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蟲床フラストレーション  作者: 桜谷 卯月
第二章 食ノ蟲
26/42

第二十三話 化け物たちの夜

「おい……まあ、別に時間はあるし、今日は休んでもいいか」

 ため息交じりにそう言って篠本さんは引き戸を開けて部屋を出て行った。

話の後、僕は妙に気分が悪くなってしまってその場に横になっていた。我ながら脆弱な身体。それもそのはずだ。目立つ運動なんてしていない。精神構造も一般人のそれと大差ないはずだ。一気に状況が動けば疲れるし、突飛な出来事は心を揺さぶる。

「どうなってんだよ……くそ」

 天井では傘の中から小さな豆電球がこちらを覗き見ていた。まぶしい。どうせ眠ってしまうのなら、もう消してしまった方がいいだろう。

 上半身を反動を付けて起こす。畳の冷たさが足裏に妙に敏感に感じられる。首を回すと小気味の良い音が数回なった。

 電気を消そうと、垂れ下っている紐に手を伸ばした瞬間、沈黙を守っていた引き戸が勢いよく開けられる。

「うおあっ」

「うおあー」

 僕が思わず口にした妙な発音の言葉を拾ったのはクサビさんだった。手には布団や枕が抱えられている。気だるそうな様子だ。

「リョコちゃんに頼まれたから布団敷きに来た」

「ああ、どうも」

「…………」

「…………」

「…………」

「………………なんです?」

「…………リョコちゃんと何回ヤったの?」

 左手で輪を作り、右手の人差し指をそこに出し入れするクサビさん。おっさんなのか、この人。

「ヤってません」

「えー」

「えー、とか言われても」

「…………じゃあ、まーくん?」

「まーくん、って……それ確か正人のコト……僕そっちの気はないですよ」

「じゃあ、クサビは何を妄想して同人誌を描けば……」

「ちょっと待て」

「…………冗談」

 クサビさんは満足げに微笑むと、手に持った布団を手際良く敷き広げて行く。どうやら割烹着姿は伊達ではないようだ。

 かけ布団を乗せ、枕を置く。しわを伸ばすように布団を撫でつけ、一つ息を吐いてクサビさんはその場に座る。

「……どうぞ」

「どうも、すいません」

 敷かれた布団の上に、なんとなく正座する。目の前には真顔で正座しているクサビさん。

 …………寝ろと言うことだろうか。

 布団の中に身体を入れ、枕に頭を乗せる。クサビさんは相変わらずそのままだ。

「あの…………クサビさん?」

「…………」

「寝づらい……かなって思ったり……ですね?」

「…………」

 真顔で黙っているクサビさん。喋れば面白い人だけれど、こうして黙っていると少し怖い。クサビさん、よく見るとなかなかの美人である。それも相まって謎の迫力がある。

「クサビさーん……?」

 その呼びかけにクサビさんは肩をびくんと跳ねらせた。

「…………はい?」

「…………もしかして」

「寝てない」

「いや」

「ちょっと妖精の国行ってただけ」

「寝てましたよね!?」

 クサビさんは不機嫌そうに唸り、駄々をこねるように僕の入った布団を両手で叩く。地味に痛い。

 さらにそれでは飽き足りないのか、無理矢理布団の中に入ってこようとする。

「ちょ、ちょっとクサビさん!?」

「うー……いいの……」

「いや、僕が良くない……力強っ!?」

 僕が布団を出ようとしたところを凄まじい力で腕を掴まれ、強引に引き戻される。さらに、抱き枕よろしく、向き合う形でクサビさんは僕の胴を完全にホールドしてしまう。

「何考えて……!」

「…………」

 もう寝ている。

 僕は手のやり場に困りながら……とりあえず腕は枕のように使うことにした。しびれて腕が動かなくなっている可能性があるけれど。まさか、このままクサビさんの背中に手を回す、なんてことは出来ない。僕はそこまで肝が据わってはいない。

 ここで少し冷静で……いや、冷静ではないのだけれど、まだ落ち着いていられるのは、普段からの積み重ねというヤツだろうか。こればかりはレンや篠本さんに感謝しなければいけないかもしれない。

