第二十四話 可能性
目が覚めたのは明るい和室の中だった。隣では何やら楽しげな声が聞こえてくる。昨日のシリアスはどこへやら。
「クサビさ~ん、やっぱ柔らかくていい匂いしますね~」
「気持ち悪いです」
「うえ……八重子ちゃん悲しいんですが……」
八重子さんとクサビさんがじゃれ合っていた。いや、どうやら楽しげ勢力ワンサイドゲームのご様子。身を起こすとまだ寝不足なのか、胸の辺りに吐き気のようなものを覚えた。どうせならあの異常事態の時にこの常識的反応が来てほしかったものだが。
朝日がそれに拍車をかける。
「さすがにあれだけ夜更かしすれば昼まで寝てしまうのも致し方ないですねぇ」
「昼? もうそんな時間なのか」
「十二時は過ぎましたよ。昼食はまだですが」
そう言いながらクサビさんに抱きつくようにのしかかる八重子さん。クサビさんは至極鬱陶しそうにそれをシカトしている。
そうか、朝日ではない。確かに昨日、というより今日は五時くらいまで拘束されていて、何故か僕は八重子さんの誤解を解くという目的の元に交渉をしていたんだったか。起床時間がずれ込むわけだ。
それにしても、レンと水上さんは大丈夫だろうか。僕や篠本さんがいなくなったことで騒ぎになったりはしていないだろうか。考えれば考えるだけ胃に重りが詰まって行くようだ。中には何も入っていないというのに。
そう考えたところで、僕の腹からは情けない音が洩れた。
「……ご飯にする。今持ってくる」
クサビさんがぶっきらぼうにそう言うと、邪魔、と八重子さんは無理矢理引きはがされ、僕の目の前に転がって来る。お世話人はそそくさと、厄介者の復活を待たずに部屋を出て行った。
「クサビちゃん、そんなに邪険にしなくてもいいと思うんですがね……」
「いや、僕に言われても困るんだけどさ……八重子さんって、あの人と知り合いなんだ」
「ああ、まあ……そうですね。知り合いというか、知り合いだったというか。そういう関係になることを選んだのは私自身なので別に後悔をしているわけではないのですが、いやはや、ここまで反応が違うと戸惑うものはあるものですねぇ」
じたばたとパーカー少女は暴れながら答える。普通ではないのだから、僕にその意味がわかるわけもない。漫画でやっと参考に出来そうな資料が見つかりそうである。大袈裟ではなく。
それでも、やはり人並みの感情というものはあるのだろう。ふざけたような口調ではあったが、その声には一抹の悲しみが感じられたような気がした。
「そういえば、なんでここにいるんだ?」
「いちゃダメですか?」
「いや、そういわけじゃないんだけどさ。その、八重子さんがいるってことは何か妙なことが起こるのかな、とか」
無論、イメージのみの話である。
「ふむ……」
それを聞いて八重子さんは考えるような仕草を見せる。頭に乗ったハンチング帽を人差し指にひっかけ、くるくると回し始めた。
「まあ、当たらずとも遠からずといった感じでしょうかね。正確には起きそうだったから止めに来た、ですよ」
「起きそうだった?」
「ええ。現に久東さん、殺されかけたでしょう?」
「……まあ」
クサビさんが本気だったかどうかは知らないが、確かにあのままでは無事では済まなかったような気もする。しかし、どうして僕の危機に八重子さんが駆け付ける必要があるというのか。というかそのセンサーはなんなんだ。
「非現実の探知能力と言いますか、危機感知能力と言いますか、イベントフローチャート全開放と言いますか」
「心読まないでください……」
何故か八重子さんは逆立ちを始める。わけがわからない。
「細かいことを久東さんが気にする必要はありません。それは小説を読むために書かれている文字の語源をいちいち調べているようなものですよ」
「キリがないって?」
「そういうことです」
行動は意味不明だというのに口調だけ真面目に非現実の王は話を続ける。出来れば座って話してほしいものだが。
「あなたのお話では私は脇役でしかありません。他作品から友情出演みたいな漫画があるじゃないですか。あれと同じ感じなんですよ。ほら、ああいうのってお互い深くは干渉しないでしょう……っとこれは作品によりけりですかね。これは雑なこと言いました」
「はあ……? 要するに僕たちの件にあまり深くは介入しないけれど手は出すと?」
「まあ、そんな感じです。おせっかいさんなんですよ」
おせっかいなぶっ飛び少女は上機嫌に笑った。
ちょうどその時、クサビさんが盆に料理を乗せて部屋に入って来た。逆立ちする八重子さんには目もくれず、僕の前にそっと盆を置き、どこからともなく小さなテーブルを引っ張りだし、設置する。流れるように盆が僕の目の前に滑り込む。
