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蟲床フラストレーション  作者: 桜谷 卯月
第一章 非現実への入り口
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第十四話 判別

――――ねえ、お兄ちゃん。私、お兄ちゃんと結婚するね。

 

幼い頃の誓いの言葉。恥ずかしげもなく、それが禁断とも知らず。その純粋な愛情はいつしか消え去る運命。そうなるべき感情だ。

けれど私は、そんな夢を大きくなった今でも胸に抱いている。

結婚でなくてもいい。傍にいられるだけで、それだけで。それほどに兄が好きだった。

きっとこの感情はあの時に焼き付いたモノ。決して離すまいと手繰り寄せた、私の残滓。

この心もいつかは消えてしまうのなら、今この時を兄に捧げよう。

お兄ちゃん、大好きだよ。



「……なんだ、これ」

 目を覚ましたのはベッドの上。開いた窓からふわりと涼しい風が入り込む。温かな白い光。爽やかな朝だった。だというのに。

「なんて夢、見てんだろうな、僕は」

耳にこびりついた声はなかなか離れようとしない。いつもならその役目は眠気のポジションなのだけれど。

身体を起こすと微かな吐き気と頭痛。顔をしかめつつ立ち上がり、そこで自分の服装が昨日のままであることに気が付く。

「ああ……そうだったな」

 足は風呂場へと向かう。その過程にある玄関を目に入れることはなんとなく避けたいところではあるけれど、下りた真正面が玄関なので到底無理な試みである。僕には目をつぶって階段を下りられる自信はない。

 玄関へ辿り着く。昨日散らかっていた靴の群れは整然と並んでいる。レンがやってくれたのだろうか。そもそも、僕はあの後どうなったのだろう。気付けば寝ていた状態だったし。

「迷惑、かけたかな」

 その言葉の後、すぐに周囲を警戒する。こういう言葉に耳聡(みみざと)いのがレンである。しかし、彼女は現れず、代わりに外から小鳥の声がそんな僕を笑うように聞こえてくる。

 早足で風呂場への道を急ぐ。――――そこには異様な光景が広がっていた。

「――これは、いったい?」

 思わず思考が声になって這い出る。こんなもの、朝っぱらから見たら誰だってそうなるだろうという光景だ。わかりやすく言うならば、僕が目を逸らすべきは玄関ではなく、風呂場だった、ということ。

 昨日の男と思しきおっさんが、風呂場の前に布団で簀巻(すまき)にされて転がっていたのである。

「大丈夫、なんだろうか、これ」

 主に、僕の安全的な意味で。蟲の感染者というものがよくわからない以上、気軽に起こしたりなんかは出来ないわけだが……さて。

 とりあえず、簀巻のままで我慢してもらうことに決定。起きるまではこれと言って問題はないだろう。

「しかし、放置して風呂に入って、出てきたところ襲われても困るよな……」

 全裸のところを襲撃。打つ手なしだ。赤子の手を捻じるがごとく。

 とかなんとか言いつつ、ちゃっかり脱衣を終えた僕は服をたたみ、洗濯かごに放り込む。一糸まとわぬ姿。ここで男が起きれば通報されかねない。……立場逆転してないか?

 馬鹿な考えを振り払い、風呂場へ入る。

「あー…………はあ」

 水音で満たされた脳内に浮かぶのは昨日の出来事。夢のように曖昧で、本当に夢だった、と言われて信じるレベルに曖昧で。目の前にある半透明のガラス板一枚向こうにいる男の存在を確認したとしても、あれはただの酔っ払いだったのでは、と疑うほどに信じられない。

 しかし、事実だ。僕は確かに、襲われた。風呂場でリラックスした状態だというのに、外を警戒せずにはいられない。

 そうしてシャワーのお湯を頭からかぶりながら外を睨みつけていると、一つ、影が揺れる。――――まさか。

「おいおい、冗談だろ…………!」

 急いで周囲に武器になりそうなものがないか確認する。しかし、あるものと言えばこのシャワーと、カミソリくらいのものだ。さすがにタオルを武器に入れるのは舐めすぎだろう。昨日体感した感じ、そんな生易しいものではない。

 この、目の前で立っている影が、先ほどまで布団に(くる)まっていた男だとするのなら。

 僕が焦るのを嘲笑(あざけわら)うかのように、風呂の戸はいとも容易く影の侵入を許してしまう。とっさにカミソリを手に取る。血液が有効なら、繰り返せばいいだけの事……!


