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蟲床フラストレーション  作者: 桜谷 卯月
第二章 睡ノ蟲
30/42

第二十七話 排除、異変


 目を開けると朝日が顔を撫でていた。

 シャワーを済ませた後にソファーでそのまま眠ってしまったらしい。人間、暗い環境だと何故か眠くなってしまうもののようだった。やはり、寝溜めなど存在しないらしい。

 気分は幾分かすっきりしていた。冷静になればこんなものか、我ながらなんとも感情の気候変動が激しいことだ、と若干自己嫌悪じみた感情が芽生えたものの、そこまで気にはならなかった。

「……なんと言うか、後でレンに礼を言っておいた方がいいのかな、これは」

 天井を仰ぎ見る。上から音は聞こえてこない……そもそも上から物音が聞こえてくるなんてことは滅多になかったけれど。

「…………鬱だ」

 呟いたところで気分が変わるわけでもなく、というか鬱だ、と言ってみたけれど鬱というものが良くわかっていない僕なわけだが、とにかく動いていないことが原因なのだと結論付けた。

 普段なら朝食はあまり凝ったものを作ろうとは思わないのだけれど、今日は特別だ。台所に立ち、食材を切ったり混ぜたりと忙しく動かすのは底々に効果がありそうに思う。 

「凝ったもの……と言っても朝だしな。そこまでがっつり用意するわけにもいかないし……和食一式に少し何か加える感じでいいかな」

 御浸し、味噌汁……と頭の中でメニューを浮かべていると、階段を下りる音が聞こえてくる。

 僕は思わず固まって、その人物の登場を待った。

「……おはようござい……なん、ですか?」

「お、おはよう」

「おはようごじゃっ、ございます……」

 珍しく言葉を噛んだな、などとどうでもいいことを考え……これにはあまり色々なことを考えないようにするという意図があったりするのだがそれは置いておいて。

「リクエスト、あるか」

「え? えっと……錬次の作るものならなんでも……」

 尻すぼみの要求には下ネタが含まれていない。いつもなら「子供でも」とか最後についていそうなものだ。

 それはそれで問題はあるのだけども。

 どうにも、今の僕にはいつも通りを激しく望む傾向があるらしかった。

 そのまま朝食が完成するまでテレビも点けず、ただ無言のまま、ソーセージを焼く音だけがリビングで唯一騒がしかった。

「さて」

 凝ったメニューと意気込んで出来た朝食は何故かいつもと同じような内容になってしまっていた。朝ということを考えると無茶は出来ない。

完成した朝食を運び始める。

朝食を運ぶ間、ちらちらとレンの様子を観察してみるも、どこかよそよそしい。喉につかえた言葉を吐き出そうか呑み込もうかといった様子だ。

 いっそのこと吐き出してしまえば、僕もこんなもやもやした気持ちでいなくとも済む。それがたとえ、僕にとってぶっちぎってマイナスの事柄だったとしても、今の粘性の高い泥沼よりはマシだろう。

 ただ、人間というのは音楽プレイヤーのようにボタンを押せば再生されるという風にはいかない。ちまちま朝食を摂りながら気長に待つ他はないだろう。

「いただきます」

「い、ただきます」

 少し遅れてレンも多少遠慮がちな声で呟くと、目の前のコーヒーを啜り始める。

 無言の朝食。外は昨日の雨を引きずることなくからっと晴れた晴天だというのに、心中曇天この上ない。口に含んだソーセージもどこか味気ない。というか油っぽい。

 気まずさからテレビを点けてみれば、いつも見ているニュースが流れだす。通り魔についての報道は終わってしまったのか、それとも今日はお休みなのか、野球やら流行のファッションやらと他愛もない話題を延々と続いていた。

