第一話
今や先帝と呼ばれる現皇帝・可景稜の父は、仙葬宮に住まう玉女に見いだされた男であった。
──尸解仙となる日も、折る指が片方で足りるほどでしょう
玉女は幽鬼と見紛う容貌をしていた。肌は生気を失って青白く、目の下には濃い隈が、髪は結わえず長く垂れ流している。瞳は黒く沈んでおり、色がない。
しかしそのような様に似つかわない貌の造形は一級品。より底知れなさを増幅させていた。
幼きころの景稜は、彼女に軽蔑の目を向けた。尸解仙とは人間が死を経てたどり着く、仙人の形である。いつもと何ら変わりない姿で朝廷に臨む父が、まさかあと五日もなく崩御するとは思えなかった。
景稜は激昂し、父よりも先に倒れてしまいそうな玉女に食って掛かった。誰よりも強い父を虚仮にされたと思った。周囲もまるでめでたいことのように喜ぶので、余計に腹が立っていた。
しかし彼女は闇をそのまま映し出したような瞳で静かに景稜を見下ろしただけだった。
それから先帝の崩御の後、間もなく柩に収まった玉女のために亀の甲羅が焼かれたと聞いた。
後宮の整理をしようと思い立ったのは、政が一段落を迎えたためだった。
景稜が皇帝の座に就いてからは争いもなく、租税の改定も終え、珍しく手が空いた。ずっと働き詰めだった景稜にとって、手を動かさないのは落ち着かなかった。
そのため無理やりにでも作り出した仕事が『後宮の整理』であったのだ。
彼女らの素質や能力を見極めあるべき場所に配置し直すのも、皇帝の役目である。
他国との争いもなく後継者を急かされることもないため、後宮は穴だらけだ。
最後の正五品を整理し終えたとき、景稜は申し訳程度に紙の隅へ添えて書かれた宮の名前を見つけた。
仙葬宮。
後宮の端に佇むそこは、先々帝の時代にはすでにそう呼ばれていたと聞く。それはこの宮に住まう玉女に埋葬されたものは、死後仙人として生きることができる、という言い伝えからだ。代々の玉女は仙人となろう人の死期を夢で見ると、その人物のもとへ尋ねる。誰もが彼女の訪問を夢見て、現世を正しく生きるのだ。
そんな玉女が後宮に間借りしているのは他ならない、天子の死の夢を見たときすぐにでも伝えに来させるためだ。正式な妃嬪ではないものの女官と一括りにはできず、異例として妃を名乗ることが許されている。
十五年も前の父の登仙を思い返し、景稜は額を抑えた。何と言ったか鮮明には思い出せないが、酷いことを言ったように思う。
分別が付くまでに五年かかってしまった。そのときにはすでに彼女は廟へ入った後だ。
景稜はこめかみを突いていた指を止め、ゆっくりと首をもたげた。控えている宦官を視界に捉え、口を開く。
今の玉蝉花妃は、いったいどんな女性なのだろう。
元孤児で姓はなし。名は菖。それが景稜の知る今代の玉蝉花妃のすべてだった。
建物全体が黒に塗られた仙葬宮は、到底誰も寄り付きたいとは思えない、霊でも出てきそうな見た目をしていた。しかし埃はひとつとしてなく、むしろ空気は後宮のどの場所よりも澄んでいる。
唯一ここを華やかにしているのは、丁寧に植え揃えられた花菖蒲だけ。花菖蒲の異称は玉蝉花。玉蝉とは仙人へと導くことを望んで、埋葬する前に遺族によって死人の口へ収められる蝉の形をした翡翠のこと。
はて、女官が一人として見当たらない。景稜は辺りを見渡して嘆息した。仙葬宮で働く女官は聞いたことがないと思っていたが、もしやいないのか。
景稜が腕を組み、首を捻ったとき、かさり、とまばらに生えた草を踏む音がした。
簡素な格好をした一人の可憐な少女が、衣の入った籠を抱え姿を現す。
今にも折れてしまいそうなほど線が細いが、頬がこけていることもなく、むしろ美貌に儚さを与えていた。墨を紙に一滴垂らしたような双眸は長いまつ毛に覆われ、薄い唇は少し荒れ気味だが色は良い。肌は白磁のようで、頬にかかる後れ毛は艶やかな濃い黒だが柔らかさを忘れていない。
まさに美の集約。
景稜はこれほどの美しさを携える少女が後宮に存在することに驚いた。
さて。
景稜はこちらに気づかない少女に近づき、一声を掛けようと手を伸ばす。しかし少女は手が触れる寸前に、振り払うような勢いで振り向いた。彼女は本当に人がいたとは思わなかったのか、目を瞠って数歩後ずさる。
表情の崩れに人間らしさが滲み出ている。
景稜は手を収め、彼女の緊張を解こうと笑みを彼女に向けた。
「すまない、驚かせてしまった。余は怪しい者ではない」
少女はしばし唖然とすると、はっと目が覚めたように籠を放り出し拱手を取る。
一人称で人物の立場を察するとは、教養は充分と言ったところか。仙葬宮の数少ない女官に選ばれるだけある。景稜が感心していると、彼女は小さな唇を割り開いた。
「まさか突然いらっしゃるとは。このような姿をご覧に入れてしまい、お恥ずかしい限りでございます」
次に驚くのは景稜の方だった。
確かに美しい少女だとは思った。しかし妃の名を借りている人間が、衣の入った籠を持ち水路へ用があるなどと誰が思うだろう。
「ではお前が」
「玉蝉花妃、と呼ばれております。この仙葬宮の主にございます」
少女──玉蝉花妃はゆっくりと首をもたげる。
何物も吸い込んでしまいそうな黒い瞳が、青を含んだ銀に一瞬成り代わって見えた。




