表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

婚約破棄は満額回収、氷の公爵様の求婚は『買い』ですわ~祭壇で捨てられた製菓令嬢、偽聖女を紅茶一杯でざまぁして、甘いもの嫌いな旦那様に生涯溺愛されるまで~

作者: 河合ゆうじ
掲載日:2026/06/12

「——アメリー・フロランタン伯爵令嬢! 貴様との婚約は、神の御前で、今この瞬間をもって破棄する!」


 誓いの言葉まで、あと三歩でございました。


 大聖堂の祭壇前、居並ぶ来賓は二百十六人。わたくしの腕には白薔薇の花束、頭には亡き祖母のヴェール、目の前には人差し指。セドリック・モンフォール侯爵令息は、その指をわたくしの鼻先へ突きつけて、実に晴れやかに胸を張っていらっしゃいます。


 訳:式の費用の話になる前に、逃げたい。


 わたくし、商人の家の娘ですの。口上の長いお客様あしらいには年季が入っておりますのよ。続きをどうぞ、と微笑んで差し上げますと、セドリック様は満足げに声を張りました。


「俺は真実の愛に目覚めたのだ! 砂糖と銅貨の匂いを纏う貴様ではない——清らかなる聖女の血筋の乙女、リュシルこそを生涯の伴侶とする!」


 訳:結納金はあの方につぎ込みましたので、返せません。


 ちなみに申し上げますと、この婚約三年のあいだに、わたくしどもがモンフォール家へお納めしたものは、節句ごとの菓子百八十品、夜会のたびの手土産、領地の蜂蜜の販路の口利き、それから若様の借金の引き当てが二度。先方から頂いたものは、お手紙が計六通。うち五通が、お支払いの引き延ばしのお願いでございました。


 愛ですとか真実ですとか、結構ですわ。けれど取引としては、これ、相当な赤字案件ですのよ。


 会衆席が、煮詰まる寸前の糖蜜のように、底からざわめき立ちます。お父様が立ちかけて、お母様の扇に袖を押さえられるのが見えました。商談で先に腰を浮かせた方が値を下げる、が我が家の家訓ですの。お母様、お見事。


「お志の固さ、よくよく承知いたしましたわ」


 わたくしは花束を侍女に預け、淑女の礼を一つ。


「では婚約契約第七条——破棄を申し出た側が違約金の全額を負う条項も、同じ固さでお引き受けくださいまし。神の御前ですもの、二言はございませんわね?」


 セドリック様の頬から、晴れやかさが引き潮になりました。あらあら。第七条、お読みになっていらっしゃらないお顔ですわ。


「そ……そのような紙切れの話を、神の御前で持ち出すか! 無粋な女め!」


「あら。神の御前ですから持ち出しますのよ」


 わたくしは祭壇の老司教様へ、にっこりと会釈を一つ。


「ただいまの破棄のお言葉、二百十六人のお耳と、天がお聞き届けです。これほど確かな署名の場が、ほかにございまして?」


 老司教様は口をぱくぱくさせた末、観念したように頷いてくださいました。これで天も、本日の商談の証人でございます。


 ざわめきの裂け目を縫って、純白の祈り装束がしずしずと進み出ます。聖女の孫娘を名乗る、リュシル様。喪の色と純潔の色のちょうど中間を計ったような薄絹のヴェールを、悲しみの角度で押さえていらっしゃる。胸元には銀の台座に据えた、薄紅の石。


 彼女は会衆へ向かって、まず深々と膝を折りました。それだけで、席の半分から同情の吐息が立ちのぼります。お上手ですこと。


「皆さま、争いはなりません。天はすべてをご覧でいらっしゃいます」


 涙のひと粒まで完璧な角度。訳:お客様がたご注目、本日の演目はここからですよ。


「わたくしのような卑しい生まれの者が、皆さまと同じ空気を吸うことすら、本来は許されませんのに……それでもセドリック様は、わたくしの心だけを見てくださいました」


 訳:身を低く売って、場の値を吊り上げる。同業として申し上げますが、お見事な売り口上ですわ。在庫が偽物でなければ、雇いたいくらい。


 わたくしは敬虔に頭を垂れて差し上げました。垂れながら、職人の目だけは胸元の石に置いたまま。


 艶の出し方。気泡の散り方。台座の爪の噛ませ方。


 あら。


 あらあらあら。


 あれ、飴ですわ。


 しかもあの仕事、よそ様の窯ではございませんの。三列目でお泣きになっている奥様の髪飾りと、同じ手ですわ。先々月、本日の披露の卓へと砂糖細工の薔薇を百二十輪お納めした、うちの窯の仕事でございます。ちなみにその百二十輪、まだお代を頂いておりませんの。