 言いようのない不快感を感じた。まるで今まで積み上げてきたものを笑われたような。能天気に笑うニュースキャスターの顔が醜悪な化け物に見えた。

「錬次、その、どうかしましたか」

 不意にかけられた声に思わず掴んでいたソーセージを取り落としてしまう。それはテーブルを転がり、フローリングの上にぽとりと落ちた。

「あー……、いや、なんでもないよ」

「……そうですか」

「…………」

「…………」

 なるほど、ここで黙ると会話のタイミングが失われるらしい。それは嬉しいことではない。

「ごめん、やっぱ、あるよ。何があるのかと言われると困るけど」

「そうですか……」

 レンは立ち上がり、こちらへと歩み寄って来る。

 そして、僕の膝の上に腰をおろした。

 沈黙。膝の上の柔らかさと温もりといや、そんなことはどうでもいい。

「あの、レン?」

「いえ、あの、この方が落ち付いて聞けるかと……思わないですおかしいですねはいありがとうございました!」

 座って数秒で立ち上がろうとしたレンの手首を反射的に掴み、引き戻してしまう。その流れで何故か腰へと手を回す。

 自覚はなかったとは言い切れないけれど、僕は女性に触れることに関して遠慮がなさ過ぎるような気がしないでもない。

「~~~!」

 レンはパタパタと抵抗するように足を動かすが、抵抗というにはいささか動きとかそもそも動かす部分とかが適切ではないので、こちらとしては大して影響がない。

「まあ、落ち着こう」

「自分で座ったので何も言えませんが予想以上に恥ずかしいわけでして」

「珍しいな」

「なんだか私が恥じらいを知らない女みたいな感じになってるんですが気のせいですかね」

「些細なことだ」

「人によって些細の程度は違うと思うんですよ」

 文句を言いながらもレンは僕の腕の中に収まって大人しくしている。冷静になれば我ながら相当に大胆な事をしているものだとは思うのだけれど、自分からしてしまった手前今更恥ずかしいという理由でレンを解放するのもなんとなく違う気がするので、僕に出来ることと言えばレンの頭に顔をうずめてみたりするくらいのものだった。

 ほんのりと甘い、女の子特有の匂いと恐らく蟲床特有の匂い。嬉しいような切ないような。ただ、ほっとしているのは間違いない残念な自分がいた。

「あの……私昨日お風呂入ってないので、その」

「いい匂いだけど」

「そういう問題ではなくてですね! 汚いじゃないですか!」

「毎日風呂に入ってるのなんて日本人だけだって聞くけどな」

「日本人基準で言ってるわけですが!」

 頭を押さえたり、服の襟を掴んで顔を近付けてみたり、ぺたぺたと身体を触っていたりとレンは忙しなく動く。僕の膝上というポジションを動かないことにはその動作に大した意味はないと思うのだけれど。気が動転しているのか、はたまた意図的にそうしているのか。

 どちらにせよ、話し始めはこちらから。そういうことなのだろうか。

「なあ、知ってたか。綾は綾じゃなくて、更に蟲床だったらしい」

「……そうですか」

 忙しない動きはぴたりと停止する。そこまで驚いた反応のようには見えない。

「気付いていたかいなかったか、と言えばグレーでした。初めて会った時に、私に迷わず話しかけてきた時には怪しいとは思っていましたし。ただ、匂いが違ったので。あと、その、そうは思えなかったので」

「……まあ、思えばそうだ。レンと知り合いってのがおかしかったな」

 人の思い込みか、『綾』、睡郷の言っていた催眠術のようなもののせいか。いや、信用というのを一種の催眠術とみなすことも可能か。

「どうしようか。どうやら期限は三日らしい。だけど、僕には三日で気持ちを整理出来る気がしない。なあ、レン。どうしたらいいんだろう」

「そんなこと、聞かれても困ります。漫画やゲームならヒロインとのラブシーンを終えると唐突に悟ったような顔をして異様に早く決断するものですが、まさかそういうわけにはいかないでしょう?」