「まったく……」

「むぅ」

 頭を擦りつけられる感触が本当に落ち着かない。恐らく今日は寝不足になるだろう。

 妙な状況になったものだ。自由人はよくわからない。

 これが篠本さんに見つかって、わかってくれれば問題はないが、わかってもらえなかったときは…………ぞっとしない話だ。

 とりあえず、思考を整理しよう。なるべく雑念は少ない方がいい。

 今日わかったこと。いや、起きたことも含めるか。

 まず、水上さんが欲ノ蟲に感染した。種類は色ノ蟲。レンの話では感染することもあるかもしれない、ということだった。僕のような体質を持たない人が蟲床に関わるならば、避けられないリスクだ。

 篠本さんはレンが嘘を吐いているという。なんでも、蟲床の欲ノ蟲の影響は平静にしていられるようなものではないということだ。さらに、名前の件も。生まれた時ではなく、魅上家に引き取られた時に名前を与えられるので、彼女の話はおかしいということ。

 蟲床の期限は寄生から十八年。争いが始まる時期がどうにもおかしいということ。生まれた瞬間に寄生させられることはないらしい。

 最後に、篠本さんは牙持食鬼。食ノ蟲の蟲床。正人はその関係者、か。

 で、僕はその牙持家の屋根の下、というわけだ。半ば誘拐みたいなものだ。レンは起きたら心配するだろう。なるべく早く戻れるように言ってみよう。

「まあ、そんな自由があればだけどな……眠い」

 急に眠気が襲ってくる。近くでクサビさんの寝息を聞いていたからかもしれない。穏やかで、思わず微笑んでしまう。

「まあ、目を閉じれば寝れるだろう……」

 目を閉じると完全な闇。音はない。驚くほど静かな夜だ。

 胸に自分以外の体温を感じながら、僕の意識は静寂に溶けて行った。


 

 頬に触れる感触で目が覚めた。

 胸には体温がない。クサビさんが起きて、僕の顔を触っているのだろうか。

 

――――シャッ


金属の擦れ合う音が耳元で聞こえた。そういえば、何かの昔話で読んだような気がする。山の中に迷ったところ、辿り着いた木の小屋。中には老婆が住んでいる。泊めてもらうことになり、その夜、その人は金属の擦れ合う音で目を覚ます。

老婆は人を食う山姥(やまんば)だったのだ。

…………なんだか設定が所々笑えない。

 僕は恐る恐る目を開けた。山姥がいれば、それは運がなかったということだ。

「…………って、何してるんですか、クサビさん」

 やっぱりというか、僕の顔を撫でていたのはクサビさんだった。体温がなくなっていたのは、それもやはり彼女が身を起こしていたからだ。

 割烹着姿の少女は静寂に身を浸してこちらを見つめていた。

「クサビ、さん?」

 心臓が早鐘を打つ。これは緊張だ。それも、女性を前にして緊張する、という類のものではなく、そう――――命の火が相手の手の中にあるという危機感。

 機械のような目は僕の目をずっと見つめている。目を逸らすことが出来ない。彼女の左手は僕の頬を撫で続けている。右手は……?

 彼女の右手は、先ほど金属の刷れる音が聞こえた方向にある。

「見えたの」

「へ?」

 少女はぽつりと呟く。

「運命」

「……運命? 一体……」

「貴方は狂った運命の中にいる。貴方はイレギュラー。本来、いない存在。生きているけれど、貴方は死んでいる」

「それは、主ノ蟲のことを言ってるのか? でも、死んでるって」

「救われる命がある。救われない命もある。救われない命が救われたら、どうなる?」

 僕の質問には答えてくれないようだ。今のクサビさんは、先ほど見ていた彼女とは違う雰囲気を持っている。

「……運命が、変わる?」

「そう。死なない人が死ぬ。死ぬ人が死なない。なら、貴方は誰を生かして、誰を殺す?」

「何を言って……!?」

 首に冷たい感触が当たる。気付けば、クサビさんの右手が首に伸びている。金属音の正体が僕の首に当たっているということだろう。

「貴方が死ねば……元通り?」

「っ!」


「―――――いやいや、そうはなりませんよ」


 その声は、まるでヒーローのごとく響いた。

「……誰」

「あは~いやはや。誰、ですか。いや、私が一方的に知っているだけだったらいいんですが、まあなんとなく傷付きますよねぇ。なんですか、あれ、あれですよ。この前まで餌を上げてた猫が一日餌をやらなかっただけでどこかに行ってしまった、みたいな」

