「妻の悲鳴」
8日目 午前6時15分
目が覚めた時、隣が空だった。
真司はよく早起きする。朝食を作るために先に起きる。それがいつもの習慣だった。だから最初は何も思わなかった。布団の中でもう少しだけ目を閉じていようとした。
しかし何かが違った。
台所から音がしなかった。コーヒーメーカーの音も、フライパンの音も、水道の音も、何もなかった。家の中が、ただ静かだった。
加奈子は起き上がった。
廊下に出た。彩の部屋のドアは閉まっていた。トイレを確認した。誰もいなかった。
居間のドアを開けた。
最初に目に入ったのは、椅子だった。
いつもと違う場所にある椅子。梁の下に置かれた椅子。倒れていた。
次に、ロープが見えた。
次に——。
加奈子の記憶は、そこで途切れた。
後から聞いた話では、加奈子の悲鳴で彩が目を覚ました。彩が居間に来ようとするのを、駆けつけた隣家の老女が止めた。老女は加奈子の悲鳴を聞いて飛び出してきたのだった。
救急車のサイレンが、住宅街に響いた。
午前六時二十三分、救急隊員が到着した。
加奈子は玄関の前に座り込んでいた。膝を抱え、声を出さずに震えていた。隣家の老女が肩を抱いていた。老女の目にも涙があった。
救急隊員が居間に入った。しばらくして出てきた。加奈子に近づき、何かを言った。加奈子にはその言葉が聞こえなかった。聞こえていたが、意味として入ってこなかった。
彩がどこにいるか、加奈子には分からなかった。
後で分かったことだが、彩は老女の家に連れて行かれていた。老女が「お茶を飲もう」と言って手を引いたらしかった。彩は黙ってついて行ったらしかった。七歳の子供が、何も言わずについて行った。
パトカーが来た。
制服の警官が加奈子に話しかけた。加奈子は答えた。何を答えたか、覚えていない。
空が明るくなっていた。
八月の朝だった。空気が既に生温かかった。セミがどこかで鳴き始めていた。普通の夏の朝の音だった。
加奈子は空を見上げた。
青かった。
真司が作ったコーヒーを、今朝は飲めない。そのことだけが、なぜかはっきりと頭にあった。今朝は、もう、誰もコーヒーを作らない。
救急車が動き出した。
サイレンが鳴った。
加奈子はその音を聞きながら、玄関の前に座ったまま、空を見ていた。泣いていなかった。涙が出なかった。出し尽くしたのか、まだ現実が来ていないのか、分からなかった。
隣家の老女が「中に入りましょう」と言った。
加奈子は首を振った。
もう少しだけ、外にいたかった。家の中に入りたくなかった。居間に戻りたくなかった。倒れた椅子と、宛名のない封筒がある場所に、まだ戻れなかった。
サイレンの音が遠ざかり、やがて消えた。
住宅街に、朝の静けさが戻った。




