第十一話 西條という男
熱気に包まれた教室。今日はこの夏で最高の気温だとか。
周囲の生徒は皆一様に机に突っ伏して死んでいる。もちろん、比喩表現ではあるが、この様子では一人くらい本当に死んでいそうなものだ。教師も今日に限っては寛容だ。
この中に蟲床(だったか?)がいるのか。まあ、このクラスの中ってわけではないんだろうけど、どうも落ち着かない。
それに、何故だろうか、何か足りない気がする。大事なものが、ぽっかりと抜け落ちているような。この教室に入った途端だ。
焦燥感に、虚無感。ぐるぐる回る感情が気持ち悪い。大事なことなんだ。大事なこと。それはわかるのに、何故わからないのだろう。僕は何をすべきなんだ? このままいつも通りの生活をしていてもいのか?
授業終了のチャイムが鳴る。僕を含め、教室内の生徒たちは微動だにしない。
結局、この状況はまったく解消されないまま、昼休みを迎えた。
「どうしたんだよ、錬次。今日は顔色悪いな」
「この暑さでだるくないってのはうらやましい限りだな正人。今度その身体構造を教えてくれ。たぶん、医療とかで役に立つ」
「口が回るのはいつも通りみたいだな」
正人はワイシャツの襟を掴んで動かして風を送っていた。ついでに手には焼きそばパンが半分ほど食された状態で握られていた。食べる、食べる、食べる……。
「うっ……」
思い出されるニュースキャスターの平坦な声。妙に鮮明に再生されるのはそこら辺が原因だろうか?
「ん? どうした? やっぱり体調悪いのか? だったら保健室に」
「いや、正人を見てたら」
「ケンカ売ってんのか? そうなんだな?」
うっかり「焼きそばパン」という単語が抜けて、ただの悪口になってしまった。まあ、正人も原因の一つかもしれないじゃないか。……無理があるか。
でも、少し楽になった、ような気がする。
「今日は暑いね」
「そう言う篠本さんは結構余裕だね」
「そんなことないよ? 私だって汗はかいてるし、だるくて授業も頭に入って来ないんだから」
そう言って篠本さんは胸元のボタンを一つ開ける。校則では禁止されているが、この暑さなら見逃してくれるかもしれない。この暑さの前には校則なんてもの、無力である。
綺麗な鎖骨のラインが現れ、周囲からは教室をさらに暑苦しくさせる視線が降り注ぐ。確かに篠本さんはだるいのかもしれない。人前で僕たちに話しかけてしまっている。これでいいんなら、それはそれで嬉しいけれど、この暑い中、さらに気温を上昇させるような事態は避けたいところだ。
「屋上行こう。屋上」
「ああ、そうね。どうもぼんやりとしていて正常な判断が出来てないみたい」
それは周りの人間も同じようで、彼らの目には僕たちの姿が映っていないようだ。僕らに向かう憎しみの視線がない。そして、代わりに呆けた顔が僕らを囲んでいる。素直に怖い。一人一人が不審者だ。
皆不審者、怖くないの精神だ。
「いや~、早く行かないと熱くて死にそう」
「……篠本、気付いてないんだろうなぁ」
「そうだな、たぶん。もしかしたら、実はいつもこんな感じで視線をシカトして生活してるんじゃないか? その方がこの鈍さに納得がいく。可愛いけど」
「いや、天然だろ。見てみろよ、篠本の顔。なんか、疲れた顔してるぞ」
「そっか、今日暑いからな…………でもそれじゃ面白くないだろうが!」
「面白さを求めんなよ……」
ふらふらと歩く篠本さんを先頭にして僕たちも同じペースでとろとろ歩く。
身体が融けてしまいそうな錯覚。肌をぬぐうと、手にびっしりと汗がこびりついて、錯覚とマッチしている。暑い、アツい。
不意にとん、と肩を叩かれる。緩慢な動きで振り向く。
「錬次」
熱気に涼風が吹き込む。どこからともなく現れたレンの声はそれほどに涼やかだった。
その姿は、やはり長袖の夏服(思い入れでもあるんだろうか)。白い制服が妙に輝いて見える。さながら女神と言ったところ。太陽の奴め。
「どうした、レン」
「これを見て下さい」
篠本さんと正人の動向に注意しつつ、これ、とレンが示すものに目を向けて、釘づけになる。
「こ、これは…………!」
「はい、そうです。これは氷。しかも、コンビニなんかで売っている割と大きな氷です」
レンはちょうど手に収まるくらいの氷を持っている。とはいえ、彼女の手の大きさは僕に比べて随分小さいので、そこまで大きいというわけではない。僕の口なら難なく入る大きさ。
僕の視線を感じ取ったのか、レンは爽やかに微笑み、小首をかしげる。わざとらしく。
「この氷、私の口には大きすぎて入りません。ですから、錬次」
氷を差し出すレン。暑さで鈍っている脳では口に入れたい、体中をこれで撫で回したいなんてことしか考えられない。彼女が言おうとしていることなんて、予想できるはずもない。
篠本さんと正人は――既にいない。先に行ってしまった。僕がいなくなったのにも気付かずに。薄情な奴らだ…………暑い。もうどうでもいい。