 シリアスな空気に石を投げ入れるように声の主はズカズカと会話に割り込む。聞いたことのある声だ。忘れもしない。忘れたくても忘れられないショッキングな存在。

 その姿は引き戸越しなので確認できないが……。

「……八重子さん?」

「そう、その通りです久東さん! イエス! というわけで久東さんには二十の八重子ちゃんポイントあげちゃいますよ!」

「なんだよそのポイント……」

 溜めると何かもらえるんだろうか。そんなことよりも。

「これ、どういう状況なのか説明してくれないか?」

「見ての通りですよ。クサビさんは久東さんをぶっ殺したい。私スタイリッシュに不法侵入。それ止めた」

「いや、それはわかるんだけど……いや、不法侵入は知らないけどさ」

 クサビさんは僕の首に当てた冷たい何かを八重子さんの方に向ける。引き戸の方に。

 暗がりでよくは見えないが、それは鎌のように湾曲した形状をしていた。

「久東さん、簡単なことなんですよ。いえ、そこで私に殺気ビンビンなクサビさんの心情についてを理解しているわけではありません。でも、彼女が自分のために人を殺す人間でないということは知っています。それが彼女の全てだとは思いませんが」

「だから?」

「簡単なことだと言ったでしょう?」

「…………」

 自分で考えろということらしい。

 自分のためには人を殺さない人間。人のためなら人を殺せる人間。そんな人間が人を殺す。当たり前だがそれは人のため、それとも別の何か? 殺す対象が僕だということを考えると、僕が存在することで損をする人?

 …………篠本さんか? 確かに僕は篠本さんの味方になれるかは微妙なところだ。レンには妙な点はあるけれど、最後まで協力してあげたいと思っている。それがどんな結果になったとしても、僕は忘れている記憶を思い出して、いずれ答え合わせをしなければいけない。

 それが、篠本さんの不利に繋がる……だから殺す?

「概ね正解ですよ、久東さん」

「え、僕声に出してたか?」

「いえいえ、しっかり頭の中で考えていましたよ。私の耳に聞こえてしまうくらい。そうですね、クサビさんは篠本涼子の不幸が許せない。でも、少量の不幸で人は人を殺そうとは思わないものです」

 僕の思考を読んだことに関しては流し、八重子さんは簡潔に解答を述べる。

「久東さん、彼女はね、とある事情で『人の死が見える』んですよ」

「人の死が見える……? なんてファンタジーだよ?」

「久東さん……今更だと思いませんか? 蟲床もさることながらこの私、九字切八重子を見ておきながら、未だに現実のぬるま湯に浸かっているとでも? ご冗談を。久東さん、あなたはね、最初からこの非現実の中心人物ですよ」

胃が握り締められたように痛む。八重子さんの言葉は僕の退路を完全にふさいでしまっていた。その言葉は常識に深く刺さる。

「…………わかった。あり得ないことはないってことだな」

「まあ、そういうことです」

「で、『人の死が見える』から、どうだって…………まさか」

 クサビさんに目を向ける。未だに八重子さんの方に視線を向けたまま微動だにしない。代わりに八重子さんが答える。

「ええ、恐らくそうなんでしょう。――――このまま行けば、篠本涼子は死ぬ。恐らくは、あなたに関係することで」

「……っ!」

「クサビさんに見えるのは死の運命だけです。どういう経緯で、何故、というのはわからないでしょうが、彼女の最期、傍にいるのがあなただったのでしょう。いなくなれば、それを回避できるかもしれない。そう考えたのでしょう」

