第二十二話 疑念
レンが誰かを感染させる。
今まで考えていたようで、意識からは完全に外れていた思考だった。
「そ、そんなことをレンがするはずないだろ?」
思いついた言葉をそのまま口にした。獰猛な麗人が嗤う。
「お前、アイツの何を知ってるんだ?」
「何、を……?」
声が上手く出ない。
その通りだった。何も知らない。僕は、魅上色夜を何も知らない。
「それでも、僕はレンを信じている」
「信じる信じないは勝手なんだがな。まあ、それはアレを見てからにしてもらおうか」
「アレって、なんだよ」
篠本さんが指をさす。その方向にはただ暗闇が広がるばかり。静かな森は、僕から言葉を奪う。
「ここに来る時に見つけてしまったんだよな。ゆっくり歩いていたせいか追い抜かれてしまってね」
「…………?」
耳を澄ませると、風が木々を揺らす音、川の流れる音が聞こえてくる。それに混じってもう一つ。
荒い獣のような息遣い。苦しむようなうめき声。女の人の声だ。
「さて、行くか」
篠本さんは僕の手を引いて声の元へと歩き出す。僕は抵抗することもなく、引かれるがままにその足を進めた。
声は少しずつ大きくなる。僕はその声に覚えがあった。
「この声……水上さん?」
篠本さんは答えない。自分の目で確かめろ、とでも言うのだろうか。
声はどんどん近付いて行く。その声の、言葉の内容が聞き取れる距離に来た時、僕はその足を止めた。なおも足を進める篠本さんを引きとめる形になりながらも、その様子は男子が踏み込んではいけないモノだったのだ。
「うあっ……はっ、は……くあっ、あ、……ああ…………どうして……どうして……なんで治まらないの……?」
水上さんは木に背中を預け、虚ろに虚空を見つめて、自らの乳房を揉みしだいていた。
ノータイムで目を逸らす。
近くの気に身を隠し、小声で篠本さんに話しかける。
「篠本さん、これは一体どういうことでしょうか」
「どういうことも何も、あふれ返った性欲が抑え切れないって感じじゃないか?」
「どうして」
「……さっきから質問ばかりだな、久東。少しは自分で考えたらどうだ? その頭、別に空っぽってわけじゃないんだろう?」
「そうだけどさ……」
篠本さんの言った通りだった。どうやら、蟲床の話になると僕は脳みそを空にする傾向があるらしい。中身の入っていない卵になるらしい。
考えてみれば簡単なことだ。
篠本さんの話、水上さんの様子。繋ぐキーワードは『蟲』。症状を見るに、これは……、
「まさか、水上さんが、色ノ蟲に感染してるっていうのか?」
篠本さんの口角が吊り上がる。正解だ、と言われているようだった。
「だとしたら、どういうことが考えられると思う? どういう経緯で、水上が感染したと思う?」
「そりゃあ、蟲床の体液が…………レンが意図的に感染させるとは思えない。事故か何かがあった――――んじゃないか?」
「まあ、そこんとこの事情はよくわからないが、レンが何かの不注意で、誰かを感染させた、っていう事実は残るよなあ?」
「そっ、…………そうだけどさ」
甘い声が鼓膜を撫でる。女子のそういう現場に遭遇する、なんてことは今までになかった。あってたまるものか。心臓は暴れるのをやめてくれない。血液は下半身に集中する。こちとら男子である、こればかりは勘弁してほしい。
レンと水上さんは友達だ。普通の人間が、僕と同じような距離で接すれば感染するのは無理もないのかもしれない。
レンも、蟲床なのだ。
だが、それを仕方ないで済ませてもいいのか?
それでは、あの食ノ蟲感染者についてはどうする? 仕方ないのか? 感染してしまったのは仕方ない。故意ではないのだから、仕方ない。
それが人を殺したとしても。
普通のことだから、仕方ない。
僕は、とんでもなく自分勝手な考え方をしていたんじゃないのか……?