 わたくしが胸の内で受注控えをめくっておりますあいだに、セドリック様は調子を取り戻し、リュシル様の肩を抱いて高らかに宣言なさいました。


「見ろ、この清らかさを! 貴様の家の、砂糖を銭に換えるだけの暮らしとは違う!」


 訳:この方の素性を、俺は何ひとつ調べておりません。


 結構なお覚悟。けれどお返事は、わたくしの口からではございませんでした。


 親族席の最前列。黒い礼服が一つ、音もなく立ち上がったのでございます。大聖堂の空気が、砂糖湯に骨を落としたみたいに、底から冷えました。


「モンフォール家の不始末と聞こえた」


 氷の裁定公——エルネスト・グランヴェル公爵。セドリック様の本家筋、叔父にあたるお方。


 お噂はかねがね。社交界が氷だ氷だと騒ぐので、どれほど恐ろしいお方かと思えば——なるほど、仕立ての無駄が一切ございません。動きに飾りがなく、目に値札がない。わたくし、値札のないお品が、どうにも苦手ですの。値の読めないものは、仕入れを誤りますから。


「グランヴェル本家は、ただいまより家門裁定権を行使する」


 ◇


 式典が、その場でお裁きの席に変わりました。


 祭壇の前に長卓が据えられ、老司教様が泡を食って聖具を退避させ、公爵閣下の側近が書類箱を抱えて駆け込んでまいります。手回しがよろしいこと。訳:はじめから、式のためだけにいらしたのではございませんわね。


「本件、家門法第三章に基づく裁定と、王命第十七号に係る監察の併合執行とする。異議は書面、受理は本日限り」


 閣下が一息に仰せになると、会衆席が水を打ったように静まりました。困っておいでです。側近の方まで懐から手控えの語彙帳を出す始末。


「えー……つまり、その、式は延期と相成り——」


 側近の方が冷や汗まじりに読み上げかけ、閣下の目がすいと細められました。座の凍えが、また一段深くなる音がいたします。


 ですからわたくしが、扇を開いて通弁を務めて差し上げました。


「式は取り止め、代わりにお裁きですって。お帰りはまだ、ですわ」


 閣下の目が、はじめてこちらを向きました。氷というより、よく研いだ飴切り包丁の色をした目でございます。


「……話が早いな」


「商売柄でございます」


「王命の中身も言うておこう。婚姻にかこつけた詐欺が三件、迷宮入りしている。被害家の一つが王へ請願し、私がその監察を預かった」


 三件。窯で聞いた数と、ぴたりと合いましたの。


 リュシル様が、それはそれは美しく泣き崩れます。


「わたくしは、ただ、愛しいお方のお傍にいたいだけですのに……聖女の血を疑われるなど、祖母さまに申し訳が立ちません……」


 会衆席の風向きが、それで変わりました。聖女様をお疑いするなんて、と袖で口元を覆う奥様がた。お裁きまで開かせて、捨てられた腹いせの逆恨みでは、と囁き合う殿方がた。視線の何本かは、はっきりとわたくしへ刺さっております。


 あらあら。わたくし、悪役の席に座らされておりますのね。よろしくてよ。悪役の席のほうが、皆さまのお手元がよく見えますの。


 実際、物証はないのでございましょう。閣下の指が卓を一つ打って、止まりました。書類も石も揃って、けれど詰めの一手が足りない。お裁きの席が、膠着の色になります。


 司教館の小姓が気を利かせて、小盆の砂糖菓子を閣下のお手元へ運びました。閣下はそれを、指一本で静かに余所へ遠ざけます。


 訳:甘いものはお嫌い。覚えておきますわ、商売柄。


 わたくしは扇を畳み、一歩、進み出ました。


「閣下。鑑定の専門家として、発言をお許しいただけますかしら」


「許す」


「では——」


 わたくしは精いっぱい困った顔を作って、申し上げました。


「熱い紅茶を、一杯。ご用意いただけますこと?」


 ◇


 お裁きの席に紅茶が運ばれてくるまでの間、大聖堂じゅうの首が疑問符の形に曲がっておりました。茶会でも始まるのかと囁く声、正気を疑う声。結構ですわ、お客様の目は集まっているほど良い。