「……実際に避けられるのか?」

「変わりませんね。死の運命は変わりませんよ。それこそ、『欲ノ蟲』そのものがなくなるくらいの改変がなければ。そうなれば、今の人間関係は存在しないでしょうしねぇ。今久東さんを殺したところで、この非現実の中心がまた誰かに移るだけですよ。あなたかもしれませんね、クサビさん」

「…………黙れ」

 獣が唸るような低い声音。刃物のような殺気が部屋を満たす。

「化け物ということはわかった。死ぬかどうかは怪しいか」

「失礼ですねぇ、私だって死ぬときゃ死にますよ。化け物は、まあ否定できないかもですが……。少しばかり人より生きやすいというだけで寿命が変わったわけではないですし」

 八重子さんは拗ねたように答える。その答えを聞き、クサビさんは渇いた笑いを返す。

「よく言う。濃厚な血の臭い。何人の命を奪ってきたのか」

「おおっと、そこまでにしていただきましょう。この非現実に関して私はわき役以下なので、あまり干渉はしたくないのですよ。まあ、依頼なので仕方なく関わっているわけですが……あれ、結構がっつり足突っ込んでますね私」

 目の前で金属の音がする。クサビさんが例の鎌のようなモノをに握り直した音だろう。一気触発とは正にこのことか。

「邪魔をするなら殺す」

「困りましたね、私は邪魔するために来たわけですが――――」

 八重子さんがそう答えた瞬間、クサビさんが弾かれたように突進する。豪快な音を立てて引き戸は外れ、外にいるであろう八重子さんを巻き込むように倒れる。

「おっと、危ないですね」

 しかし、ちょうどその戸の届かない範囲に八重子さんは立っていた。クサビさんは間髪いれずに、手に持った得物を八重子さんに振り抜く。

「…………死ね」

 やけに鮮明に聞こえたその言葉。

「それは、幸せな提案ですねぇ」

 場違いに陽気な化け物が、くすりと笑った。



「おい! 何事だ!」

 物音を聞きつけて篠本さんが慌ただしく向かって来ていた。その後ろには数人の男女が付いて来ている。

「…………縁側の方に向かって行ったよ」

「お前は何してるんだよ……相手は?」

 呆れと苛立ちを隠しもせず、ため息交じりに僕に尋ねる。

「八重子さんだ」

「知り合いか? クサビを護衛にして正解だったか」

「いや、クサビさんが――――」

「……クサビが、どうした?」

 これは言っていいのだろうか。篠本さんはクサビさんの行動を知らないようだ。これを知れば、クサビさんはどうなってしまうだろう……いや、彼女の心配もそうだけれど、僕に危険が及ぶ可能性もあるわけだ。篠本さんがそういう人間だとは思わないけれど、念のため。

「クサビさんがなんで布団に入って来たのかわかったって」

「あ? あいつと寝たのか?」

「勝手に入って来ただけだから。変な意味はないから」

「……まあ、そこら辺は後でゆっくり訊くとして、今は急ぐぞ。一緒に来い」

「わかった――でも、行ってどうなるんだ」

「可能なら援護。無理なら見守るだけになるな。どちらにせよ、ここはオレの家だ。客人に顔を見せないというのも失礼だろう?」

 篠本さんは泰然とそう言うと、早足で廊下を、僕が踏み入れていない縁側の方へと歩いて行く。

 過ぎて行く人の中、最後尾に何やら袋に入った棒状の物を肩に下げた正人と目が合う。

「おい、正人!」

「…………」

 決まりが悪そうな笑みを残し、正人は篠本さんの後を追って行く。僕も何を言っていいのかわからない。

 ここに来た瞬間にわかっていたはずだが、手が届く位置にいた数少ない男の友人は、今や対岸に向こうに行ってしまっているのだ。もう戻れない。そんな単語が脳裏をよぎる。

 