「貴方の口で融かして、私の口に下さい」
「わかった」
「? 断らないんですね?」
「早く、氷」
僕の身体は切実に冷気を欲していた。魚のように口をぱくぱくとさせる。恥なんて気にしない。どうせこの状況、誰も見ているヤツなんていないはずだ。僕らの行動を観察するよりも、机のわずかな冷たさを逃がすまいと頬を擦りつけたり、教室の戸の隙間から流れ出る風を受けたりと、彼らにとって大事なことがあるはずなのだ。
だから、ここで必死に女子が手に持っている氷が欲しいとせがんでいる僕の姿を見ている人はいないはずなのだ。
目の前でにやにやと笑う、彼女以外は。
「はい、わかりました。それでは、行きますよ? あ~ん」
「あ~…………」
言われるがままに口を開ける。
そして、滑り込んでくる冷気の塊。口から喉にかけて、冷たい水が這い落ちる。
いっそのこと、口から取り出して体中に擦り付けたい所ではあったが、ギリギリレンの要求を思い出し、それは踏みとどまった。
そう、ちょうどいい大きさになったら、彼女の口へこの氷が…………。
「あ~、だんだん冷静になってきた」
「後悔しても遅いですよ? 錬次は快諾しましたから」
「別に快くってわけじゃないだろ? だって、意識はもうろうとしていたわけだし。承諾したのは認めざるを得ないけどさ」
「文句は言いませんよね。はい、どうぞこの中に口移しで」
「この中って」
レンは目を閉じて、口を小さく開けて少しだけ舌を出している。この舌に乗せろということなんだろうか。そうなんだろうな。そうに違いない。
しかし。しかしだ。
「レン、これ、キスじゃん」
「そうですね。言われるまでもなく」
「倒れないのか?」
「……………………え?」
「考えてなかったよコイツ!」
レンははっとした顔で僕の氷を舐める口を見つめる。そして、少しだけ考えるようなそぶりを見せ……。
「錬次が介抱してくれれば問題はありませんよね?」
「諦めるという選択肢はないのか!?」
「だって、欲求不満なんですよ!」
「そんなカミングアウトされても困るわ! 一時の衝動に身を任せて後悔するのはよくあることだ。だから、もう少し考えてものを」
「知ってますか錬次。その一時の衝動、解消されれば、もの凄く気持ちがいいものなんですよ……?」
ああ、なるほど。涼しげに見えて、実は頭やられてたのか。よく見れば、身体がさっきからゆらゆらと揺れている。長袖なんか着てるから。
ゆらゆらと近付いてくるレン。素直に怖い。何が怖いって、目が。目が完璧にイッてる。そう、獲物を前にした肉食獣に非常によく似ている、気がする。
「お、おい、落ちつけよ? ほら、今じゃなくたっていいだろ? お前の事情は知ってるつもりだし、だからキスだって拒まない。今日中に一回するっていう話じゃないか。だから、今は」
「錬次、すいません。本当にごめんなさい。本当に、自制きかなくて」
「ば、やめっ、あ――――」
「本当、すいませんでした」
「やっぱりこうなるのかよ……」
背中でぐったりとしているレンを背負い直す。やはり軽いのであまり苦にはならない。ならないが、密着しているせいでとても暑い。こんな日じゃなければ最高だけれど、今だって決して悪い気はしないけれど、暑い。ほんのりと甘い匂いとかも漂ってきていて、けど暑い。
保健室に辿り着く。しかし、中に保険医はいないようだ。この学校に入ってから保健室なんて身体測定くらいでしか使わないから、どういう人なのかはよくわからない。もしかしたら、平気で職務を投げだす人なのかもしれない。
僕はベッドへレンを寝かせ、薄い布団をかける。これですら暑いかもしれないけど、一応。
レンは弱々しく微笑み、また一つ謝る。
「すいませんでした。もう冷静になりました。どうかして……はいなかったと思います。ごちそうさまでした」
「途中から開き直ってんじゃねえよ。これからどうすんだよ。昨日の感じからすると、三、四時間はこのままだろ?」
「いえ、二時間程度でも十分だと思います。昨日は寝てしまいましたから。寝転がっているだけで過ごします」
「いいよ、無理すんな寝ろ。二時間だったら確かに学校終わるくらいでちょうどいいな、とは思うけど、まだだるそうにしてるんだったら結局もう少し寝てろってなるから」
「その時はまた錬次の家で……」
「計算だったのか!?」
「ええ、あの氷の件から全ては始まっていたのですよ」
「な、なんて策士だ…………あれ? けどそれって僕に話したら意味ないだろ」
「いえいえ、既に錬次の中では私を家に連れ込むという計画が組まれているはずです」
「主犯は僕の脳みそだったのか!? 畜生、対処のしようがねえ!」
なんか、楽しかった。
とりあえず、篠本さんと正人にこの旨を報告して、お許しをいただくという方向で大丈夫だろうか。それとも、レンの傍にいた方がいいか?
