第十五話 綺麗な花には
昼休み。朝の涼しさはどこへやら。サウナよろしく、人語を解する無数の肉塊が机の上で肉汁を垂らしながら転がっている。僕もその一人だった。
これなら運動という過程をすっぽかして匂いを確認することが出来る。しかし、汗だくの身体を嗅いで回る男子生徒など社会のゴミもいいところ。見落としていた大きすぎる問題は僕から完全に気力という二文字を奪い去っていた。
というか、よく考えてみれば女子って皆甘い匂いするんじゃねえの? なんて投げやりな発想も浮かんでくる。こうなるともうダメだ。
「いや、なんというか、あれだな。異常気象か」
正人が忙しなく右手を動かし、風を送りながら呟く。
「小さい身体だから、手の面積が小さい分早く動くのか。いいな、うらやましい」
「お前、ホントに大丈夫かよ? 自分で何言ってるかわかってるか?」
「わかってるよ。――――そうだ、女子の匂いを嗅ぎたいんだが」
「大丈夫か!? 主に頭的な意味で!」
正人が何やら暑苦しくツッコミを入れてくるのが実に鬱陶しい。やめてくれ。これ以上気温をあげるような真似はしないでくれ。死ぬぞ、これ。
「久東くん、大丈夫?」
篠本さんが正人と同じく手でぱたぱたと仰ぎながらこちらへ歩み寄って来る。ああ、チャンスだ。匂いを嗅げ。篠本さんの匂いを。あと少し、あと少しで。
篠本さんの方へ手を伸ばす。届きそうで、届かない。手の行方は熱にうるんだ視界のせいでぼやけてしまっていて、安全運転は絶望的だ。果たして、この人影は僕の手を取ってくれるのか。
その手が、ひやりと冷たい何かに触れた。そして、包まれる。
「ほら、私、体温低いから冷たいよ」
次にその冷たい何かは、汗ばんだ僕の頬にそっと触れる。すべすべとしていて心地いい。
「これ、何…………はっ」
――――――冷たい殺気を周囲から感じる。それも複数。
意識が急激に覚醒し、僕に冷静さを与える。そうだ、忘れてはいけない。奴らの存在を。
『ターゲットを排除しますか?』
『…………やれ』
『了解!』
そんな声がぼそぼそと聞こえてくる。今までの沈黙っぷりはどうしたんだ? だって、僕たちが昼食を摂り始めたのにも文句は言わなかったはずだ。
わからない。何故、彼らは怒りをあらわにしてるんだ? 何が彼らの怒りに触れた?
先ほどから触れている冷やかな物体を視認する。……手?
「――――しのもと、さん?」
「はい、篠本さんですよ」
この暑い中、涼しい笑顔を向ける女神。瞬時にああ、と納得してしまう。死んだな、と。
しかし、奴らも馬鹿ではない。女神が降臨なさっている今、罪を犯すことはしないだろう、と希望を抱いてみる。
「久東くん、ちょっといい?」
「へ――――?」
奴らの動向に警戒を払っていた僕は完全に不意を突かれて素っ頓狂な声を漏らす。僕の手が、篠本さんに握られている。その意味を理解した途端、顔が熱くなるのを感じた。今まで暑いと言っていたのが生ぬるいくらいの内から来る熱さ。
さらに、篠本さんは僕の耳に口を近付けて……。
「――――蟲のことで、相談が」
そのせいで、それを上回る冷たい感情が、熱とこのシチュエーションに呆けることを許さない。
言葉が出ない。喉の辺りにつっかえて、吐き出すことが出来ず、呑み込むことも出来ない。ただ、女神による無言の脅迫が僕を氷付けにしていた。
篠本さんの顔は、いつも通りに綺麗だ。けれど、今の僕にはその顔の裏に醜悪な何かがあるような気がしてならない。
本当に僕の勘は当たっていた。詰みだ。完全に気付かれていた。そりゃあ、匂い匂いとほざいていれば無理もないことか……。というか、そもそも朝のあの時点で気付いてたんじゃないか? 匂いでわかるのはなにも僕だけではないのだし。それで、隠さない潔さは篠本さんらしいというか。
両手をあげる。お手上げのポーズ。降参である。
篠本さんは満足そうに笑うと、教室の外へ出る。付いて来い、という事なんだろうが、果たしてそんな簡単に付いて行ってよいものか。
ガタガタッ
篠本さんがいなくなったことで、教室内の男連中が一気に活性化する。なるほど、つまりはすべて計算だったと、そう言いたいわけだ。
女は、怖い生き物だ。まさか、身をもって知ることになろうとは思いもしなかった。
相談室は不思議なことに、すんなりと僕を招き入れた。
何が不思議かと言うと、本来この部屋は開いていない。ダメな保険医が開けれたりはするけれど、生徒が開けるには鍵を借りなければならない。
