「五年前の告発」
14日目 電車の中
電車が揺れるたびに、鞄が膝の上で動いた。
中に何が入っているか、アカリは忘れていなかった。忘れられるはずがなかった。しかし今この瞬間、それよりも古い記憶が浮かんでいた。五年前の春の記憶だった。
入社三年目だった。
久我山誠一郎が直属の上司になったのは、その年の四月だった。四十七歳。部長職。声が大きく、部下への評価が辛口で、しかし上には徹底的に従順な人間だった。アカリは最初、ただ怖い上司だと思っていた。
最初の出来事は、残業中だった。
深夜十一時、オフィスにアカリと久我山のふたりだけが残っていた。久我山がアカリのデスクに来て、肩に手を置いた。振り払った。久我山は笑った。「冗談だよ」と言った。
それが始まりだった。
その後、同じようなことが続いた。頻度が増えた。言葉も変わっていった。「仕事できるようになりたいなら、俺と仲良くしないとな」という言葉が出た時、アカリは初めて、これが意図的なものだと理解した。
誰かに相談した。同期の女性だった。「久我山さんってそういう人だよ」と言われた。「みんな我慢してる」と言われた。我慢が当然の前提として存在していた。
半年後、アカリは人事部に告発した。
告発書を書くのに三週間かかった。何度も書き直した。事実だけを書こうとした。感情を入れないようにした。日付と場所と発言内容を、できる限り正確に記録した。
人事部の担当者は三十代の男性だった。アカリの話を聞きながら、メモを取った。最後にこう言った。
「証拠はありますか」
録音はなかった。目撃者もいなかった。深夜のオフィスでの出来事だった。
「証拠がない場合、ご本人の記憶と相手方の証言を照らし合わせるしかなく、判断が難しい状況です」
続けてこう言った。
「久我山部長は長年会社に貢献されている方で、このような行為をする人物とは考えにくいのですが、あなたの思い込みという可能性はありませんか」
アカリは帰り道、駅のホームで三十分立っていた。
電車が来るたびに、乗れなかった。体が動かなかった。あなたの思い込み、という言葉が耳から離れなかった。
二週間後、告発内容がどこかから漏れた。
社内で噂が広がった。「水野が久我山さんを陥れようとしている」という噂だった。誰が広めたのか分からなかった。しかし久我山と親しい人間が多かった。
さらに一週間後、告発内容の一部がネット上に書き込まれた。
会社名と部署名は伏せられていたが、アカリを特定できる情報が含まれていた。「虚言癖のある女性社員が有能な上司を陥れようとしている」という文脈で書かれていた。コメントが付いた。「こういう女が職場を乱す」「証拠もないのに告発とか終わってる」。
アカリはその書き込みを、自宅で深夜に見つけた。
震えた。
告発してから二ヶ月後、アカリは退職した。自主退職という形だった。会社から退職を求められたわけではなかった。しかし居続けることが、もうできなかった。
電車が駅に停まった。
アカリは窓の外を見た。見覚えのある駅名だった。もうすぐ乗り換えだった。
五年前の春から、今日まで。長かった。長かったが、今日で終わる。
アカリは立ち上がり、ドアへ向かった。
鞄を、しっかりと持った。




