第十三話 感染者
結局言葉通り、レンは僕の家まで付いて来て、以前寝かせた部屋が気に入ったと言ってそのまま寝てしまった。図太い精神である。
ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン。
毎度おなじみというか、玄関のチャイムが鳴る。やかましく鳴らさないあたり、成長したのだろうか。
重い足取りで玄関まで歩いて行く間、チャイムは一定のテンポで鳴り続けている。
確かに連打されるよりはマシだが、これはこれでうるさい。もしかすると、趣向を変えた嫌がらせだったのだろうか。だとしたら、見方は再び改めねば。
「わかった。開けるから、それやめろ」
しかし音は止まない。無感情な機械音が家中に響いて、実に不愉快だ。これは早く開けて、アイツの嫌いな冷水を頭から二リットルほど振りかけてやる必要がありそうだ。
僕はとりあえず、靴ベラを装備して扉の前で息をひそめる。さあ、酔った頭にドッキリサプライズだ。僕の秘剣を喰らってもらおう。
僕は勢いよく扉を開け、靴ベラを(さすがに本気にではないが)振りかぶる。
「っておわあっ!」
しかし、驚いたのは僕の方だった。開くや否や、何故か倒れ込んできたのは見知らぬ男性だったのである。
…………どうしよう、状況が掴めない。
とりあえず、こういう場合は水とか持って来た方がいいんだろうか? 酔っ払い、なのか?
「あ、あの~、大丈夫ですか」
「う、うう……」
どうやら意識はある様子。これなら多少のコミュニケーションはとれるだろう。
僕は安堵に胸を撫で下ろし、急ぎコップに水を汲む。さすがに夏の水だから、キンキンに冷えているというわけではなく、むしろ生ぬるいけれど、まあ、この場合は飲み物を差し出すというコミュニケーションが目的なんであって、別にあの人の酔いが醒めようと醒めまいと知ったことはない。
とまあ、こんな感じに冷静に考える頭も整ってきたところで、僕は玄関に未だ倒れ伏す男性にコップを差し出した。
「これ、どうぞ」
「………………」
返事がない。ただの屍のようだ。
口までせり上がって来たそんな戯言は呑み込んで、僕は再びトライ。ネバーギブアップの精神ですよ。
「大丈夫ですか? 酔ってるんだったら飲んで下さい」
「…………?」
顔を上げた男性の目はうつろで、どこか夢の中を彷徨っているような感じだ。夢の国の住人かこの人。ネバーランドですか。永遠の子供ですか。
徐々に苛立って来た僕は(レンによる出費が思ったより痛かったという背景がある。だけどここで文句を言っても仕方ないので置いておく)少し乱暴に男の身体を抱き起こし、口元に水を持って行く。
「はい、口開けて下さーい」
「う、……あー」
口を開けたには開けたのかもしれないが…………いや、確かに僕が要求したことではあるけれど。赤子じゃないんだから、せめて自分で口を近付けるくらいはしてほしいものだ。
僕がコップを傾け、ゆっくりと水を流していくと、男の喉が規則的に動く。
「うぇっふぇっ、うごぁ」
「落ち着いて飲んで下さい。こんな所で吐かれたくはないので」
男の背をさすりながら、僕は少しずつ男に水を飲ませていく。
しばらくその動作を繰り返していると、階段を下りて来る音が迫って来る。
「? どうしたんです、錬次」
寝ぼけた様子で足取りのおぼつかないレンはふらふらとこちらへ近づいてくる。頼むから、これ以上手間を増やさないでほしいものだが。
「酔っ払い。どこと間違えたんだか知らないけど」
「なるほど、吐かれたら困るので早々に追い出そうという作戦ですね」
「……まあ、そんな所だ」
本人が目の前にいるんだから少しは配慮をして欲しいものだが、そこはさすがのレンさんですよ。
レンは僕の隣にしゃがみ込んで、何故か、のしっと身体を僕の方へ預けて来る。
「なんなんだ」
「いえ、私も寝過ぎて酔ったので。介抱して下さい」
「水風呂に叩き込む方向で構わないか?」
「…………冷たいですね。二つの意味で」
レンはどうやら本当に気分が優れなかったようで、少し拗ねたように水を飲みにリビングの方へ向かって行った。
まったく、最初からふざけてなければ少しは気にかけてやったというのに…………いや、どうかな。
「う…………あ」
「ん、大丈夫ですか? 意識ありま――――っつぅ!?」
一瞬何が起こったかよくわからなかったが、簡単なこと。酔っ払いに手を噛まれたのだ。
当然、驚いたし腹も立った。けれど、けれどもだ。酔っ払いだぞ? ちっとは寛容に……寛容に…………。
「いつまで、噛んで、るんだよ…………!」
「ぐぅううううううううう」
心なしか徐々に噛む力が強くなっていってるような気がする。なんか動物みたいな唸り声も上げてるし、さすがに悪ふざけが過ぎるんじゃないだろうか。怒ってもいい、よな? いいよな? だって、痛いし。まあ、大人ぶってたっていうのはあるかな。そりゃあね、僕だって大人ぶりたいときはあるのさ。でも、痛いからね。仕方ないさ。そう――――いい加減、我慢も飽きてきたところだ。
「この、やめろってのこの酔っ払いがっ!」
割と強めの力で手刀を男の頭を叩く。さすがに家族と同じ、というわけにはいかないので、綾に向けるものよりは威力を落としてある。
しかし、男は低く唸り、さらに強く僕の手を噛み締める。
冗談じゃ済まされないほど痛いんだが、これ…………!
