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蟲床フラストレーション  作者: 桜谷 卯月
第二章 食ノ蟲
28/42

第二十五話 Call

 最初に案内された部屋に戻り、天井を見上げること数十分。僕の頭は活動を完全に放棄していた。滑車を回すハムスターはさすがに飽きたらしい。

「一、ニ、三……」

 天井の梁の数を数える。意味はない。趣味の漢字の書き取りよりも意味がない。意味がなさ過ぎてリラックス出来る。癒される。このまま畳になりたい。

 そうして来世は畳に転生しようなどと馬鹿なことを考えていると、静かに部屋の戸が開く。目を向けると一人の少女が目に入る。先ほど部屋の隅にいた子だ。次期蟲床候補だった子、のはずだ。僕の目と記憶力がよほど腐っていなければ。

「どうかしたのかい」

「……」

 声をかけても反応はない。聞こえていないということはないはずだが。

「あの?」

「……お兄さんは、私たちの味方なのかな」

 静かだが、力のある声。瞳には子供らしからぬ警戒の色が窺える。そこには篠本さんと似た威厳のようなものが感じられた。こんな子が教育テレビで出演していたらさぞかしお茶の間もシリアスムードてんこ盛りなことだろう。

 僕は無難な言葉をチョイスし、少女の気に触れぬように答える。

「敵、味方なんてはっきりと区切れないかな。中立とも少し違うけれど」

「どっちでもいいけど、涼子姉さまに危害を加えるようなら容赦しないから」

 露骨な敵意。篠本さんのように味方に引き入れようとする意志は感じられず、不安要素は一刻も早く排除しようとでも言うように睨みを利かせている。

 嫌われるようなことをした覚えはない。子供に特別嫌われるような体質もしていない。僕というよりも僕の立ち位置が嫌われているのだろう。

 ゴキブリのようにそれそのものではなく、野良犬のようにその性質故に。いや、野良犬も嫌いだって人は嫌いかもしれないが。

 とにかく、良性のままなのか、はたまた悪性に変わってしまうのかわからない腫瘍を目に見える位置に持っているようなものなのだ。それは気が立って当然である。

 無理矢理に納得しはしたものの、やはり小さな子供に嫌われるというのはいささか精神に来る。

「君は――」

「キョウ! 鏡と書いて鏡だよ。君なんて変に呼ばないで」

 変ではないと思うのだけれど、この少女からすればそれは耐えがたく変なことなのだろう。人それぞれ、価値観それぞれである。

「……鏡は、蟲床について、どう思うの?」

「気持ち悪いと思う」

「これはまたストレートに歯に衣着せぬ漠然とした感想だ」

 戸惑って妙な日本語が飛びだしていた。

「それで、気持ち悪いってことはやっぱり納得してないってことで良いんだよね?」

「当たり前でしょ? 不老不死なんて漫画でも流行らないと思うわ。どうせだったら甘酸っぱいラブコメディが私は好きよ」

「あ、そういうの読むんだね」

「それくらいの娯楽がないと、こんな山奥でやっていられないから」

 山奥という場所で勝手にイメージしていた禁欲生活のようなものはここにはないらしい。

「どうせだったら不老不死より大金持ちになりたいわ。一度盛大にお金を使ってみたいもの」

 少女は俗気にまみれていた。

「普段はどうやって過ごしているんだい」

「適当に他の兄妹の遊び相手になってやって、あとは部屋でごろごろしてるかなぁ。いいなあお姉様。恋したいなぁ」

 これは打ち解けたのだろうか。今では先ほど部屋の隅にいた寡黙な少女という印象は完全に霧散してしまっている。なんだか愚痴を聞かされている気分になって来た。質問しているのはこちらだが、気分的には酔っ払いの相手をしているのに近い気がする。そう、綾の相手をしている時と同じだ。

 ……そういえば、綾、どこに行ったんだろう。少し心配かもしれない。

「ねえ、聞いてる?」

「ああ、聞いてるよ」

 この年でこの絡み方、将来が少し心配である。

 鏡は退屈そうに足をパタパタと動かしながら話を再開する。普段もこんな調子なのだろうか。それとも、家族が見ていないからこんな調子なのだろうか。

「お兄さんは不老不死ってうらやましい?」

「え?」

 唐突の質問に驚く。虚をつかれたというべきか、すぐには返答が思い浮かばなかった。まさか日常生活についての話から唐突に不老不死などという単語が飛び出すなど誰か想像出来るのか。

どうやらその様子を少女は「やはり話を聞いていなかった」と捉えたらしく、呆れたようにため息を吐いた。

「もう」

「いや、ごめんね。不老不死か……正直、うらやましくはないかな。色々と面倒臭そうだ」

「面倒臭い、か。まあそうだよね。いきなりあなたは明日から世界の支配者です、とか言われても実感わかないように、そんな重いもの任されてもね」

 とうとう少女はその場に寝転がり、僕の目の前を転がって見せる。

「あーあ、どうしてこんな人生なんだろう。恵まれてないとは思っていないけど、面倒臭さでは世界にしてみれば上位だと思うんだよね。飢えてない、貧しくもない。でも、考えてみればこういう不思議な出来事ってのは時間を食うよね。だとしたら、私たちは時間的に飢餓を感じているのかもしれない。……まあ、私たちに限ったことじゃないんだろうけど」