――――――こんなのばかりだな、僕は。


「ったく」

 正人の後を追う。

 八重子さんの言う通りだ。一喜一憂していてはキリがない。僕のせいで死ぬとか、レンが嘘を吐いているとか、友達が実は妙な立ち位置だったとか、命を狙われるとか。

 そんなもの、あの日から日常とすり替わった世界の中では当たり前だ。

 正人が僕の姿に気付く。そして、口角を釣り上げ、いつもの調子で話しかけてくる。

「ビビって倒れんなよ、錬次」

「阿呆。お前こそ都合良く服だけ破れるなんてことにはならないようにしてくれよ」

「どんな状況だよ!?」

 正人が笑い、僕も笑っていた。

 不謹慎にも、戦場が待つ道中を笑っていた。

 不謹慎にも。

 戦場の、ただ中で。

「うわあああああああああああああああああああっ!」

「なんだ!?」 

悲鳴は突然だった。それは目の前で、壊れたラジオにスプリンクラーを備え付けたようなそれは、ゆらゆらとこちらに数歩歩み寄り、正人の前に盛大に音を立てて崩れ落ちた。

「宗司さんっ……!」

 正人が急いでその人を抱き起こすが、廊下の薄暗い明かりで見てもわかるほど手遅れだった。正人が宗司と呼んだ男性の喉は、何かに食いちぎられたように、大人の拳一つほどの穴が空いていた。

「これは……感染者か」

 僕が呟くと、正人は静かに頷いて遺体を廊下の隅に寄せる。そして持っていた棒状の物を袋から取り出す。それはどう見ても刀だった。

「錬次、離れんなよ。あ、あと、お前が血を流す必要はないからな」

 刃が鞘を撫でる音。鞘が廊下に転がる音。どういうわけか、数人いた人々はこの騒ぎを聞いてもこちらへ来る様子はない…………この先でも同じような状況が広がっているということだろうか。気付いても来られない、だとしたら。

 考えていると、目の前でゆらりと動く影が一つ。廊下を満たす橙色の光が鏡のような刀の刀身を映しだす。

「………………」

 足音はゆっくりと、しかし確実にこちらへ向かって来る。

 ひた、ひた、ひた。素足で木の床を歩いている。影が明かりの元を歩いた。

「…………っ!」

 正人が息を呑む。それは僕も同じだ。

 その人は男子生徒だった。僕たちが通う学校の制服を着ていたのだ。

 目は虚ろでこちらを向いていない。僕は顔を見たことはなかったが、どうやら正人は知っているようだった。

「ウチのクラスの奴か……」

「そうなのか」

 そう返すと正人は呆れたように睨んで来る。

「あのな、自分のクラスの奴の顔くらい覚えとけよ」

「おい、気抜くと死ぬぞ」

「だったら気を抜かせるようなことをだな――」

 その間、わずか数秒。正人は目線をそのままにしていたはずだ。


 そう、感染者がただの化け物に姿を変える時間など、なかったはずなのだ。


「――――は?」

「馬鹿野郎が!」

 間一髪。

僕が正人の襟首を思い切り引いて後ろに倒す、という行動に出ていなければ、正人は感染者の腹の中だっただろう。目の前で、大きく抉れている廊下を見る限りでは、その結果のみしか未来は見えなかった。

「おい、正人! お前いきなり死にかけてんじゃねえかよ! お前死んだら僕も死ぬんだからな……!」

「あ、ああ、すまん……てか、なんだ今の」

 感染者の姿を確認する。薄暗い明かりにその姿が照らし出され……僕と正人は絶句する。

 それは既に、人間とは呼べない姿をしていた。

 顎が縦に割れ、人間だった頃の顎らしき肉塊がぷらぷらと顔の両側にぶら下がっている。代わりに鋏のような大顎が顔から突き出している。さらに、割れ目は喉まで続いており、その割れ目からはずらりと並ぶ針金のような牙が覗き、内部は無数のひだで覆われていた。どうやら今の攻撃は大顎によるものらしい。化け物になったと感じたのは、口を開いた状態と開いていない状態のギャップが激しいためだろうか。

