なのか?」

「ははは、いや、わかんない。人と毒は違うね。蟲が正解。実際にどうなるかは全く想像出来ない。今までに見つかった例がないからね。皆どこかに失踪しちゃうらしいんだこれが。どこ行ったんだか知らないけど」

 睡郷は頭を押さえて力なく笑った。不意に、彼女の頭が時限爆弾のように見えた。

 手が指先から冷たくなっていくのを感じる。恐ろしいのかもしれない。目の前の彼女がこれからどんな目に遭うのかを想像すると

「万が一に備えて八重子さんに協力してもらってる。すっごい強いんだってね? 化け物一匹くらいなら瞬殺出来るくらい」

「おい、何言ってんだよ」

 睡郷は辛そうに顔を歪めている。

「だからさ、見届けてよ。私がどうなるのか。これから私が『どう変わってしまうのか』」

「待って、待ってくれ」

 睡郷のまぶたが重たそうにしばたく。深い眠りの前兆のように、それはゆっくりと重くなっているようだった。

「ああ、そういえば、私今日誕生日か。もったいないなぁ……もう少し待っててくれればよかったのに」

「おい!」

 睡郷の身体を抱き寄せるようにして顔を寄せた。もうまぶたはほとんど開いていない。

 いくらなんでも唐突過ぎる。どうしてこんなに早く終わりが来る? さっきまで普通に話していたはずだ。

「私さ、楽しかったよ。家に縛られてるときとは大違い。家族の温かみなんてなかった私には、たとえ催眠術でもアレはまぶしかったなぁ」

 うわごとのように呟く睡郷の声は少しずつ小さくなっていく。

「……寝るなよ……姉ちゃん」

「……ふふ」

 ありがとう。

 口がそう動いた気がした。

 僕が都合よく変換しただけなのかもしれないし、それを再び聞き返すことは出来そうにない。

 まだ聞きたいことがあった。まだ言いたいことがあった。全てを為すにはあまりにも時間が足りなさ過ぎた。

 久東綾は、睡ノ蟲の蟲床、幻夢川睡郷はここで静かに深い眠りに落ちた。


どうも、桜谷です。

散々遅れました。そしてもう少しだけペースが安定しません。

感想など、お待ちしております。

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