 湯気の立つ碗が長卓に据えられたところで、わたくしはリュシル様の胸元へ、扇の先を向けました。


「その聖涙石とやら、拝見の許しを。触れずに、目だけで」


「……天の御加護の品を、見世物になさるおつもり?」


「見世物にしたのは、祭壇を選んだどなたかですわ」


 閣下が顎を引かれたので、許可と受け取りました。一歩、二歩。職人として石の前に立ちます。


「まず艶。宝石の照りは冷たく刺さりますの。これは灯りを呑んで、ぬくく光る——飴の照りでございます」


「……っ、無礼な!」


 会衆席から失笑が漏れました。商人の娘の負け惜しみ、と呟く殿方の声。恰幅のよろしい男爵様などは膝を叩いて、「飴と宝石の区別もつかんで嫁に行けるか!」と大層な喝采ぶり。閣下の視線がひとたびそちらを掠め、喝采が氷の上で滑って転びました。


 訳:後ほど真っ青になる席を、いまのうちに確かめておきますわね。三列目の奥から二番目。


 お笑いくださいまし、まだ序の口ですの。


「次に中の気泡。宝石の内包物は留まりますけれど、これは渦を巻いて散っている。煮詰めた糖を型へ流すときの、窯の癖ですわ」


 今度は神官様がたの席がざわつきました。リュシル様が一段高い声で、潤んだ目を司教様へ向けます。


「皆さま、お聞きになりまして? 聖遺物を、お菓子と仰せですのよ。これは天への冒涜、教会への冒涜ですわ……どうか、祖母さまの教団の再興へ、皆さまのお力を……」


 老司教様が、聖句を唱えかけて、止まりました。冒涜と聞けば祈らねばならず、けれど祈る相手の石の素性が、ただいま審理の真っ最中。お気の毒に、職業のお作法が宙に浮いていらっしゃいます。神官様がたも、立つべきか座るべきか、半端なお腰の高さで固まったまま。


 言葉の途切れぬうちに、リュシル様付きの侍女が喜捨の銀盆を捧げて会衆席を回り始めました。お裁きの真っ最中に、です。盆の上で硬貨が鳴るたび、献ずるお家の名ごと、閣下の側近が手控えに書き付けてゆかれます。よろしいですわよ、そのまま全部お書きなさいな。