「これ、お昼御飯だけど。あと、リョコちゃんと一緒に食べたかったら……」
「ああ、それは」
「もうちょっと早く起きろってリョコちゃんが言ってた」
「そ、そうか……」
お誘いかと思いきやである。人間優しさは期待してはいけないということか。……訂正。常人だったら期待してもいいかもしれないが、この家では少々勝手が違う。というか篠本さんは勝手が違う。
眠気はまだ僕のまぶたにのしかかる。早く何か胃に入れなければ再び横になってしまいそうだ。大人しく手を合わせる。
「頂きます」
目の前には魚の切り身、味噌汁、御浸し、と和食が並んでいる。起きたばかりの身体には嬉しいあっさりとしたメニューだ。口に含むと全て、濃くなく薄すぎずの絶妙な味付けがされている。これには思わず感嘆のため息が洩れた。
「おいしいな……これって、やっぱり家政婦さんか誰かに?」
「誰だと思う?」
クサビさんは着た質問を瞬時に打ち返す。これは、どうなのだろう。順当に行けばまず彼女、というのが自然だが。
「もしかして、くさ」
「リョコちゃんでした~」
最後まで言わせず答え合わせのクサビさん。元より答えさせる気はなかったということだろうか。八重子さんの笑い声がかすかに後方から聞こえた。
「へえ、篠本さんって料理上手いんだ」
「うん、趣味からのプロレベル。嫁に欲しい」
「そんなにか」
「料理出来ないから」
「プロレベル関係ないだろそれ」
まあ、家政婦さんにも色々あるだろう。いや、そもそもクサビさんは家政婦なんだろうか。確かに割烹着姿はまさしくソレだが、立ち振る舞いもそこそこソレだが、言動はアレである。
「クサビさんって、ここではどんな役割だったり?」
「…………お掃除戦士?」
「ああ……」
何故かすごくしっくりきた。
味噌汁を胃に流し込んでいると、ふと思い出す。そういえば、前に篠本さんは家事がからっきしとか言っていたようないなかったような。確か料理関係だったはずだが……あれはブラフだったのか。何故かはわからないけれど。
「いや、それにしてもまさかクサビさんのそんな姿が見られるとは。眼福ですね」
「八重子さん、随分クサビさんのこと気に入ってるんだ?」
「私は気に入られる覚えも何もこの人とは初対面。怖い」
「くぅ……やっぱりこういう体験は何度しても辛いですねぇ……友人だった人だと余計に」
八重子さんは唸りながら畳の上をごろごろ転がっている。確実にその悩みは僕の想像もつかないものなんだろう。
そんなことより。八重子さんのことをさておき、とりあえずである。僕は尋ねなければならないことがある。こんなのほほんとした空気の中、すっきりしない昨日の出来事だ。
茶碗をそっと置き、
「なあ、クサビさん。昨日のアレって、なんだったんだ」
「そのままの意味。あなたがいると、リョコちゃんが恐らく死ぬ。それもそう遠くない時に」
淡々と答えるクサビさんの顔は少しも動かない。ただ事実を突きつける。
しかし、その言葉を聞いて八重子さんがこちらまで、この緊張感をぶち壊すように転がってくる。
「恐らく、ですよね。あなたの死神の目は過剰なくらい信用出来ますが、それは結末でしかないでしょう? それはあなたが一番よくわかっているじゃないですか」
「だからどうして……確かにその通り。この目は結果しか見えない。だから、原因までは特定出来ない。でも大体の予測は出来る。そう遠くない未来で想像出来るのは、この男」
「焦っても何も変わりませんよ? より不鮮明になるだけです。川底と同じですよ」
「焦らないと変えられないものもある。焦らなかったせいで手遅れになることもある。ロクに役に立たないこの目が役に立つときくらい、焦りたい」
「ふむ、困りましたね。ちなみに、篠本涼子さんはどんな死に方をするんです?」
その言葉に眉をぴくりと動かしたクサビさんだったが、変化はそれだけだった。もう少し怒ったりするものだと思っていたが。
そして、ぽつりと答える。
「血まみれ。化け物。見えたのはそれだけ。でも、リョコちゃんの年は今とほとんど変わってないと思う。だから最近」
八重子さんやクサビさんが言っていることが本当だと仮定して、その死神の目とやらがあるのだとしてだ。その結果が本当であるのなら。
「それって――」
僕が口を開こうとした時、引き戸を開ける音。そこには普段着姿の篠本さんが立っていた。
「おい、飯食い終わったか……って、なんだそんな深刻そうな顔して。何かあったか?」
「あはは、作戦会議ってやつですよ。悪の組織をぶっ倒せー的な感じです」
