「遺書の分析」
9日目 午後7時〜深夜11時
署に戻ってから、早瀬は遺書のコピーを机の上に広げた。
原本は証拠として保管されている。手元にあるのは鑑識が撮影した高解像度の写真データを印刷したものだった。A4の紙に、便箋の画像が収まっていた。薄い青色の便箋。端に小さな花の模様。
早瀬は椅子に深く座り、その紙を見た。
文字は小さかった。几帳面な字ではなかった。筆圧が一定でなく、行が微かに歪んでいた。書いた人間が震えていたことが、字の形から読み取れた。
「ネットの誹謗中傷に、耐えられなくなりました」
最初の一文を、早瀬は何度も読んだ。
十二年の刑事経験で、様々な遺書を見てきた。事件に関わるものも、事件とは無関係のものも。遺書にはその人間の最後の言葉が詰まっている。削ぎ落とされた言葉の中に、その人の輪郭が残る。
柏木真司の遺書は短かった。
全部で二百字に満たない。しかしその短さの中に、早瀬には読み取れるものがあった。「ネットの誹謗中傷」という言葉を選んだこと。「耐えられなくなった」という受動的な表現。自分を責める言葉がほとんどないこと。
責めていなかった。
五年前の件への謝罪は、遺書の中にはなかった。娘への言葉はあった。妻への言葉はあった。しかし過去の自分の行為への自責は、書かれていなかった。
それが何を意味するのか。
早瀬には分かる気がした。柏木は死ぬ直前まで、自分が正しく裁かれているとは思っていなかった。五年前の件への後悔は別として、今回の炎上が正当な制裁だとは思っていなかった。それでも耐えられなかった。理不尽だと分かっていながら、耐えられなかった。
その無力感が、字の震えの中にあった。
午後九時、早瀬は動画を再生した。
四分十二秒を、また最初から見た。今日で何度目か数えていなかった。
声を聞いた。抑揚のない声。感情を押し殺したような、あるいは感情そのものが枯渇したような声。この声の持ち主が誰なのか、まだ分かっていない。
しかし柏木ではない。
早瀬はその確信を、最初から持っていた。根拠を問われれば説明が難しかった。ただ、動画の声と柏木家で見た遺書の字が、同じ人間から出てきたものだとは思えなかった。遺書の字には体温があった。動画の声には体温がなかった。
午後十時、早瀬は報告書を書き始めた。
キーボードを叩きながら、頭の中で問いを立てた。
動画投稿者は誰か。柏木を標的に選んだのは偶然か意図的か。七日後に殺すという予告は、本当に実行されるのか。柏木の死で終わりなのか、それともまだ続くのか。
続く、と早瀬は思った。
根拠はなかった。しかし動画の声の冷静さが、まだ終わっていないことを示唆していた。計画的な人間の声だった。柏木の死に動揺した様子もなく、翌日には新しい動画を上げていた。
深夜十一時、報告書を保存した。
モニターを消した。部屋が暗くなった。窓の外の高速道路は、深夜でも車が流れていた。
早瀬は立ち上がり、上着を取った。
帰り際、もう一度だけ遺書のコピーを見た。
「彩に、パパは弱かったと伝えてください」
その一文を読んで、早瀬は目を閉じた。
弱くなかった、と思った。一週間、あれだけの圧力に耐え続けた。弱くなかった。ただ、限界があった。人間には限界がある。その限界を超えた圧力を、七万八千人がかけ続けた。
電気を消して部屋を出た。
廊下の蛍光灯が白かった。