 この子が何年生きているかはわからないが、少なくとも僕はこの子の言うように人生というものを考えたことはない。

当たり前に生きて、きっとそのうち死ぬのだろう。考えてもその程度だ。

それにしても、本当にこの子は外見と中身がちぐはぐだ。増せている、といえばいいのか。

「まあ、人には得られないすごいモノっていうのが必ずしも幸せに繋がるとは限らないしな。結局のところ、普通に生きているのが一番幸せだと僕は思うよ」

「本当に、その通りだよ。……なんで私、こんな所にいるんだろう? 運命ってヤツなのかな。神様ってのがいるのかどうかはわからないけど残酷だよね。私、前世で悪いことでもしたのかな」

「運命……、本当に、どうなってるんだろうな」

 鏡ほどではないが、僕とてこの奇妙な出来事にはほとほとウンザリしている。

 正義の味方が現れて、何もかもを全て解決してくれるのではないか、という期待はいつでも頭の隅にあるのだ。正直、八重子さんと知り合った時は正しく彼女こそソレなのではないか、と安心を覚えたりしたものだ。

 それらは全て、本人により否定されたわけだけれど。

 よくわからないが八重子さんは僕が主人公だと言った。

漫画のように、映画のように。この事態を解決出来るのは僕以外にないと。それが当たり前なのだとでも言うように。

悪い冗談だ。今まで幕の裏側だと思っていた場所が実は舞台のど真ん中だったような。スポットライトが当たって、僕が主人公で。僕が何かをなさなければ物語は終わらないのだ。

そこまで考え、首を片側に傾ける。小気味の良い音が鳴った。

「相変わらず、面倒臭いことに巻き込まれてるなぁ。むしろ中心にいるのか……」

「何言ってんの」

「いや、ひとり言。……そういえばさ、君は蟲床の候補だっていう話だけど、その、食ノ蟲を実際に見たことはあるのかな。寄生させるってことはやっぱり、身体に入るもんなのかな、とか思ったりしたんだけど」

「ううん、見たことないよ。寄生させられるその時まで、その姿を見ることは出来ない、とかなんとか。ハテナボックスみたいな感じかな~。それを見て気持ち悪いって思っちゃったら、やっぱり抵抗しちゃうだろうしね」

「ふむ」

 自分の左手を見る。主ノ蟲はどうやら気にならないサイズのようだけれど、胃や腸に寄生しているという食ノ蟲はどのくらいの大きさなのだろうか。この疑問の出所は昨日の感染者たちの姿を見たためだ。

 あれがもし、感染者だとするならば。最終的に蟲床は皆、あんな姿になってしまう、とか。だとしたら、それは僕も例外ではないのだろうか、とか。

 そうだ。今まで感染者を見て、ただ恐ろしいとか、おぞましいとか、そんな感想を抱いてきたわけだけれど。それは全て、まるで他人事のように僕の目には映っていたわけなのだけれど。

 僕だって、この左手の中に『蟲』を飼っているのだ。

 ある日突然触手が映え出すとか、体毛が急に虫じみてくるとか、目が複眼になるとか、触角が生えてくるとか。急に人間の身体から化け物に転じることは、絶対にないとは言い切れない。……こんなことがなければ、SFかと笑い飛ばしていたところだろう。

 そうして考え事に浸っていると、不意に部屋の戸が開けられる。そこでは正人がキョトンとした様子でこちらを見ていた。その手には菓子と二つのグラスに入ったお茶らしき飲み物が乗った盆が支えられているが、少し危なっかしく微妙に右側に傾いていた。

「……」

「うおっ」

 鏡が文字通り寝転がった状態から飛び起き、正人の横を駆け抜けてどこかへと行ってしまう。またもや正人はキョトンとそれを見送っていた。やはり盆が心配なので声をかけてやる。

「正人、盆が傾いてるぞ」

「お、おお。危ねえよな」

 正人は動揺したまま僕の目の前に盆を置く。とりあえず、安全は確保された。

「……どうしたんだ、妙な顔して」

「いや、意外だったもんだからさ。鏡、って名前は知ってるか?」

「まあ」

「そりゃすげえ。アイツ、人間が嫌いみたいな感じでさ。余所の人どころか家の中のヤツにも距離置いてて、基本人がいるところには寄りつかないんだよな。なんだ、お前。特有のフェロモンでも出てんのか? それとも実は光合成しててその周囲にいると頭がすっきりするとかか?」

「んなもんあるわけないだろうが。フェロモンはないし植物っぽい身体構造もしてない。僕の周囲は火気厳禁か」

 僕の言葉を聞き、正人は苦笑する。

「そんくらい珍しいってことだよ。この女たらし」

「黙れホモ」

「ホモじゃねぇっつの……うん、でも良かった。アイツも本当に人間嫌いってわけではないんだな」

 正人はまるで子の成長を嬉しがる親のような顔で目の前のグラスを一つとり、茶色の液体を口にする。それに倣うというわけではないが、なんとなく僕も液体を口に含む。想像した通り、麦茶である。ほろ苦さと共に清涼感が喉を下って行った。

