第九話 夜道
「まったく、災難というかなんというか」
一人猫背で文句をたれながら歩いているのはまさしく僕である、という説明文が相応しい姿で僕はとぼとぼと夕暮れの道を歩いていた。
時刻はちょうど八時四十分を回ったところ。さすがに夏と言えど、かなり暗めの夕暮れである。もう夜と言っても差し支えないかもしれない。道行く人は――ちらほらと見受けられるが、僕のように若い人はなかなか歩いていない。
探しているわけでもないけれど。
なんとなく寂しいものがある。
僕は腕に下げたエコバッグ(僕だって環境には貢献しているつもりだ)をくるくる振り回しながら、深くため息を吐いた。
『私、お金持ってないから。てへっ』
そう言って買い物を拒否した綾はレンを抱え込んでソファに寝転がったのだった。まったく、てへっ、とか言うなよ殴るぞあの馬鹿姉。
空を見上げる。すると、視界の端に星が一つ、瞬いていた。
一番星、と思ったが、そうではない。気付けばかなりの数の星たちが僕を見下ろしていた。僕を見物にでも来たのだろうか。だとしたらかなり物好きな連中だ。
そういえば、この時間帯にスーパーやらデパートは開いているものなのだろうか。……まあ、八時だし。限りなく九時寄りでも一応八時だし。九時でも、開いているかもしれない。うん、ここら辺は別に田舎ではない。都会とも言えないが、きっと開いている。いざという時は、コンビニという名の二十四時間営業の便利な場所も存在している。……少し遠いけども。
「――――あら、久東くんじゃない?」
不意にすれ違った通行人が親しげに僕の名を呼んだ。
その風貌はパーカーについたフードですっぽりと顔を隠していて、いかにも怪しい――って、あれ、待て。聞き覚えがあったようななかったようないや絶対ある!
「その声……もしかして、篠本さん!?」
「そ、当たり」
フードが取り払われ、その顔が明らかになる。月夜に照らされた篠本さんの顔はどこか嬉しそうだった。
「何? 久東くん、散歩、じゃないよね。そのバッグ」
「そう、買い物。家でパーティーやるって流れになって、けど冷蔵庫見たら食材何もなくてさ」
「パーティーって、何かめでたいことでもあったの?」
「綾――いとこがやるって言ってきかなくてね。仕方なく」
「へえ、従姉妹…………一緒に住んでるんだ?」
「いや、勝手に上がり込んでくるだけだよ。酔っ払って」
篠本さんはくすくすと笑う。――――心中穏やかではない。馬鹿な姉に話題提供の件を感謝しなければいけないかもしれない。不本意ながら。
心臓が痛い。もう、動揺を隠すので精一杯である。二人っきり、というのはなかなかきついものがあるな……。幸福すぎて。
「そ、それで篠本さんは何を?」
「私? ちょっとした野暮用よ。別に大したことない」
がさっ、とビニール袋の音がする。手を後ろに回しているので見えないが、買い物の帰りだろうか。余計な詮索はしつこいと思われそうだからしないけど。
「一緒に歩く? 私は構わないけど」
「でも、逆方向だろ? 歩いてきたの、あっちからだし」
「いいのいいの。今日はそんな気分だから」
篠本さんは上品に手を口に当てて笑った。月の光が、彼女をより際立たせているような錯覚に陥りそうになるが、これは僕が勝手に目の前の光景を美化しているだけなのかもしれない。
だって、好きな人だから。惚れた相手だから。仕方ない。
「どこで買い物するの?」
「スーパーとかデパートに行きたいところだけど、開いてるんだろうかと不安に思っていたところ」
「開いてるよ、たぶん。十時まで開いていたはずだし」
「ホントか? じゃあ、うるさく言われないで済むな。せっかくのパーティーをどうしてくれるって」
「ふふ、賑やかなのね」
「まあね、もう少し静かならいいんだけど」
「――ところで、そのいとこさんの他に誰がいるの?」
「え?」
背筋を冷たい何かが通り抜ける。腕を見ると、気温はそこまで低くもないのに、鳥肌が立っている。ぞくりとする、的確に真相を射た問い。
篠本さんの顔を見ると、その顔はただ薄く笑っていた。
「だって、パーティーって大勢でやるイメージがあるじゃない? だから、二人でっていうのはおかしいかなって。別にダメっていうわけじゃないんだけどね」
「あ、ああ。そういうことね」
「で、なんの祝いなの?」
「それは……そう、あれだ。西條っていたろ? あいつとキスしたことがばれてさ。だから、いとこが盛り上がっちゃってさ」
「ふぅん…………ま、めでたいことよね」
まだ納得していないような顔で篠本さんは静かに笑う。そう、笑っている。僕は何か機嫌を損ねるようなことを言っただろうか。こんな、
「本当、久東くんって可愛いわ。食べちゃいたいくらい」
冷たい笑みを浮かべさせるほど。
暗いせいか、篠本さんの顔が酷く歪な物になっているような気がする。そう、気がするだけ、だろう。
「あ、あの……何か気に障ること言ったか?」
「? 別に何も言ってないけど、どうして?」
「いや、そうならいいんだ。うん、そうなら」
篠本さんは少し目線を逸らしている間にいつもの篠本さんに戻っていた。
…………いつもの?