 涙ながらに寄進の口上をお挟みになる商魂、同業として敬服いたします。けれど目は泣いていらっしゃいません。値踏みの目ですわ、あれは。


「最後に、台座」


 わたくしは扇を帯へ収めました。


「銀の爪が高く立てられて、石が肌にも布にも触れない作りになっておりますの。体温で曇らせない、汗で溶かさない——触れさせない細工そのものが、中身の白状ですわ」


「いい加減になさい!」


 リュシル様の声が、半音だけ低くなりました。


「その方は捨てられた花嫁、わたくしを恨む立場の方ですわ。恨みの鑑定に、どんな値打ちがございますの?」


 なるほど、急所を突いてこられます。会衆の何割かが、確かに、という顔をなさいました。せめて利害なき方の手で検分を、と声を上げる殿方まで出る始末。


 応えたのは閣下でございました。


「もっともな申し立てだ。ゆえに、こう執り行う」


 卓を指一本で示されます。


「検分の手は当家。立ち会いの目は司教。鑑定の口は専門家。手と目と口が別ならば、私怨の入り込む隙間は、どこにある」


 誰もお答えになりません。閣下は白い手袋をお嵌めになりました。


「石を卓へ。これは王命第十七号に係る押収である」


 手袋の手が、まっすぐ差し出されます。リュシル様は石を胸に抱いて、後ずさりました。


「なりません……! 穢れた手が触れれば、石は天へお還りになります……!」


「あら、好都合ですこと」


 わたくしは微笑みました。


「天へお還りになる前に、一言だけ申し上げておきますわ。——それ、うちの商品ですの」


 大聖堂が、しんと鳴りました。


「同じ仕様の特注が、この二年で三件。お名前はみな別、お支払いはみな現金、そして三件とも、注文書きに同じ一行がございましたの。『よく溶けるように』と」


 わたくしはフロランタン商会の看板と、伯爵家の家名を、この鑑定に賭けますわ——そう申し上げたとき、リュシル様の指が、台座の爪を一本、握り込むのが見えました。


 ◇


 閣下の手袋が、石を台座ごと受け取りました。


 手放させるまでに、間がございました。リュシル様の指が、銀の爪に絡んで離れなかったのでございます。衛兵が一歩踏み出しかけたところで、彼女は自分の指を一本ずつ、他人の指のように引き剥がして、最後には聖女の微笑みまで作り直してみせました。商売物の引き渡しの作法だけは、最後まで崩されませんでしたわ。


 誰も、何も言いません。わたくしも、胸の内の通弁を閉じました。ここから先は、訳のいらない見世物でございますもの。


 閣下が石を爪から外し、碗の上で止め、落としました。


 ちいさな波紋。それきり、何も起こらないかに見えました。


 大聖堂の高窓から、午の光が斜めに落ちております。碗の湯気がその光の帯を横切って、薄紅の石の腹を、まず曇らせました。会衆は身じろぎもいたしません。二百と十六人が、紅茶一杯を、固唾を呑んで見守っております。妙な式になりましたこと。


 石の肩から、透いた滴がひとつ、糸を引かずに落ちました。


 やがて、角が鈍ります。


 薄紅の稜が一本、湯の中で輪郭を失いました。続いて肩のあたりが崩れ、金色の糸を底へ引きながら細ってゆきます。聖女の孫娘様の聖遺物は、熱い紅茶の中で、静かに、確実に、飴に戻ってゆきました。


 匂いが立ちました。


 砂糖を火にかけた、あの甘く焦げた匂い。大聖堂の高い天井へ、香炉の煙より濃く、キャラメルの香りが満ちてゆきます。


 砂糖と銅貨の匂い。セドリック様がわたくしに下さった、あの言葉の匂いでございます。


 白状いたしますと、胸の奥が、ひとつだけ軋みました。あれはうちの窯の仕事です。職人が火加減を三晩読んで、艶を磨いた品です。それが人を騙す道具に使われて、いま、衆人環視で壊されてゆく。壊されるのが正しいのです。それでも、窯の火の分だけは、悼んで差し上げてもよろしいでしょう。


 貴婦人席の扇が、一斉に止まりました。老司教様が祭壇に手をつき、誰かの忍び笑いが、笑いにならないまま潰れて消えます。


 三列目で、奥様がひとり、ご自分の髪飾りへ手をやりました。砂糖細工の薔薇の髪飾り。鼻先に寄せて、悲鳴の手前の声を出して、隣の男爵様の袖を引かれます。先ほど膝を叩いて喝采なさった男爵様のお顔から、見る見る赤みが引いてゆきました。確かめておいた席が、見込んだとおりの色におなりです。


 セドリック様が、ふらりと碗の方へ半歩出て、衛兵の槍に止められました。


 キャラメルの香りは前の席から順に流れて、鼻のある皆さまへ、同じ答えを配ってゆきました。


 わたくしは閣下へ向き直り、窯の職人から聞き取った三件を、声に出して並べました。


「一件目、二年前の春。南の港町の寡婦を名乗るお方より、薄紅の飴細工一点。二件目、昨年の秋。東の織物商の娘御を名乗るお方より、同じ仕様で一点。三件目、この冬。巡礼の聖女様を名乗るお方より、台座付きで一点。お支払いはいずれも前金、受け取りは代理の小僧、仕様の注文はいずれもただ一つ——『よく溶けるように』。窯の職人が珍しがって、わたくしに報せてまいりましたの。その三件目の台座は——ただいま、閣下のお手元のそれでございますわ」


「監察の記録と突き合わせる」


 閣下が側近の書類箱から綴りを抜き、読み上げられました。南の港町、資産家の寡婦をたぶらかした件。持ち去られたのは、亡き夫が遺した老後の蓄えのすべて。東の織物の町、商家の娘に成りすました件。消えたのは、その家の本当の娘の、嫁入り支度の金子。西の街道筋、巡礼の聖女を騙った件。集められた喜捨は、巡礼路の橋の架け替えに充てられるはずのものでした。