「ほら、アイツ苦しそうだ。お前が治めてやればいいじゃないか」
「何を馬鹿なこと…………ちょっ、待て待て待てうわっ!」
肩を掴まれ、強引に木の陰から押し出される。
見てしまった側と見られてしまった側。気まずい空気が一瞬にして広がる。
――――普通なら。
「はへ……? く、とうくん?」
「あ、ごめん、な? あの、その、すぐいなくなるから」
「あは、は……そんなにあわてなくても、いいのに」
とろけた目。水上さんは僕を見ているかすら定かではない目で、少しも動じた様子はなかった。明らかな異常だ。彼女はこんな性格ではない、はずだ。
「あの、ね。私、おかしいんだ。身体が火照ってね、治まらないんだ」
水上さんは白いジーンズの中に手を入れた。何かを探るように動かすと、その手をジーンズから抜いて、僕に見せつけてくる。
くちゃっ
暗闇に、粘着質な水音が響いた。
「ごめん、ね。変態だって、思ってるよね。男子の前で、こんなこと。でも、ね? だめなの。どうして、かな。こんなこと、今まで、なかったのに、どうして、どうして、どうしてどうしてどうして……」
うわ言のように言葉を並べ、自らの欲求を満たすために手を動かし続ける水上さん。
見てはいけないのだろうが、僕はその光景から目が離せなかった。
決して淫靡な光景に興奮してのことではない。ただ、彼女が恐ろしかったのだ。
その様子は症状こそ違えど、食ノ蟲感染者と同質のものだ。
「こないの……これだけシてもこないの……ぜんぜん、だめ、だめなの。なんで? なんで、だろう。ねえ、くとうくん、くとう、くん」
甘い声が僕を誘惑し始める。
そして――――、
「一回ヤっちゃえば、楽に、なるかなあ」
――――そうなるのが当然であったかのように、一線を超えた。
水上さんは助けを乞うように僕の足にしがみついてきた。
「み、水上さん! 待て! 落ち着いてくれ!」
「ごめんね、ごめんね、友達が好きな人なのに、なのに、治まらないから。こんないい匂いがしていたら、ダメだよ、ダメ、ダメ、ダメ……」
言葉が徐々に繋がりをなくして行く。
いい匂い……。そういえば、蟲床は甘い匂いがするんだったか。僕も主ノ蟲の蟲床だから例外ではない。……その匂い、だよな?
考えている合間にも水上さんは僕を求めて、快楽を求めて僕の足から腰、腰から胸へと手を這わせる。
その手は僕の口元まで伸び、指は唇をなぞる。
指から香る雌の匂い。それを感じ、その手は先ほど、あの粘液を弄んでいた方だと気付く。
色欲が、世界を支配していた。
「水上さん、正気に戻ってくれ。じゃないと、きっと後悔する」
「は……あ、は……匂い。たまんない。すごい、特に――――ここかな」
「っ!」
水上さんはさも愛しげに、僕の内ももに右手を這わせ、ゆっくりと左手を股間に添えた。
そこで、何かがぷつんと切れた。
僕は下半身に取りつく水上さんを抱き締めた。
「おお? 久東、どうした? お前も性欲の限界か?」
篠本さんが実験動物をからかうように嗤っている。
「ん、久東、くん……? もっと、もっと近くに……」
水上さんが息を一層荒くして僕の頬を舐める。
「――――ああ」
僕の声は凍えたように震えていた。水上さんの体温や柔らかさで温かいけれど、声は何故か震えていた。
僕は女性が得意ではない。どうにも得意ではない。
それは話題であったり、性格であったり、ふれあいであったり。必要以上に精神が疲れてしまうからだ。女性抵抗力が低い、というのは自覚していることだ。
それでも、レンに出会ってからは、篠本さんと普通に会話するようになってからはこの抵抗力のレベルは上がっただろう。
まあ、だがしかし今回の出来事にレベルが追いついているかというと、それはない。
理性は圧倒的な揺さぶりを受けているし、危うく水上さんに恋愛感情を持ちそうなくらい頭は桃色一色ではあるのだけど、僕の脳内には常日頃から一言、冷静な言葉が堂々と居座っていやがるのだった。その言葉という奴はレンと会話してる時や、今日の篠本さんとの桃色イベントが繰り広げられている中でも、ずっと繰り返し再生されてきた言葉だ。
まあ、つまり。何が言いたいかというと、だ。
「なんのエロゲーだこれはああああああああああああああああ!!」
僕は衝動のままに、どこかのプロレス技よろしく、水上さんを抱き上げてそのまま、その頭をブリッジの要領で地面に叩きつけた。
柔らかい地面ながら、鈍い音がした。
「………………」
篠本さんが茫然としてその状況を見ていた。「え、逆切れ?」という顔をして僕を見ている。