 レンは僕の方へ身体を預け、顔を見上げてくる。()間着(まき)の胸元が軽くはだけており、そこから白い肌とふくらみが覗く。視線を地面と水平に。

 更に誤魔化し効果を期待してコーヒーを啜る。だが、唇に冷たい一滴が触れた以外に僕を誤魔化してくれるものは存在しなかった。

 新しく淹れるべきか、このままカップを置くべきか、と考えるまでもなく、膝の上にちょこんと座る少女の存在があるために立ち上がることは諦めるほかない。

 仕方なくカップを置き、食器を重ねて――のところでレンに思い切りソファの方へと押し戻された。

「何か、露骨に誤魔化す意図を感じたんですが」

「そんなことはないと思う」

「もしかして揺れました? いいんですよ揺らいじゃっても! 私はいつでも準備出来てわき腹を突かないでください!」

「と、とにかく、どうしようかという話だ! 話!」

「む」

 とりあえず、鎮火には成功した模様。こういうやり取りをしている限り、いつも通りのレンのように見える。だんだん調子が出てきたのだろうか。

 断じて、この展開に持って行くようにしたわけではないのだが。

 しかし、キャンプでの出来事を思い返すと普段のこういった行動にも何か意味があるのかもしれないと思わせられる。普段は蟲床の影響を受けている振りをしているのだとか、衝動は抑えられないのだとか。

 いざそういう展開になった時、僕はどうするべきなのだろう。

 僕はレンの事を……嫌いではない。失った記憶とやらを取り戻すことが出来たら――この言い方だとまるで僕が忘れていることに非はないというように聞こえてしまうけれど、とにかく、その記憶があれば、僕はこの少女に友人としての好意を超えた感情を抱くことがあるのだろうか。

 しかし、そうだとして。

 欲望のままに動く人間の欲望をそのまま叶えてしまうことは、果たして正しいことなのか?

 もちろん、人は欲望なしには生きられないものだし、それは僕も例外ではない。お腹が空けばものを食べる。眠くなれば睡眠を取る。性欲に関しては排泄関連が当て嵌まる。

 だが強欲は違う。その欲求不満を満たしてしまえば、以降その人はそれと同等か、それ以上を求めるようになるだろう。

 有り体に言うのなら、「味を占める」のだ。

「……なあ、レン。唐突だけどさ」

「なんです?」

「お前はよく、僕に殺せって言うよな。どうしてなんだ」

「それは……錬次に迷惑をかけたくないから。危害を、加えたくないからです」

「具体的には欲ノ蟲の影響に抗いきれなくなったら、ってことだよな?」

「はい」

 迷いのない答え。静かな青い双眸が静かにこちらを見つめていた。

 それが何故か無性に、入っていないコーヒーを啜っているように、空しいモノのように思えた。

「死にたいのか、レン」

「死にたくはない、ですね」

「だったらなんで殺して欲しいなんて言うんだ」

「それは迷惑をかけるからですよ」

「死ねば、迷惑をかけないと思ってるのか?」

「…………なるべく、証拠などは、残さないように」

 苛立ちは形になる。徐々に、徐々に。棘を持った鉛の玉のような。

「なら」

 喉を突き刺しながら、血で粘つく肉の道を無理矢理にそれは這い出した。

「――――どうして、僕の前に現れたんだ?」

 その言葉を聞いた時のレンの顔を、なんと表現すればいいのだろうか。僕は人にこういう顔をさせた事がなかった。

 近い表現で、泣きそうだと思った。

「それは、私が、会いたかった、でも、ああ、そうか……そう、ですね」

 レンは僕から顔を逸らし、テーブルの上のカップを、積み上がった皿を、ニュースの終わったテレビ画面を、窓の外を。視線を一か所に落ち付けず、何かを探すように見回していた。

 僕はと言えば、胃の辺りにじんわりと重く熱い何かが溜まっているようで、堪らなく不快だった。

「あの、違う、でも」

 数日前にあんなことがあった後だ。この動揺の要因の一つになっているかもしれない。

 レンの息は次第に荒くなっていく。過呼吸になってしまいそうな、危うい雰囲気が僕を不安にさせる。

「好き、だったから」

 水滴のようなモノが布地に落ちるような音が一つ、二つと聞こえてくる。

「死にたくないんだろ?」

「錬次に迷惑がかかるなら死にます!」

「なら、もう死んでるのが正しい。死んでいないとその契約は果たされない。迷惑なんて最初に僕に関わった時点でかかってる」

「――っ」

 声のない悲鳴が聞こえた気がした。叫び出したいに違いない。彼女からしてみれば唐突過ぎる内面への攻撃。ある種の裏切り。濡れた紙の上から書いた文字のように不明瞭な言葉は必死にそれを振り払おうともがいている証拠だ。