 化け物は粘性の高い唾液を壊れた廊下に垂れ流している。

「……正人、コイツは……なんだ」

「は、はは、わかんねえよ。わかんねえけど――――」

 正人は立ち上がり、化け物に向かい合う。

「――――こんな奴に殺されるのは、ゴメンだね」

 正人が化け物に切りかかる。――――速い。刀は相当重いはずだ。だと言うのに、正人はいともたやすくそれを振るい、

「ふっ」

「キィイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ!!」

 化け物の左腕を撥ね飛ばした。

 化け物の腕は鈍い音を立てて廊下を転がって行く。化け物の血液が無個性な木の床を彩った。

「悪いな。もう人間じゃないっぽいし、遠慮なく解体させてもらうぞ」

 間髪入れずに刀が化け物の右腕、両足、首の順で切り刻む。

 漫画やゲームだけだと思っていたが、まさかこんなに容易く人体を解体出来るものとは。僕の認識が間違っていたのか、刀が化け物じみているのか、正人がそれほどの使い手なのか。

 胴を残すだけとなった化け物はその場に倒れ伏した。

「はっ、案外呆気ないな」

「正人、一応その頭も潰しておいた方がいいんじゃないか?」

「……錬次、結構えぐいこと言ってくれるな」

「映画とかでよくあるだろうが。ゾンビってのは死んでるか死んでないかの時が一番危ないだろ?」

「まあ、そうかもしれないけど、よっ!」

 刀が化け物の頭を真っ二つに切り裂いた。血液なのかわからないが、赤と透明な液体が大量にあふれ出る。

「こういうの大丈夫なのか、錬次。俺は慣れてるけどよ」

「まあ、慣れはしないけど。お前の戦闘能力の高さの方がビックリだよ」

「はは、かっけえだろ」

「ホモじゃなければモテただろうに」

「だからホモじゃねえよ! …………っと、あとは」

 正人が化け物の胴体を睨みつける。

「これがもし、食ノ蟲の感染者だったとしたら、まだ生きている可能性はあるか」

「感染者には蟲の影響が出るだけじゃないのか?」

「まあ、そうだな。蟲自体が寄生するわけじゃない、はずだ。でも、コイツは何か違う気がする。念のため……」

 化け物の胴に刀が触れる。その瞬間。

「ギギギギギギギギギギギギッ!!」

「うおあっ!?」

 化け物が吠える。胴だけの生物が喋るはずもない。つまり、先ほど解体したのはこの化け物の鎧のようなモノだったのだろう。

 胴だけの人モドキが激しく痙攣する。さすがに僕と正人は距離を取る。結果としてそれは失敗だっただろう。

 その肉塊から、無数の針金のような足が生えた。十や二十ではない。とにかく、たくさん。この姿の虫がいれば、間違いなく不快害虫として認定されるだろう。

「グギッ」

 虫は僕と正人を無視し、篠本さんたちがいるであろう方角へと、それこそゴキブリを連想させるような素早さで向かって行った。

「まずい……! 錬次、走るぞ!」

「あ、ああ!」

 木片が散らばる廊下を走り抜ける。正人の足は早い。今までこの身体能力を隠していたのだろう。まるで追いつくことは出来ない。

 しかし、それ以上に早いのが虫だ。無数の足を不気味に動かし、不快な足音を立てて逃走、あるいは次なる獲物へと突き進む。

「間に合わないな」

「どうすんだよ!」

 正人は数秒黙考し、すぐに顔を上げる。

「こう、するか!」

 そう言った途端、正人は槍投げのような構えをする。当然、手に持っているのは槍ではなく日本刀だ。それを、

「おら、よっ!」

 ためらいもなく、虫に投げた。

 後ろに目でも付いているのか、すばしっこい化け物はそれを難なく避け、刀は虫の少し先に付き立った。進路上ではない。

「お嬢!」

 正人が声を投げた先にはいつの間にか篠本さんの姿があった。

「なんだか知らんが、オレの家であまり暴れてくれるなよ、ゴミ虫」

 篠本さんは刀が突き刺さった瞬間にそれを流れるように引き抜き、一閃する。

「ギギッ、ギャギギギギギギギッ、ギッ」