水上さんは…………動かない。だが、口元に手をやると、静かな呼吸が確認できた。死んではいない。
「お前……女子なのに容赦ないな」
篠本さんがドン引きしている。確かに自分でも今の行動はどうかと思う。少なくとも女子に向かってすることではない。男子に向かってすらそうそうすることではない。
「キャパシティオーバーだよ。これ以上は無理。理性がエマージェンシーだ。やるなら一撃必殺。暴れる暇なく仕留めなきゃ、さ」
僕は親指の皮を歯で噛み切り、一滴、水上さんの口の中へと赤い雫を落とす。ちなみに、この行為。漫画で見たのを思い出してやってみたのだがこれがもの凄く痛い。洒落にならないくらい痛い。もう二度と漫画の真似はしないと決めた瞬間だった。
「これで、水上さんは正気に戻る、はずだよな」
「蟲床の感染者だったら、そうだな。媚薬だったりしたら無意味だが」
「媚薬って……それこそエロゲーでもあるまいし」
「…………久東、お前エロゲーやったことあんのか?」
「ご想像にお任せするよ」
「うあっ!」
唐突に水上さんの身体が跳ねる。恐らく食ノ蟲感染者と同じだろう。これが終わるころには水上さんは元に戻っているはずだ。
「ゔ、あっ、あああああああああああああああ!!! あ、ひっ、あ、あ、あっ」
「大丈夫……だよな?」
水上さんは過呼吸を起こしたように苦しげで、目を見開いて僕の腕を力いっぱい握り締めてくる。食ノ蟲感染者の時と様子は違えど、苦しんでいるという点ではまったく同じだ。
「感染して一ヶ月以上とかならもう少し苦しいんじゃないか? よくは知らないけどな。症状出始めならすぐに治まるだろうよ」
その言葉が信じられない程度には水上さんの身体は暴れ狂っていた。僕は手を押さえつけて、自傷行為に走らないようにするのが精一杯だ。医療知識に手を出していなかったのが悔やまれる。
「助けて……助けて……! 熱い、身体、熱い、熱い、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ……!」
「水上さん……」
手を握ってやると、虚ろな目がこちらを向いた。目尻に涙が浮かび、手を握る力が増す。
苦しいのだろう。出産の痛みに耐える妊婦のようだった。ただし、苦しみの果てにえられるものは、ただ一つの感動すらないわけだけれど。
「くとうくん……?」
「ああ、そうだよ。久東錬次だ。ここにいる。大丈夫、すぐに治まるからね」
そう声をかけてやると、水上さんは安心したように目を閉じた。手の力が抜ける。症状が治まったのだろうか。わからない。
人の死を見たようで、堪らなく不安になった。
僕の不安を感じ取ったのか、篠本さんの腕が首に巻きついてきた。
「お疲れ、だったな。蟲の処理は終了なはずだ。オレが知ってる、文献に書かれた通りならな」
安心させるため、だと思ったら最後は不安をむしろ煽る篠本さんクオリティー。本当に良い性格をしているというかなんというか。最初に知っていた性格なら優しさのベールで包んでくれたろうに。妄想である。
「やめてくれよ、こっちは必死だ」
「そう睨むなよ、睨むならもっと相応しい相手がいるだろう?」
「…………レンか?」
「他に誰が?」
ため息が洩れた。これから事の真相を確かめなければならないのだ。
水上さんが感染していたことはレンですら知らない可能性がある。……というかそうでなければならない。もし、知っていて放置していたのなら、僕はどんな顔をして彼女と向き合えばいいのか、わからない。
可能性はいくらだって考えられる。いくらだって。
「健康診断あったろ。あの時に間違って同じ針回したとか」
「そんなことがあったらあの保険医はクビだな。あの先生だって一応はプロだろう。そんなヘマ、考えられるかな?」
「…………とにかく、訊いてみないことにはわからないってことだ」
半ば強制的に話を打ち切り、水上さんを背負い上げた。その場に留まっていると、そのまま動けなくなってしまいそうで怖かった。
森は真っ暗で、今まで普通に歩いてきたのが不思議だった。
「錬次っ……!?」
レンが血相を変えて走り寄って来る。
水上さんをテントの中へ運び、レンの腕を引いて再び森の中へと潜る。すれ違った篠本さんは愉快なものでも見るように笑みを浮かべていた。
正人から十分離れ、周囲に人がいないことを確認して、レンに向き直る。
「あの、鳴葉はどうしたんですか」
暗がりに連れ込まれるというシチュエーションでそちらに思考が回らないのを見ると、落ち着いているようで相当焦っているらしかった。
「……蟲に感染してた」
「蟲……? 食ノ蟲ですか?」
「…………違う」
「じゃあっ…………!」