「なんだよそれ……とにかく、昨日の話の続きをするぞ。食い終わったら声かけろ」
八重子さんに逆立ちする象にでも向けるような目を向けて篠本さんは部屋を出て行った。それをクサビさんが追いかけて行く。
「リョコちゃーん、おっぱい揉ませて~」
「うわ、クサビ!? おい――」
そんな女子グループによくありそうなやり取りをしながらその声は遠ざかって行く。静かになった部屋の中、八重子さんが寝転んだまま呟く。
「久東さん。わかっているとは思いますが、この物語の主人公は久東さんですからね」
「なんだよ、それ。確かに周辺環境的に見れば重要人物だけれど、僕は主人公ってガラじゃないぞ」
「主人公は生き残るんですよ。少なくとも、目的が達成されるまでは死ねないんです。誰かを犠牲にしても、何かを滅亡させることになっても、死ねないんですよ」
八重子さんは何かを思い出すようにぼんやりと、言葉を紡いでいく。
「悲しかろうが、辛かろうが、終わらなければ意味がない。人間ってどうして生きてるんだろうって疑問、たまに湧くことがありますよね。あれの回答が、この場合明確なんです。何がなんでも物語を終わらせることなんですよ。自分の担当する、ね」
「……なんだよそれ。人ってのは皆主人公でいいんじゃないのか?」
「そうだと思いますか? 私はそうは思っていませんでした。最初、明らかに私は舞台の端に置いてあるオブジェクトの一つでしかありませんでした。有り体に言えばモブって奴ですよ。平凡も平凡。道端に落ちている石ころです。それが今では終わらない物語の主人公です。だって、久東さんから見て、私は明らかに特別で、異常でしょう?」
その通りだった。言葉も出ない。
「ってことは八重子さんが主人公でいいじゃないか」
「それは生物兵器で汚染された都市を舞台に真相を究明するゲームに対して最初から核爆弾落とせばいいって言ってるのと変わりませんよ久東さん……」
「……僕じゃないとダメってことか」
「まあ、パズルのピースみたいなもんです。なので代用は利きません」
困った風に笑う八重子さんはどこか新鮮だった。なんでもどうにかしてしまいそうな彼女が、唯一苦手なモノの話でもするように。
汗が首を伝って服を濡らした。随分暑い。八重子さんは黒のパーカーなどという太陽に喧嘩を吹っかけているような格好だというのに涼しそうにしている。こんな些細なことでも、僕と八重子さんの間にある超えられない壁という物を見たような気がして、畳を軽く爪でかいた。
「グッドでもバッドでもない、トゥル―エンドを描けるのは、あなただけですよ。この出来事においては。私はそのサポート役ってヤツですね。ほら、本来なら私みたいな人が人生に現れたりするなんて思わないでしょう? イレギュラーなんですよ、私」
「……なんだかな、八重子さんと話してると、異常事態だと思っていたことが普通のコトに思えてくるよ」
「じゃあ、明日から日本の主食がゴキブリになっても問題なさそうですね!」
「それはどうだろうか」
答えながら残ったご飯を掻きこむ。今色々なことを考えてもしょうがない。まずは目先のことを解決しなくては。……蟲床の争いを、どうにかしなくては。
「さて、篠本さんのところに出向くとしようかな」
食器を重ね、盆を持ち、立ち上がると膝から小気味よい音が鳴る。運動不足だろうか。精神的にはかなり、運動でないにしてもカロリーは消費しているような疲労がある。
僕が出て行こうとすると、八重子さんが起き上がり、後を付いて来る。
「あれ、付いてくるのか」
「いけませんか?」
「いや、なんとなく」
「それでは私はこれで、とか言いながら天井突き破って退場するかと思いました?」
「……なんかごめん」
図星過ぎると謝りたくなるのが久東錬次という生き物だ。この人、心読めるんだろうか。だとしたらそこら辺知っておきたいところである。
「いや、別にいいんですよ。自分を見せる時に必要以上に派手に演出したり、自由な感じ出したりしてますから」
「それ、雑なこと言ってないか?」
「丁寧ですよ? まあまあ、私も一応話しておきたいことがあるんで、急ぎましょう。あの篠本って子、待たされた分だけ彼氏にペナルティ負わせるタイプの人間っぽいですし」
「それは……考えるだけで胃が痛いな」
この食器を一つ落とすだけで自分の身体から臓器がいくつか消えるような気がした。胃どころではない、頭痛のおまけつきだ。何も好き好んで痛みの大バーゲンには手を出したくはないのだが。