「あー、入ってました? すいません気付きませんでー……って錬次何してるんですか!?」


 が、僕の危機感は一瞬にして霧散する。風呂場に入ろうとしている影の正体は、バスタオルを巻き、一応は隠して僕との入浴をしてやろうと計画したのであろう、色欲フルスロットル乙女こと、レンさんだったのである。

「自殺、ではないですよね」

「脅かさんでくれ、こっちは敏感になってるんだ」

「すいません、気が回りませんで…………敏感?」

「変な所に反応するな。簀巻にしてそこ並べるからな」

 顎でその例を示す。レンはそちらをじっと見つめ一言。

「これ、正気に戻ったらどう言い訳しましょうか…………」

「本来なら言い訳される側なんだけどな……と言うか、記憶はないのか? その、感染者の感染している間の」

「なんとも言えませんが、完全に思考が食欲に満たされていたのですから、覚えていることと言えばお腹が減っていたことくらいではないかと。なので、目覚めた時にこの状況だと身に覚えがなさ過ぎて通報されるかもしれないですね」

 はた迷惑なおっさんである。襲ってきておいて、自分は被害者だと。しかし、まあ事実なのは揺るがない。この男は蟲のせいで食欲に狂っていただけなのだから。――――待て。

「なあ、レン。そういえば、コイツ、ニュースでやってたヤツなのか」

「…………否定はし切れません」

 答えをためらうようにレンは顔をしかめる。

 もし、あの、人を食う殺人鬼が目の前に簀巻にされている男だとするのなら、いくら知らないとは言え、その犯した罪を無かったことにするというのは果たしてどうなのか。

 あまりにも、殺された人が報われないじゃないか。

 しかし、僕は至って冷静にその現実を受け止めていた。仕方ない。そう思えていた。身体は温まっていても、その胸中は氷のようだった。

 仕方ない。仕方ない。仕方ない。難しいことは考えず、余計なことは追求せず。それは、どうにもならないことなのだから。

 怒りに身を沈めるよりも、どうすれば被害にあった人たちに報いることが出来るのか。それを考えるべきではないのか。

 望んではいないとはいえ、関わった者として。

「錬次…………」

「でも、この人がやったと決まったわけでもないし、やっていたとしても悪いのは蟲、だよな。僕は正義の断罪者じゃないから、何もしない」

「それでいいんですね」

「いいよ。変に過剰反応したところで解決するわけじゃないしな。それより」

 シリアスな話題も一段落したところで、レンに向かって一言、言いたいことがあるのだった。言いそびれていたこと、と言えば誰でもわかるだろうが。

「堂々と風呂に入って来るな」




 テレビを点けると、ニュースキャスターは早速僕の知りたかったことを早口に告げる。例のごとく、殺人事件。手口は同じく、新たな犠牲者。

 これが風呂場にいる男の仕業なのかはまだわからない。考えてみれば、感染者が一人や二人ではなく、既に数百人単位で街中を歩き回っている可能性だってあるのだ。我ながら嫌な考えではあるが、あり得なくはない。

 僕たちは家から出る前に男を家の前に放り出し(簀巻のままではさすがにアレなので外して)、いつも以上に厳重な戸締りをした。

 と言うわけで、気分的には異常事態の余韻に浸かってはいるが、いつもの登校風景である。朝の気温が連日続く猛暑を否定するかのように涼しい以外に変わったところはない。隣で歩くレンなんてすっかりいつものペース。そもそも、風呂場のノリから既に通常営業だったな、コイツは。