 名乗りが、三つとも重なりました。


 会衆席は、咳ひとついたしません。読み上げられる被害のひとつひとつが、つい先ほどまで銀の盆に硬貨を載せていた、ご自分たちの指の話でもございますから。


 セドリック様は、碗を見たまま動かれません。湯気の向こうで崩れてゆくのが石なのか、ご自分の式なのか、まだ呑み込めていらっしゃらないお顔でした。


 静まり返った大聖堂の真ん中で、リュシル様が、ほうと息を吐かれました。


「……商売人を客にするんじゃなかったわ」


 声が、変わっておりました。鈴を転がす聖女の声ではなく、乾いて低い、よく通る商売の声。彼女は祭壇の縁に腰を預け、崩れた石の碗を眺めて、肩をすくめます。


「二年かけた仕込みが、紅茶一杯。安い幕引きね」


 それから彼女は、湯気の立つ碗へ、商売人が同業の店構えを検分する目を向けました。


「言っておくけれど、溶かして天へお還しするのは、わたくしの締めの型ですのよ。集金が済んだら石を消して、奇跡だけ残して立ち去るの。それを先に、法廷の側でやられたのでは——形無しだわ」


「リュシル……? 嘘だろう、リュシル、君は……」


「あんた、まだ分からないの」


 彼女はセドリック様を一瞥して、心底感心した声で言いました。


「頼む前から貢いでくれる殿方なんて、後にも先にもあんただけよ。道具として、上等だったわ」


 セドリック様が、口を開けたまま、音を出すのを忘れました。祭壇で宣言された真実の愛は、当人の眼前で、釣り銭も残さず潰えましてございます。


「証拠は満ちた」


 閣下が手袋を外されました。


「——裁定を下す」


 ◇


 わたくしは胸の内の通弁を、再び開きました。お裁きの言葉ほど、訳し甲斐のあるものはございませんもの。


「リュシル・エメなる者。王命第十七号に係る婚姻詐欺三件の被疑、ならびに聖物僭称、祭儀紊乱。身柄を王都監察庁へ移送、審理は王命のもとに行う」


 訳:縄を打って連れてゆけ、とのことです。


「なお、教会に対し聖遺物簿との照合を依頼し、僭称の確定をもって余罪に算入する。本日の寄進勧誘の被害は、側近の記録に基づき全件返金とする」


 つまり余罪のお勘定はこれから太りますし、先ほどの喜捨の盆も、空にしてお返しだそうですわ。


 衛兵が左右から進み出ても、リュシル様は暴れませんでした。お縄を前に、はや次の段取りを数えるお顔でいらっしゃいます。引かれてゆきざま、彼女はわたくしの前で足を止め、素の低い声で言いました。


「……忌々しい女。あの窯さえ使わなければ」


「光栄ですわ。よその窯では、宝石になりませんでしょう?」


 わたくしは淑女の礼で見送って差し上げました。


「二年で三度もお買い上げの、お得意様でしたのに。次からは即金でも、お断りいたしますわね」


 彼女の肩が、ひとつ揺れました。笑ったのか、舌打ちなさったのか——確かめる前に、聖具室の扉が閉まりました。


「セドリック・モンフォール」


 閣下の声が、次の的へ向きました。


「結納財の目的外流用、家門信用の毀損、ならびに祭儀の私用。モンフォール家督相続権の剥奪を裁定し、当主の追認をもって確定とする。身柄は北辺所領の勘定方見習いとし、俸給は全額、債務の弁済に充てる」


