第五話
馬車に揺られながら菖は窓に指をかけ、外の様子を念入りに観察していた。ゆっくりと進む馬車の中から一頻り確認すると、首を横に振り次の区画へ向かう。
「途方もないな」
それをすでに三度繰り返そうという頃、景稜はため息をついて腕を組んだ。
しかし菖は眉根を寄せながらも必死に見覚えのある場所を探し続ける。そのとき菖はふいに声を上げた。
「どうした」
「息子が──」
菖はそう言いかけはっと口を押さえた。
「いえ、その、夢で見た女性の子を見かけたので」
景稜は御者に馬車を止めるよう声をかける。
馬車から降りた菖の視線の先は一人の少年だ。齢五つか六つと言ったところ。景稜が父親を亡くした時と同じ年合いだ。
菖は少年の走り回る周囲を見渡すと、はたと一つの蔬肆へ目を止めた。みずみずしい野菜を売り並べている何の変哲もない肆である。菖は少年が中へ入っていくのを見届けると、そちらへ歩を進めた。そして青々とした蔬に目を向けた後、店内へ首をもたげる。
中では一人の女性が生き生きと働いていた。
「もしや彼女か」
菖は景稜の呟きに頷きながら、籠を抱えた女性に歩み寄る。
あの時と同じだ。景稜は思う。全く死の片鱗が見えない、そんな幸せな家庭に玉蝉花妃が割り込んでゆく。
残酷だ。
「あら、いらっしゃい。辺りでは見ない子ね」
女性は菖に気づくと朗らかに笑った。場違いな衣裳に言及することもなく、客として扱っていた。優しい人だ。
「どんな野菜をお探し? 取れたての蕃茄がおすすめよ」
「わたしは玉蝉花妃、と呼ばれている後宮の玉女です」
しかし菖はきっぱり告げた。
女性は微かに声を漏らすと、手に持っていた籠を取り落とす。
「貴方の死期を告げに参りました」
菖は淡々と述べた。
「……うそ」
菖は拒絶を示す彼女の前に、一つの石のようなものを見せた。それは玉蝉だった。美しい翡翠から作られた死人のためのものだ。
「貴方は七日後、これを口に収めることとなります」
景稜が落とされた籠を拾いあげる。
そのとき、肆にいた中年の女性客が歓喜の声を上げた。
「尸解仙になれるなんてよかったじゃない!」
その言葉を聞きつけた周囲の市井の人が肆に集まっては祝福する。
「おめでとう!」
しかし死期を告げられた母親は呆然と立ち尽くしていた。
「七日……? 早すぎる。だって、私にはこの子もいるのよ……? 貴女が来なければ、私は死ななかったかもしれないのに」
見せかけの表情は引きつった浅い笑みを浮かべていたが、小さく漏らされる呪詛は未練と怨恨に満ちていた。
景稜が聞こえているのだ、菖が聞いていないはずがない。
しかし菖は無表情で母親へ丁寧に一礼すると、踵を返した。
静かな馬車内にからからと車輪が回る音と、市井の民のたわいもない話が流れ込んでくる。景稜は幼い子供たちが元気に駆け回る様を見て口を開いた。
「あの場では言えなかったが」
がたん、と車輪が小石を乗り上げる。それに紛れて菖の白い指先が震えを見せた。
景稜は言葉を続けるべきか逡巡する。そして、腹を括った。
「十五年前、余は父の死を告げに来た先代の玉蝉花妃に掴みかかった」
菖は首を項垂れて、どこかをじっと見つめている。悲しいのは、菖がすでに頭痛を訴えるそぶりを見せなくなったということ。
景稜は気づかないふりをして続けた。
「しかし父は……変な人だった。怒らず、彼女に『ありがとう』とだけ言った。幼き頃の余は不思議で尋ねたのだ」
何故、感謝したのか。
「彼は言っていた。『死期が知れたおかげで、あと五日という時間を息子のために使うことができた』と」
菖はゆっくりと首をもたげ、景稜を見上げた。
黒い瞳が青を含んだ銀に輝いた気がした。涙を含ませた瞳が揺らいでいる。
「いや、すまない。何を言いたいのかわからなくなってきた。あの母親に礼を言えと求めるつもりはない」
景稜は眉を下げ、視線を泳がせた。
「ただ、お前が運ぶのは『呪い』だけではないのだと、父が証明していたような気がして……。それをお前も知るべきだと思った。この世は少し歪んでいる。お前はその狭間にいるというだけだ」
菖はついに、つう、と大ぶりの瞳から一筋涙を零した。
「……もう少し、やりようがあるんじゃないかって」
菖は思うまま震える唇を動かす。景稜は静かに頷いた。
「もっと、何かできるんじゃないかって」
「……」
「でも、それはいつも逆効果だった。みんな、死期を伝えるだけの無力なわたしに怒るんです」
「そうか」
「わたしも不幸を振りまくだけの自分が許せなかった」
涙の筋は何本も数を増して流れていった。雫は顎を伝い、裙をしとどに濡らす。
「だからもう感情を捨てて、ただ死期を伝えるだけの人形になろうって思った」
「無茶だ。感情を捨てるなど」
景稜は菖の小さな頭へ躊躇いがちに手を伸ばすと、父が幼い頃自分にしてくれたように、少し荒っぽく撫でやった。菖は景稜の身体に身を寄せて、しゃっくりを上げる。
「それほど泣けるやつが、人形などなれるものか」
揺れる馬車の中に感情が満ちる。景稜は市井の様子を眺めながら、菖の震える小さな背中をさすり続けた。