 矛盾を指摘された時は辛い。これは僕だってわかる。

「レン、思ったんだけどさ。殺してほしいってのは我がままなんじゃないかな。それは蟲の影響じゃないだろうし、それの比較にはならないだろうけれど、欲求不満を晴らそうとしている点についてはなんら変わりないことだろう?」

「……私はあなたに危ない目にあってほしくないから」

「それもまた欲求。それだったらさっきから言っているように僕の前に現れたことは間違いだ。死ぬ気があるのなら、そもそも蟲床になった時点で死んでいてもよかった…………いや、死んでほしくはないけれど、僕が言いたいのはさ、どうして死ぬなんて簡単に言うのかってことなんだよ」

「だから……」

「蟲の欲望もレンの欲望も変わらない。だから、正直になってほしい。レンは何をしてほしいのか。何が望みなのか。……嘘はもうこりごりだからさ。腹に本心を呑み込んだまま後味悪く死なれちゃ、困る」

 レンは俯く。井戸の底を覗いて怯える子供の様。

 数分してようやく答えが返って来た。

「し」

「し?」

 この一文字から「死」を思い浮かべたのもつかの間、それは杞憂に終わる。

「幸せに、なりたいです。私」

 その答えを聞いた瞬間、今まで悩んでいたはずの何かがあっさり崩れさる音を聞いた気がした。




 答えを聞いた後、レンはスイッチが切れたように眠りについた。自己防衛が働いたのだろうか。ともあれ、それは僕にとっても都合の良いことだった。ちなみに起床から二時間も経っていない、二度寝もいいところだけれど。

 レンを部屋に寝かせ、リビングに戻り、水を一杯胃に流し込んだ。

「あー……何言ってんだ僕は」

 今思えば、睡郷の事を引きずっていたのではないかと思う。思うではない。完全に引きずっていた。

 いなくなるということに敏感になり過ぎていた。おかげでレンに二度目のダウンを強いることになってしまった。反省で吐き気すら催す。

 レンに散々吐き出した結果、僕の中では決心がついていた。

 三日後、幻夢川家に向かう。レンには黙っておくことはしないけれど、なるべく一人で行こうかと思う。なんとなくではあるが、彼女はそう望んでいる気がする。

 付き合いは長いようで短い。何もかもわかるかと言えば悲しいかな、いくらでも質問攻めに出来そうなほど、睡郷の事は知らない。

 彼女の事をもっと知りたい。

僕は知らない事だらけで、そのせいで知らぬうちに人を傷つけて、苛立たせるのだろうけれど、知らなければ話すことすらままならない。

無知であることを自覚することは重要なことだと昔の知識人もおっしゃっていたことなので、この考えはただの愚考ではないと思うのだが……と思いたい。

「ただ、知らない方がいいと突き放される可能性もなきにしもあらず、という」

 再び水を先ほどまで使っていたカップに注ぐ。ちゃぷちゃぷと揺れる水面がどうにも自分の心中を表わしているようで思わず苦笑する。レンに与えたダメージは僕の方に跳ね返って来ていた。胃の辺りが重い。