化け物が苦悶の声を上げる。刃は虫の右側に生えた足を根こそぎ切り飛ばしていた。

 さらに追い打ちをかけるように二度三度と切り刻まれ、最後は墓標のように物言わぬ肉塊に刀が突き立てられる。

 四肢と頭のない人間の身体と無数の細く巨大な虫の足が、そこには散らばっている。

「さて、なんだこれは」

 鬼がその美しい顔を不愉快そうに歪めて尋ねる。

「たぶん感染者だよ。例のノラだ。まあ、今回は少し違ったタイプみたいだけどな。元は、ウチのクラスの奴だった」

「……そうか」

「そっちは大丈夫だったのか?」

「こっちも数人出てきた。どこから入ったのかはわからんが……こっちには人数もいた。余裕だったよ」

 そう言いつつ、蟲床の少女は深いため息を吐いた。

「お嬢、宗司さんが死んだよ」

 篠本さんは顔をしかめ、ばらまかれた虫の足を一本踏みにじる。

「そうか」

 声には憎悪、目には殺意。必死に感情を押し殺そうとしているのが見えるようだった。

 しかし、篠本さんにはそれ以外にも別の感情がある気がした。そういえば、しきりに元来た道を気にしている様子だ。これは…………焦り?

「だけどな、それより――」

「―――うぐぁっ!」

 篠本さんが口を開いたその数秒後、僕たちの目の前にぼろぼろの割烹着を身にまとった少女が転がって来た。――いや、正確には吹き飛ばされて来たというべきか。

 身を激しくバウンドさせながら、クサビさんはさらに数メートルの距離を転がって行った。

 クサビさんが飛ばされて来た方向からは、ゆっくりと足音が近付いていた。

「ダメダメですよ、クサビさん。残念ですが、あなたではどんな凶器を持っていても私には勝てませんよ。何十年かかってもね」

 八重子さんがハンチング帽を右手の人指し指で回しながら陽気にそんなことを言った。

 圧倒的だ。八重子さんには傷一つ付いていない。本当にこの人は何者なのだろう……?

「……っ!」

 満身創痍の少女はそれでも凶器を手放さなかった。人間離れした速さで八重子さんに飛びかかり――――

「だから――――言ったじゃないですか」

 非現実王はひらりとそれをかわし、クサビさんの右脇の辺りに拳を叩きこんだ。続いて左も同じように。突き上げるように殴りつける。

「っと、今ので両肩の関節外しました。次は両足、その後も色々外していって、最後は首ですかね?」

 八重子さんの言葉に嘘はないようで、クサビさんの両肩は支えを失ったようにだらりと下がっている。割烹着姿の少女は、それでも顔に苦悶の色を浮かべることはなかった。

 クサビさんは十分強いという話だ。やはり、八重子さんが化け物じみていると言うことだろう。

「おい、どうなってる……!」

 篠本さんは二人の間に割って入る。

「おい、お嬢!」

「あはは、大丈夫ですよお付きの方。私は別にあなた方と戦いに来たわけではありません。無論、どうしても戦いたいなら死なない程度の戦闘不能に追い込みますが」

「はっ、ほざけ」

 鈍く光る刃が非現実王に向けられる。

どうやら引く様子のない篠本さんを見て、八重子さんは露骨に困った顔を僕に向ける。

「久東さ~ん、どうしましょう……」

「いや、僕に話を振られても困るわけだけど……」

そんないきなり話を振られると、ほら。鬼の目線が突き刺さる。

「お前……知り合いなのか」

 その目には若干の敵意が混ざっている。当たり前だ。クサビさんをここまでの状態にしたのは八重子さんで、僕が殺されそうになったことを知らない篠本さんからすれば、僕が八重子さんを呼び寄せてここを襲わせたように見えるのも仕方のないことだ。

「えっと、とりあえず説明するから落ち着いて聞いてくれよ?」

「ああ、じっくり聞かせてもらうとも」

 刀を納めた篠本さんに安堵するも、その後、数時間にわたり事情を説明することになり、結局睡眠は一時間程度の長さまで短縮されてしまった。





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