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蟲床フラストレーション  作者: 桜谷 卯月
第二章 睡ノ蟲
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第二十八話 遺物

 外は薄暗く、仄かに草の匂いが香る。見てみれば、川原の雑草が手入れされた後の様で、少し前まで背比べをしていた草々は、今は無気力に横たわるばかりだ。

 僕はふらふらと外を歩いていた。目的はなく、言うならうろつくのが目的だった。

 僕の身体に何が起こったのか。篠本さんの誤解をどう解いたものか。レンが目覚めたら気まずいのではなかろうか。

 家でじっとしているという選択肢は、どうにも浮かんでこなかった。

「……」

 空気を吸い込むとどこからかいい匂いがした。これはカレーだろうか。匂いというのは本当に素晴らしいもので、匂いをおかずにご飯を食べるなんて話を聞いたことがあるけれど、馬鹿に出来ない考えだ。よし、今日はカレーにしよう……帰れるのだろうか。

 いや、一人でどうにかなるものではない。わかっている。あと、地味に篠本さんが不意打ち気味に襲ってきたりしないかがとても心配だ。常に警戒状態なのは言うまでもない。

「なんだかなぁ……。問題が積み重なって何も解決しない状態っていうのは」

 無力だ、と。口にして良いものだろうか。

 ふと浮かんだ疑問には答えが出ない。せめて、誰かが解答をくれればいいのだが。このままでは、レンを助けるどころか自分の明日さえ危うい。

「呼ばれた気がしました」

 八重子さんが出た。

「…………いや、なんだかもう驚かないけどさ。何者?」

「神様ですかねー」

 けらけらと笑う八重子さんの頭にはハンチング帽、その上に黒いフードがかぶさっていた。一見して少年。中性的というやつだ。

 地味に冗談がリアルで笑えないのはご愛敬。

「まあまあ、久東さんの性的な目線はさておき、今の私は悩めるボーイの相談役ですよ」

「性的って……まあいいけどさ。確かに話を聞いてほしかったのは事実だし」

「ええ、ええ、そうでしょうとも。何やらかつての想い人に殺されたと思ったら生きていて茫然としているという様子でしたし」

「見てたのか?」

「そこら辺は、ね?」

 八重子さんは口元に右手を添える。教えられないということらしかった。想像に任せられるとトンデモな発想しか浮かばないけれど。

「そんなことはどこかに放っといて、今は久東さんのお悩み相談室ですよ。答えられるなら答えます。答えられなかったら答えません」

 相変わらず、シリアスな話をするには少々高すぎるテンションで八重子さんは話を促した。僕も今更話しづらいとは言わない。

「僕の身体一体どうなってるんだ」

「あ、それはダメですね」

 瞬殺とは正にこのこと。

「私から直接は教えられません、その事柄は。その情報に行き着くまでの道案内とか、そういうのならいいんですけどね」

「じゃあ、それでもいいから教えてくれ。情けない話だけど一人だと良い考えが浮かぶ気がしない」

 解法の知らない数学の問題のようなものだ。いくら考えたところで、常人は答えに辿り着くことは出来ないだろう。この問題に答えがいくつあるのかは知らないし、僕は常人なのかと言われれば、少なくとも思考以外は大分怪しくなってきたわけだけれど。

 僕の要求に対して八重子さんは少年の様に笑って答える。

「わかりました、引き受けましょう。出来る限り。例えば、あなたの成り立ちについて、どこの誰かを幸せにする方法について、変わらない日常のために非日常を変える、など。ああ、そうでした。あの篠本の涼子さんとかいう女の子は話しやすいように説得しましょう。元はと言えば私の責任ですから、アレはなんとかしましょう」

「……えっと」

「おや、何か不安げですね?」

「いや、別にそういうわけじゃないんだけどさ」

「怖いですか。私のこと」

 彼女の言葉は正確に僕の心中を露わにする。まるで水槽を覗いているかのように狂いなく。なんでも『さとり』とかいう心を読む妖怪がいたりいなかったりするらしいが、その類なのか。