「邪魔してすいませんでした。もういいですよ」
そんな思考を見透かしたかのようにレンは微笑む。病気でもうすぐ死ぬ人の笑顔みたいで、なんとなく嫌な笑顔だ。確か、祖母が最期にこんな顔をしていたはず……と言うと死ぬみたいな意味になってしまうのだがそうではなく。
その顔の裏にあるのは、寂しいという感情だ。
「いいよ、あっち行くのも面倒だし、ここで食べる」
レンに背を向けて座り、手早く弁当を開く。あとで二人には謝らないといけない。そして、篠本さん大好きな自分、ゴメン。自分の恋より病人優先しちゃってゴメン。
小さくため息を吐くと、後ろでレンが微かに笑った。
「本当に、相変わらず優しいですね。錬次」
本人は聞こえないように小声で言ったつもりなのだろう。それくらいの音量だった。けれど、今、保健室は図書室並に静かなので聞こえてしまう。
「(優しい、か)」
考えたことはなかったけれど、僕は優しいんだろうか。レンは久東錬次マニア、とか自称していたけれど、それはつまり、客観的な視点で僕をよく知っているということで。
だから、僕が自覚していないことがレンにはわかるんだろうか。
『――錬次は――しいね――――い――きだよ』
「っ!」
まただ。また、幻聴。それにしてはやけにハッキリと聞こえる、女の子の声。壊れたラジオから流れ出るような、ノイズ混じりの酷い音。けれど、どこか懐かしい。
言葉の一つ一つが、愛おしくて。
気付けば、僕の頬を一筋の水滴が伝い落ちていた。
「あ、れ……?」
手でぬぐうそれは、まぎれもなく涙。
悲しくはない。大声で笑ったわけでも、あくびを漏らしたわけでもない。ただ、零れ落ちた。
何故だろうか。意味のない涙に思えない。思えないのに、理由が思い付かない。
「なんか、女々しくてイヤだな……」
呟いて、今朝焼き過ぎたウインナーを口に運ぶ。うん、味に問題はない。
後ろからは、寝返りをうつ音と、静かな寝息が聞こえる。
静かすぎる、けれど。悪くはないと思った。
がらっ
だから、唐突過ぎるその音には、文字通り、飛び上がってしまった。
「ん? 人がいるのか」
入ってきたのは無精ひげを生やした白衣を着た男性(確か校医だ。名前は忘れたが)。気だるそうにウェーブのかかった髪を指で引っ張りながらこちらまで歩いてくる。
「悪いな、ちょっと喫煙室まで出てた。で、用件は……済んだみたいだな」
ベッドで眠っているレンを見てそんなことを言う。というか、喫煙室って、校医なのに随分と不健康な。あと、たぶんこの人は少しも悪いなんて思ってない。
「彼女か?」
「いえ、違います」
「それにしては随分と親身になっているようだが、まあいいか。興味もない」
男はすぐに僕たちに興味を失ったように視線を切ると、一つだけある机の方まで歩いて、デスクチェアに腰掛ける。
そういえば、男性の校医というのは珍しいらしい。
「容体とか聞かないんですか?」
「お前が何も言わない。落ち着いた様子だ。だったら焦って何があったかなんて聞く必要ないだろ。好きなだけ休んでいけばいい。この後サボり予定なら適当に理由付けてやる。成績がどうなってもいいなら、だが」
「嫌な人ですね」
「そりゃあどうも、褒め言葉だよ」
男は机の上にある紙を一枚手に取って、黙読している。
それにしても、全く名前が浮かんでこない。なんだったか、「さ」から始まったような気がしないでもないんだけど。
「「そういえば」」
ハモった。男同士でしかめっ面をぶつけ合う。
「名前か?」
「名前ですか?」
お互いに頷く。ここら辺は息が合う。もしかするとこの人とは仲良くなれるかもしれない。単純だ。僕は単純な人間なのだ。目があった女子は全員自分に惚れていると思いこむほどに単純。いいカモだ。いつか騙される。
…………盛り過ぎたな。
「じゃあ、そうだな。まずは大人の俺からでいいか。俺は西條瑛悟だ。教員紹介はされているはずなんだがな」