 だからというか、今この時に追い打ちをかけられると相当辛いモノがあるわけだけども、そんな希望は呼び鈴によって呆気なく瞬殺されてしまう。

 まさか、このタイミングで宅配便など平凡かつ脱力できる展開が待っているとも思えない。

 非常に残念なことに、微塵たりとも。

「はい、今出ます!」

 キッチンから声を張り上げて答えども、急かすようにチャイムは何度も押される。連打される。連打するような人、で脳内検索をかけてみるもヒットはなし。

「はい、はいはいはい!」

 急いで玄関へと駆け寄り、扉を開ける。

「どちら様……です…………篠本さん」

「よぉ」

 扉を開けたそこにはあからさまに敵意を剥きだした様子の、具体的には片手に何やら木の鞘に入った刃物のようなモノを思わせるブツを持った篠本さんが実にいい笑顔を浮かべて立っていた。

 銃刀法違反をシカトとは彼女らしい。ここらは最近物騒故に警察さんたちが仕事をしてくれているはずなのだが……。あれらの事件はさすがに自転車の捜索とはわけが違う。

 篠本さんの服装は昨日から変わっていない。昨日から今日の朝まで気絶というのは長すぎるという気がするし、昨日の夜辺りに気が付いて、そのままここまで来たというところだろうか。

 まさか徒歩なのか。

「やってくれたな、全く」

 小声で呟く。その表情におよそ冷静さというものは見受けられない。知恵を持つ獣が目の前で嗤っている。怒り心頭。

 本能が逃げろと身体に命令しているというのに、それ以上に篠本涼子という人間そのものへの思い入れが強いせいなのか、それは上手く働かない。

「いや、きっとどっかで信用してたんだよな。こいつは裏切ったりしない。そういう類の人間じゃないってさ……」

「篠本さん、あれは僕も知らないことだった。八重子さんとは知り合いだけどあんなのは聞いてなかった。だから、落ち着いてくれ」

 乾いた木の音が足元から聞こえた。そちらに目を向ける過程で、恐らく三十センチ程度であろう銀色の刀身が朝日を反射して僕の顔を照らした。

 朝、女の子に玄関先で睨まれながら刃物を抜かれているなどという稀有な状況、世界中探しても現在僕一人くらいだろう。警察、本当に仕事してくれ。

「篠本さん、誤解なんだよ。僕が仕組んだことじゃない」

「それをオレが判断するのに必要な情報は揃ってない。自分が冷静じゃねえのは自覚してるつもりだ。……はは、こう見えて小心者でね。疑わしきは抹殺の精神なんだ」

 要約すれば聞く耳持たぬ。もし彼氏彼女の痴話喧嘩でもこの状況は笑えないだろう。

「いや、痛かったよ。腹を殴られることなんて数年なかった。それも気絶レベルとなるとな……まあ、とりあえず――」

 目の前で風切る音。コンクリートの地面に黒い斑点が飛び散る。なんの冗談なのか、それはよく見れば濃い赤だ。僕や篠本さんの中を流れている、血液のような。

 変化は一瞬で訪れた。

「い――ったぁ……!?」

 左上から右下へ。肩口から胸の中心辺りにまで寒気のするような熱さと、痺れ。遅れてきたように痛み。地面に点を打っているのは僕と、僕の体液に濡れた凶器だった。

 切られた。

 遅れてそう理解した。

蟲床(オレたち)はお前の血には触れられない。普通の奴らだって他人の血液は感染症がどうだの危険だから触れないように、なんて言ってるくらいだしな。毒りんごだとわかって食べる白雪姫はいないだろうさ」

 ゆらりと赤く濡れた刃が振り上げられる。傷口を押さえた手があふれる血に濡れる。巧笑。息すら忘れてしまいそうな非現実感。

 二度目の刃が振り下ろされる。

「ぐぎっ」

 動物を捻りつぶしたような声が自分から洩れた。傷口を押さえていた右腕を切りつけられた。恐怖で腰が抜けた。気付けば篠本さんを見上げていた。

「でもさ、信用できないよなぁ? 一番死を感じられるって言ったら、やっぱり血が出ていないと。首を絞めたって感電させたっていい。けど、また起き上がってきそうな気がする」

 三度目の刃。右足が突き刺される。視界が一瞬真っ白になる。

「ぎっ……やめろ、おい、篠本さん……!」

 大丈夫、刃物で切られている人間にしてみれば冷静だ。普通は叫び狂ったり、逃げ惑ったりするものだ。僕は極めて冷静だ。

 だが、獣相手に人の理性など無意味なのではないか。例えば、ヒグマの前で平然を保っていたとして、野犬の群れに囲まれてそこら辺の石くれをみるような態度でいられたとして、それはなんの役に立つのだろう?