 馬鹿馬鹿しいが、可能性としては考えられなくもないのではないかと思えるくらいには僕の常識は作り変わっている。

「別に、そんなことないさ」

「……そうですか」

 気のせいか、八重子さんの顔に少しだけ(かげ)りが差したように見えた。それは気のせいだったのか、それとも。そう考えた次の瞬間にはいつもの笑顔が浮かんでいた。

「ま、安心してください。悪いようにはしませんよ。浅学非才の身ではありますが、お力になりましょう!」

「待って、八重子さん。それすごい皮肉っぽく聞こえる」

「何を言います? 私、高校で数学と英語は五段階評価で二以上取ったことないですよ?」

「そんな……ってか、八重子さんって高校生だったのか?」

 それを聞かれた八重子さんは、なんと言えば良いのだろうか。今までに見たことのない顔をしていた。まるで、忘れていた過去の恥ずかしい記憶を聞かされたような。

「ええ、そうでしたよ。いい高校生活でした」

 それだけ言うと、八重子さんは不意に僕の右手を掴んだ。

「行きましょうか。雑談が過ぎた気がしますし、事は早めに進めた方がいいでしょうし」

「行くって、どこ――にぃっ!?」

 風の切る音が耳に響いた。舌を噛まないように歯を噛みしめた。すぐに対応できたのはこれは最近体験したことだったからだろうか。

 僕は、また空を飛んでいた。


 

 しばらく空中散歩を楽しんだ後、到着したのはどこかの森奥だった。

 八重子さんの身体にしがみついていた僕は必然的にあんな所やこんな所を触ることになったわけだが、ワニに噛まれている時にワニの口の中の感触を確かめられるかというとそうはいかない。

「さて、到着ですね」

 降り立った衝撃で投げ出された僕は、落ち葉にまみれながら立ち上がった。身体に被害はない。……もっとも、腕が折れるくらいでは治ってしまいそうな気がするのだが。

「ここは?」

「ここはですね、目的地までの道中です」

「道中? なんで」

「ここから北に行くととある屋敷に出ます。話はつけてありますので、遠慮せずに入ってください。それでは、私は誤解を解いてきますので」

「え、八重子さん!?」

 八重子さんは一瞬屈んだかと思うと、再びその場所から飛び上がった。目で追うことが出来たのも数秒ほど。落ち葉と風、微量の土が跳ね上がり、地面へと落ちる。

 僕はあっという間に取り残されていた。辺りは静まり返り、動物の鳴き声一つ聞こえてこない。時折風が吹いて葉を揺らす音が聞こえるのが少し不気味だ。

「……ここって、熊とか出ないよな?」

 辺りが暗くなり始めている。北に行けと漠然と言われても、と文句を言いたいところだが、文句をいう相手は空の彼方へ飛んで行ってしまった。文字通り。

 さて、とりあえず歩こう。何もしなければ何も起こらない。

 考えたところでこの状況がどうにかなるでもなし、むしろ悪化の一途を辿るのみだろう。

「北って、どっちだ……?」

 方角を確認する術がない、と。……少々危険だけれど、久々に勘に頼ってみようか。

 なんとなく歩き始める。大丈夫だ、僕の勘は当たる。信用し過ぎるのはどうかと思うが、藁にもすがる思いというモノがある。

しばらく歩くと不安は案外感じなくなった。足を動かしているせいかもしれない。その代わり、冷静な思考が頭に浮かんで来る。

 僕は三日後、もう二日後になっているが、綾、幻夢川睡郷との約束でとある場所に向かわなくてはならない。そのために考えを整理しておく必要がある。

 僕の身体について、蟲床について。僕は僕なりの考え方を持たなければいけない。他人に左右されてはいけない。それは僕の武器であり、盾になるのだから。

 足を踏み出す。枝が折れる。

 僕の身体は、どうやら傷付いても治ってしまうらしい。主ノ蟲の影響なのだろう。それ以外には考えられない。

 それは最近になってそうなったのか、あの時からずっとだったのかはわからない。どうしてこうなっているのかも。他の欲ノ蟲には再生能力なんてものはないし、身体を強化するような効果もない。強いて言うなら不老不死だが……。

 ……いや、待て。僕は自然に、重要な点を見逃している。

 僕はあの時、あの事故の時、人語を解する蝶に願ったのだ。まだ生きたいと。

 それほどまでにあの状況での生存は絶望的で、希望などどこにもなくて。

 確かに寄生されたから助かったのだと考えればわからない話ではないけれど、本当にそうなのか?