「なあ、お前はどう考えてるんだ」

「……蟲床のことか?」

「まあ、不老不死とか、色々ひっくるめて」

「そうだなぁ」

 正人は何かを思い出しているのか、懐かしげに虚空を見つめながら麦茶を嚥下する。その表情からはまるで否定的な言葉が出てくるようには思えない。

「人によるよな、こういうの。人が求めていれば妥当だと思うし、別にどうでもいいならこれほど理不尽な仕打ちもない」

「そりゃそうだ」

「俺からしたらこの程度の認識だよ。別に自分がどうこうってわけじゃないからだろうな。一応、お嬢にはそれなりの感情を持っているつもりだけど、やっぱりどこか他人事なんだろう。映画の中の登場人物に感情移入してる感覚に近いかもしれない」

「随分と言うじゃないか。正人のクセに」

「ま、付き合いも長いからな。特権ってことでいいだろ……と、そういえばお前、どうするんだ? 今日中に戻るつもりだったりするのか」

 話題を逸らすというより、純粋にそのことに気が付いたように正人は尋ねる。

 僕としては一刻も早くレンの元に戻っておきたいところだ。昨日の出来事が気になる。あのままにしておけば知らぬ間に堤防を建設されかねない。腹を割って話し合う必要があるだろう。

「ああ、なるべくならそうしたいな」

 こっちに別にいてもいいけど、というニュアンスも含ませ、それでも帰りたいアピールは全開にして答える。正人は「そっか」とだけ返し、麦茶を啜った。

「……嫌だよな。ダチと争うってのはさ」

「当たり前だろ。僕はお前らと暴力的な意味で争う気はないからな。僕は現代のガンジーだ」

「何馬鹿なこと言ってんだよ……。まあ、それが理想なんだけどな。そうもいかないだろ。事がでかすぎるんだ、暴力でしか解決出来ない展開ってのはきっとやってくるぞ。人ってのはそう簡単に出来ちゃいない」

「それに関しちゃ同感だ」

 人の思惑ほど面倒臭いものはない。せめてデータとして目の前に表示されていればいいのだが、それはそれで自分にしてみればなかなか困るところである。

 わかりたいけれど、わかられるのは嫌だ。なんと自分勝手な考えか。というか、なんと人間とは自分勝手な生き物なのか。

 それゆえに、とても面倒だ。もっと単純だったら良かったのに。機械とまでは行かないまでも。

「もし、俺と敵対することになったとして、お前ってなんか格闘技とかやってたっけ」

「やってないよ。正人をぶちのめす時だけ隠された力を解放、なんて展開があれば良いんだけどな。生憎そんな少年漫画スペックじゃないこの身体だよ」

「そっか……、なら、そん時は刀使わないでやるよ」

「逆に使うつもりだったのかよ……、いや、それより、なるべくなら争いたくはないんだがな。殴るのは良いけど殴られるのは痛いし」

「おい」

「本音だよ」

「そこは冗談だろ!?」

 麦茶を噴き出さんばかりの勢いで正人がツッコミを入れると、不意にどこか、はっとしたような顔をする。

「? どうした?」

「いや、なんかさ、こういうやり取りしてるとちょっと前を思い出すなぁ、とか思ったんだけど……俺たち、何か忘れている気がしないか?」

「忘れてる? なんだそりゃ。記憶操作か」

「真面目な話だよ。具体的には、そう、俺たちってさ、二人でつるんでたんだっけか?」

「え、そりゃあそうだ…………ん?」

 言われてみれば確かに、正人以外の人と会話をしていたような記憶があるような、ないような。ただ、夢の中のことのように曖昧で、思い出そうとしても明確に像が浮かんでこない。名前など、当然浮かんで来るはずもない。

 むしろ、思い返そうとすると余計靄のようなものに包まれていくような気さえする。

 僕が黙り込んだのを見て、正人は唸る。

「思い出せないか」

「……そもそも、いたのか?」

「それはわからないんだが」

「いもしない人を思い出せるはずもない。もしかしたらいたかもしれないけれど、正直思い当たる人がいない」 

「いない、か。お前が言うならそうなのかもな」

「なんだよそれ」

「なんとなくだ」

 そんな妙な信頼を寄せられる覚えはない。どちらかと言えば僕は曖昧な情報を誰かに訊いて教えてもらうタイプの人間だ。自分が一番信用ならない。

「女か男かくらいわからないのか?」

 僕が尋ねると正人は特に考えるでもなく、「わかんね」と即答する。考えるのが面倒くさかったから、というよりそんなことはとっくの昔に考え終えているということだろう。正人の顔には諦めの色が見えた。

「別にそこまで気になるわけでもないんだ。昨日の夕食が思い出せないみたいな、そういうちょっとしたもやもやというかな。錬次は俺より記憶力いいからもしかしたら、とか思ったんだよ。それだけ。この話はもういいだろ」

