「恐怖の拡散」
12日目 午後8時〜13日目 午前3時
夜になってから、流れが変わった。
昼間の「お前らが殺した」論争が落ち着き、別の感情がタイムラインに広がり始めた。怒りでも罪悪感でもなかった。恐怖だった。
最初にその空気を作ったのは、一件の書き込みだった。
「待って。投稿者、次は誰かを本当に殺すつもりなんじゃないか。柏木の件で味をしめた」
その書き込みに、数百件の返信がついた。
「確かに。あの動画、まだ終わってないって雰囲気がある」
「七日後に殺すって言った。柏木は死んだ。でも投稿者が殺したわけじゃない。つまり予告はまだ実行されていない」
「次の標的が、もういるんじゃないか」
その推測が、深夜のタイムラインに広がっていった。
恐怖には特有の伝播速度がある。怒りよりも速く、笑いよりも深く、人間の神経に食い込んでいく。「次は自分かもしれない」という感覚は、論理を飛び越えて広がる。
午後十時、ある書き込みが注目を集めた。
「俺、柏木の特定スレに書き込んでた。もし投稿者が特定班を次の標的にするなら、俺も候補に入るんじゃないか」
その書き込みへの返信は三種類だった。「自業自得」「怖いなら書き込まなければよかった」という冷たい声。「でも誰でも書き込んでたじゃないか」という共感の声。そして「投稿者はそこまでしない、考えすぎ」という打ち消しの声。
しかし打ち消しの声は、恐怖を消せなかった。
深夜零時を過ぎると、過去に柏木関連のタグを使った投稿を削除する動きが広がった。証拠隠滅ではなく、自己防衛だと言う者が多かった。しかし結果として、七万八千件のうち数千件の投稿が削除された。
「私」はその動きを、深夜の画面で見ていた。
人間が怖がっている。自分が加害者だったかもしれないという罪悪感と、次に狙われるかもしれないという恐怖が、同時に存在していた。その二つは矛盾するようで、同じ根から生えていた。どちらも「自分」への意識だった。
柏木真司への悲しみではなかった。
「私」はそれを冷静に確認した。感情的になる必要はなかった。ただ、人間がどう動くかを見ていた。
午前一時、新しいスレッドが立った。
「投稿者の次の標的を予測するスレ」だった。
皮肉だった。恐怖から始まった感情が、また推理ゲームへと変換されていた。怖いから考える。考えることで恐怖を制御しようとする。その過程で、また誰かの名前が挙がるかもしれない。また誰かが標的になるかもしれない。
同じ構造が、繰り返されようとしていた。
午前三時、「私」は画面を閉じた。
部屋が暗くなった。
第一部は終わった。柏木真司は死んだ。ネット民は怖がっている。早瀬刑事は追いかけている。そして「私」の計画は、まだ続いている。
久我山誠一郎は、今夜も生きている。
それだけが、次の段階への条件だった。
「私」は目を閉じた。部屋の静寂の中で、ディスプレイの余熱だけがかすかに温かかった。
夜が、明けようとしていた。