どこに来い、と言われていなかったので僕と八重子さんは来た道を戻った。玄関へと通じる道である。というより、昨日色々あったところを好んで通ろうとは思わない。何せ人が死んでいる。
人が死んでいる。
「…………まずいな、今考えるまで忘れてた。動揺も薄くなってる」
「久東さん、大丈夫ですよ。それは知っている人が死ぬよりマシだ、と考えるようになったせいだと思います。慣れと言えば慣れですが」
「マシって……というか、八重子さんってやっぱり心読めたり?」
「いえ? そんなことはたぶんないですよ?」
「なんで曖昧なんです……」
頭を抱えつつ歩いていると、玄関でちょうど正人が外から戻ってくるところだった。その手には竹箒が握られている。
「おお、起きたのか」
「おう、そっちは掃除か」
「まあな……そっちの人、大丈夫なんだよな?」
最後は小声でたずねて来る正人。いや、その気持ちはわからないでもない。こちらも小声で答える。
「大丈夫だよ。この人には結構……助けられてるし。まあ、安全な人とは言い難いけど、僕らにとっては安全のはずだ」
「出来ればその『はずだ』を外してほしいんだがな……」
そのやり取りの最中に、正人の背後で玄関の戸が開く。そこから小さな男の子と女の子が侵入する。
「あ、おいお前ら、まだ外にいろって言ったろ」
「えー、正人兄ちゃん遊んでよ! 涼子姉ちゃんは話あるって言って遊んでくれないんだ」
正人の腹程度までしかない背丈の男の子は不満げに頬を膨らませ、正人に縋りつく。隣にいるこれまた小さな女の子も同じように正人へとくっ付いて行く。
「ねー! 遊ぼうよ!」
「やったな正人。モテ男とは正にお前のことだな」
「勘弁してくれよ。お前が言うと地味に本気で言ってるように聞こえるから性質が悪い」
「まあ、本気と書いてマジで言ってるからな」
「冗談にしとけ!?」
そう言っている間にも子供たちの揺さぶりは続く。震度はそろそろ三を超えようかというところ。
「あ~わかったわかった。ちょっと用事済んだら遊んでやるから待ってろ!」
「絶対だよ!」
「絶対ね!」
「ああ、そうだ絶対だ! わかったら外で待ってろ!」
そう言うと子供たちは我先にと外へ駆けだしていく。そんな様子を見て、正人は微笑みつつため息を吐いた。
「今の、兄妹か?」
「まあ、みたいなもんかな。お嬢の弟妹だよ。血は繋がってないらしいけど」
「……そこら辺は蟲床が絡んで来るんだな」
「……そうだな。あいつらは、次代の蟲床候補さ」
「次代の……もし、篠本さんが不老不死を手にすればあの子たちは役目を解放されるのか?」
「さあ、どうだかな……。俺もそこまで詳しいわけじゃないし」
正人は沈んだ表情で答える。軽率な質問だったか。
「すまん、嫌なこと訊いた」
「いや、気にしてない。本当に辛いのはお嬢だよ。俺に気を遣ったりしないでくれ」
気まずい沈黙が流れる。正人が竹箒を置いたわずかな音さえ愛しいほどに。だが、その沈黙もつかの間、僕の腕に絡みついてきた八重子さんによって大気が息を吹き返す。
「この狂った因習を叩き壊せば良いんじゃないですか? 久東さんにはそれを実行しうる力があるでしょうに」
ダンスの相手を申し込むような仕草で軽やかに左手を取り、まるでそこにいるのが見えているかのように、八重子さんは手の甲の中心を撫でた。
「まあ、全てを助ける、などと考えなければの話ですが」
「嫌なことを言うね八重子さんは」
「私が良いことを言っても大抵信用されないというのは自覚しているので。大量殺人犯が身代金を渡せば人質を無事に解放する、くらい疑わしいと昔知り合いに言われたことがありますし」
八重子さんには非常に悪い気はするのだが、正直その知り合いさんには同意だ。全部上手く行くなんてことは今回に限らず、人生を通してまれにしか起きないことだろう。ちなみに僕が今まで上手く行ったことは一度たりともないわけで。
「…………最善を尽くせばいいさ」
外から子供たちの声が聞こえてくる。楽しげだ。もしかすると、蟲床については聞いていないのだろうか。それとも、知っていながら、なのか。
篠本さんが蟲床の争いを生き抜き、不老不死を手に入れたとして、蟲床は代を重ねて行くだけだという。篠本さんが不老不死に固執するのは、きっと、成功例のない蟲床の謎を解明するためなのではないだろうか。
生きる道はあるということを示すために、彼女は戦っているのではないか。そんな彼女に僕は何が出来るのだろう。誰かを助ければ誰かが死んでしまう、篠本さんの言葉を借りるならばこのゲームで、何かを変えられるのだろうか。
ふと疑問が浮かぶ。僕は、本当に彼女たちにとっての蜘蛛の糸になれるのか?