 半ば強引に話を切ると、正人はグラスを盆に置き、急に立ち上がる。そのまま腰に手を当て、背中を反らせて呻く。

「さて、そろそろお嬢との話も再開するだろ。少し休んどけ」

「居眠りしない程度には休んどくさ」

 軽口をたたくと、正人はそれに笑みだけ返し、部屋から姿を消した。

 さて、休めと言われたものの、これ以上の休息の仕方は思いつかない。寝るという選択肢は時間的に排除され、かといってただじっとしているのも逆に疲れる。いや、暴れたいという意味でもないのだが。

 結果として僕の行動は一つに絞られた。不意に浮上した『いたかもしれない一人』について。

 考え事というのは一応体力を使うものだけれど、人によっては娯楽の一つにもなり得る。読書やゲームと同じような、趣味の域に達する者もいるだろう。僕はそこまでではないが、思考を巡らすという行為自体は嫌いではない。休むことの中に趣味に時間を裂くという項目が存在しているのなら、恐らく僕は間違いなく休みまくっているに違いない。

 そんなことはさておきである。

 ぼやけてはいるものの、確かに僕は少し前まで。正確にはレンと知り合うくらいまで、だろうか。誰かと親しくしていた記憶はないでもない。何せ友人が少ないのだ。悲しいことではあるのだが、このことに限っては少ない友人を印象的に覚えているという点で良かった、と言えなくもないだろう。うん、悲しくなんかないぞ。

 ゆっくり瞳を閉じる。網膜に焼きついた映像を探してみても、その姿は一向に見えてこない。――思い出を振り返るには早過ぎる。それが平凡であればある程、優先順位はどんどん下がる。

 今は一応必要なことなのだが……うむ、全然ダメだ。あとはこれが蟲床とは無関係であることを願うばかりだ。

「おい」

 ちょうどその時、戸が開く。そこには珍しく焦りの表情を浮かべた篠本さんが立っていた。

「何か、あったのか?」

「何かも何もない、襲撃だ。全く、こんな昼間から!」

「襲撃……? 何も音はしなかったぞ?」

 昨日のように感染者が襲ってきたのだとすれば、本能のままに行動する彼らに隠密行動は出来ないだろう。だというのに、ということは……。

「感染者じゃないんだろうよ」

「なんだろうな……いや、でも人間が狙うってどういうことだよ。狙われる理由なんて蟲床以外にはないよな? 恨みを買うようなことをしていなければ」

「馬鹿かお前。蟲床しかあり得ないだろうが。さっき話した研究者ってのはあくまで可能性の話だからな、そう考えるのが一番妥当だ。まあ襲撃の時間帯が意味不明だが。どうして昨日の夜じゃなかったんだか……とにかく、だ。この家を離れるか、防衛するかって状況だ。わかるか」

「ああ、大体把握かな」

 ここは危ないらしいということはわかりたくないことだがわかってしまった。

 そうなると、この家の人はどうなったのだろうか。正人はちょっとやそっとじゃ死なないような感じはするが、あの子は、大丈夫だろうか。

「そういえば、どうして襲撃ってわかったんだ?」

「家の奴らが根こそぎ倒れてんだから嫌でもわかる」

「は? 倒れてるって、死んで」

「死んでない、寝ているというような印象を受ける。詳しく確認はしていないがな。睡ノ蟲かもしれん」

「蟲って、感染させられたのか!?」

「まあ、症状は食ノ蟲ほど厄介ではない。昏睡状態が続くくらいだ。敵にはならないから安心しろ。というかお前がいればそこら辺の心配はないだろうしな。問題は敵が見えないってことなんだが」

 苛立つように篠本さんは人差し指と親指を何度も擦り合わせる。昨日に続いて今日だ、無理はない。

 それにしても、どうしてこのタイミングで? まさか僕がここにいることが知られたのか? だとしたら、学校の関係者の中に睡ノ蟲の蟲床が?

「昨日のアレも関係してるのか?」

「さあな。詳しくはわからん。今わかることはオレたちに逃げ場はないってコトだ。車は運転手がやられてるから使えない、歩いて行くにも人の目に入る場所なんてこの近辺にはない。出来ることはなるべく固まって戦力を集めておくこと、か」

「正人は?」

「見回りだな。正直失敗だったかもしれないが」

 篠本さんは両手をひらひらと振る。何も持っていない、戦う術を持たないということだろう。加えて篠本さんは蟲床だ。相手が蟲床の場合、迂闊に近付くことは出来ない。微妙な立場にいる僕だが、この場合は知り合いである篠本さんを守るのに徹しなければいけないだろう。

 つまり、その、なんだ。肉盾である。

「久東シールドってか」

「ん? どうした」

「なんでもない……そうだ、八重子さんはまだいたりするかな。出来れば助力を申し出たいところだけど」

 その名前を出したところで、篠本さんが顔をしかめる。まだ完全に信用していない、といった様子だ。八重子さんが来てからあの襲撃があり、そして今も、と捉えることも出来る。無理もないのかもしれない。

