「デジタルタトゥーの刻印」
2日目 午後1時過ぎ〜午後11時 ※視点:柏木真司
職員室のトイレに駆け込んだ。
個室に入り、鍵を閉めた。手が震えていた。スマートフォンの画面を開いた。通知は五百件を超えていた。さっき見た時から百件増えていた。十分も経っていなかった。
一件ずつ読んだ。読まなければよかった、と思いながら、止められなかった。
「柏木真司、〇〇高校の教師。五年前のいじめ自殺を隠蔽した男」
「こいつが被害者。晒しとく」
「住所△△市〇〇。家族もいるらしい」
自分の住所が、書かれていた。
見知らぬ他人の文字で。何の躊躇もなく。まるで地図アプリの検索結果を貼り付けるように、番地まで正確に。
柏木は便座に座ったまま、しばらく動けなかった。
五年前のいじめ。その言葉が頭に刺さった。
記憶があった。否定できない記憶が。ある生徒のことを、柏木は今も時々思い出す。彼の名前は書かない。ただ、あの頃の自分が、何かを見て見ぬふりをしたのは事実だった。担任としての義務を、果たしきれなかった。その後悔は、五年経った今も消えていない。
しかし。
しかし、だからといって、これは——。
トイレの外で生徒たちが廊下を歩く音がした。昼休みの賑やかさが、ドア越しに届いた。柏木はスマートフォンをポケットにしまい、深呼吸した。授業がある。今日はまだ仕事が残っている。
午後の授業をどう乗り越えたか、後から思い出せなかった。
教壇に立ちながら、頭の中は別の場所にあった。板書しながら手が震えた。生徒に気づかれただろうか。気づかれなかっただろうか。分からなかった。
放課後、柏木は職員室で静かにパソコンを開き、自分の名前を検索した。
検索結果の一ページ目が、見知らぬ書き込みで埋まっていた。
SNSの投稿、匿名掲示板のまとめ、個人ブログへの転載。柏木真司という名前が、数時間のうちにデジタルの海へ刻み込まれていた。削除できない場所に。消えない形で。誰かが書き込んだ文字列は、サーバーの中に永遠に残り続ける。
デジタルタトゥー、という言葉を聞いたことがあった。
ネット上に残った情報は、入れ墨のように消えない。本人が望まなくても、忘れたくても、どこかに刻まれたまま残り続ける。柏木はその言葉の意味を、今日初めて皮膚で理解した。
午後六時、学校を出た。
いつもと同じ道を歩いた。しかし視界が違った。すれ違う人間が、自分を知っているかもしれないと思った。スマートフォンを持つ人間が、今この瞬間、自分の名前を検索しているかもしれないと思った。
電車に乗った。向かいの座席の若い男がスマートフォンを見ていた。その画面が自分に向いているような気がして、目を逸らした。
午後七時、帰宅した。
玄関を開けると、彩が「パパ!」と駆けてきた。柏木は娘を抱き上げた。小さな体が腕の中に収まった。いつもより強く抱きしめた。
「パパ、痛い」
「ごめん」
台所から加奈子が顔を出した。「お帰り。夕飯できてるよ」と言った。その声は普通だった。妻はまだ知らない。
夕食の間、柏木は何も言えなかった。
彩が今日の版画の話をした。うさぎの耳が上手く彫れたと言った。加奈子が「見せて」と言った。柏木は相槌を打ちながら、食卓の上の自分のスマートフォンを見た。画面は伏せてあった。
午後十時、彩が寝た後、柏木はもう一度スマートフォンを開いた。
通知は二千件を超えていた。
加奈子の名前も、書かれていた。娘の通う小学校の名前も。
柏木は画面を閉じた。閉じて、また開いた。閉じることができなかった。見続けることも、目を逸らすこともできなかった。
午後十一時、隣の部屋で加奈子が眠りについた。
柏木はひとりで暗い居間に座り、消えたディスプレイに自分の顔が映るのを見ていた。