「僕は久東錬次です。僕も、校医って生徒の名前把握してるもんだと思いましたけ、ど。どうしました?」
保険医こと西條瑛悟は何故か顔を青くしてこちらを見ている。
「今、久東って言ったか?」
「言いましたね」
「お前、兄妹いるか? 特に、姉とか」
「いませんよ。厄介ないとこならいますが」
西條先生(一応先生だ。今気付いた)は顔をさらに青くして、忙しなく無精ひげを撫で始める。
ぞりぞりぞりぞりぞりぞりぞりぞりぞりぞりぞりぞりぞりぞりぞり……。
耳障りだ。
「あの、うるさいですよ?」
「いや、まさかな。でも、久東、久東かぁ……」
西條先生は落ち着かない様子でうろうろと狭い保健室内を徘徊している。僕の声は全く届いちゃいないようである。実に気に食わない。
「聞けよ」
だから、そっと進路方向に足を差し出した。
「うおっ! …………なぁにすんだこのクソガキ!」
間一髪、西條先生は僕の足にぶつかりはしたものの、軽く跳ねてかわした。いい年した大人がジャンプする姿って、すっげぇシュール。
まあ、それは置いておいて。クソガキ呼ばわりも置いておいて、だ。
「なんで、そんなこと訊いたんですか? 返答次第で警察に突き出しますよ。あの馬鹿に限ってストーカーなんてないと思うんですがね。一応」
「別に、なんでもねえよ。ほら、自己紹介の内だって……」
「(ピッ)もしもし、警察ですか」
「ってうぉい! 待て待て早まるな! ストーカーなんかじゃねえよ! てかまだ名前すらも聞いてない」
「綾です。久東綾」
「……………………はあ」
「(ピッ)もしも、」
「待て違う! なんでお前は手が早いんだ! お前、警察だけワンタッチなのか!?」
「いや、適当にボタン押してるだけですが。ほら、今ネット開いた」
「ざけんなよ……!」
この大人、からかうと結構面白い。年上をからかうというのはそれだけで優越感があるけれど、それだけでなく、この人には罪悪感を感じない。今、僕は輝いている。
「で、綾とどういったご関係で?」
「むっ…………その、だな。なんと言えばいいのか」
西條先生はまたじょりじょりと髭を撫で始める。どうやら、髭を撫でることで精神の安定を図っているようだ。音を聞いている限りでは、なかなか気持ち良さそうな感じではある。うるさいのは難点だが。
「元、いや、恋人だ」
「元?」
「恋人だっ!」
「そういえば恋人と変人ってかなり似てますよね」
「何が言いたいのかはあえて追求しないでおいてやる……で、恋人なんだが」
すっかり開き直った様子で恋人恋人と連呼する成人男性。僕が綾のいとこっていうのを忘れているんだろうか。
まあ、気にしないけれど。
そういえば、綾が騒いでいたような。
「実は、ケンカしてしまってな……」
「それは知ってます、イングリッシュ先生、でしたっけ?」
「イングリッシュ言うな! ってかなんでお前が知ってる!」
顔を真っ赤にして怒る、という行為が現実に拝めるものだとは思わなかった。
禁句だったのか。この人ちっせぇ……器が。
「あの、今ここで病人が寝てること忘れてません? うるさいし唾も飛んでるし、怒鳴るのをやめるか校医を辞めるか、どっちか選んでください」
西條先生は何か言い返そうとしたが、確かに正論だと思ったのか、口には出さなかった。
代わりに舌打ちと、憎々しげな視線を僕に向ける。
「ともかく、お前は、あの時電話に出たヤツで間違いないな」
「……そうですね。間違いないです」
「そうか、じゃあ敬語やめろ。お前、腹ン中じゃあタメ口だろ? 名前も、先生付けんな。少なくとも二人の時は、な」
「じゃあ、遠慮なく。西條で。確かに不思議とそっちの方がしっくりくるし」
異存はなかった。むしろ今までの方に違和感がありまくっていたくらいである。そういう雰囲気をまとっている人だ、この人は。
それに、西條という名前。何かが引っかかる。気のせいだろうか?