「――――怒ってますか?」

「は?」

 なんて考えていたものだから、レンからのこんな質問は意外だったというか。

「なんで、僕が怒るんだよ?」

「自分でもわかっているんですよ。危機感が足りない、緊張感が足りないって。私、昨日、感染者相手に冗談半分に対応したでしょう? 今朝だって」

 藍色の瞳が静かに語る。確かに不相応な態度だとは思ったけれど、癇に障るようなことはなかった。そう言ってやりたいけれど、レンはこの問いに返事を求めていないように思えた。

「すいませんでした」

「――――――」

 返答に詰まる。何を求めているのか、理解できない。僕にどう答えて欲しいのか。

「……でも、あそこで緊張しすぎていたら、死んでいたかもしれない。その点では、レンのあの態度も役に立ったんじゃないかな、たぶん」

 とっさに出たなぐさめの言葉は信じられないほど優しい声音。自分の喉から出ているとは信じがたい。

 だから、僕は電線の上でさえずる小鳥なんかを眺めて、極力レンを意識しないよう努め歩いた。

 無言の間。実に耐え難い。


「――あれ? 久東くん?」


 不意に背後から響いた声。聞き違えるはずもない、朝の空気に染みわたる凛とした響き。

 反射的に振り向くと、やはりそこには僕の想像した通りの人物が立っていた。

「篠本さん! って、なんで? 篠本さん、ここ通学路なのか?」

 腕時計を見る。登校時間はいつもと変わらない。僕は平常通りで、今まで篠本さんに出会うことがなかったのだから、篠本さんが道を変えたか、時間帯をずらしたかのどちらか、なのだけれど。

「昨日は親戚の家に泊まっててね。いつも通りとはいかないから早めに出てきたんだけど、そこで久東くん発見というわけ」

 朝に相応しい爽やかな笑顔を向けてくれる篠本さん。さすがに「篠本さんマジ天使!」とか叫べるほど僕のテンションは高くないのだけど、それでも十分に癒された。昨日の出来事におけるストレスを帳消しにしてもいいくらいには。

「――――そっちの子は、誰?」

「……へ? あ、ああ」

 なんだ、この感じ。前にも感じたことがある。いつだ? 

「――――魅上です。初めまして、篠本涼子さん」

「ああ、そう」

「……レン?」

 妙な空気だ。どんどん冷え込んでいく。鳥の声も消えた。

 レンが本名を名乗ったこともそうだし、篠本さんの態度もおかしい。この二人の声はさながら刃のように、向けられる視線を切り刻む迫力がある。

 僕はその刃をすんでの所でかわし、腹の中にずしりと重い何かを感じつつ、その様子を観察している。

 二人の間に何かあったのか? いや、レンは初めましてと言ったのだから、二人の間に交流はなかったのだろう。じゃあ、何故、こんな今にも殺し合いを始めそうな空気を作りあげているのだろう。

「魅上さん、ですか。久東くんとはどういうご関係で?」

「別に、どういう関係でもありませんが、そうですね。あえて言うとするならばとても親しくしていただいています」

 レンは僕の手を取る。それを見た篠本さんは口元に薄く笑みを浮かべ、目元にかかった長髪を手で払った。

「そうですか。私も久東くんのお友達なんですよ。仲良くして下さいね」

 にこやかに、笑う。けれどたぶん、表面上のモノ。僕でもわかるほどに、その顔はレンに対する嫌悪にあふれていた。

 これが、篠本さん? あの明るく凛々しい彼女と、同一人物なのか?

 僕のそんな思考を読み取ったかのように篠本さんはこちらへ顔を向け、いつも通りの笑顔を向ける。いつも通り? 彼女のいつも通りとは、どんな顔だったか。

 明るくて、格好良くて、皆のあこがれの的になっていた、あの笑顔は。いったいどんな顔だっただろう。

 先ほどの表情が印象深すぎて、脳内のフィルムは所々がかすんでしまっていた。

「じゃあね、また教室でね。久東くん」

「――――ああ」

 走り去る音が聞こえる。どこか遠く、反響するように。「――――じ」頭が痛い。吐き気がする。ぼんやりとした意識はどこかあの時に似ている。「れ――! ――んじ!」左手の蟲が蠢く。ぐずぐず、ぐずぐず。まるで、ここは居心地が悪いとぐずる子供のように――――