 もし、主ノ蟲が欲ノ蟲だったとしたら。宿主の『欲望を達成させる蟲』だったとしたら。

「そうしたら、もしかすると、レンを、救えるのか……?」

 足を踏み出す。葉を踏み砕く。

 もし、この仮定が正しいのだとしたら、僕は未だに願いの効力を受け続けていることになる。もしかすると、不老ではないにしても不死に近いのかもしれない。

 こんなことができるのだ。蟲を取り除くことなど容易いだろう。なんだったら、不老不死を叶えてやることだって出来るかもしれない。彼女たちを助けることが、出来るのかもしれない。

 次第に息が荒くなっていく。足も早まる。憶測が憶測を呼び、思考の歯車を回す。

 どうすれば願いを叶えられる。言葉にすればいいのか? だとしたら、ちょっとした拍子にうっかり使ってしまいかねないが、僕は特別運が良かったような記憶はない。

 そもそも、そんなことが簡単に出来るなら僕はあの日に戻って家族を全力で止めるだろう。死に物狂いで、粉骨砕身で。

 ということは、そう簡単には行かないということだろうか。それとも、間違っているのだろうか。

 僕は何かを見落としている、ような気がする。

 考えられるのはリスク。条件、というと死にかけるくらいしか思い浮かばないけれど。リスクと言っても僕は何かを失っているだろうか。家族――の他には。

「――記憶?」

 口にしてみると確かな感触があった気がした。漫画や小説ではなかなかにありきたりな設定だ。記憶を失う代わりに願いを叶える。徐々に消えて行く記憶に主人公は苦悩する。

 ただ、願いを叶えることと等価の記憶とは一体なんなのだろう。僕は恐らく、家族に関する一部の記憶と、レンと関わった時の記憶。いや、気付いていないだけでまだ持って行かれているかもしれない。

「でも、それくらいだったら今持ってるのを全部代価にすれば……」

 叶えられるだろうか。

 例えば、この願いが一億円を望むものだった場合。それは等価と言えるだろうか?

 わからない。そもそも価値基準が人間と同じではない可能性すらあるのだから。ちなみに、僕の肉体を売りさばいたとしても一億には到底及ばない。

……全く。

 メニューも決まってないのに適当に材料を突っ込んでいるようなものだ。手探りで結論を出したところで、それは単なる空想の産物でしかない。

思考を一旦区切り、周囲を確認すると、明かりがなくては既に足元がおぼつかなく、手もとの木くらいしか目に入らない状態になっていた。

そのことに気付いた瞬間、若干の焦りが胸に湧いた。果たしてこのまま歩いてどこかに辿り着くのだろうか。勘を頼ってみたはいいものの、何をそこまで信用していたのだろう。

「これは、少し……」

 遭難したとしても死にそうになる頃には八重子さんが発見してくれるような気がするが、僕はその屋敷に辿り着いておくことが必要なのだろう。

 どちらにしても約束の日には八重子さんに救助されることになるのだろうけれど。

 しかし、そんな心配をしていたのもつかの間。唐突に道が開け、薄暗い明りが数個灯った場所に出る。どうやら森は抜けたようだ。

 勘で、なんとかなったのだろうか。

 闇の中には枠だけになった門があり、明かりはどうやら門の左右に付いたろうそくだったようである。ろうそくは仏壇で使われるような太いものであり、小指の半分くらいの長さになっていた。

「……誰か、いるのか?」

 声に返す者はいない。といっても呟き程度の音量だったから、誰かがいても反応するのは難しかっただろう。

 門をくぐると砂利が敷き詰められた道が現れた。それは明らかに人が住んでいない様子の和風家屋に続いている。

 柱だけの部分や上半分がなくなった障子。焦げた跡があるので、火事で焼け落ちたのだろうと想像出来る。最近のものではないようだ。

 ここに僕の求めるものがあるのだろうか。八重子さんに連れて来られたのだから、少なくとも何もないということはないとは思うのだが。

「……お邪魔します」

 もしかすると誰かがいるのかもしれない。僕は靴のまま崩れた屋敷へと歩を進めた。

 恐る恐る壊れた木の廊下へと足を乗せると軋みを上げ、人が乗ることを拒んでいるようだ。しかし、乗ってすぐに壊れるといったことはなさそうだった。

 屋敷の焼け跡は当然のごとく整備されておらず、門にあったような明かりもない。月明かりが当たる場所ならその様子が見て取れないこともなかったが、陰に当たる部分は目を凝らしても何も見ることは出来なかった。