 夏の暑さが愛おしい。緊張の中、指先はひやりと冷たい。

「閉じ籠もるにしても何をするか。僕を戦力に数えるのはやめといた方が良いぞ」

「元からそのつもりだ。まあ、戦力も何も相手がまともな方法で戦っていない可能性の方が高いしな。ぶっちゃけてしまえば打つ手なしってやつだ。参ったよ」

 困った様子を微塵も感じさせない獰猛な笑みを浮かべ、篠本さんは戸の方を睨みつける。そういう表情をされると余計な期待をしてしまうわけだけれど……諦めた方がいいのだろう。頼もしい限りである。

 日はまだ高い。闇に紛れての襲撃を受けるなどという状況にはならないだろうが、正面切って押しかけてくる敵というのも恐ろしいものだ。小細工なしに制圧出来るのか、最初から争う気はないかのどちらかになる。この場合前者の方が濃厚だろう。笑えない話である。

「ふむ、どうにもならないな」

「どうにかするしかないだろうが。とりあえず―――ん?」

「ありゃっ」

 篠本さんが視線を向けた方向から声が聞こえた。聞き覚えのある声。というか、八重子さんだった。このタイミングは、まずい。

「お二人さん、ご無事でしたか~。いや、何がどうなっているのやら」

「白々しい限りだな。九字切、といったかな? アンタには今襲撃の疑いがかかっているわけだが」

 篠本さんの容赦のない一言に八重子さんは陽気な態度で返答する。

「いやいやいや、無理ですよこんな状況」

「さて、どうだかな。ウチのクサビを倒したアンタがここを制圧するのに苦労はないと思うんだが」

「ああ、私が言ったのは『制圧する』という意味ではなくて、『こんな静かに』という意味ですよ? 殺していいなら一瞬ですよ~」

「……」

 胃が痛い。胃が痛い。これは冷や汗モノだ。素なのか何か意図があってそんな言い方をしたのかはわからないが、自分をあからさまに疑ってる相手に対して適当な対応だとは思わない。というか挑発にしか聞こえない。

 篠本さんは冷ややかな無表情を張りつかせたままその話を聞いていた。下手な怪談より恐ろしい。納涼の季節は終わっていないが、現実の人間が一番怖い系のホラーはなかなか心臓に悪いので遠慮したい。

「やめてくださいよ、怖いじゃないですか~」

 へらへらと笑う八重子さんは篠本さんの威圧を全く意に介していないようだった。ハンチング帽の先を指でつまみながら僕の所へふらりと歩み寄って来る。

「いや~大変なことになりましたね久東さん。あ、久東さんにとっては既に大変なことの最中でしたね。これはもうイベントのドミノ倒しと申しましょうかなんと言うかご愁傷様です」

「心配してるのか馬鹿にしてるのかはっきりしてくれ」

「馬鹿にするなんてとんでもない! でもおいしいじゃないですかその巻き込まれ体質ってヤツですか? いやあ、若い頃の私を思い出しま……私は若いですよ?」

 どうでもいいところを強調されてもどう反応していいか困る。確かに見た目は若いけれど、完全に幼女とかそういうことはないので俗に言うロリババアというモノには属さないだろう。まあ八重子さんなら仕方ない、というのが考えることをリリースした僕の頭が導き出した判断だった。これは酷い。

「そんなことはともかく、八重子さん。ここに来るまでに誰か見たりは?」

「はて、不審者さんはいませんでしたがね。皆さんお疲れのご様子でぐっすり、ってのしか見てませんが」

「そっか」

 会話の途切れ目に篠本さんが、おい、と声をかける。対象は八重子さんで、当然穏便な色なんて感じられない。そんな視線を向けられた八重子さんだが、「え、私?」みたいな顔をしている。

「九字切とやら、先ほどまでどこにいたんだ?」

「そこら辺に」

「アリバイとしちゃ最低だな」

「刑事さんか探偵さんごっこですか? まあ確かに私がやっていないと証明出来る人は私以外に存在しませんねぇ。……そんなに殺気立った目で見ないでくださいよ~」

「錬次、そいつを信用しすぎだ。今のところ、犯人候補としてはコイツが濃厚だ」

「って、言われてもな」

 もし八重子さんが犯人だったらこの状況、既にどうしようもない気がするのでなるべくならその可能性は捨て去りたいところだ。

 八重子さんは肩をすくめてため息を吐いた。

「ここまで疑われるのも結構面倒臭いですね。私は犯人じゃないんですが」

「信用出来るわけがない。胡散臭い健康食品の歌い文句の方がまだ信じられるよ」

「ですからね――」

 このままではこの状況は一向に変わらない。何かアクションを起こさねばならないだろう。何か提案をしなければ。

 そう考えた瞬間だった。

「――私は犯人と言うより、お助けキャラみたいな感じなんですよ」

「え?」

 八重子さんが僕の傍から消えた。いや、消えたという発言は適当ではないのだが、僕の目にはそう見えた。目にも留らぬ速さ、というやつだ。

 八重子さんは篠本さんの前に立っていた。右の拳を篠本さんの腹部に当てるようにして。そう、映画や漫画でよく見たことがある人を気絶させるための動作。そう簡単には出来ないことだ、というのは本か何かで読んだものだが、