「場所を移す。相談室あたりでいいか?」
「僕は別にどこでも構わないけど。どこだろうと話す内容は変わらないし、声を聞いてうるさいのはどうせ僕だけになるだろうし」
「まあ、違いない」
保健室を出て、すぐ隣が相談室だ。中で二つに部屋が分かれており、その中は完全防音。外に声が漏れ出ることはない。
カップルの溜まり場、という噂は有名だ。しかし、鍵の管理は教師に任されているため、その可能性は低いのでは、という話。
西條は職員室に鍵を取りに行くでもなく、ただ、白衣のポケットに手を差し入れる。
「俺は意外と色んな鍵持っててな……まあ、これは秘密だ」
平坦な口調でぼそっとそんなことを呟くと、十センチ程度の鍵を挿し込み、ガチャリと回す。
中に入ると、痛いくらいの静けさに包まれる。
部屋はどちらも使用されていない。好き好んで来る場所でもないしな。
人が来ないせいか、廊下よりも少しだけ涼しい。
西條は左右ある部屋の内、左の扉を開け、中にあるパイプ椅子に気だるげに腰掛けた。
それに倣ってというわけではないが、僕もそれに対面するように腰を下ろす。
「さて、見ての通り人はいないし、防音も完璧だ。話してもらおうか?」
「そうだな、ここなら内緒話にもってこいかもしれないな。でも、昼休みの残りはあと十分しかないわけだけど」
「十分あれば足りるだろうが。俺の質問に淡々と答えればいい」
そう言うと、西條は咳払いを一つ。緊張した面持ちで言葉を絞り出した。
「そ、その、綾はなんて言ってた?」
「死刑確定」
「すまなかったっ! 俺が悪いのかどうかは知らないがすまなかったっ!」
突如土下座の西條校医。というか、僕に土下座してどうする。
「僕にされても困る。大体、悪いのかどうかわからないんだったら謝っても逆効果だろうが。しっかり理由を理解してからその作戦に及べばいいんじゃないか。いくらなんでもいきなり土下座は、その、見苦しい」
「正論、だな。確かに俺でもいきなり野郎に土下座されたら、その頭を踏みつけそうな気がしないでもない」
なんだよそのドS精神、というツッコミはさておき、話をきっちり十分で収めるために解決案を提示することにする。ホントに面倒臭い大人だ。
「とりあえず、一度会えばいいだろ。中継ぎくらいはしてやる。綾の話を聞く限りでは言いがかり、もしくは勘違いの線もぬぐえないしな」
「本当かっ!」
僕に縋りついてくる西條。傍から見れば生徒に縋りつく大人。もう、見苦しいったらない。靴にへばり付くガムのごとく。
見苦しいし、暑苦しい。
「離れろっ、この! 次、会う時までにいい言葉ストックしとけ。僕だって毎回家に乗りこまれて愚痴の相手になるのは疲れるんだから」
「あ、ああ。わかった。すまないな」
冷静になったのか、西條は大げさなまでのため息を吐いた。さながら受験が終わった後の学生と言ったところだろうか。
「なんだって従姉妹の恋愛事情なんて知らなきゃいけないんだか……あんた、大人だろうがよ」
「なんだって利用できるようになって初めて大人だ。ガキにはまだわからんだろうがな」
「泣きつくことを利用っていうんだったら、んなの理解したくもねぇよ」
西條が咳払いをすると同時に、昼休みの終了を知らせるチャイムが鳴り響く。
「んじゃ、戻る」
「おう、頼むな」
僕は名残惜しくも、涼しい相談室を後にして、暑苦しい廊下へと身を投じた。
溶けてしまいそうな熱気の中、そういえば、と思い出すのは。
すっぽかしてしまった、友人一人と惚れた女への謝罪文を考えねば、ということだった。
どうも、桜谷です。暑い日が続きますね。この作品の内容と良い感じに合う気温だと思います。
どうぞ、感想、意見等、よろしくお願い致します。