レンの表情が消える。きっと僕は一生忘れることが出来ないだろう。それくらい、レンは酷い顔をしていた。
僕に答えを求めるまでもなく、気付いてしまったのだ。
それは、当たり前だから。
「そう、ですか。色ノ蟲が、感染していたんですね」
「…………そうだ」
言葉の重みを確かめるように、レンは動かなかった。
ただ静かに、その毒に身を浸らせて、痛みを必死に耐えている。
関われば、これが当然の結果だったからだ。
「私は、ぬるま湯に浸かり過ぎていたのかもしれませんね」
「心当たり、あるか?」
「…………鳴葉とは毎日顔を合わせていますから、可能性は十分にあるでしょうね。感染は体液の粘膜接触。前に錬次に話した通り、血液は確実…………ですが、唾液での感染も可能性は低いとは言え、ないとは言えません。ほぼあり得ませんが……百パーセントではないです」
レンは自嘲するように笑い、苦しそうに言葉を紡いでいた。
情けないことに、何も言えないし、何も出来ない。思いつく行動や言葉、全てが場違いのように感じられた。
白い小さな蛾が一匹、レンに惹かれるように僕たちの頭上を舞っていたが、やがて逃げるように闇に溶けて消えた。
「私のせいです」
「そんなこと、ないんじゃないか」
「色ノ蟲を感染させることが出来るのは、私と姉くらいのものです。あとは、欲ノ蟲を管理している、お義父様、でしょうか」
レンの口から家族のことが聞けたのは、これが初めてかもしれなかった。
気になりはするが、今は何も訊くまい。その関与をさりげなく触れるだけに。
「お姉さんって、学校に関係していたりしないのか?」
「しませんね。私の交友関係も知らないはずです。基本家に引き籠っていますから。……それに、蟲自体は使えませんし」
訊くまいと決めたというのに、その決意はあっさりと折れた。
「…………そういえば、お姉さんは蟲床なのか? 前の戦いでの生き残り? 蟲が使えないって」
「まあ、はい……。そうです、ね。姉の身体にもう蟲はいないんですよ」
――――最初を除いて一度も成功していない実験。
篠本さんの言葉が脳裏をよぎる。篠本さんは知らなかっただけなのか? 成功例がまだいることに…………。
「じゃあ、お姉さんは不老不死、なのか」
「違います」
すぐさまレンが否定する。
「姉は、逃げたんです。そして、子供の産めない身体になった。それだけです」
「逃げた? それって」
「蟲を、取り除いたってことですよ」
蟲を取り除く。そんなことが可能なのか。……しかし、容易ではないのだろう。レンが実行していないのがその証拠だ。
レンはすぐにその答えをくれた。
「もっとも、それは簡単ではありませんがね。色ノ蟲だからかろうじて成功したと言うべきでしょうか」
「それは、どういうことだ?」
「……蟲の位置ですよ。前に話したと思いますが、食ノ蟲は胃や腸、睡ノ蟲は脳、色ノ蟲は子宮に、それぞれ寄生しています。人体への影響が少ないのは、明らかに色ノ蟲でしょう?」
「なるほど……いや、でも、それじゃあ」
「そうです。姉は、子を産めない身体になりました。まあ、命に比べれば安いモノですよ」
レンの表情は暗い。何が安いものか。
「安くなんか、ないだろ」
知らず、声は震えていた。どうやら僕は少し怒っているらしい。
……らしい、というのは随分他人事であるけれど。
「非現実の対価、という奴ですよ。非現実は憧れるモノではあれど、触れていいモノではありません。しかし、非現実は本来かける時間や豊富な知識、つまり、面倒なプロセスをショートカットして結果に結び付ける。望む結果は膨大な利益。失敗は致命的な損。目の前にすれば起こる欲求の誘惑。不可能を可能にしてしまう、運命を狂わせるモノ」
語るレンの声は呟くように小さかった。物音を立てず、ただ聞いていることが、僕に出来る全てだった。
「要するに、私たちはいつ死んだとしても、それはおかしなことではない。むしろ当然だと言えるでしょう、ということですよ」
「どうして、そんなことを言うんだ」
「言い訳ですよ…………死んだ時のね」
レンが僕の胸に身をゆだねてくる。その身体はただでさえ細いというのに、今は枯れ木とさえ思えるほどに、脆く思えた。
自然と、レンを抱きしめていた。
「錬次……もし、もしですよ? 私が道を誤ったとしたら、その時は錬次が殺してくださいね」
「そんなこと、出来るわけないだろ。僕を人殺しにしたいっていうのかお前は」
「無論、ないに越したことはないですけどね」
「……馬鹿。ない以外にはないだろうが」