「く、そが……!」

 やはりというかなんというのか。篠本さんの両手がだらりと下がり、八重子さんの方へもたれかかる。そんな彼女の身体を慎重に畳の上に寝かせると、八重子さんはさて、と肩を回しながら僕に向き直る。

「……えーっと?」

「ん? ああ、勘違いしないでくださいね。別に殺そうってわけじゃないんですよ。これも依頼の範囲内でしてね。ちょっと先ほど連絡が入ったので久東さんを連れて行かねばならんのですよ」

 あっけらかんとそんなことを言う。言われても困る。僕としてはこの状況の説明が欲しい。

「なんで?」

「うえ? なんでって言われましても……私が連れ出そうとすればこの人たちに確実に止められていたでしょうしね。面倒だったので。ああ、先ほど言いましたが本当に殺しちゃいないですよ? 『こんな静かに』制圧出来たのは確実に私だけの力ではありませんし」

 言いつつ八重子さんは懐から白い布切れを一枚取り出す。濡れているようだ。

「もしかして、薬物?」

「まあ、詳しくは知りませんがそんな感じなんでしょう。なんか私には効かなかったんですけどね」

「嗅いだのか」

「つい」

 さすがとしか言いようがない。……それよりも。

「今の言い方だと僕を殺すとか、そういう話じゃないんだよな」

「当たり前ですよ。なんですかその途中仲間になる強キャラが旅の途中で離脱してラスボスになるみたいな」

「それが実は一番怖いんだけどな」

 なんでだろうか。この事態になっても案外平常心だ。結構驚いているはずなのだけれど。まるで、頭はこうなることを知っていたかのようだ。

 倒れ崩れる篠本さんを見ても冷静にああ、どこかに寝かせてやらないと、等と考えているのだから僕の慣れというのも大したものである。自称プチ未来予知が特技だというのもこれはあながち間違ってもいないのでは、と……これは何度か思っているんだけど。

 ここまで来ると、あってほしくないと思った瞬間実現してしまうのでは、と思えてくる。思いついた瞬間、それはこの先起こる未来を映した風景かもしれないのである。そして、それはなるようにしかならないという。ゲームと同じで、あらかじめ決められたルートをなぞって進んでいくしかないのである。

 ああ、ぞっとする。

 とにもかくにも。

 この感覚に従うのなら、なんとなく八重子さんは敵ではない……っぽい、ような気がする。だからこの状態で何も焦ることはなくて、やはり優先するのは篠本さんの寝床くらいのものであって。

 …………? なんだか僕、大変なことになってないか? 

「もしもし、久東さん?」

「はい?」

「ああ、良かった。急に虚空見つめて固まっちゃうから困りましたよ。もしかして今まで私は久東さんの銅像と喋っていたんじゃないかと思えてくるくらいでした」

「そんな大袈裟な……いや、我ながら色々と大変なことに、と反省していたところでございます。で、これからはどうするって?」

「これから話しますよ。って言っても帰宅するだけなんですけどね。ちょっと話したいことがあるそうでして」

「誰が? そんな人の家を制圧してまで連れ出されて話をするような知り合いはいない……こともないけど、少ないだろうし」

「それは後々ですよ。こちらから積極的に動くのはちょっとまずいので、まあ本人から聞いちゃってください。心配しなくとも、取って食うような人間じゃないですよ」

「実は後半部分切り取って人間じゃないってことは」

「いやいやないですないです。信用してくださいよ~」

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「さて、向かうしかないんだよな。だったらこの家の人たちをきっちり寝かせて……そういえば正人とかクサビさんは? それも落としたのか?」

 八重子さんは親指を立てて答える。

「クサビちゃんは口移しで薬を直接投与、正人さん、でしたっけ? は腹パン一発で落としました!」

 うん、なんというか、そう。扱いの差である。

 屋敷の人たちをあらかた丁寧に寝かせた後、篠本家を出て伸びを一つ。濃厚な植物の香りが鼻腔内を満たす。

 正人は腹を押さえてうつぶせに倒れており、クサビさんは口の端から唾液を流し、まるで毒物を飲まされたような様子で倒れていた。改めて確認を取っても薬は同じ、という話だったので、よっぽど抵抗したのだろう。

「で、どうするんだよ。車ないし、歩いて行くのか? 学校にも話さないとダメだろうし」

「ああ、学校の方には話が通ってます。で、足はちゃんとありますよ」

 そう言って八重子さんは僕の目の前に背を向けてしゃがみ込む。どう見ても背中に乗れ、と言われているようだった。

 普通逆なのでは、とこれまた普通なら思うのだが、どうにも自然。ああ、その手があったかと納得すらしてしまった。

 素直に八重子さんの首元に手を回し……これにはさすがに恥ずかしさを感じずにはいられなかったが、意識していなかったところでちょっと良い匂いがしたりして八重子さんも一応女の子だったと思ったりしてしまったが、それはともかく彼女の背に身を預ける。