使用者は言うまでもなく僕と篠本さんなので、この状況はおかしい。あの髭の気まぐれだろうか。
「早く入って。これ、秘密だから」
そう言って篠本さんが取り出したのはじゃらじゃらとうるさい鍵束。パッと見、十は付いているように見える。
「それって」
「この学校の各教室の合鍵。入手方法は秘密」
篠本さんは悪戯そうに人差し指を立て、唇に当て微笑む。初めて見る仕草だ。本来ならそれだけで舞い上がってしまう自分だったが、今は何一つ感じるものはない。――――何
一つではないか。僕は篠本さんに恐怖じみた感情を抱いている。
この先、どんな展開が待ち受けているのか。それを考えただけで気が気ではない。
それをわかっているのか、篠本さんは嬉しげにこちらを見つめている。
「ほら、早く」
急かされ、僕は相談室に足を踏み入れる。それと同時に僕の退路を断つように篠本さんが廊下へと通じるドアの前に立ち、「右の方」と二つある部屋の右側を指さす。
これがデフォルトなのか、部屋の中には前に左の部屋で見たのと同じように二つのパイプ椅子が対面するようにして並んでいる。しかし、その間には一つ、教室にあるような机が割り込んでいるというささやかなグレードアップ。
僕がパイプ椅子に腰かけると、篠本さんはゆっくりと相談室のドアを閉め、部屋に入って来る。対面するように座ると突然足を振り上げ、間の机の上に叩きつけた。つまりは足を組んだわけである。なるほど、この机はこのためにあったのか、と小さく納得。
すらりと伸びる白い足。もう少しで見えてはいけないモノが見えそうな際どさ。しかし、その一線は越えない。というか、見る余裕はない。
「――――で、話なんだが」
「…………はい?」
恐怖も忘れて、反射的に口から飛び出した言葉だった。
目の前の人物を確認する。少し、若干、微妙に目つきは悪くなっていないわけではないような気がしないでもなかったり……なような気がするが、でも、篠本さんだ。
今の声はいったい? ここには篠本さんと、僕しか存在しないはずだ、と念のため目だけを動かして周囲を確認する。……やはり、三人目がいるようには見えない。
「おい、何キョドってンだよ」
「あ、はい、え、……え?」
間違いなく、その声は篠本さんの口から発せられている模様。その声、口の動きとの一致から、腹話術でも使っていない限りは。でも、腹話術だと三人目がいるってことになるからそれはないな。とか、自分で解決してみたり。
当然ながらパニック。これほど強大なカオスに立ち向かうだけの心構えは残念ながらしていない。
「……と、少しキツすぎたか。まあ、楽にしてくれ」
「はあ」
楽に出来るはずがないのは篠本さんが一番よくわかっている。その上での発言だ。
それにしても、この豹変ぶりはなんだ? 口調変わりすぎだろ? これが本性とでも言いたげな雰囲気だ。しかし、そこに触れることはどうにも僕には出来そうにない。
ちらちらと目線を合わせたり、逸らしたりを繰り返している僕に向かって、篠本さんは不敵な笑みを向ける。
「大袈裟だな、久東。オレの口調が変わったくらいで。別に気にすることはないだろう?」
「…………いや? いやいやいやいや! 違いすぎるだろ! いや、違いすぎますよ?」
大声を出した時、一瞬かなり不機嫌そうな顔になったような気がしたので即座に言葉遣いは修正したが、どうやら気難しい性格のようだ。
口調が違うだけで篠本さんの印象がどことなく少年っぽいものに変わる。おかげで、いつものように好きな人、というイメージには
「そんなことより、蟲の話だ。こうして本性を晒してやったんだ、知らないとは言わせない」
「…………まあ、知らないこともない、けど」
篠本さんの口から「蟲」という単語が飛び出した瞬間、背中を何かが這いまわるような悪寒に襲われる。指先は冷えているというのに、手には汗を書いている。怖い。一時は紛れた感情が再び重くのしかかる。
それに、口調が変わった篠本さんはなんと言うか、別人だ。
口調だけじゃない。考え方が違う。そんな気がする。もちろん、想像ではあるけれども。
篠本さんは艶のある黒髪をなでつけ、余裕の表情で僕を見ている。ああ、なめられている。十中八九間違いなく。
「どこまで知ってる?」
「それを簡単に話すほど僕だって馬鹿じゃない。それにいざ争うとなったら危ないのは篠本さん、君の方だろ」
「主ノ蟲、かい? 確かに直接争えばヤバいのかもしれねえけど――――」
篠本さんは黒く四角いモノを机の上に置く。何かの機械――――スタンガン?