「おい、何してる。駄弁ってないで早く来い」
いつの間にか篠本さんが呆れた顔で僕らを見ていた。何か、重しが取り除かれたような気がした。その態度がまるで友人に向けられるそれだったからかもしれない。
「ああ、今行く」
「まったく、何を話してたんだ。話ならこれからたっぷりとしてやるっつうのに」
「八重子さんについてはもう、大丈夫だよな?」
僕の手を引っ張りだらりとぶら下がるようにしている八重子さんを横目で見ながら篠本さんに尋ねると、篠本さんは目を細め、どこか複雑な表情で首を一つ縦に振る。
「怪しいことに変わりはないが、恐らく今回の件には無関係だっていうのはわかった。どうしてクサビと戦闘になったかについては解せないがな」
クサビさんの『篠本さんが死ぬ』という事柄については曖昧に濁して説明していた。……いや、話せなかった、という方が正しいか。それを話すことによって何かが変わってしまったらと思うと、自然とそのことについて口は動かなかった。
恐らく篠本さんはあまり動揺した様子は見せないだろうという予想はつく。けれど、不老不死を達成出来ないという可能性を突きつけられて、実際はどういった反応を見せるのか。実際にリスクを負わない僕にその心境を知るすべはない。
「じゃあ、昨日の続きだな。蟲床の、不老不死の人間についてだ。聞かせてもらえるんだよな?」
「ああ、別に隠すようなことでもないしな。お前は関係者だし、むしろ知っているべき内容だ。話すさ」
静かな眼差しが僕の目を捉えている。そこに昨日見た刀の冷酷な輝きを思い出す。
「…………行くか」
何かを言いたげに篠本さんは踵を返す。僕には何も言うことは出来ない。
篠本さんに付いて行くと広間に出る。そこには数人の男女、割烹着や黒いスーツ姿という服装を見る限り、昨日の襲撃の時、篠本さんと共にいた人々だということは見当が付く。昨日死んだ人も、恐らく同じ括りの人なのだろう。さらにその人たちに加え、部屋の隅で一人、先ほど見た子供たちと同年代くらいの女性が静かに佇んでいる。……何故かその子を見ていると、無性に不安になる。
「さて、座れ。座布団しか用意出来ないのは申し訳ないが」
促されるままに座布団の上に正座する。雰囲気に流されて正座という結果になったが、正直耐えられる気がしない。どこか暇を見て胡坐に変えなければ。
考えているうちに、篠本さんは僕の正面にあるもう一つの座布団に同じく正座する。周囲の人たちはそれを見守っているかのように立っている。正人はその人たちの横に並び、八重子さんは入口の付近で壁に寄りかかっている。
「あの、この人たちは」
「ああ、話してなかったな。ちょうどいい、お前に説明するいい機会だろう。昨日、守人がどうのこうのと言っていたろう?」
「確か説明は先延ばしにされたんだったっけ」
「そうだな。まあ、コイツ等がそうだ、と言ってしまえば話は終わってしまうんだが、簡単に言えば守人というのは蟲床を守るボディーガードみたいなもんだ」
「字、そのままの意味か」
「そうだな。それで、正人は私の守人だ」
「ん? 正人は、というとこの人方は違う、みたいに聞こえるけど」
周囲を見回す。男性が四人、女性が三人。正人を含めれば合計八人の守人……いや、クサビさんもだろうか。それに昨日死んだ人を含めると、十人か?