 僕は少々考えた末、門の明かりを一つ拝借することにした。無論、ろうそくを直接持つわけにはいかなかったので、屋敷の木片の上に接着するという形になった。

 そうして屋敷の中をゆっくり歩いて行くと、一つの部屋がやけに綺麗になっていることに気が付く。

焼け残っている部屋が掃除をされたというよりも、焼けた後に部屋を復元したという方が正しいだろうか。一切汚れのない障子、ささくれの見当たらない畳がある。部屋の中心には小さな机があり、その上には一冊の……単に紙が紐で束ねられたものが置いてあった。

部屋とは逆に、その冊子は随分と古びていて、端の方が所々破けていたり、黄ばんでいたりした。タイトルのようなモノはない。

「これは……?」

 まだ調べ足りない所もあるが、直感で僕の求めているものはこれだと判断した。ここまであからさまだと疑いたくもなるが。

 適当にめくると、そこには細かい乱雑な字で日付と何かの記録のようなモノが書かれていた。

 研究資料と言えば違和感がある。どちらかと言えば日記の方が近いだろうか。研究の詳細に関しては書かれていないが……。


◇◇◇◆◆◆

 

●月□日

 実験体〇七は人体に寄生することで効力を発揮する。基本的には欲ノ蟲と極めて近いようだが……どうだろうか。

 魅上家の資料を元にした考察では、恐らくこの実験体〇七、主ノ蟲は人の思念に影響される生物である。欲ノ蟲感染者の殺害や、さらに蟲床の中の欲ノ蟲を殺すことも可能だという記述は、蟲床としての運命に苦痛を感じた者が過去に蟲床に対してなんらかの救済を行おうとした結果なのではないだろうか。

 ただ、これが何年前の記録なのか、この記述は真実なのかはわからないので想像でしかないのだが、そもそも、この研究自体現実離れした内容であることに変わりはない。あり得ない話ではないのかもしれない。確かめるのが俺の仕事だ。


 ▲月○日

 いつものごとくそれぞれの家を回り、蟲床たちと接触した。

 この少女たちの中には不老不死の可能性が眠っている。最初こそ信じられなかったが、彼の姿を見た後では信じる他あるまい。

 もしかすると、実験体〇七のような存在は不老不死に飽いた蟲床の生を終わらせるためにあったのかもしれない。無邪気な彼女らを見ていると、そのような救いも必要なのではないかと思えてくる。

 どうやら実験体〇七の性質は元より蟲床を殺害するためのものであることがわかった。何ゆえなのかはわからないが、過去の宿主の願いが反映された結果という可能性がある。

 もっとも、『願いを反映する』などということが本当に出来ればの話だが。

 人体実験は避けられないだろう。


 ○月□日

 俺の身体に実験体〇七を寄生させた。と言っても、〇七自体を寄生させたわけではなく、〇七が産卵し、その子孫が俺に寄生したことになる。

 生殖に関しては行っていない。外見が蝶に近いことから有性生殖を考えるのはどうやら早計のようである。正確なことはわからないが、それはこれ以降の実験に持ち越していくこととしよう。

 一体のみの生物の研究とは実に厄介なものだ。解剖して構造を見ることが出来ないというのは、純粋な興味の意味でも残念である。

 寄生させた後は刺すような痛みがあったのみで、寄生されていると意識すると少々違和感がある気もするが、目に見えた体調変化という点では特にない。

 欲ノ蟲の放出する物質を甘い匂いとして感じることが出来るようになるというが、それはまた彼女たちの元を訪れた時に確認することとしよう。

 今日は錬次も来ていることだし、魅上家から回ってみようか。


◆◆◆◇◇◇


「これは……錬次って僕のことか? 誰が書いてるんだこれ」

 冊子をめくったり裏返したりしてみるが、どうやらこれを書いた人は自分の持ち物に名前を書く趣味は持ち合わせていなかったようだ。

 俺、と書かれているから男だろう。篠本さんと同じパターンというのは少々特殊なので除いても恐らく問題はないはず。そして、僕と同じく主ノ蟲の宿主。蟲床との接触があった者。レンや篠本さんに訊けば教えてくれるだろうか……睡郷も。