 訳:廃嫡、北送り、お給金は素通り。


「あわせて、婚約契約第七条に基づく違約金の全額を、フロランタン伯爵家へ即時に弁済させる」


 訳:第七条、満額回収ですわ。


 会衆席でお父様が小さく拳を握り、お母様の扇がぱちりと音を立てて閉じられました。我が家の祝杯の作法でございます。


 わたくしは扇の陰から、慎ましやかに手を挙げました。


「閣下。恐れながら、あと一件」


「述べよ」


「式の卓に納めました砂糖細工の薔薇、百二十輪。花嫁側の納品にて、お代が未精算でございますの」


 閣下は瞬きを一つなさってから、書記の方へ目顔で命じられました。


「……判決文に追記。当該菓子代金も、弁済債務に算入する」


 まあ、頼もしいこと。


 セドリック様が、崩れるように膝をつきました。


「お、叔父上……っ、俺は、俺はただ騙されただけです! 被害者です! あの女が、あの女が悪いのです……!」


 お返事がないと見るや、矛先はくるくると回ります。あの女を屋敷に上げた母上が悪い、契約書の読み方を仕込まなかった家庭教師が悪い、果ては、領地で臥せって式を欠かれた父上と、止めてくれなかった元婚約者殿まで薄情だ、と。言い逃れが増えるたび、会衆席の目が冷えてまいります。


「騙される側に立つ自由も、検める手間を惜しんだ責も、貴様のものだ。家門法において、軽信は免責の事由たり得ない」


 訳:自業自得、の四文字でございます。


 膝をつくセドリック様へ、わたくしからも、お取引の締めをひとつ。


「三年で頂いたお手紙六通、すべて保管してございますわ。あなた様から頂戴した、ただひとつの黒字でしたもの。——北では、引き延ばし方ではなく、お支払いの仕方をお覚えになって」


 二度目のお取引は、ございませんの。


 お裁きが閉じられ、会衆が三々五々、席を立ち始めました。


 真っ先に駆け寄っていらしたのはお父様で、何か言おうとなさるたび、商人の言葉と父親の言葉が喉で渋滞して、結局わたくしの頭を一度、子供の時分のようにくしゃりと撫でて終わりになさいました。お母様は無言で、わたくしのヴェールの傾きを直してくださいます。それから扇の陰で、ひとこと。


「違約金は、お母様の言い値で吹っかけてよろしいのよ」


「満額が出ましたわ、お母様」


「上出来」


 婚礼は流れ、花嫁は捨てられ、けれどフロランタン家の席だけが、商談成立の朝の顔をしております。


 祭壇からの長い緋毛氈——本日わたくしが花嫁として歩くはずだった道を、わたくしは置き忘れられた荷物のように立ち尽くして、眺めておりました。と、横から黒い礼服の腕が、音もなく差し出されたのでございます。


「フロランタン伯爵令嬢。本日の鑑定、王命監察への寄与として記録した」


「恐れ入りますわ」


「ついては——未処理の案件が、一件残っている」


 あら。


 わたくし、何か粗相をいたしましたかしら。訳そうにも、お顔から読めるものがございません。差し出された腕に手を載せて、わたくしは花嫁の歩くはずだった道を、鑑定人として歩いて帰りましてございます。


 拍手は、三列目から始まりました。飴の髪飾りの奥様のお席からでございます。ひとつがふたつ、ふたつが波になって、緋毛氈の終わりまで、ずっと止みませんでした。


 ◇


 店の硝子棚の飾り飴が、春薔薇から矢車菊へ、矢車菊から白詰草へと入れ替わりました。


 その間、毎週、曜日も刻限も違えず、黒い礼服が一つ、フロランタン商会の隅の卓へ通ってまいります。甘味がお嫌いのはずの氷の裁定公は、毎度、季節の菓子をひと皿だけ召し上がっては、同じことを仰せになるのです。


「……悪くない」


 訳:おかわりを所望する。


 最初の頃こそ、店の者は卒倒しかけておりました。いまでは番頭が勝手に「閣下のお席」を窓際に決め、職人たちは閣下の皿の減り具合で新作の出来を占う始末。雨の日にいらした折など、傘から滴る雫を見て、丁稚が震える手で上等の手拭いを差し出しましたら、「気が利く」と一言。あの子はその晩、手拭いを家宝にすると申しておりました。


 一度など、ご事情を知らぬ常連のお婆さまが「閣下のお席」へどっかり相席してしまい、店じゅうの息が止まりましたの。閣下は碗を半寸ずらして、「構わん」。お婆さまは閣下を若いの呼ばわりして菓子談義を一席、お帰りになってから素性を知って、腰を抜かしました。