「別に、血にまみれる死に方である必要はないんだよ。まあ、そっちの方が楽ではあるが、今回に関して言えば多少の手間は惜しまない。なに、そのままやるか少し待ってからやるかの違いだ。安全第一に考えるならそれくらい。――――で、話す? 話さない? オレはどっちでも構わないけど?」
「――――っ」
落ちつけ。パニックになったらあっちの思うつぼだ。冷静に考えろ。
篠本さんはスタンガンを見せる必要はなかった。隠しておいた方が僕に警戒されにくいのは間違いないのだから、それは少しおかしい。
だから、この脅しは忠告。別に争うつもりはない。ただ、どこまで知っているのか、それを知りたいのかもしれない。…………憶測の域は出ないけれど。
「…………僕から話を聞いてどうする。正直役立つような情報があるとは思えないけど」
「まあな。情報に関してはお前らを見てれば大体わかる。聞くまでもない。わかりきってるさ。オレが訊いてるのはお前のコトだ。お前がどこまで知っていて、蟲をどう思うのか。なんで、魅上に付いているのか」
「どうして、僕のことなんか」
「お前、知っているんだろう? 欲ノ蟲同士の争い、殺し合いのこと。その上で最も重要なのが主ノ蟲の蟲床であるお前の立ち位置だ」
篠本さんは足を組み換え、退屈そうに髪を指に絡ませる。
「僕の立ち位置は、知ってるんだろ?」
「ああ、大体は。ただ、お前の口から聞かないとな。これだけ脅してるんだ、本心が聞けるだろうよ。そうは思わないか?」
思わないか、とか言われても困る。状況の流れに身を任せているようなものだし、確かに感染者を野放しには出来ないとは思うけれど、何故レンなのか、と聞かれればよくわからないと答えるしかない。
とりあえず、当たり障りないところから答えよう。
「――――争いは、良くないんじゃないか。争わなくても一応解決は出来るんだろう?」
「残念。オレは正攻法で不老不死を狙う。諦める気はさらさらないし、妥協もない」
「どうして」
「今、それを質問する立場にお前はない。一方的に答えろ」
スタンガンから規則的な電流の音が流れる。ごくり、と唾が怯えて胃の中へ。篠本さんの瞳は得物を捉えようとする猛禽類のように鋭い。
「お前のこの争いについての考え方はわかった。なんとなく、オレの方には付いてくれなさそうなことも。じゃあ、次。お前はなんで、蟲を受け入れた? 魅上をキチガイだと思わなかったのか? 実際、オレだったらそんな頭の可哀そうな奴の話は十秒だって聞いてられないと思うぞ?」
嘲笑を浮かべながら、不思議そうな声で問う篠本さん。
何故信じたのか。それはどうにも僕には答えられそうにない。強いてあげるとすれば、過去の出来事。あの蝶が現れなければ、あそこでそのまま死んでいたなら、信じるどころか、その話を聞くことさえ叶わなかったのだから。
「やっぱ、久東家の関係なのか?」
黙っていると、篠本さんがそんなことを訊いてくる。当たり前のように、どうせ知っているんだろ? とでも言いたげに、呆れたような顔で。
もちろん、僕はそんなこと初耳だ。
「そ――――」
待て。詳細を訊くべきか? このまま知っている体で話を進めた方が情報を訊き出せるかもしれない。
口はぱくぱくと、地上に打ち上げられた魚のように開閉を繰り返すのみ。すぐに訊いてしまいたい。――――だが、呑み込め、今は耐える時だ。きっと。
「……そうだ」
「ふん、聞かされても拒む手はあっただろうに。つまんねぇ選択したな、お前。これを生き抜いた後は研究を継ぐんだな――――それで、また繰り返すわけだ」
研究。そういえば、確か月夜兄さんは研究職に就いていたはずだ。なんの研究かはわからないけれど、そう。あの日のサプライズパーティーはその日々の苦労を労う意味も兼ねていた。
仕事が一段落した。そう、父さんと母さんが嬉しそうに呟いていたのを覚えている。
月夜兄さんの研究は、蟲に関するものだった……? じゃあ、僕が蟲に関わるようになったのも、偶然ではなかったってことなのか?