 思念に影響される生物。『願いを反映する』。蟲床の救済。あと、彼とは誰なのか。

 少しめくって読んだだけでも僕の求める情報があふれていた。古びた紙束が数十億の札束のように見えた。

「魅上家……僕とレンの過去か。ってことは、十年以上前になるのか」

 まだこの先を、この全てを読めば僕でも役に立てるのかもしれない。この争いに、本来あるべき終わり方の他に違う道を見いだすことが出来るかもしれない。

 僕が次のページをめくった、その時。

 背後で板の軋む音がした。

 反射的に振り向くが、その音の主は未だ姿を見せていない。規則的にその音は響き、徐々にこちらの方へと近付いているようだった。

 一体どこから現れたのだろう。元々この家の中に住人がいたということだろうか。しかし僕が回った限りでは人は見受けられなかったし、いくら集中していたからといってこれほど静かな中、遠くではあれ軋みを上げる廊下の音を聞き逃すことがあるだろうか。

 まるで――――幽霊のようではないか。

 とっさに紙束を服の内に隠し、ろうそくの火を即座に消し、障子の蔭に身を隠す。

 ゆっくり、ゆっくりと。緊張を煽っているようにも感じられる。僕の存在は既に勘づかれているのだろうか。先ほど音を立ててしまったかもしれない。それにここの住人であるのなら門の明かりが一つ消えていることに気が付いただろう。もしかすると、僕はすぐにここから出て謝るべきなのかもしれない。

「――――」

 息遣いが聞こえる。人間だ。呼吸をしているということに少しだけ安堵する。

「やあ、久東錬次くん」

「!?」

 どこかで覚えのある男性の声。どこで聞いたのだろうか。思い出そうとするが、名を呼ばれたことへの緊張がそれを許さない。殴りつけるような鼓動が音になって聞こえる。喉がからからに乾いていた。

「君は知らないだろうが、私は君をよく知っている。怯えなくていい。そのままでいいから、私の話を聞いてはくれないだろうか。選択権は君にある」

「…………誰、なんですか」

 絞り出した声はか細く、衰弱しきった老人を思わせるものだった。しかし、男性はそれに対して答える。

「それは教えられない。ルールというヤツでね。私に出来るのはただ話をすることだけなんだ。いや、本来なら話をするのも許されないのかもしれないな。殊更君に関しては。それで、どうなんだい?」

「――わかった」

 そもそも断る気などない。この場に現れた時点で恐らく僕の知りたいことに関連のある人物であろうことはわかる。

 僕の返事に障子の向こう側にいる男が微かに笑ったような気配がした。

「そうか。では、手短に話すとしよう。時は金なりというしね」

 衣擦れの音がする。確かにそこには人がいるという証だった。微かな息遣いも聞こえる。だというのに、何故だろうか。そこには誰もいないように思えるのだ。

 そんな僕を知ってか知らずか、男は滔々と話し始めた。

「私は君の思っている通り、蟲に関する知識を持っている。欲ノ蟲、主ノ蟲、蟲床に、不老不死の秘密。君の知っているものよりも、いや、この世界の誰よりもと言った方がいいかもしれないが、私はこの出来事に関して詳しいと言える。その真相全てを私個人としては君に教えてしまいたいところだが、そうもいかない。世界はどうも私のことが嫌いなようでね」

「でも、僕に話があるってことは、別に身の上話をするってだけじゃないんですよね」

「ああ、その通りだよ。君の知らないであろうことをいくつか解消しようと思う。主ノ蟲、君の身体に何が起こっているのか」

「なんで、そんなこと知ってるんですか」

「すまない、敬語はやめてくれ。少々むず痒い。質問に答えるとすれば、それは答えられない。まあ、気にすることはないのだ。私のことは掲示板か何かとでも思ってくれればいい」

「……信用出来るか出来ないかが問題になる」

「今まで様々な情報に踊らされてきた君が言うのだから重く受け止めよう。気にするのも無理からぬことかもしれないな。しかし、安心してほしい。私は九字切八重子の知り合いだよ」

 八重子さんの知り合い、というのは確かに信用出来るかもしれない。あの人を知ることが出来るというのも普通ではない証拠であるわけだし、ここに居合わせたのも説明が付く。

 僕の事情を知っていたことも、この気配の理由も。

「どうかな」

「一応、信用するよ」

「そうか、よかったよ。では、話を続けよう。まずは君が気になっているであろうことから……」

「それはある程度、自分で考えたんだけど、やっぱりあの事故の時に僕が生き残りたいと願ったから……主ノ蟲の力で、その」

「ふむ、大体はその通りだ。君が死して死ねないのは君の願いに起因する。生き残るというのは死なないということだから、『死傷』は排除されたのだ。君は気付いていないだろうが、将来的に死の可能性があるものも排除の対象となる。例えば、死をもたらすであろう人間の排除、などね」