「…………でも、私は錬次になら殺されてもいいんですよ。いえ、違いますね。錬次には、私を殺す権利があるんです。十分な、それこそ万人が納得出来る、そんな当然の権利が」
レンの頭が胸に押し付けられる。少し泣いているように見えた。夜の闇が、そう見せているのかもしれないけれど。
「殺す権利なんて、人間にはないよ」
「そう、でしょうか。それはとても悲しいことのように思えます。私は――――命を奪われるのなら、あなたの手がいい。他の感染者や、くだらない宿命に殺されるよりは、よっぽど美しい」
「死ぬことに美しさなんて必要ないだろ」
こんなことを言いたいわけじゃない。どうして僕は肝心なことが言えない?
これじゃあ、レンを救うことが出来ない。彼女の考えを変えることは出来ない。とっさに浮かんだ言葉をただ並べ立てるだけじゃあ、彼女の心に触れられない。
恐らく、僕が忘れているらしい記憶。それを思い出しさえすれば、あるいは……。
「…………信じて、とは言いません。しかし、私は鳴葉に感染させるつもりはありませんでした。ただ…………いえ、馬鹿馬鹿しいことですね。すいません、忘れてください」
「――――確かに、馬鹿馬鹿しい話ではあるよなぁ?」
「「!?」」
突如暗闇に響いた声。それは先ほどまでずっと聞いていた、乱暴だが美しい女性の声。
枝を踏む音が近付いてくる。風が吹き、木々がざわめく。漆黒の天井が割れ、月明かりが僕たちの周りを照らす。目の前には、闇に解けるような黒髪を揺らす篠本さんが迫っていた。
暗い笑みを浮かべる彼女は、断罪を宣告する死神の様に見えた。
「――――篠本、涼子」
「そう怖い顔すんなよ魅上。何も、ここでやり合おうってわけじゃない。こんな、分の悪い状況じゃあな」
レンは篠本さんの本性を知らないはずだが、さほど驚いた様子はない。
…………感づいていたのだろうか。思い返せば、何度かヒヤヒヤする場面はあった。どの時点かはわからないけれど、もしかすると、出会った時から……すでに。
僕は何も言えないまま、その場に固まっていた。
「それにしても、その程度の覚悟でよくもまあ、この争いに参加出来るもんだ」
「この争い……ということは、やはりあなた、蟲床ですか」
「へえ、律義に守ってくれたわけかい――久東」
「…………」
レンの顔が見られない。罪悪感で胃の中の物を吐きだしてしまいそうだった。
レンが僕の身体を離れ、篠本さんと向き合う。
「その程度の覚悟で、と言いましたか」
「ああ。気に障ったかな?」
「いえ、そんなことは。確かに私の覚悟というものはあなたには到底及ばないのかもしれません。まあ、私はあなたの覚悟なんてものは毛ほども知らないわけですが」
敵意を剥きだしにしてレンが篠本さんを睨みつける。この腹の底から冷え切りそうな雰囲気、一度経験がある。そう、あれは最初、僕とレンがぶつかって出会った時、正人に見られた時……。
あの時の状況と今の状況はどうしても繋がらないけれど……。
「へえ、そういう顔も出来るんだな? 伊達に長年仮面は被っていないってか」
「……言っている意味がわかりませんが」
その瞬間、篠本さんが声を上げて笑う
「あははははははっ! ……………そうか、わからないと来たか」
獲物を追い詰める猛獣の目が闇夜に光る。
言いようのない不安だけが胸にへばりつく。
「いや、本当に無意識なのかもな。蟲の影響でもないのに妙に盛った振りをするのも、そうやって大人しく良い子を演じているのも。オレは知っているんだよ魅上色夜。オレたちがどういう生き物なのか、知っている」
「よくわかりません」
「…………ふん。おい久東、たぶんお前は何も知らないだろうから教えてやる。魅上家についてだ」
「…………っ」
レンが顔をしかめる。聞いてはいけない話、なのだろうか。しかし、篠本さんの言葉には耐えがたい誘惑がある。止めることは、少し難しい。
もしかすると、レンの事を知る機会であるかもしれない。そう思ってしまうと、単純なことに胸は期待感で埋まっていた。
「まあ、隠すようなことでもないだろう? 魅上家と深い関係にあった久東家が何も知らねえってのもおかしな話じゃねえか」
「僕の家が、魅上家と?」
「ああ、そう言えば以前は適当に話したんだったか……どこまで……ああ、そうだった。確か、久東家の研究がどうのこうの、ってところだったか」
「……ああ」
「じゃあ、その続き、補足をしてやるよ。少し長いがな」
そう言うと、篠本さんは近くの木に寄りかかり、大きくため息を吐きながら言った。
レンは…………別段それを止めようとはしていない。いや、僕の信用を失わないためにはここで聞かせないわけにはいかない?