「一応変なところ触らないでくださいね。別に胸を揉まれることなんかに妙な感情を持ったりしませんが、くすぐったいので落としちゃうかもしれません」

「頼まれても触らないから安心してくれ」

「それはちょっと失礼じゃないです? 何もしてない時ならいつでもオーケーですよ? 人としての印象がどうこうなるのに関しては私に責任は持てませんが」

「触らないよ……急ぐんじゃないのか」

「ま、そうですね。しっかりつかまっていてください」

 そう言うと八重子さんは身をかがめる。じゃり、と土を踏みしめる音。次の瞬間、ぐん、と重力が増加する。

「うおあっ!?」

 風圧。とっさに目を閉じたので何が起こったのかはわからない、などということはなく、何が起きたのかは大体わかった。

 飛んでいる。

 宙を飛んでいる。それも、もの凄いスピードで。

 いつの間に飛行機に乗ったんだ、ととぼけてみたいところではあるが、両手には、腕の中には、鼻先をくすぐるその髪は、まぎれもなく人間の女性のものであると、僕の脳みそは認識している。実際その通りである。

 どこのドッキリ人間だ、とツッコミを入れようとしたところで、実際にビックリ人間なので面白味もない。

 それにしても。人がなんの機械の手も借りずに空を飛ぶ……いや、飛ぶというより跳んでいるのだろうけれど、これだけしでかしておいてどうして人の形をしているのか、と考えてしまうのは僕だけなのだろうか。



 無事、人生初の純粋な人力飛行を終え、どこか懐かしいような気もする我が家に帰宅。離れていたのは一日と半日程度だというのに、それだけ濃密だったということだろうか。

 道中薄眼を開けて実際に景色が流れて行くのを見て少し酔ってしまった感があり、少し危なげな足取りでリビングまで辿り着く。

 やけに静かである。

 それもそのはずだ。ここ最近は家で一人になることなどなかった。静かに感じるのは、今日ここにいるのが僕一人だからで……。

「八重子さん?」

 振り返っても彼女の姿はなかった。そういえば、家に入って来たのを確認していない。どこかに用事でもあったのだろうか……いや、その用事があったから僕をここに連れ戻したのではないのか。

「どうなってんだ……っと」

 ソファに腰掛けると、疲れが柔らかい感触に染みだしていくような気がした。

 レンは、大丈夫だろうか。そうだ、日課をこなさなければいけない。どうにかしてテントに戻らなくては。あとは、そう、話を。話を嫌になるまでしなくては。聞きたいことが多い。あとは、あとは。

 まぶたを開けていられない。一応眠ったはずだが、不十分だったのか。

 暗幕が下りてくる。静かに、眠りに落ちる。

 と、いうところでまるで嫌がらせのようなタイミングで固定電話の電子音が鳴り響いた。

「…………」

 無視しようかとも考えた。だが、このタイミングでの電話というのはどことなく誰かの意図を感じなくもない。

 何故わかったのかとか怖い想像はしないでおいて。

「……はい」

 結局着信音が三巡したあたりで受話器を取った。我ながら不満気な声が洩れたと思うのだが、これは相手方に気付かれていないことを祈るばかりである。

『やっほー、お兄ちゃん? 元気してる~?』

 陽気な声が受話器から飛び出す。一瞬でその心配はないという判決が下った。むしろ気付いてほしいという願望が生まれた。

「……(こと)か、どうした」

『うはー、淡白な反応! 泣くよ? 泣いてもいいの? 大洪水よ?』

 久東理。兄と呼ばれているからといって僕の妹というわけではなく、いとこの一人である。……妹が死んでから妹のように思っているのは確かだが。

「わかった、泣くな。用件を言え用件を」

『私の声が聞けて嬉しい?』

「ああ、嬉しいよ嬉しい」

『まあ、そんな心底どうでもいいって感じのお兄ちゃんの声を聞くためにかけたわけだけど』

「切るぞ?」

『ちょっと待って! 今用件考えるから!』

「それって順序逆だよな?」

 誤魔化すように笑う理。だが、まあ、気分が少し明るい方に傾いたのは確かだ。その点に関してはこの馬鹿従妹に感謝する他ない

「そういえば、綾もこんなノリだっけか」

『は!? お兄ちゃん、ちょっと。他の女の話!?』

「いや、いとこだろ」

『知らないし! いとこ多いからって勝手に捏造しないでくれる? 私の頭はごまかせません! ってかそれお兄ちゃんのお母さんじゃん?』

「は? お前こそ何言って――」


……………………母さんの名前?