「ああ、正人以外は私の守人じゃない。守人ってのは各蟲床に一人って決まってんのさ」
「ってことは、蟲床がこんなに……?」
僕の疑問に篠本さんは静かに首を横に振る。
「候補も含めて、だよ。大体一度の選定で三人ずつかな。ちなみに蟲床は全員養子って扱いになってる」
「三人……もしかして、その子とあの子たちも?」
篠本さんの眉間にしわが寄る。心なしか周囲も暗い面持ちだ。つまり、そういうことなのだろう。少女は相変わらず、感情のない目で虚空を見つめている。
「……守人は常に蟲床に付き添っている。候補のまま選定に外れた者に付いた守人も、とりあえず成人までは世話係になる。正人と私のように同年代の関係というのは珍しいが」
「なるほど。ってことは、正式な蟲床は篠本さんの他に二人?」
少女を見つつ尋ねると、「そうなる」と短く答える。
「でも、そいつはまだ中に蟲を飼ってはいないんだ。候補は最有力だけどな」
「助かる、なんてことはないのか」
「生き残れば死なないんじゃないか? まあ、それはオレが確かめるが」
「…………」
黙り込んだ僕を鼻で笑う。まるで当然だとでも言うように。
「オレたちの話はどうでもいいだろう。お前がいくら同情したところで何かが変わるわけでもなし、時間の浪費って奴だ。まあ、これでお前がオレに味方してくれるって言うならいくらでも話してやるが、そう簡単には行かないだろう? お前は」
その獰猛な笑みを見ていると一人でに身体が震える。所詮同情しか出来ないお前に話すことはない、と言われたのかもしれなかった。
なんとか、前向きにとらえたいところではあるが、頭で反芻してもその意味は変わらないように思える。
篠本さんは一つ鼻を鳴らす。
「さて、話そうか。我らが糞ジジイ様。不老不死の初代蟲床様について。いいな」
その目線は僕に向けられており、同時に周囲への確認でもあるように思えた。空気は一層張り詰める。八重子さんがぶち壊しにしてくれるのでは、というわずかな期待も興味ありげな彼女の表情で潰えた。
琴の弦を弾くように篠本さんは語り始めた。
「名前は……実は聞いたことがない。誰も知らないんだそうだ。真実は知らないがね。だが、大爺様は食ノ蟲の蟲床だったという話を聞いたことがある。確か、以前にいた世話役だな。私の守人になるはずだったヤツが教えてくれたんだ」
「その人は……」
「いない」
僕が周囲を見回すと、篠本さんは短く答えた。
「死んだ。よくあることさ。遺憾ながらな」
「そう、か」
「心配するな。情報はオレが受け継いでいる。何かを隠して死んでいない限り、非共有情報はアイツの色恋に関してだけだろうぜ。お前が知る情報に大差はないだろう」
篠本さんは平然と言ってのける。
「……そうだな。それで容姿とか、どうなんだ。見たことはあるのか?」
「姿形は蟲床で生き残ってから変わってはいないそうだぞ。不老不死だからな。まあ、オレは声しか聞いたことはないが」
「声を聞いたことはあるのか」
「ああ、ここに来た時な。一回、カーテンごしの影と会話をしたことはあるのさ。爺さんには聞こえない若い声だった。別人という可能性は十分あるだろうが。それだと不老不死は疑わしくなる。そんなものに従うのはゴメンだとなっちまう。だから、一応本人だとは思っている」
なるほど。信じなければやっていられないということだ。強制され、確かでもない不老不死を自らの身体を犠牲にしてまで求めるには、せめて成功例が必要だ。最初に声を聞く、というのもそういった事情があったのかもしれない。ただ、僕がもし同じ状況に立たされたらと考えると、やはり胡散臭い。信用は出来ないように思う。今の年齢であればの話ではあるが。
「ちなみに、その人は何年生きてるんだ?」
「……二百年程度、だったか」
篠本さんが確認するように周囲に目線を向けると、守人たちは小さく頷いた。
「二百年、か。意外と少ないんだな」
「千年生きてる、なんて言われても正直信じられないだろう。二百年ならまだ信じられそうな範囲じゃないか。単純に人生二周してる」
「そういうもんなのか」
「そういうことにしとけ……どちらにせよ、化け物には変わりない」
ちらりと八重子さんを見る。すると目が合い、何故か良い笑顔を向けてくる。二百年の不老不死、というとどこか八重子さんには笑われそうな気がしていた。
「そういえば、八重子さんって誰かの依頼でこうして関わってるんだよな? 何か、事情を知ってたり」
「いえいえ久東さん? 確かに私はとある人の依頼でここにいますが、流石に部外者ですよ。首突っ込みまくっても部外者です。彼女たちに知ることはできない情報を持ってたらなんだか面白くないじゃないですか」
「依頼主がオレたちの関係者、という可能性」
篠本さんは八重子さんの方を睨みつけ、