そう考えてから、驚いた。
僕は、いつの間にかレンを疑っていたのだ。
「さて、オレの知ってる範囲で話すが――――まず、久東家と魅上家は協力関係にあった。それは無論、欲ノ蟲の研究のため。恐らくは、蟲を体内から安全に取り除く方法や、不老不死についてだろうな。んで、そん中で久東家が研究対象として取り上げたのは……主ノ蟲。ただの伝承に過ぎなかったファンタジーな存在を、久東家は生々しい現実まで引っ張り上げた」
主ノ蟲の研究……。なんとなく想像出来ていた事だった。蟲床を解放する方法として用いられるのだから、研究対象となるのは当然だろう。魅上家と関係があった、というのも、僕を訪ねてきたレンの行動を見ればすぐにわかる。…………そういえば、最初から妙に僕のことを知っていた。
ふと、正人から聞いた、と言っておきながらその後正人が初対面のような反応を返したことを思い出す。そう、犬で騒動になった時。正人はレンの名を知らないようだった。あいつ、社交性は高いから人の顔っていうのはなかなか忘れないはず……僕が覚えられない芸能人の名前なんかを結構覚えていたりするし。いや、それを判断材料とするにはかなり怪しいかもしれないが……。
「おい、話続けていいか?」
「あ、ああ」
篠本さんに怒っている様子はない。むしろ機嫌が良さそうだ。なるほど、真の悪い笑みというやつはこれそのものかもしれない。
「――――主ノ蟲研究は進んだ。その成果は書物として記され、魅上、牙持、幻夢川の家に平等に分配された。これは『争い』の知識的戦力を平等化するためだが……まあ馬鹿な話だ。争わせておいて平等も糞もない。そもそも力が平等なら、勝敗なんて決まらない。やはり、研究に手を貸している魅上家の情報量は他の二家よりも多い。開示していない情報もあったろう。例えば、接吻で蟲の効力を弱めて行く、まあ、言わば蟲の治療法がどれだけ確実な方法だったか、とかな。薬の効き目を知ってるか知らないか、そんな違いだ」
「それは……確実ではなかったので。まずは、私が実験体です。研究では成功確率は五分だそうです。私で成功すれば、書物にも……」
「実験体……? それは聞いてないぞ、レン」
はっとした顔で僕へ振り向くレン。その顔には明らかな動揺の色が見える。
「そ、それは…………ですが、成功するかもしれない可能性を、潰すわけには」
「お前の意思はどうなんだ」
「私の、意思?」
「お前はこの方法で良かったのかって聞いてる。他の蟲床を殺すって方針なら生き残る可能性は上がるんだろう? 少なくとも、こんな博打よりは」
責めるような口調になっていただろう。恐らく僕は冷静じゃない。自分で思っているほどは、物を考えられていない。
僕の問いに、レンは静かに首を横に振った。
「繰り返されるんですよ、錬次。この争いは私の代が終わっても、いつかは必ずまた始まる。不老不死を、手に入れるまで」
この物言いから、以前篠本さんが言っていた、レンは「蟲床が不老不死を手にしたのは一度きり」というのを知らないわけではないようだった。
蟲床は失踪、もしくは死亡の運命が最も濃厚であることを、知っているのだ。
「生き残ることに、意味なんてありません。結果が全てです。……というとなんだか錬次は怒りそうですが、少し聞いて下さい。推理小説で犯人を取り逃がしたけれど、その場での出来事は終わりを迎えてしまって、主人公たちの知らぬところで新たな犠牲者が繰り返し出続ける話と、犯人を取り逃がし、その場での終わりを受け入れずに延々と犯人を追い続け、最後には逮捕して終わりを迎える話、どちらが好きか、ということなんですよ。それであれば、私は後者の方が好きだ、というだけのことです」
「…………それなら命を捨ててもいいと?」
「まさか、そうは言っていません。ただ命を懸けて人を守る、なんて行為が出来るほど、私は善人ではありません。私はただ――――」