「ちょ、なに、なんなんだよ…………!」
手を見ると、明らかに男の歯が肉に食いこんでいる。血がにじんでいる、ような気がする。痛い。食われる。食われる。食われる食われる食われる。
「錬次っ!」
レンが棒のようなもので男の頭を強打する。鈍い音が響いて、男は僕の手を口から放して、頭を抱えてうずくまる。
レンの手の中にあったのは麺棒だった。…………あれ? この家に麺棒なんてあったか?
「なあ、それって」
「え? ああ、これですか。私の私物です。錬次の知らないところで結構持ち込んでるんですよ。着実に引っ越しは進んでますね」
「おいちょっと待て。さりげなく引っ越しとか言わなかったか!?」
「そんなことよりも、手、大丈夫ですか?」
「ああ、だいじょ、うぶかなこれは。結構くっきり歯型残ってるけど」
「許せませんね。人の男をつまみ食いだなんて。私だってまだ食べたことはないのに」
「まあ、お前の男、というのはスル―するとして、お前の食べるは何か別の意味を孕んでいるような気がするんだが」
「気のせいです」
「気のせいか」
レンの言葉は語尾に星が付いていそうなほど弾んでいた。気のせいではない。
そんなことよりも。
「困ったもんだ、どうするよコレ。悪酔いしたおっさんはどこに連れてけばいいんだ? 警察か、病院か、はたまた保健所か?」
「面白さ重視で保健所というのも一興ですが、錬次。コレは酔っ払いではありませんよ」
むくりと起き上がる男を指さして、レンは平坦な声で言う。
それはいわゆる、シリアスという意味でもあったのだが。
「これは――――食ノ蟲の感染者です」
「……………………は?」
「――――がああああああああああああああああああああああああ!」
レンの言葉の意味が半分も理解できていない状況で、男の二度目の襲撃。やはり攻撃は噛みつきがメイン。というか、食ノ蟲とか言ったか? 言ったよな? さっきはともかく今は聞き間違えないぞ。
「それってまずいんじゃないか!?」
「ええ、なかなか」
「冷静に答えているということは何か良い案があるんですかねレンさん!」
「ノープランです」
お手上げとでも言う風に両手を左右に広げ、ため息を吐くレン。その間にも男はカチカチ歯を鳴らしながら僕に襲いかかって来ている。
「じゃあ、なんとか……ならないのか…………よっ!」
さながら映画でよく見るゾンビ。可愛く例えればくるみ割り人形。でもくるみ割り人形って結構えぐい。
とりあえず、男を足で突き飛ばす。思いのほか飛んで、男は扉に叩きつけられた。しかし、謝るか謝らないかは少し微妙なところ。正気でないとは言え初対面で蹴ってすいませんなのか、いきなり襲ってきたそっちが悪いんですよ、かの二択。
「お、おお、おい、どうしたらいいんだよ!」
「…………血を飲ませれば、元に戻る、と思います」
「と思いますって」
「死ぬかもしれないと言いたいんですよ、私は! あまり考えたくはありませんが……」
責める僕に言い返すようにレンは声を荒げる。
その剣幕に思わず、僕は黙ってしまう。真剣なのだ。冷静に見えて、彼女も相当焦っている。
蟲を体内に宿していて、ちょっと変わったところもあるけれど、レンだって人間だ。
僕と年の変わらない女の子。僕が怖いのだ、例え知っていても、怖いものは怖いはずだ。
それはきっと、僕の思い込みではないだろう。だよな?