「そもそも、蟲床の存在を知っている時点でその線が濃厚だろう。でたらめな存在だというのは聞いた。面白い面白くないに関わらず、オレが知らないことをアンタが知っているなら――」
脅すような低い声音。おそらく力に関して信頼を置いているであろうクサビさんを圧倒した相手を前によくそこまで威圧出来るものだ。……らしいと言えばらしいけれど。
守人たちは皆緊張した面持ちでその答えを待っているように見える。ただ、正人だけは退屈そうにその様子を眺めていた。
「残念ながら、知りません。事情は知っていますが、詳細は知らないんですよ。私は情報収集が苦手でして……そうですね、パッと見ワケのわからない小説があって、色々な解釈の末にやっと楽しめるとしますと、私は一度読んで放り出すだけと言いますか。でも、なんとなく、漠然と、曖昧に理解していると言いますか」
八重子さんの言い回しは結局のところ知っているのか知っていないのかよくわからない。上手くぼかされている感じはするけれど、これはどう訊いても「私は知りません」と返される気がする。
「八重子さん……」
「嫌ですねぇ、そんな声出さないでくださいよ久東さん。規則っていうものがあるでしょう。何にでも、どこにでも。オールフリーダムなんてあり得ないんですよ。これもその一つだとお考えくださいな」
申し訳なさそうに八重子さんは軽く頭を下げる。それに慌ててフォローの言葉を引っ張り出す。
「八重子さんなりの事情があるなら、仕方ないよ。気にしないでくれ」
「ふん、部外者にわかったような口を利かれても困る」
篠本さんは最初から興味もない、と言いたげに鼻を鳴らす。しかし、先ほどよりも少々きつい目付きで僕に向き直る。
「大爺様の話をしたところで今のところ有益なモノは得られないと思うが……まだ続けるか?」
「その、大爺様って人に会うことは出来ないのかな」
恐る恐る訊くと、
「無理だな」
刀で立ち切るがごとく即答される。
「居場所はわかるが、従者が厳重に警備している。山の中ご苦労なことさ。娯楽なぞどこにもない。欲ノ蟲の最終形が禁欲生活とは皮肉なことだ」
「山の中って、もしかしてここと近いとか?」
「……まあ、他の二家と比べれば近いだろうな。食ノ蟲の蟲床だったことも関係しているのかもしれん。四、五時間かければ行けるかもな。ただ、歩きだが」
四、五時間。往復で最大十時間。今からでは帰り、レンに対して日課を行うためにはどうしても時間が足りない。今は後回しにするのが賢いだろう。
「そういえば、昨日話した『期間』について意見は思いついたりしてないか」
「期間……蟲床の争いの始まる時期、か。そういえば、レンはこの一年で決着をつけないとどうこうと言っていた気はするな。そう聞かされていたせいか?」
「あくまで、魅上を信用するんだな」
どこか含みのある言い方。篠本さんはいやらしい笑みを浮かべる。
「……何か、意味があるのかな。猶予期間とか」
「猶予期間? 失敗した時のための予備期間ってコトか? 全員間に合わずに死んだら困るから、とりあえず焦らせるために偽の期限を、と?」
しっくりと来ないという顔で篠本さんは自分の膝に肘を乗せ、頬杖を突く。僕は頬を掻き、考えをまとめつつぽつり、ぽつり、と声に出していく。
「それもそうだけど、例えば、不老不死が嘘だった場合とか。もし、蟲床を争わせることに別の目的があったとしたら。蟲床の成功例は今のところ初代であるその大爺様だけなわけだろ? なら……」
「……蟲床は成功例は大爺様だけ、というより勝ち残った蟲床は行方不明になっている。確かに、一応このゲームの目的自体を疑うのもアリ、か。だとしたら、オレらは間抜けなもんだな。誰かの手の上で踊ってるってわけだ」
篠本さんは口元に獰猛な笑みを浮かべる。言葉の端々には殺意のようなものまで混じっているようだ。蛇に睨まれた蛙、梟に捕まれた鼠、獅子に首を咥えられた草食獣。手には嫌な汗が滲んでいる。とっくに感覚のない足先が、どんどん冷たくなっていた。
「なるほどな……最悪の場合は、そうなるのか。だとしたら――私はやっぱり報われないのかな」
「篠本さん?」
一抹の違和感。向けられる怒りにも似た威圧感が、少し寂しげな色を含んだ気がした。
「お嬢」
正人が一言、篠本さんを呼ぶ。篠本さんは手のひらを正人の方に静かに向け、どこか自嘲的な笑みを浮かべていた。
「わかってる。これは仮定の話だ。事実じゃない」
眉間を揉みほぐしながら篠本さんはため息を吐き、
「オレの話は正直これくらいなんだがな。久東の研究については前に言った通り、魅上家には及ばない。量も、正確さもな」
「……」
それは昨日の話であることは間違いない。魅上家が情報を共有していない。それは争うということを肯定することであるし、いつか最悪の展開が訪れるということでもある。
いつか、篠本さんとレンが争うことになる。正人と対立する日がやってくる。