僕は別に篠本さんの事ならなんでも知っている、ストーカーのスペシャリストではない。だから、いつも通りというのは思いこみなのかもしれないじゃないか。
本当は先ほど垣間見せた冷酷な笑みを浮かべているのが彼女の本性なのかもしれない。無意識に「変」だと決めつけてしまったが、それが普通なのかもしれない。
いや、まあ、言いだしたらきりがないことは確かだけど。
「じゃあ、そろそろ私も用事を済ませないといけないから。じゃあね」
「あ、ああ」
少し残念な気持ちと、もう少し一緒に歩いていたいという気持ちがない交ぜになる。僕はどうしたいと思ったのか。
「あ、そうだ」
篠本さんは思い出したように顔だけをこちらに向ける。かさり、とビニール袋の擦れる音。中には、何か大きなものが入っているように見える。おおげさじゃなく、カボチャくらいの。
僕の視線に気付いたのか、篠本さんは身体もこちらへ向ける。まるで隠すように。
「どうしたの?」
「言ってなかったな、と思ってね。――――おやすみ、久東くん。普段言わない言葉だから、つい忘れちゃうんだ、これが」
「おやすみ」
篠本さんは速足で暗い道を駆けて行く。
僕は訊くべきだったのだろうか。何故、日常会話の一つと言える「おやすみ」を普段使わないのか。まあ、家庭によって違うのかもしれないが、あの様子だと別に言わないわけではないんじゃないか、と思うのだが。確信はなく、勘としか言いようはないけれど。
「おやすみ」と言う彼女の顔は、久しく親友に会った時のような顔で。
「(複雑な事情でもあるんだろうか……なんて僕が考えてみてもわからないわけだけど)」
とりあえず、後日聞くということで。今、僕にとってまず気にするべきは、食材を買えるか買えないか、なのだから。
「錬次」
「うわっ! …………なんだレンか、いや待てなんでここにいる。綾は?」
「散々じゃれてきた後に眠ってしまいました。ですから、錬次の手伝いを、と。それはそうと錬次、先ほど誰かと話していませんでしたか? 声からして女性のようでしたが、通りすがった時はフードで顔が見えなかったもので」
「ああ、クラスメイトだよ。篠本さん」
「…………なるほど、あなたの本命の相手、ですか」
「え? どうしてわかった!?」
「顔を見れば。名前の時だけ妙ににやけてますよ。鏡で確認した方がいいです。まったく」
レンは拗ねたようにそう言うと、僕の手を取り、歩き出す。彼女の手はひんやりとしていて、夏には心地よかった。
「別に隠せ、とは言いませんが、仮にも私はあなたのことが好きだと宣言しているわけで、その私の前でそういう顔をされると、その…………別に愛人でも構わないとは言いましたがあの…………」
僕の横で何故かレンが百面相を始める。
その様子がなんとなく可愛くて、少しだけ笑みがこぼれる。
レンのことも考えなければいけない。確かに僕は篠本さんのことが好きだけど、それをレンは承知しているけれど。このままの関係でだらだらと続いているのがあまり良くないことだというのはわかる。
突き放す、とまではいかないが距離を置くか、それとも気持ちを受け入れるのか。これがゲームなら、うやむやのままに話が終わったり、しっかりと気持ちを受け止めたり断ったりと何度でも修正がきいたりするのだけど、現実っていうのはそう甘いものではない。
長く辛いのが「現実」で。
短く幸せなのが「夢」なのだ。
持論ではあるのだけれど。まあ、あながち間違ってはいないはずだ。夢は短い。いつまでも続く夢なんて、この世には存在しない。
ならせめて。
「レン」
「なんですか?」
拗ねた顔はまだそのままだ。隠そうともしないのが彼女らしいような気がした。
別に、今くらいは許されていいのではないだろうか。
「これから、よろしく。別に蟲がどうとか、そういう話じゃなくてさ」
「……ふふ、はい。そのつもりですよ。錬次が拒んでも無理矢理」
レンが微笑む。僕もそれに答えるように笑う。
僕は冷たく、壊れそうなその手を少しだけ強く、握り締めた。
「――――――」
どうも桜谷です。
今回は短めの区切りとなりました。しかし、今までの中で最も重要な回となります。
感想等お待ちしております。あればうれしいです。