「血液以外の方法は、あるのか?」
レンは腕を組み、しきりに左手の人差し指を上下に動かす。そして、眉間にしわを寄せたまま、僕の方を見る。
「あるには、ありますが」
「あるのか! それは生き死には関係ないんだな?」
「ええ、ないです、けど」
「どうしたんだよ、随分渋い顔してるけどさ」
「いえ…………まあ、そうなんですが」
レンは僕を見つめている。顔を見つめている。しかし、その視線は目から若干下のように感じられる。そう、口元辺り。
口元…………。
「…………お前が蟲から解放されるには、僕が毎日キスをする必要があるんだよな?」
「はい」
「僕の唾液には蟲を殺す、というか、身体を正常に治す作用があるんだよな?」
「……はい」
「つまり」
「…………はい、気は進みませんが。まさか、錬次にホモの道を強要するような事態になるなんて、思いもしませんでした…………くっ」
本当に悔しそうにレンは僕から目を背ける。いや、僕は現実から目を背けたい気分なんだけどな。あと、ホモって言うな。何故キスが確定してる。
「別に、唾液を入れればいんだろ? その、体内に」
「そうですね。正確には、粘膜に付着させる必要がある、ということですが。ああ、それだったら鼻でも肛門でもいいですね」
「後の方に言ったやつは相当アブノーマルだと思う。何故口を避けるためによりハードルの高い方にシフトせにゃならんのだ」
とにかく、粘膜接触をすればいというわけだ。見ず知らずのおっさんと。いや、わかってる。人命がかかってる、シリアスな場面ってことは重々承知してる。けど、さ、あれだよ。嫌過ぎる。
「……………………」
「…………唾を吐き捨てればいいと思います」
「そっ、そうだよなっ! 粘膜に唾液が付けばいいんだよな!」
とりあえず、玄関の扉に寄りかかって倒れている男にそっと近寄る。
口、は食われそうで怖いから、鼻だろうか。下半身は論外だ。
人差し指を口に含み、唾液をまとわせる。これを鼻の穴に差し込むというのも相当抵抗があるのだが、マシ、と言って納得するほかないだろう。
人命が。何度も確認するが、人命がかかっている。
「ああああああ」
「錬次、変な声が」
「わかってる。わかってる。言われなくてもわかってんだよ!」
「……ここにビニール手袋があったり」
「なにぃ!? それを早くっ」
「しません」
「………………変な希望を持たせるなレン。僕は真剣に覚悟を決めないといけない……!」
もう一度指を口に含む。今生の別れとでも言うかのように丹念に、爪の間まで丁寧に舌を這わせていく。
深呼吸。
「――――――」
レンが何かを言いかけたが、僕は何も聞かずに指を男の鼻の穴に差し入れる。
無駄のない、スマートな動きで、淀みなく指はその奥まで到達する。鼻の中の感触は、もう忘れたい。
「んあ」
男が反応する。
僕は即座に距離を取り、それを上回るスピードで、極の同じ磁石のごとく僕の指から距離を取るレン。少しだけ傷ついた。
「ああ、あああああ!」
「これは、どうなんだ?」
「どうとも言えませんね。一応効いているようですが、いまいち効力に欠けるかもしれません。せめて、意識を失うくらいでないと……さりげなく服に指を擦りつけないで下さい! いくら錬次でもやっていいことと悪いことがあるんですよ!」
「キレた!? まあ、仕方ない、それは置いておいて、どうすればいい? 血を与えるのか? この、勇気ある行動は無駄になると?」
「無駄ではありません。検証できました」
「気は収まらないけどな」
男は呻り声をあげ、下品に唾液を垂れ流す。つまりは先ほどと変わりない、ということだ。もしかすると、鼻に指を突っ込まれて怒っているかもしれない。怒りたいのはこちらも同じだが。
猶予はない。血液を試してみる他に道はない。この問題はここで解決しておかなければ、ニュースに出る犠牲者の数が増える一方だろう。
無論、この男が犯人なのかはわからない。
「レン、試すぞ」
「…………そうですね」
