「水野アカリの登場」
14日目 午前10時〜午後2時
カメラのレンズを、まっすぐに見た。
三十一歳。水野アカリ。それが自分の名前だった。五年前まではそれなりに普通の人間だったと思う。広告代理店に勤め、企画の仕事をして、友人と飲みに行き、休日は映画を見た。特別でも何でもない、ありふれた生き方をしていた。
今は違う。
六畳のアパートにひとりで住んでいる。仕事はない。貯金は底をつきかけている。猫が一匹いる。名前はムギ。薄茶色の雑種で、今は押し入れの上で丸くなって眠っている。
アカリはカメラのスタートボタンを押した。
録画が始まった。
「私の名前は水野アカリです」
声が、部屋に広がった。自分の声が、こんなに平坦になったのはいつからだろうと思った。抑揚がなかった。泣きたい時も、笑いたい時も、この声は変わらなかった。五年間で、感情と声が切り離されていた。
「最初の動画を投稿したのは、私ではありません」
その一文を言った時、画面の向こうで何かが動く気配がした。気配というより確信だった。この言葉を聞いた人間たちが、混乱する。その混乱を、アカリは必要としていた。
「私は、誰かに使われました」
続けた。
「五年前、私は広告代理店で働いていました。上司にセクシャルハラスメントを受けました。会社に告発しました。しかし会社は動きませんでした。それどころか、私の告発がネット上に晒され、虚言癖だと言われました。私は職を失いました」
淡々と話した。
感情を込めようとしなかった。込める感情が、もう残っていなかったのかもしれなかった。五年間で何度も語ろうとして、語るたびに傷つき、やがて語ることをやめた話を、今日は平坦な声で語った。
「上司の名前は久我山誠一郎です」
その名前を言った瞬間、アカリの中で何かが動いた。怒りではなかった。憎悪でもなかった。もっと冷たい、静かな何かだった。五年間、その名前を呼ぶたびに燃えていたものが、今はただ固まって沈んでいる感覚。
「私は今日、久我山誠一郎に会いに行きます」
それだけ言って、録画を止めた。
投稿ボタンを押した。
ムギが押し入れから降りてきた。アカリの足元に来て、すり寄った。アカリはムギを抱き上げた。温かかった。この五年間、この温かさだけが、アカリを生き延びさせていた。
「行ってくるね」とムギに言った。
ムギは何も言わなかった。ただ、アカリの腕の中で目を細めた。
アカリは鞄を持った。鞄の中に、三日前に買った包丁が入っていた。刃を布で巻いてある。重さは思ったより軽かった。
玄関を出た。
十四日目の昼前だった。空は曇っていた。風がなかった。アカリは駅へ向かって歩き始めた。
歩きながら、五年前のことを思った。
あの日、人事部の扉を開けた時の自分を思った。震えていた。それでも開けた。告発した。そして何も変わらなかった。変わらなかったどころか、失った。仕事を。信頼を。眠れる夜を。普通に生きる力を。
電車に乗った。
車内は混んでいた。隣に立つサラリーマンがスマートフォンを見ていた。画面が見えた。アカリの動画だった。「水野アカリ、顔出し告発」という見出しが付いたまとめ記事だった。
アカリは視線を窓の外に向けた。
都市が流れていった。