『お兄ちゃん、本当に大丈夫? ……もしかしてまだ引きずってたり、して、る?』

「……いや、……待て、……違うだろう」

 母さんの名前。母さんの名前は? 父さんは? 妹は? 待て、待て待て待て待て。

 何故、覚えていない。

『お兄ちゃん?』

「ダメだ、覚えてない。あり得ない。なんでだ? どうして思い出せない? どうして気が付かなかった?」

 レンのことを覚えていないという時点で気が付いてもよかった。いや、気が付くべきだった。僕の記憶が欠落していることに。

 だとしたら、どういうことになる? 僕はあの事故にあって、記憶を一部失ったということなのか? 家族の存在を知っていながらその名前を覚えていないなんて、そんなこと。

『お兄ちゃん!』

「あ、ああ、ごめん。少し、取り乱した」

『いい? 久東綾はお兄ちゃんのお母さん。いとこじゃない。お父さんは久東栄(えい)()。妹は久東結果(ゆいか)ちゃん。しっかりしてよ! 確かにショッキングだったけど、もう立ち直ったって言ってたじゃん! さすがに忘れちゃうのはどうかと思いますよ私は!』

 結構本気で怒っているらしい。彼女はいつだってふらふらと煙のように曖昧な生き方をしていて、説教というモノが大嫌いだ。人にするのもされるのも。

 それほどのことを口走ったという自覚はある。怒られるのも、当然だ。

「ごめん」

『あう、いや、あ~、謝られても困るというかなんと言うか、純粋に心配だよ。ここ最近普通だったし、もう何も気にしてないと思ってたもんだからさ。うん、ちょっとびっくりしたって言うか……なんか怒ってごめんなさい』

「理は悪くないよ。うん……ごめんな、本当に。落ち着いたら、またかけ直すよ」

『え、ちょっとお兄ちゃ――』

 強引に通話を切る。冷静にならなければいけない。こうして話をしていれば、頭はただ混乱して行くだけのように思えた。

 心臓の鼓動が早い。焦りか、恐怖か、はたまたこれは期待の類か。僕の口元は自然と笑みの形を作っていた。

「は、はは――」

 声に出して笑うというのはどうにも狂気じみていると常々思っていた。だから、今日この時の僕はそうするのに相応しいのかもしれない。

 だが、笑い声はため息に埋もれて消える。代わりに呻くような、自分の声とは思えない、暗い声が喉奥から洩れた。

 いっそ狂ってしまえば楽なんだろうか。自殺願望にも見たマイナス向きの欲求だ。こういった願望に付きものなのは、叶えられた結果、その人は何一つ得られないという点で共通している。結果が同じならば、先送りにしたところでいずれ当たるのだから。

 狂っても中途半端な理性は確実に残っている。自殺も死んだからといって苦悩から解放されるという保証は生者には不可能だ。

 向き合え。

 思考停止は時間を食らう虫だ。

「はあ……ああ、くそっ!」

 立ち上がり、風呂場にかけ込み、服は脱がずに思い切り蛇口を捻る。即座に降り注ぐ冷水を思い切り頭から被る。熱せられた頭が強制的に冷却されて行く。……冷たい。冗談抜きにかなり冷たい。あと、服を着たまま液体を被るというのはなかなかに気持ち悪い。これはやめておけば良かったと後悔。

 けれど、ちょうどいい。雑念が入ったということは余裕が出来たということだ。マイナス過ぎる思考よりも無益な思考の方がまだマシだ。

 鏡を見ればずぶ濡れになった僕の姿が映っている。気分としては実に相応しい姿だ。

「水も滴るいい男ってヤツですか? 久東さん、何やってんです?」

 ついでに、呆れ顔の八重子さんも僕の背後に映っていた。もう彼女について何も驚くまい。

「…………知ってたのか?」

「はい?」

「僕の記憶のことだ」

「ああ……記憶、記憶ですか。いえ、穴があることは知ってましたが、何を失っているかまでは知りませんでしたよ。まあ、大体予測は付いていましたが」

「そうか。それで、今までどこに行ってたんだ?」

「聞かないんですね、話。まあ、今までは人を迎えに行っていたんですよ」

「人? レンか?」

「あはは、気がかりなのはわかりますけど、残念ながら彼女じゃないですよ~」

 八重子さんはひらひらと顔の前で手を振る。

「まあまあリビングまで足を運んでくださいな。すぐにわかりますよ。一目見るだけです」

「そりゃそうだよな。……じゃあ、行くよ」

「まずは髪拭きましょうね」

 バスタオルが顔に覆いかぶさる。いつも嗅いでいるはずの匂いのはずだが、どことなく優しく、肌触りは包み込むように柔らかい。いっそのことこの感触に吸い込まれてしまいたい。

 しかし、そうもしていられない。ある程度水分を拭き取り、上着を脱ぎ捨てる。ズボンに関してはそこまで濡れてもいないから、まあいいだろう。

「よし、行こうか」

「上の服はいいんです?」

「バスタオルを羽織るよ。というか、たぶんその人っていうのは案外身近な人なんじゃないか? ……そんな予感がするんだけど」

 僕の問いに返されたのは曖昧な笑み。どことなく肯定している風に感じる。

 その後、案内、というのもおかしな話ではあるので、八重子さんが先導する形で僕はリビングに足を踏み入れた。

 ロクな結果が待っているはずはないと、確信めいた予感を胸に抱いて。


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