呪い名遣い
思念から名前が抜けかけた瞬間、字名の後ろにある窓ガラスが音を立てて割れた。
「……っ、なんだ?」
突然の破壊音に声を上げた字名の目に入ったのは、思念の正面に座っている名弦だった。
その目は、驚愕に見開かれている。
見開かれている?
この鉄仮面が、驚きを表に出しているだと?
字名は、嫌な予感がした。
そのとき、思念が字名を振り向く。
「……!」
それは少女らしからぬ、いや、人間らしからぬ表情をした。
余計な感情を全て消し去ったような顔。
能面よりも能面らしい無表情を貼り付けた思念を見て、字名は直感した。
これは、やばい。
窓ガラスを割ったのも思念だ、と字名は気付く。
追いついた思考を突き放すように、状況は目まぐるしく変わっていく。
卓袱台が浮き、湯飲みが飛び交い、壁に亀裂が入る。
唖然としている間に、彼女が割れた窓から外へと飛び出した。
行動の意味が理解できなかったが、彼女を追わなければとんでもないことになる――そう思い、字名は後を追う。
後ろから追いついてきた名弦に、大声で話しかけた。
走りながらなので、自然、力が入る。
「おい害虫! ありゃあどういうことだ! あんな力使っちまったら、脳を酷使して死んじゃうじゃねえかよ!」
「頭の回転が遅いのですね! 火事場の馬鹿力というのは大嘘です、嘘をついたら地獄に落ちるんですよってことで死になさい」
「あー! 早く言えや! スロー再生は野球試合のリプレイだけで十分だっつーの! ホームランボールにぶち当たって死ね!」
こんな状況でも暴言を投げつけあう二人は仲が悪すぎだった。
名弦は、明瞭な声音で言った。
「呪い名遣いの存在を忘れましたか!」
と。
そのとき「……あ」と、字名は理解した。
呪い名遣い。
名前を宿された『者』は宿し主に忠実に従う。
思念に呪い名を宿した呪い名遣いが、名前を抜かれそうになっているのを察知し、逃亡させている。
一つの推測にたどり着いたとき、後ろの気配を正体が呪い名遣いだということが理解できた。
その瞬間、すかさず字名は名弦に言う。
「……害虫、お前は思念ちゃんを追ってろ!」
「ああ、気付いておられたんですね! 鈍感ではなかったようで!」
「お褒めに預かり光栄とは言わねえぜ!」
どうやら、名弦もその正体には気付いていたらしい。
だったら話が早いと、字名は叫んだ。
「きっちり相手方に殺されてきてくださいよ、頑張って死んでください!」
「健闘を祈るの逆だ馬鹿! 一生懸命死ね!」
相手の死と敗北を祈ったあと、字名は走るスピードをゆっくりと落とす。
あっという間に名弦と思念の背中が見えなくなり、それを確認してから立ち止まる。
「……あら、気がついていたのかしら?」
それが、ずっと後ろに張り付いてきていた人物の第一声だった。
ハスキーな、高い女らしい声。
「ああ、ばっちり気がついてたぜ。俺は女の子の気配には敏感なんだ」
軽口を叩きつつ、字名は振り返る。
そこには、印象的なピンク色の髪の女が立っていた。
地毛ではなさそうだし、恐らく染めているのだろう。
迷彩柄のチューブトップに極端に丈の短いパンツという露出の多い格好。
その上に、清楚な白衣を羽織っている。
アンバランスさが不気味な、美しい女だった。
字名よりもいくつか年上に見えた。
「すげえな、呪い名遣いさんってのは。色気ばしばしじゃねえかよ」
「それは褒め言葉と受け取ってよろしいのかしらね、名術師さん? ただ、一つだけ訂正させていただくけれど、名術師さん」
女は、不敵な笑みを浮かべて名乗りを上げる。
「罪崎柘榴――それが私の名前よ」
そんな女――柘榴の態度に怯むことなく、字名も名乗る。
軽佻浮薄な若者を気取って。
「なるほどね。柘榴さん、俺は命音字名だ。……ところで、勝ったらメルアド教えてくれねえ?」
「いいわよ、@から下だけを教えてあげましょう。勝ったらの話だけれどね」
字名の冗談を慣れた風に受け流し、柘榴は首を傾しげつつ、白衣の裏から大振りのナイフを取り出して、構える。
「ところで、字名くん。あなたが負けたら、私に何をしてくれるのかしら?」
「ああ? 俺か? 俺は、セーラー●ーンのコスプレして言ってやるよ――」
字名は凶悪な笑みを浮かべながら、柘榴の間合いに飛び込んだ。
「――月に代わってお仕置きよ、ってなあ!」