 レンは二階で寝たばかり。八重子さんは……もしかすると呼べばきてくれたりするのかもしれないが、この状況では篠本さんを殺すという判断を下すかもしれない。何より、そんなことをすれば篠本さんの信用は二度と得られない。

 今なお彼女と和解の道が残っているのか、その事に関しては完全に僕の希望的観測に基づくモノではあるが。

「殺す。何がなんでも殺す。何が噛んでるのかは知らないが、アレが危険な物だっていうのはわかった。利用されればオレには万に一つの勝ち目もないからな。今のうちに、脅威は潰しておく」

 刃物が僕の腹部に突きたてられ、血が噴き出す。それを篠本さんはとっさに飛びのいてかわした……ようだった。

 誰かの叫び声が聞こえた気がした。それが僕の声だと確認できたのは、血の出る勢いが収まり始めたころだった。

「あが、あ、ぐ、は、あ」

 息はロクに出来ていない。

 ……なんでだ。どうしてこうなったんだ。これは夢じゃないのか? 

 死ぬ。冗談ではなく死ぬ。八重子さん、主人公がどうのと言っていたような気がしたが、こんな死にざまの主人公がいるものか。

 目的を果たしていない。まだ、あの時の借りを返していない。

 死ねない。死んではいけない。

生は苦だと誰かが言っていた。誰だったか。興味本位で調べた何かだったような気もする。

もし、そうであるのなら。死ぬことすら欲望の一つじゃないか。

なんて贅沢だ。そんな贅沢は、あの頃に使い果たしたというのに。

「む、しょう、ない、無償ではいけない」

『―――い、―――に―――ね』

 とうとう、幻聴まで聞こえてきたようだ。これは走馬灯の一種か。なら、そろそろ危ないのかもしれない。

『絶対――、しあ――に――ね』

 女性の声。それにどこかで聞いたことがある。

 どこだったか。遠い昔だったか、それともつい最近だったのか。

『絶対、幸せになってね……兄さん』

 

ああ、思い出せない。何故、こうも手を伸ばしたくなるのだろう。



「…………」

 気が付けば目の前には天井が映っていた。

 天井へ伸ばされた手。血に濡れた僕の腕。視界は徐々に鮮明になって行く。

 人の気配はない……そんな武道家みたいなものではないけれど、さすがに篠本さんがいるかいないかくらいはわかるような気がした。

 気が済んだのだろうか? だとしたら、僕は助かったのか? それとも既に死んでいて、この思考は実は意識体だけで行っているとか。

 というのはさすがに伸ばした血まみれの右腕を見れば違うとわかる。

「助かった、のか」

 声はかすれていた。夢から覚めた後のようで、しかし、妙に目覚めは悪いように思える。

 身を起こし、当たりを見回す。凄惨な状況だった。辺り一帯が僕の血で汚れている。これは掃除しなければ、レンも安心して歩けないだろう。

 僕は立ち上がり、外を覗いて篠本さんがいるかを確認した後、鍵をかける。そして、雑巾を取るために風呂場へ向かい――――って、

「あれ?」

 身体はなんら変わることなくそこにある。なんの異常もなく、正常に運動出来ている。

 正常であるが故に異常に、機能している。

「ど、どういう……?」

 身体をあちこち触ったり、よじったりしてみるが、少しも痛むことはない。

 傷口を見てみれば、そこには何事もなかったかのように正常な皮膚が存在している。

 僕はしばらく茫然として洗面台の鏡の前に立ちつくしていた。

「…………はぁ?」

 場違いに間抜けな声が僕の口から洩れた。


毎月10日のペースに定めようと思います。今回は早々若干遅れましたが……。

感想お待ちしております。

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