「繰り返すって……?」
「なんだ、聞かされてないのか? まあ、繰り返される悲劇の詳細なんて子供に教えることじゃあないか。最初を除いて一度も成功していない実験なんて、自分の無能さを晒すだけだものな」
月夜兄さんのことを馬鹿にされていることに怒るべきなのだろうか。しかし、今はそれ以上の衝撃が僕の心を揺さぶっている。
最初以外成功していない? それはつまり、
「最初の一人を除いて、蟲床は死んだってことか……?」
「……詳しくは知らねえが、たぶんな。この性質の悪い不老不死争奪戦を境に、その蟲床たちは姿を消してる。どこかで別の実験に使われてるって噂もあるにはあるが……そこら辺はよくわからん――――で、たったこれだけ聞くだけで、随分とお前の中のイメージは変わったんじゃないか? 生き残ってもいいことはないかもしれないし、死ねばそれまでだ」
「でも、そんなのわからないじゃ」
「わからないな。可能性の話だ。だが、こんな話が上がるってことは、証拠はないにしろ、そう思わせる何かがあったってことだろ? 火のない所に煙は立たない」
「その話……レンは……知ってるのか?」
「さて、な。夢物語を信じてるくらいだ、知らないのかもしれないな。いや、知っているからこそ縋っているのかもしれないけどな……」
今の話をレンが知っていたとすれば、彼女はずっと絶望的な気持ちを抱いていたんじゃないか? 普段の態度でごまかされて、僕は本当の彼女を、魅上色夜を見れていなかったんじゃないか? 見えない涙があったかもしれない。聞こえない叫びだってあったかも知れない。しかし、それを隠していたのは、他でもない、レン自身で…………。
「おい、考え込むのは勝手だがな。オレの要求に答えてもらいたいんだが」
「あ、ああ。悪い」
「まったく、あの女のどこがいいのやら…………む、やっぱあの細い身体の方がいいのか……?」
「あ、あの……?」
「ふん、まあいい。で、どうするんだ? オレのモノになるか?」
「……………………は?」
本日二度目の驚愕はいとも簡単に訪れた。
僕は二度三度とその言葉を脳内で再生、逆再生、二倍速、三倍速とまあ混乱しまくった末に普通に再生してようやくその意味を受け取ることに成功した。
「ドウイウイミデ?」
「納得したような顔してその反応はなんだ? 舐めてるのか?」
「いや、そういう意味ではなく…………」
「…………主ノ蟲は、この争いで重要な戦力になる。体液接触っていうリスキーな争いを避ける上でな」
「ああ、そういう意味で……」
「言えたことじゃないが、口調がここまで変わった相手にドン引きしないで、そんな顔を赤らめられるのはお前くらいだと思うぞ……」
「うぐ……いや、ごめんなさい」
いくら口調が変わったとは言え、篠本さんは相変わらずの美人だ。こんなシリアスな場面でなければ、また新たな魅力に巡り合ったと喜んでしまっていたかも………それはないか。
しかし、徐々にこの口調が少しずつ篠本さんと一致していく感覚があるのは確かだ。
「で、どうなんだ?」
「お断りする」
僕はきっぱりとそう言い放った。我ながら気持ちいいくらいの断り方だ。
篠本さんの顔色をうかがうと、当たり前だな、とでも言いたげな微笑を浮かべて野獣のように目を輝かせている。……何か変なスイッチを入れてしまっただろうか。
「そうか…………ふふ、まあいい。まだ時間はある。でも、出来ることなら早い方がいいけどな」
「…………レンを裏切ることは」
「出来ないか? 結論は焦らないことだ。知ったつもりでいた人物に隠された一面というのは、必ず一つや二つはあるものだからな。オレのように」
確かに、というのは心に留めておくことにした。
「じっくり考えて、レンを選んでみせるよ」
「おいおい、いいのか? そんなこと敵の前で言ってさ」
「攻撃は、しないだろ」
「さあな? 甘く見られればどうするかわからないぞ」
篠本さんはその言葉の割には穏やかな笑みで、僕の足を机の下から軽く蹴りあげてくる。これが地味に痛い。
「今の時点ではオレのほうに付くメリットは情報だけだからな。懐柔できるとは思ってなかったさ――――蟲に関わってるのは久東家関係じゃないってのはわかったから収穫だったよ」
「なっ……!?」
「わかるって。あからさまに意味不明って顔してたからな」
じゃあ、それをわかった上で情報を与えてくれたってことか。貸しを作った、とでも? 篠本さんは楽しげに笑っている。
「……礼は言うよ」
「ほう、そうか。じゃあ、この話は魅上にしないってことくらいは守ってくれるかな?」
「…………わかった」
「よろしい。罪悪感を感じることはないよ。お前は脅迫されただけだ」
じゃあな、と篠本さんは席を立つ――――しかし、すぐに何か気が付いたように声をあげ、こちらへ振り向いた。何故か、口調を元に戻して。
「久東くん、私に付く特典、もう一つあったよ」
「?」
「ほら」
篠本さんはそう言って、その柔らかそうな二つの塊を寄せ集めて、大きく揺らした。
どうも、桜谷です。寒くなってきましたね。
今回の回、篠本さん無双ですね。篠本さんは一言で言えばおっぱいキャラですかね。おっぱい。
個人的にはレンちゃんが好きなんですよ。もうね。好きなんですよ。
しかししかしだがしかし。この後に少しぶっとんだキャラクターを登場させる予定です。
どうぞ、よろしくお願いしますね。
ご意見、感想等をお待ちしております。
今回はテンション高めでお送りいたしました。
 