そこでレンは言葉を止めた。言葉を選んでいるのか、それともその先を口にするのをためらっているのか。わからないが、その空白が僕に与えるストレスは相当なものだった。
汗が頬を伝い、顎から滴り落ちる。目の前のレンを見れば、僕に負けない量の汗がその白い肌を流れていた。
「ただ……錬次、と」
様子がおかしい。そう感じた瞬間、レンの身体が大きく傾いた。
「レン……!」
手を差し出すと、その中にレンの身体が倒れ込んだ。その場にしゃがみ、腕を枕にして寝かせるような姿勢をとらせる。額に手を当ててみるが、熱は感じられない。むしろ冷たいくらいだった。
「あ、れ、……すいません、錬次。大丈夫です。それより、話を……!?」
立ち上がろうとして足をもつれさせたレンを後ろから抱きかかえるように受け止める。僕の考える大丈夫とは程遠い状態だった。
「レン、もういい。話は後にしよう」
「ですが……」
「…………強引でごめんな。今日の分」
「…………っ」
それでも何かを喋ろうとするレンの口をくちづけでふさぐ。ただでさえ具合が悪いであろう所に追い打ちをかけるようだが、僕の目論見はは成功し、レンは静かに目を閉じた。
「目覚めならぬ眠りのキス、ってわけか? 王子様」
「うるさい」
冷やかす口調。真面目な話の途中によくやる、という意味もあるのかもしれなかった。
「さて、どうする? 話の続きはするかい?」
「ああ、当たり前だ。…………その前に、レンを寝かせてくるよ」
俗に言うお姫様だっこでレンを抱き上げ、正人が一人火をつついているであろうキャンプ地店へ向かう。
闇夜に隠れる木々をかわしてそこに辿り着くと、やはり正人が虚ろに火を見つめて座っていた。
「お……魅上さん、どうしたんだ」
「ああ、少し疲れたみたいでな」
「そっか」
正人は深く訊いてこなかった。…………普段うるさいコイツがこんな反応だと、少し不安になって来る。長い付き合いだからわかるってことか? …………ダメだ、に疑り深くなっているような気がする。
レンをテントの中に寝かせ、寝袋を開いて中に入れる。蟲の反発による苦痛は……わからないが、顔を歪めたりといった様子はない。
「…………ごめんな」
頬をそっと撫で、テントから出た。
「さて、どうする? 久東」
そこには篠本さんが仁王立ちしていた。
「どうするも何も、話は聞かせてもらうからな。わかっていたことだけど、僕はどうにも情報量が少なすぎるみたいだ」
「ま、そうだな。お前は知らな過ぎるくせに重要過ぎる存在だ」
「まったくだね…………」
…………篠本さん、まさか正人が見えていないのか?
当然のように目の前で話しているけれど、正人まで三メートルも離れていないけれど、そんなにべらべらと素の口調で話していていいのか……?
「どうした?」
そんな思考を読んだのだろうか、篠本さんがにやりと笑う。
「まさか、一般人には見えないなんてファンタジー言いださないだろうな」
「ファンタジー、ねぇ……。まあ、そんなことは言わないさ。あいつにオレは見えてるよ」
「……正人は知ってるのか? その、本性」
「……だとよ!」
乱暴な口調のまま、篠本さんは正人に話しかけた。
「…………なんのつもりだよ、篠本。どういう展開だ。たまには俺にも説明してくれ」
正人はそれが当たり前であるという風に、動じた様子は一切ない。ただし、多少迷惑そうに頭を掻いてはいるが。
「簡単な話だろ、正人。そろそろ隠すのも面倒になってきたんだよ」
「……ああ、そりゃ簡単な話だ。頭痛くなるくらい簡単で困る」
気だるそうに腰を上げて、正人は歩み寄って来る。
「正人……関係者、なのか?」
「なんだよ、関係者って」
正人はきょとんとした顔で僕の顔を見つめてくる。…………知らない? だとしたら、蟲床とは関係のないところで、篠本さんの素の姿を知っているということか?