知らず眉間にしわが寄る。焦燥感は身体中を這い回り、思考は得体のしれない虫に掻き回される。
こうも無力だと笑えてくる。ぐるぐると景色が回る。
「あ……」
「ん?」
「いや」
皮肉なことに、嫌なことを考えたおかげで一つ疑問を思い出した。
「昨日襲ってきた奴、ノラとか言ってたよな? その、篠本さんが……じゃないんだよな?」
「ああ、あれか。それに関してオレは無関係、のはずだ。昨日のタイプは初めて見たが、ここ最近になって頻繁に襲撃されるようになってな。いや、食ノ蟲の蟲床が食ノ蟲の感染者に襲われるとはおかしなこともあったもんさ。……あれは感染者なのかどうかはわからないが、恐らく同類なんだろう」
「……感染させたのは篠本さんじゃないってことか?」
「当たり前だ。蟲床ってのは本来秘匿されるべきものだからな。感染が連鎖してホラーゲームみたいな展開、なんて洒落にならん。この事態はオレ含め、蟲床に関与する者の望むところではない」
「目立つことってのは出来ないってことか……? え、じゃあニュースでやってるのも」
「恐らく食ノ蟲で間違いないが、オレじゃない。理由は同上だ。どうしてこんなことになっているのかはわからんが」
……ちょっと待て。篠本さんじゃないのか? 感染者を増やしている人間が他にいる、ということなのか。だとすると、レンの件に関しても同じことが言えるのではないか。確かに不注意という可能性も捨てきれないが……。
「その話が本当だとしたら」
「この件に関しては魅上、幻夢川、もしくはその他の人間の仕業だ」
「それって結局何もわかってないような……」
「まあ、な。だが、血が手に入れられる人物ってのは決まってる。オレの知っている以外の欲ノ蟲がいなければの話ではあるが」
篠本さんの目は壁に寄りかかる八重子さんに向けられている。
「私は何も知りませんよ?」
頬を掻きながら答える八重子さんは本当に心当たりがない、といった様子だ。もっとも、心理学に精通しているわけでもなし、ただの勘ということになるのだが。
その答えを聞いた篠本さんは心当たりを探っているのか、こめかみを何度か人差し指で小突く。
「研究員、という線もあるか」
「研究員?」
「ああ、以前久東が主ノ蟲の研究に就いていたように、今現在もどこかで研究は続いている可能性がある。……話は聞かないが、魅上家と同じ事情、情報を共有せずに優位を取ろうとして、と考えれば」
「でも、だとしたら尚更意味がわからない。秘匿すべき情報なんだろ? だったら」
「憶測の域を出ないからな。それに、オレたちとそいつが同じ価値観かどうかはわからないだろう。――――案外、ぶち壊してやろうとか考えてるのかもな」
僕にはその、ぶち壊すという言葉がどうしても魅力的に聞こえてしまう。不老不死が得られなかったとしても、恐らく日常は取り戻せるだろう。
「お前、今それでもいいんじゃないか、とか思ったか?」
「……正直、少しは」
「何事もないならそれも平和でいいのかもしれないけどな、オレたちは襲われてるんだ。ぶち壊す対象は現在生存している蟲床、および欲ノ蟲を知り得る者だというのは容易に想像が付く。……この先、魅上の側に付いていて生き残れるかな?」
笑い混じりな篠本さんには冗談を言っている様子はない。それは冷厳なる事実だ。僕は戦う術を持ち合わせていない以上、この身体に流れる血液に頼るしかない。レンに至っては全くの無力なはずだ。
「なんとかするさ」
「ふぅん、そうかい……さて、そろそろ休憩するか」
篠本さんは姿勢を正し、一つ手を打つ。それを合図にしたように、今までいなかったクサビさんが外からドアを開け、正人以外の守人たちが退室して行く。目は合わなかったが、皆どこか僕を疎ましいものを見るような目をしていたように思う。考え過ぎだろうか?
疲れが息となって抜けた。
「はあ」
「お疲れ」
正人が壁に寄りかかって眠そうに目を擦った。
「随分白熱してたな。見てる側としてはそこまで面白い話ではなかったが」
「…………マサト、お前はこの手の話に関心がなさ過ぎる」
「興味がないから仕方ねえよ。あ、そうだそうだ。ガキ共が姉ちゃんと遊びたいって言ってたぞ、お嬢?」
「ああ、そうか。わかった」
部屋の隅の少女を一瞥し、篠本さんは立ち上がる。そのままのしのしと足取り重く部屋を出て行った。
「正人、その子」
「ああ、こういうやつなんだ。インドア派っていうか一人で遊ぶ派っていうか」
「……そうか」
少女は静かに座りこんだ。まるでその場所こそ自分の居るべき場所だとでも言うように、部屋にいる誰にも目をくれず――――と、見ていると目が合う。
睨んだように目を細めた、そんな気がした。
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