「――――錬次っ!」

「…………え?」

 呼び声と共に引き戻される意識。小鳥が心地良さそうに鳴いている。

「急にぼうっとして、どうしたんですか?」

「あ、ああ、いや。――――レンと篠本さんは、仲が悪いのか?」

「いえ? そんなことはないですよ。恋敵(こいがたき)ではありますが、初対面の相手にケンカ腰になることはありません」

「でも、名乗った時さ」

「……あのですね、私が誰にでも『レン』と名乗るかと言えばそれは違うんですよ? 初対面の相手に、親しくもない人に向かって名前で呼べというのは、なんとなく気が引けたので、魅上と名乗らせていただきました。確かに、少しむっとしたのは否定しきれませんが」

 そうか、考えてみればそうだ。別に普通のことじゃないか。そもそも僕はレンが他人に自己紹介をしている所を見ていない。綾とは既知の仲だったし、正人には僕から説明した。

 過去の比較対象がないのだ、違和感なんて、感じようがない。

 でも、なんだろうか。その時、確かに不穏な空気を感じたはずだ。

 今にも、殺し合いそうな。嫌な予感を。

「なあ、蟲床って、特徴とかないのか? 目に見えるモノ、見えなくても、何か」

「? 急ですね――――私を見てわかる通り、目に見えてわかる特徴というのはないですが、強いて言うなら匂いが違いますかね」

「匂い?」

 レンは一つ頷き、僕の方へと身を寄せて来る。

「嗅いでみて下さい……真面目な話ですよ」

「わかってるよ」

 とはいえ、どこを嗅げばいいのかわからない。頭、でいいのだろうか。首というのはさすがに少し抵抗がある。そもそも、匂いを嗅ぐという行為そのものに対して。

 僕はそっと、レンの頭に鼻を近付ける。身体が近いせいか、傍から見れば僕らは抱き合っているように見えるかもしれない。

「どうですか?」

「どうって、言われてもな」

 正直、わからない。女の子の匂い、としか表現できないのが現状だ。ほんのりと甘い蜜のような香り。ずっとこのままでいたくなってしまうような依存性のありそうな匂い。

「甘い匂い、かな」

「はい、そうです。それで合っています。その匂いは蟲床同士のみ、感じ取ることのできる匂いです。錬次からも同じような匂いがするんですよ」

 自分の腕を嗅いでみる。まったくわからない。自分の体臭というのは気付き難いというけれど、全くわからない。

「これは汗腺から分泌されるので、そうですね、平常時なら脇とか性器とか、運動すれば嫌でも感じられるでしょう。どうです? 嗅いでみますか?」

「スカートに手をかけるな。いいよ、運動した後にわかるだろう」

 思い返してみれば、嗅いだことのある匂いだったように思う。確か、昨日、暑い中レンを背負った時に。

「これと同じ匂いが感じられるって言うんだな?」

「はい、ほぼ同じはずです。本来の体臭もあるので多少は違うかもしれませんが」

 甘い匂い。もう一度、レンの頭に顔を近付ける。何度も、刻み込むように息を吸う。

「あの、錬次? さすがに私でもそこまで熱心に身体を嗅ぎまわられるのは少し恥ずかしいというか、ですね、聞いてますか?」

「少し我慢してくれよ。可能性は一つ一つ潰していかないとな」

 そう、もう心に決めていた。僕は篠本さんを疑っている。だから、確かめなくてはならない。そうしないと、気楽に好きな人、だなんて言えない。

 意図的に一般人に蟲を感染させて事件を起こす。どんな理由があるにせよ、その行為は悪役のやることに違いない。彼女がもしその犯人だとしたら、僕はどうするのだろう?

 嫌いになるのか、それとも許してそのまま好きでいるのか。また、その二択以外が存在するのか。

 篠本さんがそうなワケではない。しかし、僕は心のどこかで、言いようのない確信があった。


どうも、桜谷です。

今後もゆるりと更新して行く予定です。末永くお付き合いいただければ幸いです。

ご意見、感想等よろしくお願いします。

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