 砂糖と銅貨の匂いのする店に、王国の氷がすっかり常連でございます。


 北の所領からは月にひとたび、勘定の合わない書付が、詫び状を添えて届くそうでございます。お返事の引き延ばしだけは、なさらなくなったとか。


 いつだったか、閣下が皿の手を止めて仰ったことがございます。


「あの日——石が溶ける間、悼む顔をしていたのは、堂内で君ひとりだった」


 窯の火の分だけ悼んだことは、どなたにも申し上げておりませんのに。この方は商品ではなく、拵えた人間のほうを検分していらしたのですわ。通弁が、初めて仕事を渋りました。


 白詰草の飴が蜜の色に焼ける頃、閣下は卓の上に、書状を二通お並べになりました。


「先の鑑定の精算だ」


 一通目。王宮月例茶会への、菓子納入指定書。フロランタン商会の名が、御用の印の下に据えられております。


 いえ、これは訳すまでもございませんわ。看板に箔が付きましたの。お父様が見たら泣きますわ、算盤を抱えて。


「過分の精算でございます。お納めの品は、窯の総力で」


「——二通目だ」


 二通目を、閣下は手ずから開いて、読み上げ始められました。


「グランヴェル公爵家当主エルネストは、家門法第一章ならびに婚姻法第二条に基づき、フロランタン伯爵家息女アメリーに対し、正式なる婚姻の申し入れを——」


 そこで閣下は言葉を切り、ご自分の手で、書状を畳んでしまわれました。


 卓の上には、畳まれた法律文書と、立ち上る紅茶の湯気ばかり。


「——君の作る菓子を、一生、隣で食べたい」


 通弁が大慌てで、三通りの訳を拵えました。冗談と訳すのは、お目元が許しません。社交と訳すのは、お声の低さが許しません。商談と訳すのは——この、胸の鼓動が許しませんの。


 訳。


 訳が、出てまいりませんの。


 三年と三ヶ月、わたくしの胸の内で休みなく働いてまいりました通弁が、生まれて初めて、口をつぐんでおります。だってこのお言葉、裏がございません。原文のまま、まっすぐ胸に届いてしまいましたもの。


 わたくしは淑女の微笑を作ろうといたしました。頬が言うことを聞きません。仕方がございませんから、商人の娘の地声で、お返事申し上げました。


「——買いですわ」


「……言い値で買うつもりだったが、即決か」


 あら。ではこの取引、わたくしの勝ちですわね。


 硝子の向こうで、何かが倒れる音がいたしました。盆を取り落とした番頭が、両手を天井へ突き上げております。窯場から職人たちが雪崩を打って顔を出し、丁稚は例の手拭いを振り回し、相席の婆やまで、誰より大きな声で万歳を唱えておりました。


 閣下——いえ。


 この日からは、旦那様とお呼びすることになるお方は、店じゅうの騒ぎを一瞥して、それから卓の上の畳まれた求婚状を、わたくしの手に握らせて仰いました。


「保管しておけ。……君の家では、契約書が何かと物を言うようだからな」


 あら。この方、わたくしの家の商売を、正しくご理解でいらっしゃるわ。


 ◇


 式は、白詰草の蜜が瓶に上がる頃に挙げました。


 祭壇は別の聖堂、司教様も別のお方。頭のヴェールだけは、春と同じ、亡き祖母のもの。一度は修羅場をくぐらせてしまいましたから、今度こそ晴れの日だけを見せて差し上げますの。誓いの言葉は、今度は三歩手前で止まらず、終いまでまいりました。神の御前の宣言に二言がないことは、春の一件で、王都の皆さまがよくよくご存じでいらっしゃいます。


 披露の卓の中央には、わたくしが窯に三晩こもって拵えた婚礼菓子。砂糖細工の薔薇が、ちょうど百二十輪でございます。


「見事なものだ」


 隣で旦那様が、囁くように仰いました。


「これは、溶けないだろうな」


「あら」


 わたくしは胸を張って申し上げましたの。


「保証書をお付けいたしますわ。——ただし、お味見は花婿様おひとりに限ります」


 旦那様の目元が、飴の照りのほうの温度で緩みました。砂糖と銅貨の匂いがいたしますでしょう、と申し上げたら、悪くない、と例の訳の要らないお声が返ってまいりましたので、わたくしは爪先を立てて、こちらから口づけて差し上げました。


 訳:本契約、永年有効。返品は、承っておりませんの。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