「そんな回りくどい言い方じゃなくていいだろ? 率直に蟲を知っているのか、って訊けばいいじゃねえかよ」
正人はどこか諦めたように目を細めて笑った。
指先が冷たくなっていた。喉が渇く。口からはため息と共に小さく笑いが洩れた。僕は、いい加減疲れていた。
右手で顔を覆うと、少しだけ、落ち着いたような気がした。
「待て、待ってくれ。どういうことだ? 何がどうなってる」
「そんなに動揺することないだろう。コイツも関係者だったってだけだ」
「いつから!」
「最初から、に決まってるだろう」
「僕と出会った時から、ってことか」
正人に視線を向けると、黙って首を縦に振った。
僕と出会った時から、この争いは始まっていたということだろうか。正人は僕がそういう存在だと知って近付いていた? だとしたら、友情でもなんでもなく、今まで僕たちを結びつけていた関係というのは、重要人物の監視?
「…………ははっ、そりゃホモどころじゃないか。友達ですらなかった」
「おいおい! 別に俺は……お前との友情を否定するつもりはないぞ。いや、信じられないとは思うけどさ。ただ近付くために友達になんてならねえって。どうでもいい奴だったら、遠くから注意して見ていればいいだけだろ?」
「どうだかな……」
「……まあ、そうか。だろうな」
少なくとも、今は何一つ信用出来ない。全ては僕が無知すぎるのが悪いのだろうが。
そんな僕の様子を見て、篠本さんは声を上げて笑いながら正人の肩を何度も叩いた。
「はははっ、いやぁ、正人。ドンマイってヤツなのかな? …………最初から決まっていたことだろう」
「そうだな」
顔をしかめて正人は答える。
「どうして、僕に今教えた?」
「何を」
「蟲について。あと……正人との関係について」
「タイミングだったから、かな。いや、実はあまりよく考えてはいないんだ」
「その証拠に俺は知らないしな。まったく、ウチのお嬢様はいつも唐突で困る」
「オレのタイミングだ。犬のくせに文句言うなよ」
正人が舌打ちする。どういう関係なんだろうか。正人は篠本さんの家で執事でもしてるんだろうか。篠本さんの立場が上なのは間違いなさそうだ。
「まあいい。いいじゃないか。とりあえず、話をしよう」
そう口にするや否や、篠本さんは僕の腕に自分の腕を絡ませ、無理矢理引っ張りながら歩きだす。僕は足をもつれさせつつも、それに速度を合わせた。
「ちょ、ちょっと!」
「抵抗するなよ? もっとも、抵抗なんてさせないけどな」
もちろん、暴れるようなことはしない。篠本さんは話をすると言っていたし、そこに危険な要素は…………まあないとは言えないが、一応ないと見てもいいだろう。僕は重要人物の様であるし。
僕たちの後ろを正人がしぶしぶといった様子で付いて来ている。
森の中をしばらく歩くと、最初、僕たちがバスから降りた駐車場に出る。
そこには、この自然だらけの風景には明らかに場違いな黒いリムジンが月の光を反射していた。運転席には人が乗っている。
篠本さんは乱暴にリムジンの助手席後ろのドアを開け、僕を押し込んだ後に乗り込む。正人はそのドアを閉め、自分は助手席に乗り込んだ。
「出せ」
篠本さんがそう口にした途端、リムジンが後ろ向きに急発進し、僕はつんのめるが、襟元を篠本さんに掴まれ、後ろに強引に引き戻され、シートに叩きつけられる。
リムジンは綺麗な円を描いてターンし、この森の出口に向かって前進して行く。
「…………どこに行くんだ、これから」
「ん、まあ、心配するなよ。悪いところじゃないさ」
そう言ったきり、車内にはラジオが流れるだけになった。
しばらくして、急に睡魔が襲って来る。色々あった。疲れてもおかしくはない。
出来れば周囲の風景を念のため覚えておきたかったが、まぶたは欲求に素直に従い、視界に幕が下りる。
『連続通り魔殺人事件の被害者は――――続けており――――』
ぶつぶつと音切れが激しいラジオが、不思議と耳に残った。
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