ためらいがちに返事を漏らす。僕の手と男の顔を交互に見て、頷く。
僕は急ぎリビングへ向かい、カッターナイフを持ち出す。ためらいがちに人差し指の上に刃を滑らせる。歯の食いこんでいく感覚と鋭い痛み。自発的な行動ゆえか、痛みは数割増な感じだ。
ぷつ、と赤い玉が指の腹に出来あがる。
「よし、来い!」
男は起き上がり、ゆらゆらと身体を揺らしている。後ろからは唾を飲み込む音が。近くに時計はないのに、秒針の音が聞こえてくるような気もする。
現実数秒、体感数分。指の切り傷が落ちつけとたしなめる。
男が足を踏み込んだ、瞬間。
「――――――ふっ!」
カウンターを入れるような形で血の出ていない方、右の手で男の腹を殴る。ダメージはあったのか、男は顔を歪め、身体を九の字に曲げてよろめく。ちなみに掛け声はなんとなく。
そして、少しためらったが、左手の人差し指を男の鼻の穴に差し入れる。
「ぐっ、毛の感触が妙に鮮明に……! つか、おい!」
「がああああああ!! あああああああああああ!!」
「ちょっ、怖い! 怖い怖い怖い怖い怖い! 助けて、レン様! いや、ホントに!」
歯がカチカチなってるのが、なんだか、ピラニアじみているというか、とにかく怖い! なにより、鼻の穴に指入れて押さえてるけど、コレ、思いっきり奥に入って行きそうで怖い!
「錬次、離れて下さい!」
どこから持って来たのか、レンがパイプ椅子で男に殴りかかる。男は僕から離れ、その場に尻もちをつく。
僕とレンは油断なく、男から距離を取る。
「……血液の効果が」
「大丈夫です。もう少しで出てくるはずですから」
「あああああああああ――――!」
男は暴れ回り、玄関にあるものを片っ端から薙ぎ払う。傘立てやら、消臭剤やらが僕の方まで飛んでくる。
しかし、そんなことに構ってはいられない。僕はレンを後ろに庇いながら男の行動停止を願って待つ。
「あっ……」
それはどちらの声だったか。男はようやく膝をつき、靴の散らばる玄関に倒れ伏した。
だらしなくよだれを垂れ流した状態のまま、白目をむいて。僕は恐る恐る男に近付き、完全に戦闘不能であることを確認。一つため息。
「これは……死んだか?」
「いえ、息はしています。気を失っているだけでしょう、たぶん。――――こんな風になるんですか、知りませんでした」
レンは興味深そうに、嫌そうに男を眺める。まるで自分の末路を見ているのかのように。
さて、どうするか。このままにしておくわけにも行かないし、だからと言って家にあげるのは怖い、外に放り出すのは人間としてどうかと思う。
男に噛まれた所がじわりと痛みを訴える。家には上げるな。そう言わんばかりだ。
「…………錬次、それ、皮は破られてないんですね」
「ああ、なんとか。そんなにやられてたら、今頃救急車を呼べと喚いている所だ」
「でも、そこがもし、ほんの少しだけでも出血していたなら、こんな苦労はなかったでしょうね」
「ああ、そうか。ここが少しでも出血してれば」
痛む個所を押さえながら考える。果たして、ここを怪我するのと、鼻の穴に指を突っ込むのではどちらがよかったのだろう。普通に考えれば後者かもしれないけれど……ふむ。
「―――あ?」
下を向いたところで微かな目眩。気付けば僕はその場に膝をついていた。立ち上がろうとしても、不思議なことに地面に縫い付けられたように足が動かない。まぶたがぴくぴくと別の生き物のように動く。空気が鉛のように感じられる脱力感。
「どうしました錬次っ!」
「い、いや、わからないん、だけど……」
近付いて来るフローリング。何やらレンの心配するような声が聞こえたような気がしたけれど、意識はどんどん闇の中へ沈んでいく。
やがて、プツリと糸が切れるように、僕は現実から断絶された。
どうも、桜谷です。ペースを上げると言っておきながらまったく上がらず申し訳ありません。上げる上げる詐欺でした。
夏の暑さはまだ残りますね。熱中症には皆さんお気を付けて。
それでは、ご意見感想などお待ちしております。