「人間の、排除?」

「ああ、そうだよ。逆に、生存の役に立つ人間を生存させることもある。君のために。最も自然な形でね」

「なんだよ、それ。そんな勝手な」

「しかし、変わらないとは思わないか。君がこのことを知らなければそれは偶然として処理される。生存も死亡も、それが何者かの意思によるものだなんて、誰も気づかない。非現実とはそういうものだよ。このことに関して君が気に病む必要は何一つとして存在しない。出来ることもね。吹く風の向きを変えることなんて出来ないだろう?」

 突然明かされた突飛な事実は僕の思考を鈍らせた。この話を信用するかどうかとというのは、宇宙人を信じるかというのと酷く似ている。今更だが。

 もう、既に常識は不在だ。それならば、これだけぶっ飛んだ非常識を信じるのがちょうどいいのかもしれない。

「僕の都合で人の生死が決められていた、か。死にたくなるね」

「……全くさ。ともかく、今は疑問も何も抱かずに聞いてほしい。感傷も後にしてくれ。君が知るべきことはまだあるはずだ」

「……わかったよ」

「では、話を戻すよ。と言っても、そろそろ、時間がなさそうだけどね」

「時間って」

「ああ、やめてくれ。説明するだけ無駄だ。とにかく話す」

 心なしか、男の声は苦しげだった。

「主ノ蟲には、代価が存在する。願いを叶える度に、何かを失う。失うことで、君は世界の常識からずれて行く。次第に、存在することが、難しくなる。いいか、君が使うことの出来る願いは、最後の一回だけだ。いいか、最後に何を願うのかはお前次第だ久東錬次。どれだけ見失っても、お前は忘れてはならない。彼女たちの願いを、お前の責任を」

「おい、大丈夫か?」

「欲に呑まれてはならない。目的を見失ってはいけない。時は近い――」

 唐突に声が途切れた。息遣いも聞こえない。葉擦れの音が微かに聞こえる。夢から覚めた後の様に、僕は茫然と消えた後のろうそくを眺めていた。

「…………って、あんた」

 飛び起き、服の下から紙束が投げ出されるのも構わずに、僕は障子の裏側を確認した。そこにはやはりというか、誰の姿もなかった。

 僕が話していたのは亡霊だったのか、はたまたそこには誰もいなかったのか、実は全ては僕の夢だったのか。

 外は仄かに明るかった。日が昇るほど、僕はここに座りこんでいたのだろうか。

 男の話は僕の疑問をいくらか解消したが、同時に問題も発生させた。

 クサビさんの話が脳裏をかすめた。僕のせいで篠本さんが死ぬ。今の話そのままではないか。恐らく、今の話のように世界がどうのという見方ではなかったかもしれないが、僕が原因となって篠本さんが死ぬとすれば、それはそういうことなのではないか。

 将来的な死の可能性の排除。僕の死を回避するための犠牲として。

 何が禁欲ノ蟲だ。欲望を叶えるなんて、欲ノ蟲よりそれらしいじゃないか。

 今まで僕の都合で人生を変えられた人々がいたのだろうか。それは、随分と、

「気持ち悪い、話だな」

 一つ、廊下の軋む音がした。僕が乗っているせいかとも思ったが、その音は規則的にこちらへと向かってきている。

 先ほどの事を思い出す。

 しかし、現れたのは僕をここに置いて行った張本人だった。

「お待たせしましたか、久東さん」

「……八重子さん。いや、そこまで待った気はしないよ」

「でしょうね、そういうものでしょう。答えは、得られましたか?」

「やるべきことは出来たよ。それが正しいかはわからないけど」

 答えを聞いた八重子さんはいつものように全てを見透かしたように、やはり笑った。

 その後、僕の手を取り歩き出す。その後、僕の予想通り空を飛ぶことになるのだが、その空は案外悪くなかった。空を飛ぶことに慣れて余裕が出来たのか、それともやることが決まったからなのかわからないけれど。

 雲の切れ間に見える青が、僕を励ましているように見えた。なんとも無責任なことだ。

 僕は気まずい空気の待つ我が家に、文字通り飛んで帰った。


どうも、桜谷です。今回も微妙に遅れてしまいました。申し訳ありません。

そして来月の更新ですが、恐らく休止することになると思われます。長ければ2月まで延びる可能性がございます。ご了承ください。

感想、意見等お待ちしております。

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